連載⑬ 嘆願書に込められた切ない思い

文は人なり、という。文章からは、それを書いた人の教養と学識に加えて、人柄や性格までにじみ出てくる。そうしたものが分からないように取りつくろい、ごまかそうとしても隠しきれるものではない。
そういう目で、前回のコラムで紹介した京都・蓮台野の年寄、元右衛門(がんえもん)が出した嘆願書を読んだ時、にじみ出てくるものは何か。明治維新を機に「穢多(えた)という名分をなくしていただきたい」と願い出たこの文書の随所に、私は「篤実さ」を感じる。
嘆願書は、幕末の激動から戊辰戦争を経て発足した新政府に対して、明治3年(1870年)の初めに提出されたものだ。蓮台野の人々のルーツについて「私どもの村々の者は、昔は奥羽の土民でありました」と記し、東北から西に連れてこられた祖先が応神天皇や安康天皇の時代をどう生き抜いたかについて叙述した冒頭部分は、極めて興味深い。
これを「史実を踏まえた祖先の苦難の物語」と見るか、それとも「天皇との結び付きの古さを印象づけるための創作・捏造」と捉えるか。この点については、前回も指摘したように見解が分かれるところだろうが、その点はひとまず置いて、嘆願書の内容を筆者の現代語訳を通してさらに紹介したい。第4段落は次のように続く。
古くから小法師(こぼし)として、私どもの村から常は
二、三人、用の多い時には八人まで、御所の掃除役を仰
せつけられ、築地内に部屋をいただいて日々出勤し、扶
持もいただいておりました。年始や八月一日には、未明
から麻裃(あさがみしも)に御紋付きの箱提灯を持って
ご挨拶し、下され物がありました。奏者所では青緡(あ
おざし)銭三貫文、長橋局では白木綿一疋、台所では雑
煮をいただき、七日には七草餅、十五日には小豆粥、そ
の他、五日、六日、十四日には穂長汁をいただきました。
「小法師」とは、普通は「若い僧侶」を意味する。福島県会津地方の民芸品「起き上がり小法師」がその例で、七転び八起きの縁起物として知られる。だが、ここでは「中世から近世にかけて、御所(ごしょ)の庭園の清掃や植栽をしていた賤民」を意味する。
京都の被差別部落の歴史に詳しい元京都文化短期大学教授の辻ミチ子によれば、蓮台野村の人たちは江戸時代には京都の奉行所の配下で働き、牢屋の番人もしていた。葬送や皮革の仕事に携わる人たちがいて、御所の掃除をする人たちもいた。
京都の御所には、正門の建礼門をはじめ六つの門がある。このうち、警護の武士や宮中に品物を納める業者が通ったのが西側の清所(せいしょ)門(冒頭の写真)で、蓮台野の人たちもこの門から出入りしていた。奏者所とは天皇への奏上を取り次ぐ部署、長橋局(つぼね)は女官長がいるところで、これらが小法師として働く人たちの窓口になった(図は御所の中央部)。
次の第5段落には、新政府が発足して御所を京都から東京に移すことが決まり、それに伴って蓮台野の人たちも振り回されたことが記されている。
年頭に小法師より差し上げておりました藁箒(わらぼ
うき)は例年、正月二日早朝に儀式があり、その飾り
付けの一品でした。これまでは年始と八朔(はっさく)
に数家族が献上しておりました。昨年の巳年(明治二年)
の春からたぶん廃止になるとのことでしたが、藁箒に
ついては旧例通り献上するようにとのご沙汰がありまし
たので、そういたしております。昨年の冬のご沙汰では、
例年正月二日に差し上げていた藁箒のうち、天皇家に献
上いたします「七つの子」の祝いの分については東京に
回されるとのことですので、十二月十二日までに差し上
げるよう仰せつかり、期限通りに献納いたしました。
幕末の動乱から戊辰戦争へと至る過程で、倒幕の主力となったのは薩摩藩と長州藩である。薩摩の西郷隆盛と大久保利通(としみち)、長州の木戸孝允(たかよし)を「維新の三傑」と呼ぶのはそれを象徴するもので、これに土佐藩と肥前藩の有力者、尊王攘夷派の公家の岩倉具視(ともみ)や三条実美(さねとみ)らを加えた人たちが新政府の方針を決めていった。
慶応4年3月(旧暦)に「五箇条の誓文」の素案の一部を削り、「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ」という項目を加えて成案にしたのは木戸孝允とされる。この時、孝明天皇の後を継いで即位したばかりの睦仁(むつひと)は満15歳。政治の流れを左右する力はなかった。公家たちの強硬な反対を押し切り、天皇の江戸への行幸と遷都を決めたのも薩長土肥の面々だった。
遷都への抵抗があまりにも大きかったため、新政府は遷都ではなく、「東京奠都(てんと)」という表現を使った。遷都となると、古い都は廃される。一方、奠都は「新しい都を定める」という意味で、「帝都は東京と京都の二つである」というニュアンスを持つ。遷都に反対する公家と京都府民を難しい言葉を使って、なだめたのである。
御所が京都から東京に移るとなれば、蓮台野村の人たちにとっては一大事である。御所に献納していた藁箒(わらぼうき)のことを長々と書いているのは、この間の混乱と先行きへの不安を示すものだろう。江戸の浅草には、関東一円の穢多・非人を支配する弾左衛門(だんざえもん)という頭領がいた。弾左衛門は江戸幕府が長州征伐に乗り出せば、これに協力した。鳥羽・伏見の戦いの後も幕府軍に兵糧を出したりしたが、江戸城明け渡しと決まった途端、官軍に寝返って生き残りを図った。
天皇が江戸城に移った後、その城の掃除役は誰が勤めるのか。蓮台野の人たちと弾左衛門の配下との間で激しい綱引きが繰り広げられたはずである。この段落の「藁箒」についての記述は、両者の間で綱引きがあったことを間接的に示すものだろう(その結末を知りたいところだが、それに触れた文献はまだ見ていない)。
嘆願書の最後の段落にも、被差別部落の起源に関わる重要な記述がある。
私どもの村々の者は多くが殺業に携わってきましたが、仏教が
国内に広まるにつれて世間は殺生を忌み嫌うようになり、足利
幕府の頃、誰とは分かりませんが、穢多(えた)という字を付
けるようになったとのことです。『閑田耕筆』には穢多と称す
るのは「餌取(えと)り」のこととあり、また『和名抄』では
「屠者恵止利」と記し、人倫漁猟の部に加えています。そして、
穢多というのは屠者で今の漁師のことなどともありますが、穢多
と言えば人外異物のようにいやしめられ、とりわけ町との交際
もだんだんとすたれていったのは実に残念なことだと、村々の
者たちは悲観しております。
仏教が日本に伝わり、広まったのは6世紀ごろとされる。これは歴史学者の間であまり異論がない。嘆願書は、蓮台野の人たちの祖先は仏教が広まるにつれて忌み嫌われるようになり、室町時代には「穢多」という字を付けられ、賤視されるようになっていった、と記している。これは「被差別部落は戦国末期から江戸時代にかけて、民衆を分断統治するため政治的に作られたもの」とする近世政治起源説を真っ向から否定する内容である。
近世政治起源説を唱えた大学の教授たちがそろって、この元右衛門の嘆願書に触れようとせず黙殺し続けたのは、ある意味、当然だったのかもしれない。また、私がこの嘆願書の存在に気づくまで何年もかかってしまったのも理由のないことではなかった。
最後の段落には、蓮台野を含む差別にさらされ続けた人たちの切ないまでの思いがあふれている。
今般の王政復古はありがたくも庶民を慈しむことを第一に
されるとのこと、恐れ多いことと存じております。とりわけ
旧弊を一掃されるとのことで、私どもの村々の者に至るまで
神州の民となりました。穢多という名称があるのは何とも嘆
かわしいことです。獣類や皮革の品物を取り扱う仕事をして
いる者もありますけれども、これもまた国家の一端を担う仕
事であります。田舎では多くの者は農業だけで暮らしており、
右のような品物を取り扱っている者はございません。なにと
ぞ、昔からの穢多という名分をなくし、士民と同じように取
り扱ってくださるよう伏して嘆願いたします。
近世政治起源説を唱えた研究者の多くはマルクス主義に基づく革命理論を支えとし、「被差別部落の人たちは労働者や農民と共に変革に起ち上がるべきだ」という信念を抱いていた。そのためには「やっかいな天皇制と被差別部落の関わり」については避けて通りたい。「豊臣秀吉や徳川家康が部落を作ったのだ」と唱える方が分かりやすい。その方が差別の解消を求める部落解放同盟にとっても都合が良かった。
歴史と真摯に向き合うことを放棄し、自らが信じるイデオロギーのために学問を利用する――そのような者たちが打ち立てた学説が峻厳な歴史の審判に耐えられるはずもなかった。1980年代以降に中世史や古代史の研究が進むにつれて学説として破綻し、見向きもされなくなったのは当然の報いと言うべきだろう。
だが、小学校や中学校で推進された「同和教育」で部落の歴史を学んだ人たちの中には、今でも「部落は近世になってから支配階級が政治的に作り出したもの」と信じている人が少なくない。社会に出てから被差別部落のことを学び直す機会は滅多にないからだ。
同和対策事業の一環として公金を使って教材を作り、誤ったことを長年にわたって教え続けた罪は償いようもない。これから長い時間をかけて誤りを正し、まっとうなことを広めていくしかない。イデオロギーにからめとられることの怖さをあらためて思う。
(敬称略)
(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)
*初出:調査報道サイト「ハンター」(2025年5月29日)
https://news-hunter.org/?p=27038
【参照】
*蓮台野の元右衛門の嘆願書についての前回のコラム(末尾に連載の各回へのリンク)
≪写真&図の説明≫
◎京都御所の清所門(せいしょもん)=「旅と歴史」サイトから
https://blog.goo.ne.jp/ogino_2006/e/05cdb4c28cef5a746e1fc5f8231fe0d4
◎御所の中央部にある奏者所と長橋局(伊藤之雄『明治天皇』から複写)
≪参考文献&サイト≫
◎辻ミチ子「近世 蓮台野村の歴史 ―甚右衛門から元右衛門―」(2009年度部落史連続講座講演録<京都部落問題研究資料センター>所収)
http://shiryo.suishinkyoukai.jp/kouza/k_pdf/2009.pdf
◎『京都の部落史 2近現代』(京都部落史研究所、1991年)
◎『有識故実から学ぶ 年中行事百科』(八條忠基、淡交社、2022年)
◎『明治天皇』(伊藤之雄、ミネルヴァ書房、2006年)
◎『明治天皇の生涯(上)』(童門冬二、三笠書房、1991年)
◎『最後の弾左衛門 十三代の維新』(塩見鮮一郎、河出書房新社、2018年)
前の記事へ |
コメントする