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榎本武揚を中山昇一さんと語る⑥まとめ

2025.01.28 Tue

明治維新後の榎本武揚(1836~1908)について、榎本武揚の研究家である中山昇一さんといくつかのテーマに分けて話をしてきました。初代ロシア公使としての役割、シベリア横断の意義、エンジニアとしての業績、南方殖民などです。最後に、もう一度、榎本武揚の全体像について考えてみたいと思います。

 

榎本の評価は不十分

 

――明治から昭和にかけて日本は、「富国強兵」のスローガンのもと近代化とともに大陸進出を猛進した結果、第2次大戦での敗戦に至りました。どこで道を間違えたのか、榎本は一貫して大陸進出に消極的で、「南方殖民」に日本の活路を求めました。また、最先端の技術を日本に根付かせることを考えながら、「殖産興業」に力を入れました。日本のグランドデザインを考えた戦略家でもあり、エンジニアでもあった榎本を支えた理念は、「富国強兵」ではなく「国利民福」でした。

これは、榎本の理念と実践を克明に追った中山さんのたどり着いた結論だと思います。明治以降の日本が進むべきもうひとつの道を示したという点で、榎本武揚はもっと評価されるべきだと思うのですが、どう思われますか。

 

中山 榎本はチャレンジャーとしての人生を貫きました。失敗してもめげることなく、再び立ち上がって挑戦を続けました。

榎本にかかわる新聞記事を朝日新聞と読売新聞のデーターベースで検索すると、榎本の存命中は高い評価の記事が目立ちます。例えば、1883年1月18日の朝日新聞一面には、海軍の薩摩閥が前年に海軍卿だった榎本を追い出した後の海軍の状態が次のように書かれています。(写真は、中山昇一氏=横浜市の自宅で筆者撮影)

 

「海軍省は、榎本君の卿たりし頃は、諸艦長等より上申建言等あるごとに、同君もとより深く、海軍の事に通ぜられるる故、いちいち之と考案し、容易にその申立てを聞き届けられず、又その聞き届けらるるに、必ず著名の利益あらざるはなかりきに、然るに同君の去られし以来は、何事も一切御構ひ無く…」(朝日新聞1883年1月18日、一部を現代表記に修正)

 

榎本が海軍卿だったときは、軍艦の艦長たちから要望や提案があると、榎本は、海軍のことに通じていたので、隅々に渡って検討をした結果、要望が採用されない場合が多かったが、榎本が裁可した場合は必ず大きな利益をもたらした。しかし、榎本海軍卿の辞職後は、艦長たちの勝手放題になった、というのです。海軍の規律が緩んだ背景には、榎本の辞任後、復帰した川村海軍卿が「すべて唯宜しきように致せ」と、艦長らに指示したことがあったようです。

榎本は、オランダに留学したときには、幕府が発注した軍艦「開陽丸」の建造について監督し、造船だけではなく、登載する兵器、特に最新最強の大砲の選定にも奔走し、最新鋭の「造兵」(兵器製造)の技術と知識を身に付けていました。さらに、司令官として艦隊を率いて海戦を指揮した経験がありました。艦長たちの勝手な要望は通らなかったのでしょう。(写真は、復元されて保存展示されている開陽丸=北海道江差町の開陽丸記念館のHPより)

戊辰戦争の蝦夷共和国(箱館新政府)の樹立では、選挙により幹部を決めるという西欧の民主主義に倣った仕組みを取り入れました。また、榎本艦隊の旗艦だった開陽が江刺沖で沈没した後、岩手・宮古湾で新政府軍の甲鉄艦を奪取するために「アボルダージュ」(敵艦への移乗)作戦を試みたり、箱館新政府への支持を求めて函館で列強五カ国に対して外交交渉をしたり、ひとりで政治、軍事、外交をこなしていました。

造兵、用兵、外交に秀でた榎本の人物を庶民は良く知っていました。1885年5月20日発行の「今日新聞」で発表された「現今日本十傑」の投票(約1400人)では、「軍師」部門で榎本がトップでした。

 

――榎本は負け戦の将なのに、「軍師」でトップと言うのは面白いですね。薩長を出し抜いて、幕府の軍艦を率いて北海道に渡ったことが評価されているのでしょうね。日露戦争の直後であれば、バルチック艦隊を破った東郷平八郎(1848~1934)、『坂の上の雲』を読んだ私たちの時代なら、秋山真之(1868~1918)がトップでしょうか。(写真左は東郷平八郎、右は秋山真之、下は山本五十六=ウィキペディアより)

中山 米海軍の軍人のなかでは、空母機動部隊という用兵思想を発明、具現化した山本五十六(1884~1943)の評価が高いという話を聞いたことがあります。なるほどと思いました。榎本に戻ると、1894年1月22日に農商務大臣に就任すると、読売新聞は2月8日に「農商務省の榎本新大臣、専門家も及ばない知識」という見出しの記事を載せました。そこには次のように書かれています。

 

「榎本新農商務大臣が殖産興業熱心なるだけ、それだけ最も殖産興業の事に精通し、工藝であれ、鉱山であれ、水産であれ、山林であれ、専門ものといえども遙に及ばざる程の智識を有するが故に、今度この椅子を占むるや否や、何はどうせん、ここはこうせんと、経綸計画勃々として胸中に湧くが如くなるは勿論ならん…」(読売新聞1894年2月8日、一部を現代表記に修正)

 

榎本の知識と実行力を賞賛する内容で、榎本の農商務相就任を歓迎しています。また、榎本の葬儀では、集まった人々の多さからも、庶民の人気がいかに高かったかを知ることができます。

 

――『榎本武揚 近代日本の万能人 』所収のコラム「江戸っ子たちのヒーロー―新聞が報じた榎本武揚」で書いたのですが、薩長嫌いの江戸っ子にとって、五稜郭で薩長と戦った榎本は「江戸っ子のヒーロー」でしたね。

 

中山 榎本の存命中は、旧幕臣の面倒を見たり、江戸っ子の集まる会によく出席したりしていた榎本の姿を人々は見聞きしていたので、庶民の評価は高かったのでしょう。

しかし、没後は当然なのか、記事が急減し、太平洋戦争後になると、メキシコとの国交の関連で榎本のメキシコ殖民の話題が取り上げられるくらいでした。戦前戦後に、五稜郭を舞台にした榎本劇が新国劇や文学座で上演され、結構、人気を集めました。榎本が設立、推進したしたさまざまな学会や団体の経営者や研究者のなかでは記憶され続けているのですが、世間の評価は五稜郭での敗戦でとどまっているようです。

 

――私も榎本武揚のひ孫にあたる榎本隆充さんとお会いするまでは、武揚は函館戦争で死んだと思っていました。『近代日本の万能人』のコラムに引用したのですが、武揚の死去で書かれた以下の東京朝日新聞の記事がその後の評価にも通用するように思えます。

 

「維新後における子(榎本武揚)の閲歴は、その前半世に比して、更に重要なるが如くなれども、元来江戸っ子の武人たる子が政治家の事を為せしは間違いにて、別に著しき功績を見ず、全権公使の榎本君も、大臣の榎本子も、五稜郭(函館戦争)の榎本さんには到底及ぶことあたわざりしなり」(東京朝日新聞1908年10月28日)

 

駐露全権公使として樺太・千島交換条約(1875)を締結させ、駐清国全権公使として天津条約(1885)の締結を支えたのち、逓信相、文部相、外相、農商務相などの閣僚を歴任しながら殖産興業を推進した榎本の功績は、大いに評価されるべきだと思いますが、一般庶民とくに「江戸っ子」という意識の抜けない東京人にとっては、函館戦争で薩長の政府軍と戦った榎本の活躍のほうが大きく見えていたのでしょう。

 

◆「瘠我慢の説」の影響

 

――榎本に対する世間の評価については、福沢諭吉(1835~1901)が1901年に発表した「瘠我慢の説」が影響しているように思います。福沢は、幕臣として功名を立てながら明治政府でも出世して富貴を得るのは武士道にはずれるとして、勝海舟(1823~1899)とともに榎本を批判しています。(写真は左から福沢諭吉、勝海舟=いずれも国立国会図書館の「近代日本人の肖像」より)

 

また、榎本が明治政府の出仕したあとの仕事として人々が注目したのは、樺太・千島をめぐる日露交渉だったと思いますが、千島諸島を獲得したものの、樺太を譲ったということで、「国賊」という非難を浴びたようですね。

 

中山 福沢の榎本批判は、どうなのでしょうか。榎本のまとまった伝記は、榎本が死んだ翌年の1909年に出版された一戸隆次郎の『榎本武揚子』(嵩山堂)、それから約半世紀後の1960年に出された加茂儀一(1899〜1977)の『榎本武揚 明治日本の隠れたる礎石』(中央公論、1988年に中公文庫)、1968年出版の井黒弥太郎(1908〜1988)の『榎本武揚伝』(みやま書房)があります。いずれも、「瘠我慢の説」については、福澤の晩節を汚す、程度の低い作品だと論じています。(写真は、加茂儀一の肖像画=小樽商科大学所蔵と加茂儀一著『榎本武揚』)

樺太・千島交換条約について榎本非難は、日露戦争を終結させた小村寿太郎への非難もそうですが、交渉の途中で、国民に実情を知らせるわけにはいかないので、損な役回りということになりますね。

榎本の評価がその実績に比していない理由について、加茂の伝記の「解説」で、綱渕謙錠(1924~1996)が次のように書いています。

 

「元来、榎本という人は、日本の読書界においては必ずしも人気のある人物ではなかった。旧幕臣でありながら節を屈して明治新政府に仕え、顕官への道を歩んだ人間として、勝海舟とともに批難の的とされるばあいが少なくなかった。それは江戸期の武士社会で培われた<忠臣は二君に仕えず>といった思想が影響して、明治においては福沢諭吉の『瘠我慢の節』で論難されたり、また昭和初期の左翼思想が弾圧期や、戦後のレッドパージ時代において<転向・非転向>問題がやかましく論ぜられる時期になると、なんとなく<転向者>の先例的存在として扱われる傾向もあったりして、明治になって新政府に仕えなかった幕臣にたいする人気にくらべると、どことなくよそよそしく敬遠される面もなかったわけではない」(加茂儀一『榎本武揚』所収の綱渕謙錠「解説」)

 

――「二君に仕えず」という武士の美学を「門閥制度は親の敵」と言った福沢が持ち出しているのは、いかがなものかと思います。榎本がその業績ほどには評価されず、歴史愛好家も榎本を敬遠しているように思えるのも、このあたりに理由があるのかもしれませんね。

 

中山 榎本自身は、戊辰戦争で品川から北に向けて出帆したときの檄文である「徳川家臣大挙告文」で、「二姓に事(つか)へざるの義」と書いています。榎本にとって二姓とは、徳川と薩長のことです。この檄文でも、この皇国を世界の国々と比べて恥じることのない国にするには、ここで挙行するしかないと書いています。

「朝敵」というのは、実体が薩長軍である「官軍」が主君を誣(し)ゆるための「冤罪汚名」であり、自分たちこそ「皇国」を守るというのが榎本の立場でした。榎本には西欧に一歩も引けを取らない皇国、新しい日本をこう作るというビジョン、デザインがあったからこそ言えた言葉でした。徳川の家臣が皇国に仕えるのは、二君に仕えるとは違うというわけです。

実は、このレトリックを使って、出牢後の榎本に北海道開拓使として新政府に仕官するよう説得したのは、函館戦争以来、榎本の助命に奔走した黒田清隆(1840~1900)でした。加茂の伝記には次のように書かれています。(写真は黒田清隆=国立国会と素管「近代日本人の肖像」より)

「(黒田は)仕官するのは薩長に仕えるのではなくて、天朝に仕えるのであり、徳川家ももはや天朝の家来である以上、天朝に仕えても徳川家に対する恩義をすてるものではないと説いた」(加茂儀一『榎本武揚』十・北海道開拓使時代)

 

安部公房(1924~1993)の小説『榎本武揚』(1964年)のように、榎本を「転向者」あるいは「変節者」に仕立てたフィクションもありますが、榎本は転向者でも変節者でもありません。榎本は主君、徳川慶喜(1837~1913)の君恩に報いる道を探し求めていました。その君恩に報いる道は、国利民福の増加でした。それを自身の使命とし、生きている限り榎本はその使命に仕えていました。

1896年に農商務相だった榎本にインタビューしたフランクフルト新聞の記者は、榎本の襟に燦然と輝く葵の紋が彫られた徽章があることを発見し、榎本が明治維新から30年近く過ぎっても尚、政府内で徳川の存在を示していることに驚いたと書きました。榎本は、皇国(明治政府)に仕えながらも、徳川家への君恩は忘れていない、という思いがあったのでしょう。

 

◆榎本武揚の伝記について

 

――ところで、榎本武揚の伝記を書いた3人ですが、中山さんはどう評価されますか。

 

中山 一戸は、榎本と同時代の文筆家で榎本ファン、加茂は技術史家で、伝記は小樽商科大学の学長時代に執筆、井黒は北海道の郷土史家、それぞれの持ち味が出ています。

一戸の伝記は、榎本が、南洋群島の国土化を提案したり、北ボルネオや東ニューギニアの租借に情熱を傾けたり、アジアの一国同士としての交流を始めようと、イラン国王(ペルシャ王)に持ちかけたりした興亜思想のパイオニアであったことなどは取り上げられていませんし、官営八幡製鉄所建設に取り組んだことも触れられていません。井黒の伝記は加茂の伝記をベースに、八幡製鉄所に触れ、文末では榎本の人物論を試みていますが、榎本の言動を茶化し、また棘のある言い方をしている文章も散見します。井黒は前作に若干加筆して1975年に『榎本武揚』を出版しています。

本格的な伝記となった加茂の伝記は、時代背景の解説も加えた非常に詳しい評伝で、榎本の姿が鮮明に浮かび上がります。とはいえ、榎本の業績をていねいに追って、榎本が「万能人」であったことを明らかにしているのですが、その業績や知識が並列的に叙述されているため、榎本の「国利民福」というグランドデザインが十分に示されていないように思います。

 

――榎本がかかわったさまざまな分野について、南方殖民を除くと、加茂の伝記以上に、掘り下げたものは少ないように思えます。

 

中山 1926年に法学者の尾佐竹猛(1880~1946)が出版した『国際法より観たる幕末外交物語』で、榎本の箱館新政府、蝦夷共和国を国際法の観点から取り上げたくらいで、あまりなかったですね。しかし、2008年に『近代日本の万能人 榎本武揚』が出版されてからは、経営学、国際法、安全保障、化学などの専門家が榎本の各業績について研究論文を発表するようになりました。今後、専門家による研究が進み、榎本の評価がより高まり、改めて明治維新、戊辰戦争、明治政府などへの反省が行われると期待しています。(写真は尾佐竹猛=ウィキペディアから)

榎本の興亜思想

 

――中山さんは、一戸の伝記に榎本が「興亜思想のパイオニア」だったことが取り上げられていないと言いましたが、加茂の伝記でも、興亜思想についての言及はありませんね。

榎本が第4代の会長を務めた興亜会は、もともと大久保利通(1830~1878)1880年の発意で結成された団体で、日本の「アジア主義」の源流といわれる団体です。興亜会の思想は、西欧列強に対抗するため、アジア諸国は連携しながら、それぞれが近代化して、独立国家として自立の道を歩むべきだ、という考え方です。だから、清朝や李朝を打倒して近代国家をめざす革命運動を支持、支援しました。

榎本も、李朝転覆のクーデターである甲申事変(1884年)に失敗し、日本に亡命していた金玉均(1850~1894)の寄留先を世話しています。この逸話を中山さんは「榎本武揚と国利民福」(※)で紹介されています。これまで榎本の南方殖民を興亜思想との関連で書かれた論稿は少ないように思いますが、南方殖民と興亜思想は、榎本のなかでどう結びついていたのでしょうか。(写真は、金玉均=ウィキペディアから)

https://www.johoyatai.com/6367

 

中山 榎本は駐露公使時代の1876年に南方領土の購入や南方殖民を政府に提言、帰国後の1880年には興亜会の設立に参画します。したがって、榎本にとって南方殖民と興亜思想とは同時期に育んだ理念ということになります。

興亜思想は、西欧列強の抑圧からのアジアの解放ですが、榎本の「興亜」活動は、興亜会発足以前の駐露公使時代から始まっていました。サンクトペテルブルクでは、インド大反乱(1875~76)に関係したインド人が日本公館でたびたび寝泊りしていました。インドの大反乱は、宗主国の英国に対する反乱ですから、その関係者を遇することは英国には敵対する行為ですが、榎本はそれを承知で許したのでしょう。

また、イラン(ペルシャ)のナーセロッディーン・シャー国王(1831~1896)が1878年、欧州旅行からの帰途、サンクトペテルブルクに立ち寄った際、榎本と面会し、アジアの一国同士として交流を開始することで同意しました。榎本はイラン国王と初めて接見した日本人ということになります。榎本とイラン国王との合意に基づき、1880年には外務省理事だった吉田正春(1852~1921)率いる使節団がイランを訪れ、国王に謁見、通商開始の許可を得ています。(写真は、ナーセロッディーン・シャー=ウィキペディアから)

 

榎本は、駐露公使時代から海外殖民を提案しましたが、その移植先として候補に挙げたのは、スペイン領の南洋群島や北ボルネオ、東ニューギニア、メキシコなど、いずれも白人が入植していない場所です。榎本は、欧米列強の奴隷の歴史やアジア諸国への殖民地支配の状況から、白人の有色人種への差別意識を背景にした人種問題の存在を把握し、白人社会と関係しない地域を日本人の殖民先に選定したのです。

日本の過剰人口が戦争を引き起こすと予測したことで評価されるオーストラリアのウォルター・クロッカー(1902~2002)が1931年に発表した『日本の人口問題―来るべき危機』(上田貞次郎編『日本人口問題研究 第1輯』1933年に翻訳が所収)のなかで、クロッカーは、日本人の移民先として、白人の開拓予定がないボルネオやニューギニアを適地として挙げています(※)。こういう地域であれば、欧米諸国との軋轢は起きない、というわけで、榎本の先見の明には改めて驚かされます。(写真は、ウォルター・クロッカー=ウィキペディアから)

https://www.johoyatai.com/6816

 

――侵略や戦争になるのを避けながら、海外殖民を進めようとすると、先住民も入らないジャングルのような場所になってしまいますが、榎本は、そういう場所のほうが戦争のリスクが少ないと考えたのでしょう。矢野暢(1936~1999)は『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)のなかで、明治時代の「南進論」について、つぎのように書いています。榎本の思想にも通じるところがあるので、紹介したいと思います。(写真は、矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書)の表紙)

「明治時代の『南進論』は、一部の例外を除いて、基本的には善意の思想であった。軍事力よりは政治の力、強引な侵略よりは平和的な経済進出を考えたのであって、その意味では、どことなく平和主義的なニュアンスをまとっていた。この頃の『南進論』が、いわゆる国権論的なアジア主義思想とは遠く離れた地平で唱えられていた事実はもっと注目されなくてはならない。その二つが合流して、怖ろしい化学反応を起こすのはもっと後のことである」(矢野暢『「南進論」の系譜』Ⅱ「南進論」の社会的基盤))

 

明治の南進論が海外雄飛や未開地の開拓といったロマンのなかで、国民に浸透していったのは事実で、「強引な侵略よりも平和的な経済進出」というのは、榎本が南方殖民の基本にしていた理念ですね。しかし、榎本の南方殖民と興亜思想は、「善意の思想」というよりは、国際関係を見た冷徹なリアリズムのように思えます。

 

中山 榎本の目には、英国とロシアとの「グレートゲーム」だけでなく、西部開拓を突き抜けて太平洋の西進を狙っている米国の野心も見えていたと思います。榎本が提案した南洋群島を日本領にすると、太平洋の西進を狙っている米国への抵抗線になり、東アジアへの防衛ラインになります。将来、日本が西進する米国と対立した場合、日本一国では米国に対抗できませんから、アジア諸国の団結が必要です。榎本の興亜思想には、アジア太平洋の植民地化をはかる欧米列強とのパワーバランスを考えていたと思います。

 

榎本のグランドデザインの今日的意味

 

――『近代日本の万能人』を機に、榎本を再評価する機運が出てきたことは、編著者にひとりとしてうれしい限りです。中山さんは、榎本があちらこちらに残したものを積み上げて、榎本が考えていた日本のグランドデザインを再構築されてきました。そこで、榎本のグランドデザインが日本の進むべき「もうひとつの道」を描いていたことは理解できましたが、21世紀に暮らす私たちにとって、そのデザインの今日的な意味は何でしょうか。

 

中山 歴史は一瞬の連鎖と誘発です。1875年から1878年に提示された榎本のグランドデザインの根幹を成す南洋群島の購入、北ボルネオ、東ニューギニアの租借権の買い取りを伊藤博文が否定した(※)瞬間に、67年後の太平洋戦争の敗戦、GHQによる占領支配、GHQ引き揚げ後の米国による間接的支配のような状況に至る運命が決まりました。明治維新を起こし、戊辰戦争により東日本を占領した一地方の勢力=南西地方の雄藩が選んだ道でした。

しかし、過去を変えることはできません。この現実を改善していくには、榎本のデザインの中に意味や意義をみいだし、応用していくしかありません。私たちが私たちの未来に向かって、何を用意し、その実現に努力するかが重要です。

榎本の特徴は、造兵、用兵、外交、地政学、地質学、科学・技術(工学)、農業、経済学、歴史地理学などの専門能力を有し、それらの知識を駆使したLogical Cool Thinking(冷静な論理的思考)によるデザインで、問題解決と目的達成を行ってきました。

榎本は、日本が農業社会から工業社会へ移行すると考え、そのお膳立てをしていました(※)。榎本なら、工業社会へ移行したら、次に到来する社会へのお膳立てをするはずです。そういう観点から、いまの政府のビジョンをみると、工業社会から次の社会への移行へのお膳立てが貧弱なことが言えます。榎本の時代には、製造業は十分発達していませんし、ソフトウェアという概念は誕生していません。Android やiOSをベースにしたビジネスもありませんでした。それらを榎本が知ったら、日本の弱点を調べ、ポスト-ポスト工業社会でのビジネスモデルを求めてアイデアを出そうとするでしょう。

 

――榎本はそうした思考法をどこで身に付けたのでしょうか。

 

中山 榎本の受けた学校教育は、昌平黌と海軍伝習所くらいで、あとは私塾(中浜万次郎の塾で西洋事情や英語を学ぶ)、オランダでの個人レッスンでした。明治時代になって、体力が未発達なまま、頭脳が優秀であることで飛び級を認めたことが海軍士官学校などで、軍事訓練についていけないなど弊害が生じました。学齢による基礎教育を受けた後、誰に何を教わったのか、誰に指導を受けたのかがポイントです。榎本の個人的な資質かもしれませんが、何事にも好奇心を持ち、興味がわくと、教師や専門家の話を聞き、自らも調べて、自身の使命感に基づき、とことんそれを追求しています。

海軍伝習所では、主に蒸気機関学を学んだようですが、成績が飛び抜けていたことから、伝習所を終了するとすぐに海軍操練所の教授に抜擢されています。オランダ留学でも、国際法などを学んだフレデリクスから榎本に贈られた献辞で、榎本は西洋事情も過去の歴史も正しく理解し、国際法の学術用語も熟知している、と書かれています。

化学の知識もオランダ留学時代に学んでいて、それが北海道開拓使として炭鉱などの調査や発見に生かされています。こうした勉学の動機は、私利私欲ではなく、国利民福の増加でした。

最近の学校教育では、教師が一方的に教えるのではなく、生徒同士が考えて答えを出すアクティブラーニングが導入されているようですが、榎本のような好奇心と探求心、知ろうとする執念、勇気、そしてそれを私利私欲ではなく社会に還元する、という学びを伝えてほしいですね。

 

◆平和共存の近隣外交

 

――榎本は駐露公使時代には、アレクサンドル2世(1818~1881)と懇意になり、駐清国公使時代には李鴻章(1823~1901)と信頼関係を築き、1885年の天津条約の締結に尽力しました。天津条約は、朝鮮で1884年に起きた甲申政変で緊張状態になった日清関係を緩和するため、日本側特使の伊藤博文と清国の李鴻章とが結んだものです。榎本は相手国の要人との交友関係を築き、相手国との友好関係を維持しようと努力しています。日本は、清国ともロシアとも戦火を交えるのですが、榎本にとっては、戦争は不本意な結果だったのではないでしょうか。(写真左はアレクサンドル2世、右は李鴻章=いずれもウィキペディアから)

中山 まさにその通りです。榎本の興亜思想からすると、清国と戦争をせず、友好国関係を維持し、お互いの経済発展をさぐるべきだったのです。清国側にも李鴻章や興亜会の会員に、榎本と同じような考えをもつ人々がいました。

清国との開戦を強行したのは、外務大臣の陸奥宗光(1844〜1897)と陸軍上席参謀だった川上操六(1848〜1899)でした。1894年に朝鮮半島で起きた農民反乱(東学党の乱)で、宗主国として派兵した清国に対して日本も派兵したため、朝鮮政府は東学党と和睦、清国も清日両軍の撤退を提案しましたが、開戦派の陸奥や川上は、朝鮮の内乱は終わっていないと主張し、清国を上回る軍隊を派遣、ソウルを占領したうえ、清国に宣戦布告します。(写真左は陸奥宗光、右は川上操六=いずれも国立国会図書館「近代日本インの肖像」から)

日清の衝突を避けるために榎本が尽力した天津条約から9年後の日清戦争は、朝鮮半島の権益を得るという征韓論の延長線上にあり、その延長戦にはロシアとの衝突が控えていました。日清戦争を起こした瞬間に日露戦争を呼び込んでいたわけです。日清戦争開戦は太平洋戦争敗戦への回帰不能点(The Point of No Return)でした。日本政府はもう時計を巻き戻せなくなりました。

1891年に建設工事が始まったシベリア鉄道は、1896年の露清密約でウラジオストクへの鉄路が開け、日本国内ではロシアによる日本侵攻の脅威が高まったとして危機をあおる言説がふえましたが、榎本は、シベリア鉄道によって日本の西欧への輸出は増加するから日本の貿易に多大な貢献をすると考えを表明していました。ロシア脅威論が勝り、日露開戦を導いてしまいましたが、この間に、米国はフィリピンを植民地化したり、ハワイを併合したり、北太平洋の支配を強化しました。日本が太平洋戦争で敗戦に至るまでの朝鮮半島や満州にかけたコストや人的損失を考えれば、榎本の南方殖民のビジョンはもっと評価されるべきでしょう。

 

◆敵を知り、己を知る

 

――榎本の外交術は、相手の懐に入ることだったようですが、これは「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」(孫氏)という戦争の基本に通じるものですね。

 

中山 榎本は駐露公使だった1876年に、フランスの宣教師、クロード・シャルル・ダレ(1829~1878)が朝鮮での布教活動をもとに著した『朝鮮教会史』(1874)をパリから取り寄せ、朝鮮の地理や歴史、国情を解説した「序論」を翻訳し、1876年に本国に送っています。日本国内で征韓論が高まるなかで、朝鮮の実情を知ることが第一だと考えたのでしょう。鎖国状態にあった朝鮮を知る第一級の文献で、榎本武揚訳は『朝鮮事情』と題して1876年に公刊されました。現在でもダレの「序論」の資料価値は高いようで、1979年には平凡社の東洋文庫から金容権の訳で出版されています。(写真は、クロード・シャルル・ダレ)

現在の日本は、ロシアとも中国とも緊張状態にあります。緊張緩和の道は険しいと思いますが、主戦論の世論が高まるときには、外交官だった榎本のように、まず相手国の実情をよく知り、緊張緩和の道をさぐったことを思い起こす必要があると思います。

 己を知るという点では、前述した1896年3月7日付けのフランクフルト新聞に掲載された榎本農商務相へのインタビュー記事は、榎本が日本の経済状況をどう見て、どのような産業政策を進めようとしていたかが分かります。榎本は次のように語っています。

 

政府は自由貿易主義にも偏せず、保護貿易主義にも倚(よ)らず、ただある少しばかりの保護税に依り原料の輸入を容易ならしめ、贅沢品の輸入を難からしむるあらんのみ。而して農業家の反対を見るは無論にして、政府の覚悟するところなり。日本は現にドイツ国がすでに経歴したるところと同一の発達を為し、農業国より工業国に移るならん。その島国たる位置は輸出入に便なるべく、其の石炭に富めるは蒸気力の使用を廉価ならしむべく、其の水力に富めるは電気力の使用を低価ならしむべし。此等は一として日本工業の将来を卜(ぼく)すべき要件に非ざるは為し。加ふるに、労銀は米国職工一人の労銀の六分の一、若しくは七分の一に過ぎず。現に豪州商人の如きは、我が国の低価なる労銀を利用するの新工夫を考案し、原料、例へば綿花を豪州より持ち来り綿布を製造して復た豪州に輸送せんと企図せり。而して日本製品第一の顧客は、早晩豪州と米国とに帰せん」(一部を現代語表記に修正)

 

――「自由貿易主義にも偏らず、保護貿易主義にも依らず」というのは、1990年からのグローバリゼーションの流れが変わり、関税が美しい言葉だというトランプ政権が誕生する現在にも通用する言葉ですね。日本が農業国から工業国へ転換するのに有利な点として、石炭や水力によるエネルギーと労賃の低さを挙げています。

現代の日本は、化石燃料への依存から抜け切れず、エネルギー価格の高騰に苦しんでいますが、長期の経済停滞のおかげで、国際的にみて「安い日本」となり、外国人旅行客が増加したり、日本に生産拠点やデータセンターを移したりといった動きも半導体やデータサービスなどでは出てきています。工業国の要件として低廉なエネルギー源を考えていた榎本なら、四方を海に囲まれた日本の利点を生かした洋上風力の開発に力を入れたかもしれませんね。

 

中山 海洋国家日本を標榜する榎本ですから、その通りだと思います。明治以降の日本は、西欧諸国に追い付こうと、殖産興業では外国の技術を取り入れることばかりを考え、エンジニアよりもビジネスマンを大事にしてきました。大陸への進出も西欧列強の植民地主義に倣おうとするものでした。榎本の国利民福は、自国の技術を育てることを優先し、海底ケーブルの敷設でも製鉄所の建設でも、それが発揮されました。南方殖民も西欧列強の略奪型植民地を避けようという狙いがありました。榎本のグランドデザインは、列強国の利権争奪戦、占領策に加わらず、人民の経済的繁栄と幸福を追求し、失業者と貧困層が生計を立てることを実現するビジョンだったと思います。

いま、経済力で米欧だけでなく中国や韓国の後塵を拝する場面も出てくる一方、社会的格差の拡大で貧困層もふえています。榎本が解決しようとした経済的、社会的な課題に、私たちも直面するようになりました。情報技術(IT)など新興ビジネスでは私利私欲に走る経営者もふえているようですが、社会の発展に尽くすという倫理観が社会的なリーダーになければ、強欲な資本主義に堕してしまいます。その点でも、榎本は私利私欲を捨て、困っている人々を救済しなければという思いをもっていました。

 

◆歴史は一瞬の連鎖と誘発

 

中山 歴史は一瞬の連鎖と誘発だと言いましたが、私たちの目の前を私たちの未来を決める「瞬間」が通り過ぎているかもしれません。私たちの運命が決まる瞬間です。私たちも榎本のLogical Cool Thinkingを身につけ、目のまで起きている一瞬がもたらす運命を見抜いて、平和と幸福を実現する道を選択する、できれば未来を設計したいものです。

 

――インターネットの光回線を国際的に結ぶ海底ケーブルの重要性が経済安全保障の観点から見直されている、という記事を読んで、榎本が自前の海底ケーブルにこだわった逸話を思い出しました(※)。AIなどの新しい時代に突入した今、「万能人」だった榎本から学ぶべきものは、たくさんあると思います。中山さん、ありがとうございました。

(※)https://www.johoyatai.com/7332


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