Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-1(後)
・「聖マウリッチィオ・ラザロ騎士団勲章」を受勲する
1879年(明治12年)12月2日、駐日イタリア公使バルボラーニ伯爵(Conte Raffaele Ulisse Barbolani、1818-1900)からの井上外務卿へ手紙*に、「イタリア皇帝から井上外務卿閣下に勲章が贈られることになりました、加えて、「Duc de Gênes(ジェノヴァ公爵)の紹介で勲章をイタリア皇帝から海軍中将兼外務大輔榎本氏へ賜与されることになりました」と書かれていました。Duc de Gênesとは、当時のイタリア国王の従兄でTommaso Alberto Vittorio di Savoia- Genova(1854‐1931)を指しました。ジェノヴァ公と呼ばれていました。但し、榎本のオランダ留学時代やペテルブルク駐在時代にジェノヴァ公との交流を示唆する資料は見当たりません。
*JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B18010083300、○伊国ヨリ内海長崎県令外二十二名ヘ勲章寄贈之件 自明治十二年八月至明治十三年八月(2.1.2_5)(外務省外交史料館)
ジェノヴァ公の略歴を論文、ポッツィ カルロ エドアルド『原資料から見る初期の日伊外交貿易関係 : ジェノ ヴァ公の来日を中心に』同志社大学学術リポジトリ*から引用します。
*要旨および内容 http://doi.org/10.14988/di.2018.0000000288
この論文では、Tommaso Alberto Vittorio di Savoia- Genova(1854年2月6日生、トリノ)は、第二代ジェノヴァ公、トンマーゾ・アルベルト・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア王子と日本語表記されています。イタリア王国を建国したサヴォイア家から三系統の分枝があり、その一つがサヴォイア=ジェノヴァ家で、1831年に分枝しました。代々当主は、ジェノヴァ公爵と呼ばれました。トンマーゾ・アルベルト・ヴィットーリオは、父親が1855年2月に急死したため一歳でジェノヴァ公位を継承しました。ジェノヴァ公爵二世でした。
ジェノヴァ公はロンドンのハーロースクールで学び、17歳のときイタリア王立海軍に入隊しました。王家には王家の海軍への影響力強化という狙いがあり、海軍には、外交と海軍の予算を削る政府から、国際貿易による利益追求のため、遠い諸外国との良好な外交関係樹立と海外の居留地とそこに住むイタリア人の権利保護、貿易推進のために、王族―ジェノヴァ公を軍艦に乗せ、体裁を整えるための艦隊を用意し、世界を航海する予算獲得が狙いでした。
1872年(明治5年)11月16日にジェノヴァ公を乗せた蒸気コルベット艦*はナポリを出発し、世界一周航海を開始しました。航海中、1873年(明治6年)8月23日初来日し、同年11月1日まで滞在しました。当時は副島外務卿の時代で、国賓として歓迎されました。
* corvette 18世紀に出現した。平甲板、一段砲装の木造帆船軽巡洋艦だった。その後、高角砲、爆雷、レーダーなどを装備し輸送船団の護送を主要任務とする高速軽装の小型艦。(新英和大辞典 第六版、研究社、2002。ブリタニカ国際大百科事典)
日本国内の蚕種事業は、明治4年の価格暴落を経験し、今後の対策が求められている状況でした。蚕種業のリーダー的存在だった、群馬県の佐井郡島村の田島武平(妻は、渋沢栄一の従兄、渋沢喜作の姉)は明治5年初めの頃、当時大蔵大丞渋沢栄一に相談をもちかけ、渋沢からアドバイスを得ました。そのアドバイスは、会社組織を起こし、その目的は「私益」のためでなく「公益」のためであるという内容でした。前年の価格暴落により資金不足になっているが、資金は他から募ればよい、県から大蔵省を通じて手配するとも伝えていました。資金は渋沢と縁の深い三井組から6,000円の融資を受け、同明治5年に島村勧業会社が設立されました。島村勧業社の蚕種の品質は高く維持され、横浜で最も著名な品になり、多額の利益を上げ、三井組からの融資を全額返済してなお有り余る利益を生みました。『わずか一年で盛況となったので「会社」という近代組織が有効であることを皆が知った』のでした。*
*深町浩祥『明治初期における蚕種輸出記録(1)』跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第29号、2020年1月25日から引用、抜粋した。
まさにジェノヴァ公はこの蚕種業が好調な時期に来日しました。日本政府としては重要な大口顧客のVIPがやってきたのですから、念入りに準備した歓迎プログラムを用意しました。その結果、ジェノヴァ公自身の面目を施し、さらに日伊の外交関係全体に良い結果をもたらしました。さらに、9月13日に岩倉使節団が帰国し、岩倉使節団がイタリアで受けた大歓待への感謝の気持ちを示す良い機会になりました。
この年の日伊の貿易は、日本からイタリアへ輸出した金額は、226万5,481円で、輸出総額の10%を占めました。イタリアからの輸入はほとんどありません。横浜を代表する日本の商人はジェノヴァ公に好調な貿易に対する感謝の気持ちを表そうとしました。
ジェノヴァ公が日本を発つ前に、イタリア公使は他の欧米列強に先んじてイタリア国王が日本の支配階級に自国王家の最高名誉称号を授ける最初の国とし、ジェノヴァ公の公式訪問で日伊両国の友好関係をさらに強化しようとしました。しかし、本国の外務大臣から理解を得られず、様々な理由で拒否されてしまいました。元々、イタリア本国の外務大臣と駐日イタリア公使とは意見の対立がありました。このためジェノヴァ公の初来日の外交効果は低減されました。
ジェノヴァ公の二度目の訪日は、最初、1879年(明治12年)8月2日に福江島(長崎県五島列島)に上陸し、8日に長崎港で手厚く歓迎されました。ジェノヴァ公を乗せた軍艦は同年11月24日に横浜港に到着しました。イタリア本国から送られた勲章が東京に到着する時期に合わせるため、時間調整をしての横浜港到着でした。
ジェノヴァ公の初回の来日と今回の来日の間、日伊は条約改正交渉をしていました。1879年(明治12年)1月28日に当時のイタリア公使、バルボラーニ公爵は寺島外務卿と会見し、新条約締結の予備交渉を開始しました。榎本は2月12日に不平等条約改正のための条約改正取締御用掛になりました。
寺島外務卿は、各国に条約改正の打診をしたのち、まずアメリカ政府と条約改正交渉を決めました。
この条約締結をした日本側の在米特命全権公使、吉田清成(薩摩、1845‐1891)が米国国務長官と交渉中の明治11年4月22日付、飯島尚信(薩摩、1846‐1880、外交官)外務大輔への書簡の終わりの方に「露の形成は如何に候や。重脩一件に付て、榎本氏より伝せし事なし。」*1と書き、続けて、ロシアの件についても時々教えて欲しいと頼みました。「重脩」 (ちょうしゅう)は「重修」とも書き、再建すること*を意味します。ここでは条約改正を指しています。この手紙から条約改正の交渉を米国とロシアで同時期に行われていたことが分かります。
*『名山現代 中日辞典』名山出版社、中華民国67年初版
そして、明治11年5月23日付で吉田が寺島外務卿宛てに送った文書には、『琑亊(さじ)の為に我主眼なる税権挽回の機を失するの患なきに非ず』*2と交渉の方針が書かれていました。明治11年6月27日の交渉でも米国側の譲歩の兆しがないため、その後、日本側が相当な譲歩を示し、その結果、税権を取り戻す約束ができました。
*1,2 山本四郎『吉田・エバーツ協定の一考察:吉田清成関係文書による』から引用。
日本政府の不平等条約改正の要点は、治外法権(領事裁判権)を残すとも税権(関税自主権)の回復が優先でした。そして、1873年(明治6年)10月28日に着手した条約改正作業の結果、遂に1878年(明治11年)7月25日にアメリカと日本はワシントンで新しい条約*を締結しました。治外法権の不平等を残したままでしたが、不平等改正の第一歩を踏み出しました。榎本は条約締結の翌日、7月26日午後7時15分ペテルブルク発の汽車でモスクワへ向かいました。それは、あたかもワシントンでの条約締結の連絡を待っていたかのようなタイミングでした。
*参考資料
1.条約批准書、管理番号:U7 外交史料館所蔵http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/negotiation/photo/yoshida/pn05.html
2.『11.条約改正交渉』国立公文書館http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/negotiation/index.html
3. 山本四郎『吉田・エバーツ協定の一考察 : 吉田清成関係文書による』史林76巻6号
(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/239250)
但し、この条約は他の条約締結国がこの改正に同意したとき発効するという条件付きでした。翌年1879年(明治12年)4月8日に日米で批准書を交換しましたが、条約国の中で反対する国がいたため、実施できずに終わりました。この条約改正について、加茂儀一『榎本武揚』中央公論社では以下のように論じられています。
1.税権(関税自主権)
『イタリヤやロシアが賛成したのみで、イギリスやドイツは反対した。・・・ついに寺島のこの交渉も失敗に終わった。・・・榎本はすでにロシヤに派遣されていた明治11年に、寺島外務卿の命を受けてロシヤ政府当局と条約改正の下交渉を行い、ロシヤ政府から内諾を得た経験もあり、・・・』
2.法権(治外法権―領事裁判権)
『たまたまそのころ横浜で一英国人が阿片を密輸入して日本の税関で発見され没収されたので、横浜駐在のイギリス領事に訴訟を提起したところ、該領事は密輸入品でも輸入税さえ払えば阿片を日本に輸入しても差し支えないと判決した事件が起こった。・・・このため国内では非難ごうごうとなり、自由民権派がこの問題を藩閥政治への批判材料にした。』
次に、いよいよイタリアとの条約改正交渉が始まりました。
以下は、日伊の条約改正交渉の経過をPozzi Carlo Edoardo『駐日イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵と明治政府との条約改正交渉について』イタリア学会誌67巻(2017)から、特に、日本、イタリア、英国の交渉への関わりについての箇所を引用、参照しました。
イタリア公使バルボラーニ伯は1877年(明治10年)5月10日に横浜に上陸しました。西南戦争(明治10年2月22日‐9月24日)の真っ最中でした。西南戦争で政府軍が優勢になり、バルボラーニ伯は7月20日に京都御所に滞在中の明治天皇に信任状を提出しました。バルボラーニ伯は前任者の先例に従いイタリア王国が大日本帝国に下心のない友好国であるというイメージを促進しました。
そして、イタリア公使館の拡張工事を行い、新公館完成を名目に多数の非公式イベント、公式晩餐会に影響力のある多くの日本政府高官、重要人物、皇族を頻繁に公使館に招待し、深い友好関係を築きました。すでにペテルブルクで榎本特命全権公使がイタリア公使館の晩餐に招待されとこともイタリア政府の対日外交の一環だったのか、榎本が駐露イタリア公使に条約改正の下話をした可能性もあります。
日本の情勢についてバルボラーニ伯は次のように本国の外務大臣に報告しました。
1.1877年7月10日付、報告書
『「西南戦争」の根底にある原因は、明治政府に対する政治的かつ社会的不満の表れである。この帝国の諸制度が受けた急進的な変更で被害を被った全ての人びとを自分たちのほうに引き寄せている。西郷らの反乱が完全に鎮圧されたにもかかわらず、支配階級により促進された社会変化に敵対する派閥が存続している。』
2.1879年10月8日付、報告書
『・・・日本は相対的に静かな状態が続いている。大衆への天皇の威信は保たれ、政府は基本的に支持され、軍は政府に忠実で、税金は徴収されている。しかし、現状を究明してみると、深刻な不満が全階級の間にまだ広がっていることは明かだ。この不満が支配階級(明治政府)に対する不信によってさらに拡大されている。・・・』
『日本が受けた急進的変革は、大衆に何らかの具体的な恩恵をもたらさなかったばかりか、大衆の利益に対し深刻な損害、重要な変化を与えた。・・・日本が苦しめられている諸悪の根源は「貧血」(資本の流出)だ。日本の政治家が(自国)の血管に新しい血(資本)を入れる方法を見つけることができるまで、日本は(深刻な財政的)困難かつ不安定で、自国の存在を危うくしうる危機や大惨事に直面する恐れがある。日本は、列強の一国が救いの手を差し伸べ、深刻な困難から抜け出すように日本を援助する時を喜んで迎えるはずだ。・・・』
その結果、バルボラーニ伯は、イタリア王国は日本の産業と資本不足を解消するためイタリア企業の関与および現行条約の改正を通して日本政府を援助する必要があると考えました。その結果、イタリア企業による投資や貿易拡大と多様化の促進により日伊相互に大きなメリットを生み出そうとしました。
1878年(明治11年)11月14日にローマの外務省官房長は、駐伊日本臨時代理公使、中村博愛(なかむらひろなり(1844‐1902)、榎本と共にペテルブルクの公使館で仕事をしていた)に書簡を送りました。そこには、一定の上限内であれば日本の関税自主権の回復を認める、但し、1878年の日米の条約と同じ条件にすることと書かれていました。
イタリア王国の商人は日本から蚕種や生糸を大量に購入するので、日本の輸出税の廃止は非常に有利な条件でした。一方、イタリアから日本への輸出割合が小さいため、日本の税権回復による影響はささいだったようです。1879年(明治12年)1月に駐日イタリア特命全権公使バルボラーニ伯は本国政府から明治政府と条約改正交渉を開始する権限を与えられ、寺嶋外務卿へ条約改正交渉の開始を申し入れました。日伊の単独条約改正交渉が始まりました。榎本は、2月12日、条約改正取調御用掛に就任しました。
イタリアとの交渉では法権回復交渉も進展していました。イタリア公使はイタリア人、特に商人が日本国内を自由に移動できることを求め、日本はそれを許す見返りに治外法権の撤廃を求めました。この交渉は成功しました。この事態を把握し、強く反対していた駐日英国公使パークスは、1879年(明治12年)4月17日に本国へ日伊が単独条約締結に向けて交渉を開始したことを打電しました。駐伊英国大使は英国外務大臣に指示され、6月2日にイタリア政府が英国政府と協力して対日条約改正問題について共同交渉を主張する用意があるか確かめました。
イタリア政府外務省通商局長は、英国からの圧力を避けるため、イタリア政府は明治政府と単独条約締結の意向をもっていなかったと回答しました。6月末、イタリア政府の首相と外務大臣は駐日イタリア大使、バルボラーニ伯に日本との単独の新しい条約締結を禁じ、条約改正は英国の決定に合わせるように指示しました。本国の方針変更を受け、1879年10月に寺島外務卿との条約改正交渉は中止されました。
寺島外務卿は、1879年(明治12年)9月10日に文部卿に転任し、同日井上馨が外務卿に就任しました。9月12日に文部卿兼任で法制局長官に就任しました。但し、枢密院が発行した寺島の履歴書*には、『9月10日 兼任文部卿』とのみ書かれ、なんの役職と兼務なのか不明です。枢密院の誤記の可能性があります。井上外務卿のもと、11月6日に全権大使と兼任で榎本は外務大輔に就任しました。
*JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06051167000、寺島宗則(国立公文書館)
そして、バルボラーニ伯が指摘した日本の産業不足と資本不足が解消され、大衆の生活に対する不満が概ね解消される状態は、やはり、バルボラーニ伯が予見したように、日本の人民大衆が多くの困難、危機に遭遇した後の昭和40年代になって、ようやく達成されたのでした。
昭和40年代にはいると、日本の自動車生産数は世界二位、電気製品の販売網はヨーロッパに進出し、GNPは世界二位に到達し、農村から工場へ送り出せる労働者は限界に達し農村は三ちゃん農業になるほどでした。バルボラーニ伯が指摘した日本の重大な問題の解消には、明治時代の榎本武揚のような良心的なリーダーたちが「国利民福」増進のために奔走して尚、昭和40年代にようやく達成されたのです。開国から百年もかかりました。
ジェノヴァ公が初来日したときにイタリア公使ド.ラトゥール伯がイタリア政府に日本人への勲章授与を求めて反対されましたが、二度目の来日時のイタリア公使バルボラーニ伯は成功しました。
『1879年5月30日にイタリア外務大臣に、バルボラーニ伯はジェノヴァ公が横浜港に上陸するまでに在東京イタリア公使館へ位階の高い勲章を発送するようローマ外務省に強く要求した。1873年10月13日のお別れの午餐会の際にジェノヴァ公自身が明治天皇への聖アヌンツィアータ大勲章叙勲を約束していた。バルボラーニ伯は、ジェノヴァ公が日本に戻って「天皇への大勲章叙勲がなければ、ジェノヴァ公の立場は脆弱なものとなろう。すでにドイツの皇子による叙勲が行われていることを考えればなおさらである」と考え、同じ報告書の終わりに、バルボラーニ伯はドイツ帝国の勲章より位階の高い勲章をジェノヴァ公から直接叙勲されるべき候補者のリストを挙げた。』
日伊の条約改正は頓挫しましたが、ジェノヴァ公の来日に合わせ、ジェノヴァ公の乗った軍艦が横浜港に到着する時期と勲章が日本に届く時期を合わせ、勲章授与する時期を設定し明治12年から13年にかけてイタリア王国は30名以上の政府高官らに勲章を授与しました。
イタリアはマルコポーロを輩出し、さらにジェノヴァはコロンブスの出生地です。貿易を求めて探検をする、冒険をする―イタリアから日本に蚕種を求めてやってきた商人たちも冒険家、挑戦者、起業家でした。榎本が受勲した理由は、日本でいやすでにイタリアでも、海軍軍人、外交官、探検家、挑戦者としての経歴、能力、人柄が知られていたゆえだったのでしょう。ペテルブルクの榎本の部屋にあったというイタリア人美女の絵画はひょっとしてイタリアの外交官からのプレゼントだったのかもしれません。
そして、勲章の対象に寺島前外務卿ではなく井上外務卿が入っていたことは、イタリア側には条約改正は不調であったが、日伊の将来に向かってまた歩もうという意思を感じます。横浜に碇泊中のイタリアの駆逐艦に榎本が招待され、ジェノヴァ公たちと一杯やりながら様々な話に花が咲いたことがあったかもしれません。
ヨーロッパでは、身に着けるものを贈呈し、友好関係を増進する習慣があるようです。榎本達と共に箱館で新政府軍と戦ったフランス軍のブリュネも後に明治政府から勲章を授与されています。下の写真は、フランス政府から榎本に贈られたカフスボタンやタイピンです。
(「海軍卿」へ続く)
冒頭の勲章の写真は以下から引用
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:OSSML_Commandeur.jpg
著作権は、Seraphin74 (Gilles Carrier-Dalbion), CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由
【謝辞】
榎本がイタリア皇帝から受勲した背景を示唆する次の三篇の論文に感謝します。
1.ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ『イタリア商人ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)の未刊 日誌 ―戊辰戦争時(1868-69)の北日本の旅より―』イタリア学会誌(66号)、2016
2.Pozzi Carlo Edoardo『駐日イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵と明治政府の条約改正交渉について(1879年)―日伊両国の未刊公開文書を中心に―』イタリア学会誌第67号、2017
3.ポッツィ カルロ エドアルド『原資料から見る初期の日伊外交貿易関係 : ジェノ ヴァ公の来日を中心に』2018、同志社大学学術リポジトリ、http://doi.org/10.14988/di.2018.0000000288
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