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「信長の手紙」が語る歴史ドラマ

2024.10.11 Fri

 「信長の手紙」という企画展のタイトルに誘われて、東京都文京区目白台にある永青文庫を訪ねました。熊本藩主だった細川家のコレクションを収蔵する博物館です。

 永青文庫が所有する織田信長(1534~82)の書状などの文書は、59通でしたが、2022年に所蔵品のなかから新たに1通の書状が見つかったため、全部で60通になりました。現存する信長の文書は約600通で、これだけまとまった数を保有するのは永青文庫だけとのこと。12月1日まで開かれている今回の企画展には、この新発見の書状も公開されています。

信長の手紙

 静かなたたずまいの美術館に入って、まずは、新たに発見された信長の手紙を見ました。元亀3年(1572年)8月15日に、信長が室町幕府の幕臣だった細川藤孝(1534~1610)に宛てた「織田信長書状」です。(下の写真=永青文庫提供)

 私にはまったく読めないのですが、図録『織田信長 文書の世界 永青文庫珠玉の六〇通』(勉誠社)によると、信長は、八朔(8月1日)の祝儀を藤孝から贈られたことへの感謝を述べたあとで、室町幕府15代将軍、足利義昭(1537~1597)に仕える御家人衆からはだれも音信を寄こさないなかで、藤孝だけが交流を続けてくれることへの喜びを伝えるとともに、藤孝の影響力が及ぶ山城、摂津、河内方面の領主たちを味方に引き入れように依頼する内容とのこと。

 手紙を眺めながら、信長はなかなかの達筆ではないかなどと、したり顔でいたのですが、会場で解説をしていた熊本大学永青文庫研究センター教授の稲葉継陽さん(『図録』の主要執筆者)から、昔の武将は、「右筆」という書記を側において文書を書かせ、最後に花押で本人の書状だと確認したと聞き、どおりでうまいと思った、と納得した次第でした。

 それなら、信長の直筆は現存しないのかと思ったら、ちゃんと近くにありました。天正5年(1588年)10月2日に、藤孝の長男、細川忠興(1563~1646)に信長が書いた「感状」(戦功があった者に主君が与える賞状)です。(下の写真=永青文庫提供)

 この年の8月、信長に「逆心」した足利義昭らに呼応して松永久秀(1508~77)が反旗を翻したときに、15歳だった忠興は久秀追討軍に加わり武功を立てました。それに対する「感状」なのですが、信長の側近がこの書状に添えた添状で、信長自らの筆だと書いているため、信長の真筆だと裏付けられている、と稲葉さんが解説していました。

 この書が達筆なのか、私にはわかりませんが、筆に勢いがあることは何となくわかります。『図録』のなかで、永青文庫評議員で元愛知文教大学学長の増田孝さんは次のように解説しています。

「感状の書はまことに豪放磊落(ごうほうらいらく)、筆線のどの部分にも力が残っており、運筆の速さは、筆者の気性の激しさを物語るようである。これは信長四五歳の基準筆跡とすべきもの。書としてのスケールの大きさ、筆圧の強さ、重量感は、戦国武将の書においてみたとき、この書風は異色である」

 現存する信長の自筆文書と認められているものは、これを含めて3通しかなく、しかも他の2通は、この「基準筆跡」から真筆だと認められているそうです。これだけでも一見の価値ありでした。

 

本能寺の変

 忠興は、信長の斡旋で明智光秀(1516?~82)の娘、玉(ガラシャ)と結婚しています。となると、天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変で、藤孝・忠興の親子は、主君信長の仇を討つのか、幕臣時代からの僚友であり、忠興の岳父である光秀に与するのか、板挟みの状態になったはずです。

 実際に親子が取った行動は、藤孝は落髪、忠興は元結を払い、信長の喪に服しました。出陣したわけではありませんから、中立の立場をとったように見えます。光秀からすれば、身内の細川親子が加担しなかったことに失望したとみられ、その心情が書かれている書状も展示されていました。

 政変から7日後の6月9日に、光秀が細川親子にあてた書状です。本能寺の変のあと、居城の坂本城から信長の安土城を経て京都に入り、吉田神社の神主だった吉田兼見(1535~1610)の屋敷で、加勢しそうな武将に書状を出したなかの1通です。光秀の自筆だそうで、極度の緊張状態だったでしょうが、しっかりとした筆遣いのように思えます。(下の写真=永青文庫提供)

 『図録』によると、「親子が元結を切られたとのことで、いったんは腹を立てたが、よく考えればそうあるべきだと思った」として、親子の行動に理解を示したあとで、出陣して心をともにしてほしいと述べています。また、そうなれば摂津国(大阪府北西部と兵庫県南東部)を与えるし、状況が安定すれば、長男の明智光慶や忠興に政権を渡し自分は身を引く、と書いています。

 弔い合戦に立った羽柴秀吉(豊臣秀吉、1537~98)との対決を前にしての「空手形」ということになりましたが、細川親子はその誘いには乗りませんでした。というのも、その前日までに、細川親子は信長への忠義を守る、という伝言を家老の松井康之(1550~1612)を通じて秀吉に渡していて、秀吉がそれに答えた書状の添状が残っていたからです。添え状は秀吉家臣が松井博之に宛てたもので、これも展示されています。

 秀吉にとっては、細川親子が光秀の誘いに乗らず、丹後から動かなかったことが弔い合戦の勝利につながったと感謝していたようで、7月11日には、「これからは表裏公私なく、決して見放さない」との血判起請文を細川親子に出しています。これも展示されています。

 こうした一連の文書をたどっていくだけで、戦国ドラマがよみがえってきます。それだけでなく、学術的にも、新発見の信長の手紙によって、信長と義昭の御家人衆との間で、藤孝を除けば絶縁状態にあり、御家人衆にかつがれる義昭との関係も悪化していたこと、また、光秀から細川親子への出陣要請の前に秀吉・藤孝同盟が成立していたことが明らかになる貴重な史料ということになります。あらためて、永青文庫が歴史の宝庫だと驚いた次第です。

◆細川家の強運

 今回の企画展は、信長の手紙など60通が展示され、主人公は信長なのですが、私は細川藤孝・忠興親子が家の存亡にかかわる歴史の分岐点で、勝者となる道を選んでいることがわかる、という意味で、本当の主人公は細川親子だと思いました。

 藤孝は足利氏に仕えた幕臣で、将軍を義昭と信長との仲が悪くなると、ほかの幕臣が信長に背を向けるなかで、信長に付いて信長の天下取りを助けるとともに、丹後を支配する大名となり、信長が光秀に殺されると、身内ともいえる光秀につかず、秀吉を選びます。さらに忠興の時代になって、関ケ原の戦い(1600年)が起こると、徳川家康率いる東軍に入り、勝利すると、丹後12万石から豊前(福岡県東部と大分県北西部)33万石に転封・加増され、大阪夏の陣(1615年)のあと三男の忠利(1586~1641)に家督を譲ります。忠利の時代に、豊前小倉40万石から肥前熊本54万石の領主となり、以後、細川家は熊本城主として君臨します。

 細川親子は、足利、織田、豊臣、徳川と4家に仕えて、細川家は熊本城主になるわけですが、信長、秀吉、家康を選ぶときの勝率をそれぞれ50%とすれば、家康選択の時点で8分の1、12.5%の勝率です。これを強運とみるのか、先見の明とみるのか、悩むところです。明治維新では最終的に薩長主導の新政府に加わり、華族令が施行(1877年)されると、細川家は5位ある爵位の上から2番目にあたる侯爵家となります。

 日本新党という少数議員の党を率いて、首相になった細川護熙(首相期間は1993年7月から94年4月)は、藤孝から数えて17代目の当主の護貞(1912~2005)の長男で、18代目ということになります。護熙は熊本県知事、参議院議員を経て衆議院議員になったところで首相になっています。衆議院議員に当選1回だけで首相になったのは吉田茂以来とか、やはり細川家の強運DNAを感じます。

 ともあれ、60通もの信長の手紙が細川家に残ったのは、細川家が戦国時代から今日まで、歴史の大波をなんとか乗り切ったからで、これこそ細川家の強運のおかげだと思います。永青文庫は、1950年に16代の細川護立(1883~1970)が設立、細川家の家政所(事務所)として昭和初期に建設された洋館に、美術品の収集家として知られた護立や護貞の所蔵品を保存、1972年から一般に公開しています。信長らの書状で、つわものどもの夢の跡を見ながら、昭和レトロの建物で、静かな時間を過ごすことができました。(下の写真は、永青文庫の建物=永青文庫提供) 

(文中の永青文庫提供の写真は、建物をのぞき、今回の「信長の手紙-珠玉の60通大公開」にあわせて提供されたものです)


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