樺太・千島交換条約と樺太アイヌ
おとそ気分で元日の新聞を読みながら、欠けていたパズルのかけらを見つけたような気持になりました。それは東京新聞の「こちら特報部」に掲載されていた「樺太アイヌ 日ロ領土争いに翻弄」という記事です。欠けていたパズルだと思ったのは、私が興味を持っている榎本武揚(1836~1908)が初代の駐露公使として締結に導いた1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約に対する私の知識で、樺太や千島諸島に住んでいたアイヌの人々のことが抜け落ちていたからです。
この条約は、南樺太で漁業などを営む和人(日本人)と南下するロシア人との紛争が幕末から激化していたため、ロシアとの国境の確定が急務となり、結ばれたものです。日本が樺太を放棄する代わりに当時ロシア領とされた北千島列島を日本が得るという内容です。私は、樺太に移住していた「和人」は当然、日本に引き揚げたと思っていましたが、先住民であるアイヌの人々については、考えが至りませんでした。
東京新聞の記事によると、樺太・千島交換条約によって、樺太アイヌ800人余は日本への移住を余儀なくされ、一時は宗谷に、その後は対雁(ついしかり、現江別市)に移されました。日露戦争で南樺太が日本領になると、ほとんどの樺太アイヌが樺太に戻り、太平洋戦争の前には1000人を超える樺太アイヌが暮らしていましたが、戦争末期のロシアの侵攻で、再び北海道に移住することになりました。樺太アイヌの戦後の入植地となったのは、宗谷に近い稚咲内(わかさかない)で、そこはアイヌ語で「飲み水がない川」の意で、水に恵まれないこともあり、入植者はさらに移住を迫られたとあります。まさに「流浪の民」となることを強いられたのです。
樺太・千島交換条約に先住民であるアイヌの処遇については、何の規定もないものと思っていましたが、調べてみると、この条約には付録があり、樺太に住んでいる「土人」は、そのまま永住したいなら、ロシア国籍を得なければならないし、日本国籍を得たいのなら、日本の土地に移らなければならない、という規定があったことを知りました。クリル諸島に住むアイヌは、樺太とは逆に、そこに永住したいのなら日本国籍を得る必要があるし、ロシア国籍を得たいのならロシアの土地に移らなければならない、ということになります。
記事を読むと、樺太アイヌも千島アイヌも「去るも地獄、残るも地獄」という状態になったと想像しますが、加茂儀一の『榎本武揚』(1960年、中央公論)など榎本に関する先行研究では、樺太・千島交換条約が樺太や千島のアイヌにもたらした影響については、ほとんど触れられていません。当時の日本とロシアとの力関係やアイヌに対する「土人」意識を考えれば、土地か国籍かの二者択一を樺太アイヌに求めるしかなかったのでしょうが、樺太・千島交換条約についての評価を私たちが考える際には、樺太アイヌや千島アイヌへの影響を考えるべきで、不明を恥じるばかりです。
ちなみにこの条約は、国境の確定で日露間の紛争要因のひとつを減らすとともに、樺太を失うものの千島列島というシーレーンでロシアの太平洋進出をにらむことができるようになった、という評価をされています。いつの時代も、領土問題で悲惨な目に遭うのは、そこに住んでいる人々です。
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樺太・千島交換条約が交わされる以前、ロシア兵は道路をつくるため樺太のアイヌ人のお墓を破壊するなどし、徳川幕府はロシアにその非道を抗議しましたが、無視されました。明治政府になり、樺太・千島交換条約が締結されると、アイヌの人々が海で漁業をして暮らしたいという希望を明治政府に訴えますが、開拓使は努力して、内陸の移住地で生活できるように努力します。しかし、なかなかアイヌの人々が適応するのは難しく、その後、いろいろな経過を辿りました。