大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
情報屋台
歴史

「日本人の源流」から浮かんでくる、ラフな日本人像

2018.08.26 Sun
歴史

「日本人の源流」から浮かんでくる、ラフな日本人像

平成30年8月
仲津真治

河出書房新社刊の「日本人の源流」から、アマチュア理解ながら、
ラフな日本人の原点をイメージしてみたいと思います。 著者は「総合研究大学
院大学教授で、国立遺伝学研究所教授」でもある斎藤成也氏です。

1 私は、義務教育で、日本の歴史を習いました。それは日本のあけぼのとし
て、縄文時代から始まりました。 高校になると、担当教諭の講義で、それ
より古い旧石器時代の事が少し触れられ、その中で「群馬県の岩宿遺跡」のこと
が紹介されて、「今後の研究調査の進展が楽しみであります」 と口述されたの
が印象に残っています。 大学生や社会人となってからは、歴史を教わる立場か
ら遠ざかったものの、関心を持ち続けていて、日本の旧石器時代や如何にと言う
問題意識はそのひとつです。

ところが、2000年11月5日の毎日新聞報道を契機に、藤村新一東北旧石器文化研究
所副理事長の不審な行動が露わとなり、その大規模な捏造事件が一挙に明るみに
出ました。 これらによって一連の「神の手」と言われる諸発見がほとんど、
実は捏造と言う事が知られることとなりました。

爾来、著者によれば、藤村新一の手になるものはもとより、約三十万年前、四十
万年前などと言う諸発見は、みんな信用されなくなったのです。斯くて、日本か
らは旧石器時代の発見など現れなくなりました。えらいことです。英国で起きた
ピルト・ダウン人事件などと同様、日本での考古学など学問の進歩に大きな打撃
が生じたと言います。 その世界に居るわけではない私なども「やはりそうだっ
たのか」と思いました。

その後、歳月が経ち、状況が漸く落ち着いてくると、日本列島での旧石器時代の
遺跡や人骨などが見付かるようになりました。 他方、近年のDNAなどの諸研究や
調査の発展と膨大な蓄積の進展により、古生物学、人類学、考古学などの諸分野
でも大いに知見の発展が見られるようになりました。
2)  それらによって、日本列島への、所謂ヒトの到来以来の来し方が大きく明ら
かになって来ました。 元は、進化の中で、約二十万年前にアフリカで発祥した
ヒト、つまりホモ・サピエンスが、約六万年前に同地を脱し、中東付近からユー
ラシア大陸に移住したことに始まります。 それは、出アフリカと呼ばれていま
すが、好奇心に満ちた、未知の地への旅へ立ちと言うより、残存者や捕食者から
追われて乃至追い出されて言う感が強い由です。 そして、此の出アフリカは、
集団で数回起きたと見て良いようです。

次いで、約一万年から二万年後には、或る集団が、今の東南アジアの地域に到着
したと推定されています。

此の後、これらの集団の大分散・更に各地への移動が続いたと見られます。
つまり、東南アジアは、ヒトの移住・移動の大きな要となった地域の由です。

続いて、東南アジアから、南へ東へ北へと移住・移動が起きます。 この中から
更なる流れが、さまざまなルートを通って、日本列島へと及び、渡来が起きます。
これらは日本列島への第一の波と総称できるようです。

こうした移住・移動は、約四万年前から数千年に亘って行われたと見られ、
地理的には、南から数えて、台湾、東アジア中央部、朝鮮半島、樺太島、千島列
島などの各地よりの、日本列島への流入です。

特に、このうち、約一万二千年前では、地球が氷河期にあり、今の浅い海は陸地
であったと考えられ、ヒトや動物の移動はより容易であったと見られます。

そして初めは旧石器時代で、港川人などが現れ、時代が下ると、やがて後に土器
が製作され、新石器時代に入り、土器は縄文土器となります。まだ、依然として
狩猟採集・漁撈経済ですが、日本列島の自然の豊かさゆえ、農耕無きところでの
安定的な定住生活となった由です。懸かる縄文時代、日本列島全体の人口は約二
十万人程度と推定されています。 その縄文の文化や生活様式は、日本列島全諸
島(著者はヤポネシアと呼んでいる。)に及んでいたと見られます。

3)  此の後、縄文後期から晩期に至ります。

その時期は、約四千四百年前から三千年前の事です。日本列島の中央部に、第二
の渡来民がやって来たのです。その出身は、朝鮮半島、遼東半島、山東半島と推
定されています。 ただ、彼らは、農耕に至らずと、採集・漁撈経済を主とし、
所謂「園耕」を営む民だったのかも知れません。 そして、第一渡来民と混血し
ながら、次第に人口を増やしていきました。

もっとも、この第二渡来民は、日本列島の中央部の北側地域と、列島の北部と南
部には殆ど影響を与えませんでした。

4)次いで、やがて弥生時代がやって来ます。時期で言えば、約三千年前から千七
百年前でしょうか。 西暦で言えば、BCとADに跨がります。

この渡来は、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二渡来民と遺伝的に
近い第三の渡来民によって、水田耕作の技術とともに、もたらされました。 彼
ら第三波は、日本列島の中央部の中心軸に沿って展開、東へ居住地を広げていき
ました。概ね、地域名を入れると、北部九州、山陽、瀬戸内海沿い、近畿、東海、
南関東と言う展開になりましょうか。

一方、この第三波は、人口を急速に増やしましたが、中央部の中心軸の周辺には
あまり広がらず、混血は進みませんでした。 斯くそれらの地域では第二波渡来
民のDNAが濃く残ったのです。 地域名を記せば、列島南部の南西諸島、列島北部
(北海道以北)、列島中央部北部(山陰)となるでしょうか。

5 ) 古墳時代以降

これは、時期で言うと、約千七百年前から現在となりましょう。

即ち、第三波の移住が続いたのです。 日本の国が形作られ、政治の中心が
北部九州から近畿に移った頃でしょう。

そして、これまで東北地方に居住していた第一波の人々の子孫が、この古墳時代
に大部分、北海道に移りました。 その空白を埋めるようにして、第二波の渡来
民の子孫を中心とする人々が東北地方に移住しました。

他方、列島南部では、グスク(城、册)時代の前後に、九州南部から、
第二波渡来人のゲノムを主に受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、江戸時代
以降には、第三波の渡来民系の人々も加わって、今日のオキナワ人が形成された
と考えられる由です。

6) 三段階渡来モデルによる総括

以上を総括すると、ゲノムの視点を加えても、日本列島人には、縄文時代以来の
共通の基盤がある、北部のアイヌ人と南部のオキナワ人が居り、その後、列島中
央部の真ん中に渡来し、稲作文化を広くもたらしたヤマト人が加わって、その大
きな人口増加によって、ひとつのまとまりで大集団、国、文化圏を造ったと見る
説が矢張り概ね正しいようです。  ここに、DNAなどの諸理論や諸データの蓄積
と加わって、ゲノムなどによる補正が行われても、この「三段階渡来モデル」に
よる総括に落ち着いたと言う感じがします。

アマチュア理解ながら、一応の落ち着きをみた感じでしょうか。もとより、謎は
多々在り、新たな地平は開けるかも知れませんね。


コメントする

内容をご確認の上、送信してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

歴史の関連記事

Top