後期資本主義へのレクイエム ―ハン・ガン『菜食主義者』を読む

2024年のノーベル文学賞を受賞した韓国の作家、ハン・ガンさんの『菜食主義者』(クオン)を読みました。
昨年10月、ハンさんがノーベル賞を受賞したとのニュースを見て、どんな作品を書いている作家なのだろうかと興味を持ち、その代表作という『採食主義者』を読もうと思いました。しかし、邦訳は出版されていたものの、発行元が韓国文学を専門とするたぶん小さな出版社だったこともあり、書籍市場では、この本は瞬間蒸発したようで、古本も高額の値がついていました。入手するのはあきらめていたのですが、最近、書店をのぞいていたら、あの本が積まれていたので、買い求めました。奥付を見ると、第2版9刷とありましたから、増刷が続いたのでしょう。喜ばしいことです。
ノーベル文学賞といえば、1982年に受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(新潮文庫)を途中で投げ出して読了できなかったこともあり、忍耐を覚悟して読み始めたのですが、面白いというよりも久しぶりに文学と興奮するという気分になり、一気に読み終えました。文学と接する機会は少ないのですが、これこそノーベル文学賞だ、という感想を抱きました。
「菜食主義者」という題名からは、現代の文化や流行としてのベジタリアンの物語かなと想像したのですが、読んでみると内容は予想と違って、菜食主義というよりも摂食障害(拒食症)の女性をめぐる物語でした。拒食症というと、瘠せることで美しくなりたいという願望が行き過ぎた神経症というイメージがあります。しかし、この小説に描かれた拒食症の女性は、血が滴る肉塊を食べる夢から逃れるために肉食を拒否するようになったので、瘠せ願望とは無縁でした。夢が理由ですから、夫を含め周りの人たちにはまったく理解不能な行動と映り、周囲と人たちと軋轢は、ヨンヘが手首をナイフで切るという事件に発展します。
読み進むうちに、ヨヘンという名のこの女性が拒否した「肉」は、動物性たんぱく質というモノではなく、現代文明を生きる人間のありかたというコトの象徴ではないかと思うようになりました。食材にこだわる菜食主義であれば、牛乳を豆乳に変えるといった工夫があるはずですし、美しさにこだわる拒食であれば、臨床心理的な方策も出てくるはずなのですが、そんなことには頓着せず物語は進んでいくからです。
「菜食主義者」の最後は、噴水の前のベンチで、半裸になったヨンヘが握りしめていた手を広げると、捕食者に噛まれたような歯型を残す小さな小鳥が落ちる、という場面でした。拒否しても拒否しても「肉食」から逃れられないというのでしょう。
拒んでも拒み切れないというヨンヘの不条理は、たとえば戦争を否定しながらも戦争が止まらない現代を生きる私たちの姿のように思えました。そして、この小説に既視感を覚えました。「実存主義文学」と呼ばれたカミュやサルトルの小説で、学生時代に読みふけっていたものです。「不条理」がキーワードでした。
「菜食主義者」の次の物語である「蒙古斑」を読み始めたら、これが「菜食主義者」の続きであることがわかりました。「菜食主義者」が摂食障害になった妻、ヨンヘの対応に苦慮する夫の視点から書かれた物語だったのに対して、「蒙古斑」は、ヨンヘの姉の夫である映像作家の視点から語られる物語でした。「ヨンヘは二十歳まで蒙古斑が残っていたから、いまもあるのではないか」という話を妻から聞いて、この映像作家は、ヨヘンの蒙古斑を映像にしたいという衝動にかられるのです。
そのあげく、義兄はヨヘンを説得し、ヨヘンの蒙古斑を中心にした花模様を体全体に描き、その映像を撮ります。しかし、それでも衝動は収まらず、自らの体にも花模様を描き、ヨヘンと交わるポルノグラフィーを撮影します。それまで一度も義妹に「下心」など持ったことのなかったのが「蒙古斑」という言葉を聞いて、ボディペインティングのイメージが膨らんだのです。
この映像作家のこれまでの作品は、「後期資本主義で摩耗し、引き裂かれた人間の日常を、3Dグラフィックと写実的なドキュメンタリー画面で構成してきた」ものだと書かれています。「後期資本主義」という言葉は初めて聞く言葉ですが、これがキーワードだと思いました。「菜食主義者」で、ヨンヘが嫌悪した「肉」は現代文明の象徴だと思ったのですが、作者が「肉」に込めたのは「後期資本主義」だと理解したからです。
映像作家の目に、実際に見たヨンヘの蒙古斑は、どう映ったのか、小説には次のように書かれています。
「若干痣(あざ)のようにも見える、淡い緑色の、明らかな蒙古斑だった。それは太古のもの、進化前のもの、あるいは光合成の跡のようなものを連想させ、意外にも性的な感じとは無関係に、むしろ植物的なもののように感じられた」(「蒙古斑」)
「肉」が現代文明=後期資本主義の象徴だとすれば、「蒙古斑」は、生物がヒトに進化する前の植物のような状態の象徴なのでしょう。蒙古斑は、しっぽがあった進化前の名残という俗説が韓国にもあるのでしょうか、蒙古斑を見た映像作家の連想は、サルを突き抜けて太古の植物までさかのぼったようです。
『菜食主義者』に収められた三つ目の小説は「木の花火」で、これも「蒙古斑」の続きで、こんどは、ヨンヘの姉の視点から書かれています。精神病院に入院したヨンヘは、肉だけでなくすべての食べ物を拒むようになり、面会に来た姉にヨンヘは次のように語ります。
「夢の中でね、お姉さん、わたしが逆立ちをしたら、わたしの体から葉っぱが出て、手から根が生えて……土の中に根を下ろしたの。果てしなく、果てしなく……股から花が咲こうとしたので脚を広げたら、ぱっと広げたら……」
「動物」をやめて「植物」になろうとしているヨンヘを転院させるため、姉はヨンヘを乗せた救急車に付き添います。姉が救急車の窓から外を見ると、道路沿いの木々が体をうねさせ緑色の花火になっていたと書かれています。ゴッホの世界みたいですね。
都会のストレスにさらされた人間が田舎に住んで人間性を取り戻す、という物語をよく見聞きします。『菜食主義者』も、文明に流されるのをやめて自然に還ることが人類再生の道、という話にすれば、現代風の予定調和物語になると思うのですが、そんなおとぎ話は書かないというのがハン・ガンさんの矜持なのでしょう。(写真は、ノーベル文学賞受賞時のハン・ガンさん=John Sears 氏撮影の映像を利用したウィキペディアから)
世の中は不条理なことばかりだが、私たちがより良い社会をつくるために一歩踏み出せば、明るい未来は開けてくる、というのがリベラリズムです。この物語では、ヨンヘの義兄の映像作家がそうしたリベラリズムの代表選手になっているように思えます。しかし、もはやそうしたリベラリズムでは地球は救えない地点まで来てしまったような気がします。映像作家がこれまでの作品や作風を捨てて、蒙古斑を撮りたいという破滅的な行動に出たのも、その表れかもしれません。その意味では、この小説は、「後期資本主義」へのレクイエムになっているのかもしれません。
「彼女の視線は暗くて粘り強い」というのがこの物語の結語です。絶望の淵に立って、それでも暗くて粘り強い視線で現実を睨み返す、そんな生き方をしようという作者の決意がヨヘンの姉の視線に込められているように思いました。「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」。魯迅の言葉が浮かんできました。
『菜食主義者』の「訳者のあとがき」や著者のプロフィールなどを見ると、作者のハン・ガン(韓江)さんは、1970年に光州で生まれで、『菜食主義者』は2002年から2005年にかけて独立した中編小説として発表され、連作の長編小説として刊行されました。2014年に発表した『少年が来る』は、1980年に軍事政権に抗議して民衆が蜂起したのに対して全斗煥将軍(のちに大統領)が戒厳令を発動して弾圧した光州事件を題材にしていて、ノーベル文学賞を受賞した時期に、韓国の尹錫悦大統領が「非常戒厳」を一時宣言したことで、話題になりました。
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