ラスコーの洞窟壁画
世界遺産であるラスコーの洞窟壁画展を、この程、上野の国立科学博物館にて見学しました。 平日なのに、かなりの入りでした。また遺跡なのに、芸術性が強調されていることに驚きました。
それは、この遺跡にこそ、クロマニョン人というホモ・サピエンスに属する人々に、進化史上ないし人類史上で、初めて芸術性が見いだされたことに在るようです。「ホモ・ピクトール」(絵画人)という呼び方さえ使われていました。
そして、それは即ち、約二十万年前にアフリカの大地の一角で、旧人から進化発祥したホモ・サピエンスに共通する資質とみられると言います。オリジンがそうだからこそ、世界中に広がった、その仲間に皆、芸術的志向が在ったと言うのです。そして、この人々こそ、私ども人間に通じる現生人類の由、こうしたことが今や学問的にほぼ共通認識になって来たと強調されていましたね。
以下、拙理解によりますが、順次ポイントを分説して参りましょう。
1) 「世界遺産ラスコー展」と銘打った今展示は、この11月からの東京展、来年3月からの宮城展、7月からの福岡展と三回行われます。科学展は一回きりが多いので、三度会場を遷してとは力が入っているなという印象を持ちました。それに、東北地方から一会場を選ぶのは、矢張り東日本大震災を念頭に置いている感が
ありますね。
2) 「ラスコー」とは何処か?
こうした洞窟壁画では、子供の頃、学校で習った「アルタミラ」の壁画が有名でした。まるで生きているような野牛などの絵が出ていましたね。
その所在地はスペインで、最初の発見が1880年頃と言いますから、1950年代の日本の教科書に出ていてもおかしくなかったのでしょう。それが描かれたのは、約一万八千年前から一万年前にかけての頃と推定されているようです。
一方、今展示のラスコー(Lascaux)は、フランス南西部に在り、近くで知名度の在るところと言えばボルドーです。ヴエゼール渓谷という川沿いの土地で,緑豊かな森と住宅地が広がり、単線の鉄道と舗装された道路が通っていました。実はクロマニヨン人の名の元になった、その洞窟の所在も近いと聞きます。
さて、この地方の一隅に、運良く洞窟が残っていて、其処に犬を探し偶然入り込んだ少年達が、その入り口から奥に掛けての見事な壁画群を発見したのです。ラスコー壁画との遭遇です。
時は、1940年の9月12日といいますから、第二次大戦が前年9月に始まっていて、フランスがその6月に対独降伏した後でした。
そういう大変な時期でしたが、壁画発見は、もの凄い関心を呼び、人々が押しかけました。大混乱が起きたため、一時的に閉鎖されました。そして、道路、階段、床、電気設備などを整備した後、1948年再度公開に踏み切り、空調まで取り付けたと言います。ただ、それらは考古学上の措置や十分な配慮を欠いていたため、微生物の繁殖など深刻な問題が発生、洞窟は危機を迎えます。
そして、遂に1963年4月、時の仏文化相、アンドレ・マルローの決定で、洞窟は閉鎖、以降、非公開となります。 こうした措置は、他の洞窟でも取られています。
一方、専門的調査は進み、壁画は大体二万年前に描かれたと推定されるに至りました。アルタミラよりは少し古いのです。
4) 再現と再々現
現地には、その後、見学用に、第二の洞窟が再現された由です。
そして、今回の日本での展示は、更に、その再再現とも言うべき
もので、諸々のことを図示、解説した上で、洞窟自体は、十分の一のスケールでそれらしく見せていました。 この縮尺で行けば、立体的に見ると、10x10x10で千倍と言うことになり、結構大きな展示になります。
さて、そうした洞窟風の展示の続きに、各壁画が色の再現までしながら、暗い中にも次々と展開していました。洞窟の長さは概ね二百mと言い、深さは十二mから二十mと変化していて、かなりの上下があります。
5 洞窟を何に使ったか?
この問いに対しては、拙見では、ここにいたクロマニョン人が当然暮していたと思っていました。でも解説を読んで、驚いた次第です。居住は、極く入り口付近だけであろうと言うのです。というのも、少し中に入れば、真っ暗ですから、暮らしにもどんな作業にも通常不向きです。斯くて、この洞窟の実際の用途については、未だ謎と言います。
結局、絵を描いた、つまり壁画がもっとも有意義な使われ方と推定されるとのことなのです。
そのため、暗闇を照らすランプが作られ、遺跡内に見つかっています。その制作の場面もビデオで再現されていました。ランプに満たされていたのは、獣脂と見られています。 大昔、それを灯し、補いながら、壁画の作成に取り組んでいたとは、ある種の感激を覚えます。才能、情熱と根気が欠かせず、神々しさを感じさせますね。
また、色や輪郭には、種々の顔料が用いられていたと見られています。
6 なぜトナカイの壁画が無いか?
ラスコーの洞窟にはにクロマニヨン人の周りに居たと思われる、牛、馬、山羊、羊、野牛など様々な動物が描かれています。その数は五百点とも・・・。
でも、不思議なことに、飼い慣らして、肉を食していたと思われるトナカイの絵が在りませんでした。なぜか、そこに居た説明員に聴いても、良く分らないのですとの事でした。ただ、トナカイの小振りの彫刻は見つかっている様ですね。もっとも、鹿が四頭、泳いでいる姿は壁面に描かれていましたが、鹿はトナカイと違いますし、しかも鹿は、人の身近に居るのに、ついぞ家畜化しなかったことでも知られています。
7 ヨーロッパでの人類の進化と存亡
展示では、アフリカで進化・発祥したクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が約五万年前に、大移動を開始し、世界各地に拡散した行ったと図示・解説してありました。そして、そのうち、中東から、トルコにかけて北行し、ヨーロッパに定着していったのが、クロマニヨン人とされています。こうした推測は定説化しつつあるようです。
でも、其の地にはネアンデルタール人と言う、背はやや低いが、体格のがっしりした人々が既にいました。ただ、この展示では、ネアンデルタール人のルーツについては、後述するように、ハイデルベルク人から、同じヨーロッパで進化したものと見られている様です。
ネアンデルタール人は、約三十万年前から四万年前にかけて、ヨーロッパから中東に掛けて、生存していた様です。 ホモ・サピエンスの移動・拡散に伴い、両者間の交流、交雑も起きた模様です。現に、同じ岩陰に先ずネアンデルタール人が棲み、次いでホモ・サピエンスが入れ替わったと思われる例も実示されていました。二つの種の間では、激しい闘争、殺戮の例がほとんど確認されていないようで、むしろ現に交雑の例が知られているのです。
遺跡に残る道具類からすると、進取の精神に富むホモ・サピエンスは針を骨から作り、糸を通し、皮革などの衣類を着ていたようです。斯くてその防寒の機能は保たれやすく、氷河期を乗り切ったと思われます。他方、ネアンデルタール人は、そうした工夫発明をしていません。また、肉親の死を弔うところは在ったと見られるものの、言葉などによる遣り取りもあまり発達していなかった様です。而して、両者の環境への適応には次第に差が付いて、ネアンデルタール人は人口を減らして行き、約四万年前には、完全に死滅するに至った様です。ただ、交雑による併存は、ウェイトが下がっていったものの、生じた事は確実の由です。交雑率は始め4%辺り、数千年後の末期には2%前後に落ちていると言います。斯くて、交流や交雑があり、その効果が僅かに残るものの、洞窟に壁画を協同で作成するようなことは在りませんでした。
ホモ・サピエンスが壁画を描くようになった頃には、ネアンデルタール人は既に絶滅していたからです。
8 三種の人類の比較
この展示では、類人猿から分かれたと見られる諸人類の中で、唯一残ったとされるホモ・サピエンスを含め、三種の人類が展示ないし表示されていました。
新しい順に言えば、現存するホモ・サピエンス、約四万年前に死滅したネアンデルタール人、約六十万年前から三十万前に掛けて生存したと見られるハイデルベルク人です。最後のハイデルベルク人は、旧ネアンデルタール人とも呼ばれ、矢張り、ヨーロッパに生きていましたが、同地でネアンデルタール人へと進化を遂げたとされる種です。
三者を想像図や、化石となった遺骨で比較しますと、いずれも直立二足歩行していて、違うようなのに矢張り似ては居ますが、私は額の形状に大きな違いが見られるように思います。ホモ・サピエンスは、額が真っ直ぐで、目の上の骨の膨らみがありません。
これに対し、後二者はこれが結構出ています。これは「眼窩上隆起」と呼ばれる由、とりわけ、ハイデルベルク人ではそれが目立ちます。すばり言うと、額が真上に切り上がっていると、その頭蓋内に前頭葉と言われる大脳新皮質が収容され、人間的な精神作用や知的機能などが可能になるとの事なのです。それが無い、ホモ・サピエンス以外の二種は、その分、脳や心が未発達で在ったと推定されるようなのです。
よって、これら二種は、旧石器まで作り、火の使用に至りましたが、結局絵は描かず、壁画を残さず、新石器の創作には達しませんでした。
9 海洋に伸びたホモ・サピエンス
クロマニヨン人は洞窟壁画を残しましたが、どういうものか、広くヨーロッパでとならず、なぜか、大陸内でもフランスとスペインなどに限られました。近傍のドイツや英国には無いのです。これは、一つ大きな謎の由、今後の調査・研究が期待されるところです。
もう一つの大きな特徴は、アジアや南東方向に移動進展したホモサピエンスの中に海洋に進出したものが多く出てきたことです。様々なルートで、日本列島に移住してきた人々もその中に入ります。縄文時代といわれる頃、神津島に出かけて、黒曜石を手に入れ、それらを各地との交流・交易に役立てている事さえ在るようです。
こうした海洋展開は、クロマニヨンの世界にはなかったもので、東進したホモ・サピエンスの成果なのかもしれません。
そして、その子孫と見られる人々から、縄文ビーナスなどを生み出す文化が生まれたとすれば、この世界的視野のある展示は大いなる意義を持つ感じが致します。
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