連載⑥ 安倍晋三氏のルーツは朝廷と戦った東北の豪族
安倍晋三首相(当時)の昭恵夫人が知人の招きで山形県の長井市を訪れたのは、2017年の夏だった。長井市内で開かれたイベントに参加した後、昭恵さんは最上川の支流・野川の奥にある三淵(みふち)渓谷まで足を延ばした。
高さ50メートルほどの断崖が続く渓谷にはかつて三淵神社があったが、その場所は長井ダムの完成によって水没し、神社はさらに奥の山腹に移された。昭恵さんは地元の人たちが用意してくれたボートに乗って渓谷へと進み、神社の方角に向かって手を合わせたという。
「この時期はよくコシジロ(アブの一種)が出ます。お付きの人たちはキャーキャー騒いであちこち刺されていましたが、昭恵さんは泰然としていました」。一行を案内したNPO最上川リバーツーリズムネットワークの佐藤五郎・代表理事は振り返る。
ボートの手配まで依頼して昭恵さんがこの地を訪れ、手を合わせたのはなぜなのか。それは、この渓谷にまつわる不思議な物語を知ったからである。
◇ ◇
物語は1000年ほど昔にさかのぼる。舞台は古代の東北である。陸奥(むつ)と出羽で暮らしていた蝦夷(えみし)は畿内の朝廷勢力との「38年戦争」に敗れ、いったんはその支配下に組み込まれたが、11世紀の半ばには再び勢力を盛り返していた。
この時期、「奥六郡」と呼ばれた岩手県の中部から南部にかけての地域を実質的に支配していたのは安倍一族だった(図参照)。
奥六郡は砂金と馬の産地であり、アザラシの毛皮や鷲の羽、絹の供給地でもあった。それらの品々は朝廷への貢租として納められ、都の人たちに珍重されてきたが、安倍一族は貢納をやめ、その支配を衣川の南へ広げようとした。
朝廷にとっては許しがたいことである。永承6年(1051年)、「前九年の役」と呼ばれる戦争が始まる。陸奥守、藤原登任(なりとう)は出羽の軍勢も動員して、鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で安倍一族との合戦に臨んだ。
結果は安倍一族の圧勝、朝廷側の惨敗だった。藤原登任は多数の死傷者を出して敗走し、更迭された。
代わって陸奥守に就任したのが、武勇のほまれ高い源頼義である。頼義は「安倍一族追討」の命を帯びて着任したが、その前後に後冷泉天皇は祖母、上東門院(藤原彰子)の病気快癒を願って恩赦を発布した。朝廷軍と戦った安倍一族の棟梁、安倍頼時(よりとき)や息子の貞任(さだとう)らの罪がすべて許されることになったのである。
安倍一族は源頼義を盛大にもてなし、恭順の意を示した。陸奥にしばしの平和が訪れた。だが、それも長くは続かなかった。
天喜4年(1056年)、源頼義の家臣と安倍貞任との間に争いが起きた。阿久利河事件と呼ばれる。頼義の家臣の妹との結婚を貞任が申し入れたのに対し、その家臣が「安倍のような賎しい一族に妹はやれぬ」と断ったことに貞任が怒り、夜討ちをかけたとされる事件で、これをきっかけに再び戦さが始まる。風雪の中、朝廷軍と安倍一族は激突し、またもや貞任率いる安倍一族が圧勝した。
前九年の役を記録した『陸奥話記』は「官軍大いに敗れ、死する者数百人なり」「将軍の従兵、散走し、残るところわずかに六騎」と伝える。源頼義は命からがら逃げ延びた。
戦争の様相が一変するのは、出羽を支配する清原一族が朝廷側に加わってからである。源頼義に懇請され、清原武則(たけのり)は1万の軍勢を率いて参戦した。朝廷・清原連合軍は城柵に立てこもる安倍一族を次々に打ち破り、壊滅に追い込む。安倍貞任は瀕死の状態で捕らえられて息絶え、息子や家臣もことごとく処刑された。
奥六郡を支配した安倍一族とは、どのような人たちだったのか。『陸奥話記』には、父祖安倍忠頼は「東夷の酋長なり」とある。「俘囚安倍貞任」と記す史書もある。
素直に読めば、古代東北の蝦夷で朝廷に服属した一族となる。だが、岩手大学の高橋崇教授は著書『蝦夷の末裔』に「地方官として陸奥に赴任し、土着化した勢力」や「移民としてやってきて豪族になった一族」である可能性も否定できない、と記した。
都で暮らす人々にとって陸奥や出羽は「地の果て」であり、住民そのものを「蝦夷」や「俘囚」と称して蔑(さげす)む風潮があったからである。史書をいくら読み込んでも一族の出自を明らかにすることはできない、という。
朝廷に立ち向かうほどの力を誇った安倍一族は滅びた。ただ、ごく少数ながら生き延びた者もいた。貞任の弟の宗任(むねとう)は投降して許され、源頼義が陸奥守から四国の伊予守に転じると、伊予(愛媛県)に配流された。宗任はその後、さらに太宰府管内に流されて没した。この宗任こそ、安倍家の先祖である。
安倍晋三氏の父、晋太郎氏(元外相)は、盛岡タイムス社が発行した『安倍一族』(1989年発行)に「我が祖は『宗任』」と題して、次のような文章を寄せた。
「筑前大島(福岡県宗像郡大島村)に没した安倍宗任の後裔である松浦水軍が、壇ノ浦の合戦に平家方として参戦、敗れ散じたわが父祖が長門の国、先大津後畑(さきおおつうしろばた)の日本海に面した部落に潜み、再度転居の後、現在の地(山口県大津郡油谷<ゆや>町蔵小田)に住むことになったのは明治に入る前後のこと」
「先頃、宗任配流の地大島の住居跡に建立された安生院において、御縁の皆さんによって八百八十年の追善供養が行われましたが、八百八十年という歳月は気の遠くなるような長さにも思われますが、宇宙の大きいサイクルからみれば、ほんのしばらくの時間なのかもしれない」
「奥州文化の代表である金色堂も、毛越寺も、敗れた一族の華として今を息づいていることを思うとき、宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進をつづけられたらと、願うことしきりです」
苦難の道を歩んだ宗任や父祖への慈愛に満ちた文章である。安倍家の系図を晋三、晋太郎、寛(かん)とたどっていくと、高祖父は英任と名付けられていることが分かる(系図参照)。宗任の「任」の名を引き継いだのは、それを誇りとしていたからだろう。
さて、昭恵夫人の三淵渓谷訪問である。長井市には、前九年の役について次のような物語が伝わっている。
安倍貞任の息女に「卯(う)の花姫」という美しい姫がいた。宗任の姪にあたる。源頼義が陸奥守として着任し、安倍一族が盛大にもてなした際、姫は頼義の長男、義家と相思相愛の仲になった。義家からは「北の方(正妻)として都にお迎えする」との文も届いたものの、戦さによってその仲は引き裂かれた。
安倍一族が敗れた後、姫と一行は出羽に逃れ、朝日連峰の山道を通って長井の庄にたどり着いた。野川の奥にある山に館を構え、僧兵の助力も得て源氏の追手と何度か戦ったものの力尽き、三淵渓谷の断崖から身を投げて自害した。付き従った女性たちも渓谷に身を投じ、兵もみな討ち死にした—―。
戦記の『陸奥話記』にも『今昔物語集』にも、卯の花姫のことは出てこない。だが、三淵渓谷の奥には、この物語の通り「安部ケ館(あべがたて)山」という山があり、国土地理院の地図にも記されている(注:山の名は「安倍」ではなく「安部」)。
長井市を訪問するにあたって、昭恵さんはこうした物語があることを知り、三淵渓谷を訪ねることにしたのだという。手紙で問い合わせると、「私は全てはご縁と思っており、私がやるべきことは神様が与えて下さると信じて流されるままに生きております」と返事があった。
卯の花姫の物語は人々の口から口へと伝えられたものと見られ、江戸時代の医師で文人の長沼牛翁(ぎゅうおう)(1761~1834年)が見聞録『牛涎(うしのよだれ)』に書き留めている。
牛翁は長井の呉服商の長男だったが、家業を弟に譲り、全国を漫遊した人物である。江戸で医術を学ぶなど、その旅は帰郷まで足かけ29年に及んだ。見聞録『牛涎』は全60巻の大著で4巻が欠落、56巻が地元に残る。卯の花姫の物語は第15巻に収録されている。
物語はしばしば、伝説と渾然一体となる。
最期を悟った卯の花姫は「龍神となってこの地の人々を守らん」と言い残して断崖に身を投じたとされ、人々は三淵渓谷に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)った。そして、姫は毎年、龍神となって野川を下り、化粧直しをしたうえで長井の庄の神社に入るのだという。
長井市では5月の下旬、各神社から龍神を思わせる「黒獅子」が出て市街地を練り歩く。コロナ禍で中止や規模の縮小を余儀なくされてきたが、今年は3年ぶりに黒獅子舞が披露され、街は沸き立った。
龍神の話はともかく、卯の花姫が長井の庄にたどり着き、三淵渓谷で自害したという話は、単なる伝説とは思えないところがある。姫は侍女の一人に「生き延びてわが亡き後の菩提を弔うておくれ」と申しつけ、侍女はそれを守り、その末裔が連綿と姫の霊を祀ってきた、という伝承もある。
実際、渓谷の入り口にあたる長井市平山には代々、青木半三郎を名乗り、「八朔(はっさく)の祀り」を営んできた家族がいる。八朔は旧暦の8月1日のことで、卯の花姫が自害した日とされる(今年は8月27日)。
現在の当主、青木芳弘さん(62)によれば、一家は大昔には山奥の「桂谷(かつらや)」という集落で暮らし、150年ほど前までは今より奥の川岸に2軒だけで住んでいた。八朔の日には羽織、袴姿で「木流しの職人」たちが20人ほど集まり、川岸で円陣を組んで龍神を出迎えていたという。
青木家と渋谷家が毎年交代で酒宴の席を設けてもてなし、遠来の客には泊まってもらう習わしだったが、それも先々代で途絶え、渋谷家も離れていった。その後は青木家の敷地内に建てた小さな祠に家族だけでお供えをし、手を合わせているという。
青木家には「ご神体」とされる品々が伝わる。金属製の古い鏡とベッコウの櫛、笄(こうがい)である。その由来も意味も今となっては判然としないが、いずれも伐採した木を川に流すことを生業とする職人たちとは無縁の品々だ。「卯の花姫の形見」と考える方が合点がいく。
青木家のことは昭恵さんには初耳だったようだが、安倍宗任については、手紙への返事で次のように記している。
「安倍宗任の話は安倍家に嫁に来た30年以上前から聞いてはいましたが、主人が2度目の総理になってからとても近く感じるようになり、宗像市大島にある安倍宗任のお墓に私は何度もお参りすることになります」
「一度はこの日しか行かれないということで、たまたま行った日が宗任の亡くなった日であったこともあり、1000年の時を経てご先祖様は何を主人に伝えたいのだろうかと思ったりしていました」
現職首相の妻でありながら反原発、大麻解禁を唱え、「家庭内野党」と称した人は、長い歴史の流れに身をゆだねて生きる人でもあった。
古代の東北で源氏が率いる朝廷の軍勢と戦い、一敗地にまみれた一族の末裔が生き延びて力を蓄え、安倍寛、安倍晋太郎、安倍晋三という3人の政治家を世に送り出し、ついには憲政史上最長の政権を担うに至った。
歴史のダイナミズム、人と人との巡り会いの不思議さを感じさせる物語である。
(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年5月27日
https://news-hunter.org/?p=12499
【訂正】「鬼切部(現在の宮城県鳴子町鬼首)」とあるのは「鬼切部(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。
≪図、写真の説明&Source≫
◎写真 三淵渓谷(山形県長井市)=最上川リバーツーリズムネットワーク提供
◎図 安倍一族が支配していた「奥六郡」
https://blog.goo.ne.jp/replankeigo/e/4eae025b68ed99721937fbfa310a36c9
◎安倍一族の系図(ウィキペディア「安倍晋三」の系図から)
◎写真 青木芳弘さんと青木家に伝わるご神体(筆者撮影)
≪参考文献≫
◎『蝦夷(えみし)の末裔』(高橋崇、中公新書)
◎『陸奥話記』(梶原正昭校注、現代思潮社)
◎『陸奥話記 校本とその研究』(笠栄治、桜楓社)
◎『今昔物語集 四 新 日本古典文学大系36』(小峯和明校注、岩波書店)
◎『安倍一族』(盛岡タイムス社)
◎『気骨 安倍晋三のDNA』(野上忠興、講談社)
◎『絶頂の一族』(松田賢弥、講談社)
◎『牛涎』(長沼牛翁、文教の杜ながい所蔵)
◎『長井市史 各論 第2巻』(長井市史編纂委員会、2021年)
◎『長井市史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市史編纂委員会、1984年)
◎『長井市史 第二巻(近世編)』(長井市史編纂委員会、1982年)
◇連載「東北の蝦夷(えみし)と被差別部落」のURL一覧
*いずれも、初出は調査報道サイト「ハンター」
・連載① 東北の蝦夷(えみし)と被差別部落/菊池山哉が紡いだ細い糸(2021年12月21日)
・連載② 続・被差別部落のルーツ/なぜ東北にはないのか(2022年1月28日)
・連載③ 追い詰められ、侮蔑され、東北の蝦夷は蜂起した(2022年2月25日)
・連載④ 東北の蝦夷が歩んだ道は現代と未来につながる(2022年3月29日)
・連載⑤ 蝦夷(えみし)はアイヌか和人か(2022年4月27日)
・連載⑥ 安倍晋三氏のルーツは朝廷と戦った東北の豪族(2022年5月27日)
・連載⑦ 黄金の国ジパング伝説/起点は東北の砂金(2022年6月29日)
・連載⑧ 被差別部落の分布が示すもの(2022年10月31日)
・連載⑨ 皇国史観と唯物史観の結合(2022年11月28日)
・連載⑩ 部落の誤った起源説は「お墨付き」を得て広まった(2023年1月25日)
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