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榎本武揚と国利民福 最終編二章-2-(3) 海軍卿-明治14年、海軍との決別

2022.07.17 Sun

図1.第一水雷船(明治20年頃)

 

・最終編二章-2-(3) 海軍卿-明治14年、海軍との決別

 

・榎本海軍卿時代の新聞記事

 

【風帆船会社】明治13年10月27日、東京日日

 

 明治7年の台湾出兵は、軍事行動に多大な協力をした岩崎(三菱会社)と大久保、大隈とを強く結びつけ、企業が政府の軍事行動を支援するようになりました。

『この遠征(台湾出兵)を機として、政府は三菱会社に無類の保護をあたえ、東亜の海運を三菱の一手ににぎらせたが、それも外地侵略のために必要な輸送船団をつくっておくためであって、貿易上の必要ではなかった。』
(引用元: 井上清『新版 日本の軍国主義 Ⅰ』現代評論社、1975)

 大久保や大隈ら政府の岩崎(三菱会社)への特別扱いが、大久保暗殺後に、岩崎弥太郎の三菱と渋沢栄一の三井及び各地の海運業の共同体が、苛烈な国内海運市場争奪戦である『風帆船事件』(後述)を引き起こしました。

 

 岩崎の海運業(三菱会社)に対抗した、渋沢の風帆船会社*が小網町三丁目26番地(現在の中央区日本橋)で開業し、前日の26日に開店式が行われたという。11月18日の記事では横須賀造船所所長、遠藤秀行中佐が社長になり、海軍は非役になりました。情報屋台『ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(後編)』で紹介しましたが、榎本海軍卿は、明治14年2月2日に風帆船会社からの希望により、第一、二回漕丸の貸出を起案に若干値上して承認しました。

*記事本文での「風帆船」の風帆には「ほまえ」とルビが振られている。

 

 『ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線』で紹介した山口県の山本修身が作成した蔚陵島へ渡った県民からの調書(明治16年作成)には、大倉喜八郎が一万円出資して最後に損したと書かれていました。大倉喜八郎は風帆船会社の発起人*の一人で、一万円を出資しました。山本の取調べに答えた県民は、風帆船会社は蔚陵島で盗伐をするために設立された会社だと誤解して、大倉の風帆船への出資金額である一万円のことを山本に語ったのかもしれません。風帆船会社は盗伐目的の会社でなかったことは、冒頭に書いた通りです。その後「風帆船会社」は明治15年8月12日に「共同運輸会社」との合併を株主総会で決めました。(東京日日新聞、明治15年8月13日)

*第8巻(DK080001k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

 

 

【水雷火船の試運転好成績】明治13年12月15日、東京日日

 

 

 従来の海戦は、軍艦双方で砲撃をしあった後、横付け(接弦)切り込みで勝敗を決し、敵艦を捕獲(鹵獲)し、自軍の戦力に加える戦術でした。しかし、18世紀終わりごろから「敵艦捕獲」に加え「敵艦撃沈」(当初は敵艦の船底を破壊する)が注目されるようになり、1800年以降、産業革命の成果を応用した軍事技術の変革が生じ、敵艦の破壊が工夫され始めました。19世紀中ごろには英国から衝突攻撃ができる衝角*(しょうかく)を有する軍艦が誕生しました。水面下での攻撃で敵艦を撃沈する研究開発、特に魚雷や潜水艦の研究が盛んになりました。

*敵艦に衝突して艦側に穴をあけるため、艦首の喫水線下に設けた突出部。日本の軍艦では明治末年に廃止された。〔現代語大辞典(1932)〕―コトバンクから引用

 

 ロシア海軍はクリミア戦争当時から機雷の敷設作戦に熱心でしたが、さらに機雷のアクティブな活用として外装水雷の開発に努めました。南北戦争(1861-65)で用いられた外装水雷*¹の威力に注目したロシア海軍は、外装水雷の改良と戦術の研究を積極的に推し進め、外装水雷実験委員会委員長のプチャーチン大将*²は、「水雷を備える艦隊は、将来の戦争で重要な役割を果たすであろう。よって、水雷を主兵装とする艦艇を、至急開発しなければならない」と強調しました。

外装水雷、spar torpedo。『小さな艇の前方に電柱ぐらいの棒を突出し、その先に爆薬を取り付けたもの』(堀元美『駆逐艦』)を敵艦の船腹に接触させまたは突き刺し、リモートで爆破させる兵器。外装水雷を操作する側にも危険が及ぶ恐れがあった。

引用元:https://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2018/01/css_david_10.jpg

図2.外装水雷の例

 

アンドレイ V. ポルトフ『ソ連/ロシア駆逐艦建造史(新連載・第1回)』世界の艦船(755)、2012.2を参照。前任者は、クリミア戦争で活躍した、グレゴリー・ブタコフ少将。

 

 1868年に自走魚雷の技術を完成させたホワイトヘッド*は、ロシア政府からコストパフォーマンスが悪いとして購入を一旦は断られたものの、1873(明治6)年に再度、魚雷と設計図の購入の提案をしました。列強国がホワイトヘッドの魚雷の購入を開始したことを知ったロシア海軍は、ホワイトヘッドとの交渉を開始し、1876(明治9)年に魚雷を購入しました。1874(明治7)年に、榎本がサンクトペテルブルクに赴任していたので、榎本はホワイトヘッドとロシア海軍との交渉経過を探っていたと考えられます。

*Robert Whitehead、1823-1905、英国のランカシャー生。エンジニア。ミラノで工場を持った後、ヒューメ(現在のクロアチアの都市、リエカ)で鉄工場の支配人になり、魚雷の研究に着手し、深度調節機構を発明し、近代的魚雷を完成させた。(コトバンクを参照)

 

 榎本は、サンクトペテルブルクに赴任した後、プチャーチンやポシェットらと懇意にしていたので、プチャーチンからは、今後、自走魚雷や水雷艇を戦術に組み込んだ海戦が重要になるという説明を聞かされていたと考えるべきですし、本人自身も幅広く世界の様々な情報を収集していたので、自走魚雷に高い関心と強い興味をもっていました。明治10年4月24日の露土戦争開戦以降、サンクトペテルブルクの沖合、約30㎞に位置するコトリン島にあるクロンシュタット(バルチック艦隊の軍港)での魚雷の実験に、コンスタンチン海軍卿から二、三度、招待されました。ペテルブルクから家族宛ての手紙でそのことを伝え、実戦での成果を外務省に報告しています。

 

・明治10(1877)年6月30日妻宛て

『両三日内に「コロンスタツト」へ行き「トルコ」の甲鉄船を砕たる水雷其外を一見する積、海軍卿より手前之為蒸気船を出して・・・』

 

図3. ロシア海軍の小型水雷艇

 図3は、榎本がコロンスタツト(クロンシタット)で目にした水雷艇だと考えられる。ロシア海軍は1877-78年に英国ヤーロー社の設計図を利用して小型水雷艇を100隻、建造した。 (写真出典、世界の艦船(755)、2012.2)

 

 

・榎本は外務省へロシアのマカロフ艦長による魚雷攻撃に関する調査と分析を報告しました。明治10年9月10日付けで、寺島外務卿から横須賀造船所長、中牟田倉之助海軍少将宛に榎本の報告書の抜粋*が、送付されました。この時はスパー水雷(外装水雷)が用いられました。冒頭部分を紹介します。

 

『・・・在露榎本公使ヨリ第四号報告書抜萃 「タニユーフ」[ドナウ川]河ロニ泊スル土ノ甲鉄艦ヲ破ランカ為メ魯船二艘ハ再タビ「ヲテツサ」[現在のオデーサ]ヲ出テ本月九日ノ夜ニ乗メ[シの誤記と考えられる]水雷船六艘ヲ卸シ[降ろし]敵船ニ近ツキ水雷ヲ発セシメ・・・』

*「外入570 露土戦況報告中水雷の件 外務省通知」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09112610200、公文類纂 明治10年 後編 巻22 本省公文 器械部3止(防衛省防衛研究所)

 

堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』では、榎本が寺島外務卿に報告した、このロシア海軍の水雷艇による夜戦を、『ドナウ河の水雷戦は、たとえ全般の戦局を左右するほどのものではなかったにせよ、水雷攻撃の価値を証明するには足りたのである。』と評価しました。堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、昭和44年。

 

 

・明治10(1877)年10月23日姉宛て

『四五日前手前事「コロンスタット」港へ罷越[まかりこし]水雷並に其他の試験を見物いたし候。』

 

・明治10(1877)年11月7日妻宛て

『「ロシヤ」にて用ゆる水雷火*の雛形を内々に手に入れ申候。是は大悦びなれど人には吹聴すべきにあらず。帰国之上は海軍省にて作り試んと存居候[ぞんじおりそうろう]。』

*ホワイトヘッドの自走式魚雷と考えられる。

 

 1878(明治11)年1月14日深夜、ロシア海軍のマカロフ艦長*¹は、水雷艇を搭載した攻撃用母艦「コンスタンチン大公」から2隻の艦載水雷艇を海面に降しました。水雷艇はバトゥミ*²港外で警戒中のトルコ砲艦へ接近し、ホワイトヘッド式魚雷、2本を発射し、うち一本は80mの距離から発射され、命中すると、砲艦は5分で沈没しました。世界最初の自走式魚雷攻撃の成功と言われています。

 

ステパン・オーシポヴイチ・マカロフ、Степан Осипович Макаров、1848-1904、ウクライナのヘルソン県生。軍略家として著名。『海軍戦術論』。水雷艇を攻撃用母艦に艦載し、敵艦の射撃距離圏外で水雷艇を降ろし、敵艦を夜襲させることを考案し、史上初めて実戦で自走魚雷攻撃を成功させた。マカロフ艦長(大尉)は、後にロシア太平洋艦隊長官に就任したが、日本の連合艦隊が旅順港を封鎖するために敷設した機雷に坐乗(司令官が軍艦や飛行機に乗り込んで指揮をとる)していた旗艦が触雷し、戦死した。ステパン・オシポヴィッチ・マカロフ |Encyclopedia.com

Batumi、黒海に面した現在のジョージアの最大港湾都市。

 

 露土戦争の経過と列強各国の水雷戦への取り組みから、魚雷と水雷艇は海戦に必須であることが明らかになり、日本海軍は、明治12年9月に横須賀に水雷術練習所*を設置しました。この練習所では、魚雷に限らず水雷全般に関する技術を兵に指導しました。

*横須賀市「海軍水雷学校跡碑」海軍水雷学校跡碑|横須賀市 (city.yokosuka.kanagawa.jp)

 

 

 以下は、明治13年12月15日の東京日日新聞の記事です。

『横須賀にて新型の水雷火船は、一昨日午後一時に造船所の湾内を発して猿島沖を乗り廻し、それより横浜へ来り、[榎本]海軍卿の上陸ののち午後四時頃再び横須賀へ帰港しけるが、機械汽罐 [汽罐とはボイラー]の工合も至ごく宜しく、速力も実におどろくべきほどなりと云う。』

 

 明治13年(明治12年度内)に日本海軍は英国の駆逐艦建造会社、ヤ―ロー社(ヤーロウ社、Yarrow Shipbuilders Limited, YSL)へ水雷艇の組立用部品を四隻分発注し、横須賀造船所で組み立てました。その第一号が完成し、「第一水雷船」と命名されました。「第一水雷船」が契約上の仕様を満足しているか、明治13年12月13日*¹に、榎本海軍卿立会のもと、仮運転による試験*²をしました。その様子を伝える記事です。

 新聞発表では速力について景気のいいことが書かれていましたが、仕様書の17ノットに対し、実測では14.38ノットでした。自走式魚雷全盛時代に入ったにもかかわらず、当初、第一水雷船にはスパー魚雷(外装魚雷)が舳先に取り付けられました。明治15年になってドイツのシュワルツコフ社に50本の自走式魚雷を発注し、明治18年に水雷船の上甲板に魚雷発射管が装備されました。

 榎本は、元々徳川海軍の軍人で、しかもサンクトペテルブルクに向けて出発前に明治新政府から海軍中将を拝命していました。特命全権公使でしたが、軍人でもあったので、国家安全保障の軍事面においても貢献しようと、戦場で実際に用いられた武器に関する最新情報の収集に努め、本国に伝達しました。榎本が、史上初の自走式魚雷による攻撃に成功した現場近くにいたことが、海戦で重要な役割をもつ自走式魚雷と水雷艇艦隊(後の駆逐艦隊*³)の必要性を早々と実感し、整備の推進に努めさせました。

*¹「往入3231 造船所申出 水雷船試運転に付海軍卿点検相成度」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114600400、公文類纂 明治13年 後編 巻10 本省公文 艦船部2(防衛省防衛研究所)

「外出605 造船所達 水雷船試験」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114600600、公文類纂 明治13年 後編 巻10 本省公文 艦船部2(防衛省防衛研究所)

「外入716 造船所伺 水雷船試験」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114600500、公文類纂 明治13年 後編 巻10 本省公文 艦船部2(防衛省防衛研究所)

太平洋上における日米の艦隊同士の海戦で日本海軍の最後の勝利は、昭和17年(1942)11月30日のガダルカナル島ルンガ岬沖で行われた、「ルンガ沖夜戦」だった。日本海軍は駆逐艦隊、待ち伏せした米海軍は、レーダー搭載の巡洋艦を旗艦とする巡洋艦隊と駆逐艦隊。 (半藤一利『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』)

 

 

引用及び参考文献

堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、昭和44年。

アンドレイ V. ポルトフ『ソ連/ロシア駆逐艦建造史(新連載・第1回)』世界の艦船(755)、2012.2。

福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。

 

 

・海軍薩摩閥の野心

 

 何のために海軍の薩摩閥は結束していたのか、何故、長州閥や大隈が海軍卿のポストを薩摩に渡したくなかったのか。そこには、地縁血縁関係で結びついた閥だけでなく、明治新政府の対外政策をめぐる争いがありました。

 

【対清開戦論】

 

 明治6年1月10日に徴兵令が施行され、翌明治7年3月、榎本がサンクトペテルブルクへ出発するとすぐ、4月には台湾蕃地事務局が設置され、海陸軍は台湾に向け出撃し、5月に台湾上陸と戦闘が行われました。台湾出兵は清国との戦争を誘発するリスクがありましたが、西郷従道ら軍の指導者たちは強行しました。明治新政府海陸軍の狙いは、清国との戦に勝利し、朝鮮を独立国として承認させ、朝鮮を支配することでした。

 

『1873(明治6)年の「征韓論争」で勝利したかにみえた大久保利通, 大隈重信らの「内治優先」 = 「殖産興業」 路線にとっての最初の障害は,依然として軍部や不平士族の「強兵」=「外征論」であった. 1874(明治7)年5月の台湾出兵について左院小議官の宮島誠一郎*は「一ハ鹿児島激徒ノ怒ヲ弛メ, 一ハ東京軍人人望ヲ収覧」しようとしたものと回顧しているが,この推測はかなり的を射たものであった.台湾出兵の断行の後で陸軍卿に就任した長州の山県有朋は,台湾問題が対清開戦に発展するのを極力回避しようとしていたが, 薩摩の野津鎮雄, 種田政明の両少将は,・・・日清開戦論を主張していた. 陸軍とくらべて薩摩出身者が要職の多くを占める海軍にあっては, 対清開戦論は一層強かった. 海軍大輔川村純義は、征韓論争に敗れて鹿児島に帰臥していた西郷隆盛を「両軍統括」の元帥として政府に復職させ,対清国戦争の指揮を取らせることを太政大臣に具申している.「鹿児島激徒」と「東京軍人」とは, 台湾出兵→対清開戦論で強く結びついていたのである. 』

(引用元: 坂野潤治「第Ⅰ部 第1章 「富国論」の政治的考察」『松方財政と殖産興業論』国際連合大学、1983)

*元米沢藩士、1838-1911。漢学に精通していた。

 

 榎本は強兵派ではありません。しかし、本国が台湾出兵をした際、清国との戦争を誘発するリスクが高まると考え、海上のパワーバランスを清国に対し優位にするため、サンクトペテルブルクから英国へ密に出張し、軍艦発注の交渉をしたいと寺島外務卿へ秘密電文を送りました。日清戦争に反対とは言え、状況の変化に対し機敏に新たに最新の軍艦が必要になることを政府内で提言していました。

 海軍幹部で薩摩人の占める割合が高いため、対清開戦論は陸軍よりも強烈でした。海軍での対清開戦論の急先鋒である川村純義海軍卿が追い出され、そこへ、ヨーロッパで直接、安全保障を学んだ榎本が海軍卿として異動してきたため、海軍内の薩摩閥は榎本に猛反発をすることになりました。薩摩閥は、海軍も陸軍と組織上、並列な位置に海軍参謀本部を新設し、戦争を遂行しようとしましたが、この件について、前述のように榎本は、海軍参謀本部新設に反対で、世界最強の英国海軍にならった組織へ海軍省を改造しようとしました。

 さらに、榎本は勝海舟と同様に、日清朝の連携を図り、欧米列強からの侵略に対抗する、さらにはアジア諸国の連帯を模索していたので、対清開戦論へは反対の立場でした。海軍内に榎本に賛同する者もいたとはいえ、海軍の要職を占める薩摩閥に暴れられ、騒ぎ立てられ、さらに、薩摩人の参議が仕事をボイコットする事態に、伊藤、井上、大隈らは何ともしがたい事態でした。

 次に紹介する、海軍の薩摩閥が言う「榎本の失策」の中身は、サラリーマンなら分かる、議論で負けた時の議論と無関係のいいがかり、批判というものです。榎本の助命嘆願をしたのは、西郷はじめ薩摩閥なのに、榎本海軍卿は海軍の薩摩閥の意向に従わないのはけしからん、自分たちの野心、欲求の実現が遠のいてしまった、と海軍の薩摩出身者たちは怒り狂ったのでしょう。榎本には薩摩閥への従属意識が無かったことが分かります。一方、箱館戦争降伏後、榎本の首をはねろと主張していた長州閥とは政策的に近い部分があり良好な関係になっていました。

 

参考: 武藤三代平『明治政府における榎本武揚の位置づけ:明治十年代の井上馨との関係から』北海道大学(HUSCAP)、2016 
Doc URL  http://hdl.handle.net/2115/63906 

 

 

【榎本の失策の実態】

 

 佐佐木高行『保古飛呂比:佐佐木高行日記 十』(東京大学出版会)に薩摩閥が騒いだ「榎本の失策」がまとめられ、最後に榎本評を網羅しています。この失策に関し、前出の武藤論文で、さらに調査した結果を提示しています。武藤論文から、海軍の薩摩閥が主張した榎本の失策といわれるものを三点紹介します。

1.榎本海軍卿が隅田川に海軍の小蒸気艇二隻を回すように命じ、隅田川で外国使臣等を招待し、芸妓(げいぎ)をその席上に侍らせ、接待したとことを知ると、海軍の要職に就く薩摩出身者は、榎本海軍卿を非難しました。

 情報屋台での前論の『ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(前編)』の「ウラジヴォストークで榎本の帰りを待つ人々」で紹介しましたが、横浜港内に碇泊する各国の軍艦内では宴会が開催され、女性も参加して演芸をし、外国の人びとで交流を促進し、親交を深めていました。各国交流のため、軍艦を利用しての宴会は国際慣習でした。政府内で騒げば騒ぐほど呆れられ、海軍薩摩閥は孤立しました。榎本武揚は外交のための社交場として根岸競馬場を利用しており、隅田川に浮かべた海軍の小蒸気艇の甲板も外交のための社交場に利用しました。

 『根岸競馬場は日本で最初(慶応3年(1867)12月)に作られた本格的専用競馬場であり、規模も一周1764mと現在と遜色無い大規模なものであった。コースには芝がひき詰められ、眺望も東京湾から房総半島、根岸湾、三浦半島を見渡せる最高のものであった。この競馬場は地形の関係上、右回りでコースが設けられた。その結果、根岸を範にした多くの日本の競馬場は右回りとなり、世界の競馬場の殆どが左回りなのと大きな違いを生むこととなった。
 根岸競馬場は当初、イギリス人によるヨコハマレースクラブによって開催が行なわれていたが、・・・ 新たに日本人を大量に役員に含むニッポンレースクラブが結成される事となる。・・・ 根岸の競馬場は三田や戸山、上野同様に各国公使や貴顕紳士の社交場ともなった。このクラブは内外ともに錚々[そうそう]たるメンバーが揃い、単なる競馬クラブではなく明確な国家意思を感じさせるものであった。・・・ 今の天皇賞の遠い遠い先祖とも言えるレースも行なわれている。』

 この錚々たるメンバーとは、『日本側が大隈重信、伊藤博文、西郷従道、川村純義、井上馨、松方正義、榎本武揚、大山巌、外国側がストルーヴェ(ロシア公使)、バルボラーニ(イタリア公使)、アイゼンデッヒャー (プロシヤ公使)、グルート(ベルギー公使)、バロワ (フランス公使館書記代理公使)、ケネディ (英国公使館書記代理公使)、カステイロ(スペイン代理公使)という錚々たるメンバー』でした。黒田清隆もよく訪れたようです。榎本は駐清公使時代にも競馬場へよくでかけました。外交官同士の重要な交流の場でした。(鈴木健夫「日本レ-ス・クラブ五十年小史」日本中央競馬会、1970)

2. その後、京橋三十間堀の旗亭(きてい)に市井博徒(しせいばくと)と相会し酒宴を張ったので、海軍薩摩閥の榎本海軍卿非難排斥運動の声はさらに高くなりました。

 博徒は金銭が流通する場所、交通の要所(街道や河川)に集まりました。また、貧富の差の激しい地域では、民衆は投機的になり賭博をする傾向がありました。関八州での博徒の顧客は農民だったので、博徒は農民に密着し、農村の疲弊により土着の博徒の生活が苦しくなりました。

 明治9年に公布された廃刀令により士族の武装解除が行われました。榎本が海軍卿であった明治13、14年時点で、日本に残された武装組織は博徒でした。明治13年1月に刑法と治罪法(刑事訴訟法)が施行されましたが、治罪法では夜間の家宅捜索が禁止されており、しかも賭博は夜間行われたので、実質的に賭博を取り締まることができずにいました。『専制政府の横暴に目ざめた民権博徒の自由党[不平士族200万人を背景にしている]への流入の必然性が生じ、没落士族・農民・博徒を一丸とした連累が成立するのである。』*

 明治新政府は博徒の暴動を恐れました。明治新政府は、明治17年1月に、賭博行為に対し非常に厳しい「賭博犯処分規則」を太政官布告し、全国的な博徒狩りを開始しました。

・明治政府が恐れたように、各地の暴動に博徒が参加していました。(名古屋事件など多数)

・明治15、6年には、例えば、栃木県では戸長を公選にして以来、博徒が戸長になって賭博の便宜を図っており、群馬県では親分衆が5000人、博徒が10万人も存在し、埼玉県でも博徒が数万人存在しているという地方巡察使の報告がありました。

 榎本が居酒屋へ博徒を集めて何を語ったのかは分かりません。明治13年に施行した刑法などと博徒との関わりを説明し、こうすれば逮捕されないと教えたのか、それとも今後、実業で生活を支えるように諭し、こんな職業があるなどと講義したのか、単に宴会をしたのか手がかかりはありません。明治新政府と博徒との関係がこのような状況下で、榎本がした行為は、榎本非難の重要な材料になりましたが、好意的に見れば、博徒たちに正業へ転職するように指導していたのであって、政府の方針に沿った協力的な行為だといえます。

 清水次郎長親分は旧幕臣にとって重要な存在ですが、明治17年に施行された「賭博犯処分規則」が過去に遡及する法律だったので逮捕されてしまいました。旧幕臣の静岡県令らの努力で、翌年、刑期満了前に釈放されました。清水次郎長親分の妻が榎本宅を訪れ榎本に依頼し、親分の墓碑を榎本武揚が書きました。

*猪野健治『やくざと日本人-日本的アウトローの系譜』三笠書房、1973

参考文献
1.萩野寛雄「第四章 本邦における近代競馬の受容」『「日本型収益事業」の形成過程 :日本競馬事業史を通じて』早稲田大学リポジトリ (nii.ac.jp)  http://hdl.handle.net/2065/2983

2.梅原北明『近世暴動反逆変乱史』海燕書房、1973

 

 

3. 国内での悪評と欧米諸国からの非常に高い評価

 戊辰戦争中、榎本に徳川の軍艦を官軍側に引き渡せと薩摩の海軍がやってきて交渉が始まると、議論伯仲になり、双方最後は脇差に手をかけるまでになったことがありました。西郷隆盛の榎本の好きにさせろという指示が現場に届き、ことなく終わりました。『薩藩海軍史(下)』では、『榎本は風姿颯爽たる好男子にして、その云う所、皆要領を得、肯綮に中らざるなし*¹。敵ながら、実に榎本は惚れ惚れしたり』*と記録しました。

*¹ こうけいにあたらざるなし。物事の急所をうまくつくの意。(引用元、コトバンク)
*² 公爵島津家編纂所『薩藩海軍史 』薩藩海軍史刊行会、昭4。(明治元年4月17日の記録)

 

 佐佐木高行は榎本の悪評を集めました。その悪評は明治時代になったら榎本の人物が変わってしまったのかと思わされる内容です。藩閥政治の時代、ロシアで成果を上げて帰国した旧徳川幕臣、榎本への嫉妬が生まれていたのでしょう。悪評の中身は従来の封建時代の基準による榎本評でした。しかし、五か条の御誓文では「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くべし」、すなわち国際基準による開明国家を目指すとしましたし、幕末の徳川海軍と明治新政府の海軍は、英国から顧問を呼び、指導を受け、英国をモデルにした海軍を建設していたのです。

 榎本海軍卿は長いオランダ留学で欧米型のリーダーの教育を受けていましたから、海軍卿も封建時代の殿様のようにふんぞり返り、家来にはよきにはからえと言っていればいいなどとは考えません。薩摩閥は、榎本は細かいことまでチェックしてくる、殿様のようにドーンと構えていないから、部門長に相応しくないと、榎本を非難していましたが、欧米人からは榎本は非常に高評価だったと、武藤論文では論じています。いかに薩摩閥がなりふり構わず榎本海軍卿を追い出そうとしたかが分かります。

 数ある悪評の中で勝海舟の「榎本は専門的課題の追求に向いていて長官には不向きだ」という評は、おやっと目を引きます。後の明治30年3月27日朝に勝は新聞記者を自宅へ呼び、足尾鉱毒事件のことで農商務大臣に責任があると、榎本農商務大臣を糾弾し、記事を出させました。すると、3月29日に榎本は農省務大臣を辞職します。榎本が辞職した後、足尾鉱毒事件で政府内に設置された委員会では、激しい議論の応酬が始まりました。勝は足尾鉱毒事件の混乱に榎本が巻き込まれないように早く辞職させるお膳立ての記事を出させたと考えられます。勝の関わった榎本の農省務大臣辞職と海軍卿辞職への対応は似ています。佐佐木高行へ示した勝の榎本評も海軍薩摩閥の横暴から榎本を守るため、早く辞職できるようにとのお膳立てだったとも考えられます。そこで、佐佐木高行(宮廷派)が書き残した文章をそのまま受け入れることはできませんし、さらには、佐佐木高行の水準で榎本を評するのは困難です。

 半藤一利『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』(文春新書、2012)で、権限と責任と組織を論じている箇所で次のように論じています。戦前、日本型リーダーシップが上記のような特徴をもった原点は、西南戦争での陸軍側の体験にあると考察されています。

 

『トップの指揮官が細かく口を出すのは敬遠される気味が大いにありました。とくに部下の参謀がそれを嫌ったんです。そこが日本型リーダーシップの独特なところです。』

 

 榎本が海のリーダーシップの元祖である欧米型を取ると、海軍薩摩閥は大いに榎本を非難するネタが増え、封建時代の思考のままの上層部に榎本追放を訴えました。この日本型とも言えるリーダーシップのスタイルが、昭和になって太平洋戦争を押し開いてしまいました。昭和15年末に4つの委員会からなる「海軍国防政策委員会」が発足しました。永野修身軍令部総長が、第一委員会の石川信吾らにたいし、『「いまの中堅クラスがいちばんよく勉強しているから彼らに任せる」などとリーダーにあるまじき無責任なことを口にして“中堅クラス”・・・を甘やかします。いきおい彼らはやりたい放題。この第一委員会が、太平洋戦争への扉を押し開いていく』のでした。その首謀者らには敗戦(終戦)にたいする反省や責任感はなかったと言われています。(半藤一利『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』)

 

 榎本海軍卿に対し海軍薩摩閥が求めたリーダーシップのスタイルが、昭和の時代に入って日本を重大な危機へ巻きこんでいき、国民を奈落の底に突き落としてしまったのです。

 

 

【山本権兵衛、非職を命じられる】

 

 

 山本権兵衛(1852-1933、薩摩藩士の生まれ)は、西郷隆盛から海軍入りを勧められ、西郷から勝海舟への紹介状を手に勝を訪ね、勝のアドバイスを受け開成所(東京大学の前身)、海軍兵学寮(前身は海軍操練所、後に海軍兵学校に改称)を経て、海軍軍人になりました。勝は、訪ねてきた山本とは容易には面会しなかったことや海軍に入る前に洋学学習の重要性を説いたことはよく知られています。明治9年、山本はドイツ海軍の軍艦に乗船を命じられ、約1年半、初級海軍士官としての必須の知識と技術を学び、明治10年(25歳)少尉に任官しました。

 

 榎本海軍卿時代の明治14年2月に山本は非職になりました。明治13年に提出した海軍の教育に関する意見書が、海軍省内で伊東祐亨中将の反対を受け、話がこじれ、このため兵学校長が抗議のため辞職する事件に発展し、ついには山本の身にも影響が生じ、非職になりました。伊東らが、榎本が海軍の汽艦を外交官らの接待に用いたこと等上げ連ね、榎本海軍卿に対し非難追出し運動をしている最中でした。山本は非職にされた理由について榎本へ質問書を送りましたが、榎本は回答せずに4月7日に海軍を去りました。

 山本は、甲板での訓練中、実戦経験が無い教官に実戦ではそのようなことをしないなどと抗議することもあり、良い意味で海軍を良くしようと熱心でしたが、老練の先輩たちからは不評だったようです。榎本は、そういう事態の鎮静化や山本に少し考える時間を与えようとしたのかもしれません。榎本が、山本が非職中に考えて欲しかったことは、組織全体がぎくしゃくしないように配慮した意見書の提出の仕方、リーダーシップのあり方、シーマンシップに欠けた点は無かったのかなど、いろいろ考えられますが、戦史研究家や歴史研究家は山本が非職を命じられた理由は、現在のところ分かっていないと結論付けています。

 

参考文献

  1. 長南政義『人物研究 山本権兵衛:帝国海軍を育てた男』歴史群像22(4)、2013
  2. 千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』プレジデント社、1986
  3. アメリカ海軍協会(竹田文男・野中郁次郎共訳)『リーダーシップ [アメリカ海軍士官候補生読本]』生産性出版、1981

 

 

・榎本の決断

 

 明治天皇紀―明治14年4月7日の記事

 

『天皇、武揚をして元老院議官・駐仏特命全権公使を兼ねしめたまはんとす、武揚之を拜辞す、又海軍中将を免ぜられることを請いしが聴したまえず、5月7日召して宮内省御用掛と為し、皇居御造営御用掛を仰せ付けらる、・・・』

 

 伊藤と井上の斡旋による山田海軍卿・榎本農商務卿の人事は、明治14年3月19日に閣議決定しましたが、明治天皇に奏上されずにいました。4月7日になって、川村海軍卿の復帰および新設の農商務卿、文部卿の交代の人事が新たに閣議決定され、奏上裁可を受け、榎本は海軍卿を罷免されてしまいました。ならば海軍中将をお返しすると海軍との決別を榎本は訴えましたが、認められず、ついに引きこもってしまいました。

 榎本は、伊藤博文、井上馨の配慮で農商務卿就任が提示されていましたが、榎本海軍卿非難・追放運動と前年12月23日に公布された農商務省創設に伴う農商務卿人事*と文部卿入れ替え人事が同時進行したため、大蔵省から分離される商務局の継続支配を狙う大隈のさらなる人事工作が加わり、さらに宮廷派も参加し、榎本はフランスへ飛ばされることになりました。榎本の人事は、薩長・大隈派・宮廷派らの派閥抗争の中、ついにはじき出されてしまいました。その後の榎本のストライキの成果なのか、宮内省御用掛を拝命し、年棒は二等官から一等官の4千円になりました。

*松方正義卿の内務省勧農局と大隈重信卿の大蔵省商務局との合併により創設される農商務省のポストを巡る抗争。(参照元、安藤哲『大久保利通と民業奨励』御茶の水書房、1999)

 

 10年後の明治24年に大津事件が起きると、事態収拾のため、明治天皇は榎本にぜひ外務大臣になって欲しいと宮廷を通して二度も頼みますが、榎本は二度とも断りました。天皇の使者が来て三度目の要請があり、榎本は三顧の礼ではありませんが、外務大臣を引受けることにしました。榎本は自身の人事が、派閥や天皇のご都合で利用されることに対し、抵抗してみせました。

 榎本は、政府内での派閥抗争、非主流派である自身の人事の決まり方を肌で感じました。安全保障に関し、陸海軍とは決別しました。いよいよ民間で国利民福の増進に取組むことになりました。

以上。

 

 

以下の海軍省報告書の本文全体を参照し、関連個所を引用しました。
「記録材料・海軍省報告書」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091700、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)

「記録材料・海軍省報告書」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091900、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)

「記録材料・海軍省報告書」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062092300、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)

 

・アイキャッチ画像、「第一水雷船」の写真の引用元

堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、昭和44年。1887年頃撮影と考えられる。

 

 

 


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