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現代に語りかける「北川民次展」

2024.10.02 Wed

 北川民次という興味深い画家に出会いました。世田谷美術館で11月17日まで開かれている「生誕130年記念 北川民次展――メキシコから日本へ」です。戦前の22年間、米国やメキシコなどでいろいろな仕事をしながら暮らしたという遍歴、絵画だけでなく版画や壁画、絵本などに広げた表現、さらには美術教育など、どれも興味深く世の中にもっと知られてよい人だと思いました。秋の砧公園を散策がてら、立ち寄る価値がある企画展です。(下の写真は北川民次、1949年、撮影:松谷錦二郎)

◆NY、メキシコ、そして瀬戸

 北川の生涯を図録『北川民次――メキシコから日本へ』(図書刊行会、以下『図録』)などを参考に紹介してみると――。民次が生まれたのは明治半ばの1894年、静岡県榛原郡五和村牛尾(現・島田市牛尾)で製茶業も営む農家の8人兄弟の末子でした。市立静岡商業高校(現・県立静岡商業高校)を卒業後、早稲田大学予科に進学しますが、中退して米オレゴン州ポートランドに在住していた兄を頼って渡米します。大正初期の1914年のことです。ここで英語を学んだ後、シカゴを経てニューヨークに移り、演劇の舞台の背景(書き割り)の制作で生計を立てる一方、美術研究所で美術を学び、フロリダ州からキューバに渡りました。

 北川の生活様式は、働きながら旅をするというもので、ニューヨークでは舞台の仕事でかなり稼いだようで、キューバに滞在していたときには、ニューヨークで貯めたお金が2000ドルから3000ドルもあったようです。しかし、キューバのハバナで出会った日本人にお金などが入ったトランクを盗まれてしまい、メキシコから日本に帰国する予定が狂ってしまいます。

 そこで、キューバからメキシコに移り、家庭教師や聖画の行商などでお金を稼ぎます。大正後期の1921年です。生活力のある人ですね。そのお金でメキシコシティにある国立美術学校に通い3か月で卒業すると、メキシコシティ近郊の野外学校で絵画を教え、近郊の別の町に野外美術学校ができると、そこでお子供たちに絵画を指導します。

 北川が野外学校を閉めて帰国するのは1936年、メキシコでの生活は15年に及んだことになります。この間、北川はメキシコに滞在していた日本人女性と結婚、1932年から33年にかけては、南米を旅行していたパリ在住の画家、藤田嗣治(1886~1968)が訪問し交流を深めます。

 帰国した北川を待っていたのは、戦争へと突き進む日本でした。世の中が戦時色に染まっていくなかで、北川は藤田の紹介で1937年の二科展にメキシコの人物や風景を描いた作品を出品、藤田の推薦で二科会の会員になり、日本でも画家として評価されるようになりました。

 北川は、メキシコから帰国後、妻の実家がある愛知県瀬戸市や瀬戸市近くに居を構えます。戦前の一時期、東京・豊島区に住んだことはありましたが、1989年に97歳で死去するまで瀬戸から離れませんでした。「最も新鮮な文化生活と、数千年前の原始生活とが、お互いに紙一重をへだてて、何の摩擦もなく生きている」(北川民次著『絵を描く子供たち』(1952年、岩波新書)というメキシコで暮らした北川にとって、東京のような大都会は住みにくかったのかもしれません。

 

◆関係の絶対性

 この企画展を見ながら、はて?と思ったのが、北川の描くメキシコ人の表情です。怒っているのか、悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、わからないのです。たとえば、「アメリカ婦人とメキシコ女」と題した1935年の作品。『図録』によると、この絵は、銀鉱山で有名なタコスに住む白人と、彼らが雇っていた先住民のメイドだと北川は説明していたとあります。メイドだという女性は裸足で、綿布なのか麻布なのか粗い服を着て、装飾品は何も身に着けていないのに対して、米国人の女性は、柔らかそうな布地のドレス姿で、ハイヒールをはき、ネックレスやイヤリングを着けています。(下は「アメリカ婦人とメキシコ女」、1935年、1958年補筆、郡山市立美術館蔵)

 メイドの女性は、何を思いながら、米国女性を見ているのでしょうか。もっと幼い子どもであれば、きらびやかな米国および米国人へのあこがれから、目を輝かせたかもしれません。しかし、メイドとして米国人の家庭に入っていれば、お金持ちの生活が幸せと同じではないことも知るでしょうし、メキシコ人に対する蔑視も身をもって感じていることでしょう。それなら、敵視するような目つきになるのかといえば、雇い主にあらがうような視線を投げ返すこともできないでしょう。

 手にする一輪の花の意味は何なのでしょうか。貴婦人の差し上げるものは、花くらいしかない、というのでしょうか。白人の女性は頭を抱えているように見えます。喜んでいるのか、こんなものを渡されてもと困惑しているのか、わかりません。雨宿りに寄った小屋の女性から山吹の花一枝を差し出された太田道灌の話を思い出しました。みのひとつだになきぞ悲しき」です。

 アメリカ婦人とメキシコ女のふたりが何を思っているのかはわからないのですが、私たちにわかるのは、お金持ちのアメリカ婦人と貧しいメキシコ先住民との「関係の絶対性」です。あこがれても憎んでも、憐れんでも蔑んでも、このふたりには絶対に越えられない関係性があります。その関係性のなかでは、笑ったり、泣いたり、怒ったりという表情をいかにリアルに描いても、それはある一面だけの虚構にしかすぎないのかもしれません。北川が描こうとしたものは、表情では表しきれない社会の現実を描こうとするリアリズムだったように思います。

 ところで、絵の制作年は1935年ですが、絵には1958年に補筆したと書かれています。1958年という時期は、日本が高度成長に突き進む時代であるとともに、1960年の日米安保条約の改定期を向けて、あらためて米国に依存するのかどうか日本の針路が問われる時代でもありました。1960年の安保闘争で抗議行動の参加していた女子学生、樺美智子さんが機動隊との衝突のなかで亡くなった事件に触発されて、北川は、黒ずくめの機動隊員と白い服を着た安保条約に抗議する人たちを描いた「白と黒」という作品を制作、この企画展にも展示されています。

 「アメリカ婦人とメキシコ女」のどの部分を補筆したのかわかりませんが、この時期に補筆して作品を世に出そうと、北川が思い立ったのは、先住民対米国人という構図が日本対米国という構図にもあてはまると思ったのかもしれません。支配―被支配という関係性のなかで、花を差し出しているメイドの姿は、当時の日米関係を暗示しているようでもあり、いまに続く日米関係の黙示録にも思えます。

 展示されている「鉛の兵隊」という作品は、北川が1939年の「聖戦美術展」に「銃後の少女」と題して出展したものです。少女が鉛の兵隊や戦車のおもちゃで遊んでいる姿は、日の丸を持つ日本軍が中国軍を駆逐している様子からしても、戦意高揚という展覧会の意図には沿っているように見えます。しかし、少女の表情は物憂げで、勝ち戦を喜んでいるようには見えません。北川が戦争にのめりこむ日本に批判的だったのでしょう。企画展には、暗い表情で出征する兵士を描いた1944年の作品(戦争中は未公開)も飾られていて、北川の考えていたことがよりはっきりとわかります。(下は「鉛の兵隊」、1939年、個人蔵)

 「銃後の少女」で不気味なのは、少女が背負う人形です。『図録』は「1927年にアメリカ人宣教師から日本の子どもたちに贈られた『青い目の人形』とみられる」と解説していますが、この人形はかわいいというよりも、ホラー映画に出てくる人形のようにも見えます。この人形は少女の耳元でなんとささやいているのでしょうか。「戦争ごっこなんてつまらないよ」とも、「いずれアメリカが日本の兵隊さんを倒すよ」と言っているように思えてきます。

 

◆メキシコの祭り

 北川が住んでいたタスコの風俗を描いた「タスコの祭」は、帰国した北川が二科展に出品した作品です。初めは葬列の絵だと思いましたが、タイトルは「祭」だし、ベールをかぶった女性たちの表情を見ると、明るいとは言えませんが、暗くはないので、祭りの行進かなにかを見ているのだと思い直しました。(下は「タスコの祭」、1937年、静岡県立美術館)

 メキシコという言葉で思い浮かべるのは、強い太陽の日差し、サボテン、鮮やかな原色の民族衣装などですが、北川の描く空は夜のように黒く、人々の衣装も単色で地味、緑のサボテンの代わりにあるのは枯れ木です。意表を突くというのか、固定観念を崩すこと楽しんでいるか、絵葉書のような絵は描きませんという世間への挑戦でもあるのでしょう。これらの作品は注目され、北川は日本の洋画壇にデビューすることになります。

 「祭」というタイトルの作品は、「トラルパム霊園のお祭り」というのも展示されていました。北川が助手として雇われ、そこに居住したトラルパム野外美術学校がある町の風俗を描いたものです。1930年の制作ですから、メキシコ時代の作品になります。空は灰色で、霊園に向かう人々のなかには、小さな棺を頭に乗せた人もいますから、祭りよりは葬列の雰囲気が漂っているのですが、手前の女性たちを見ると、赤子を抱く女性がいて、その周りの女性たちはこどもをいつくしむような表情です。「生」と「死」が「祭」に融合しているというのでしょう。(下はトラルパム霊園のお祭り」、1930年、名古屋市美術館)

 メキシコには、11月1日と2日は「死者の日」という祭礼の日があり、死者の霊を迎え入れて、家族や友人が飲食しながら故人を偲ぶ日本のお盆のような祭りがあるそうです。古くからの伝統で、キリスト教が普及すると、キリスト教の万霊節と融合したとのこと。その経緯は、仏教以前からあった霊を迎える行事を仏教が横取りした日本のお盆と似ています。

 先住民の子どもたちに絵を教えていた北川にとっては、生者と死者が共生するメキシコの宗教文化は、死者を天国か地獄に追いやってしまう欧米のキリスト教文化よりも身近に感じていたかもしれません。北川の描く裸足のメキシコ人は、みな大きな足で大地にしっかりと立っています。かれらこそ大地に生きる「民」だと主張しているように思えます。

 

美術教育の視点

 北川の業績として子どもたちの美術教育があげられます。「ロバ」という1928年の作品は「教え子の制作に刺激を受け、新しい表現の開拓に取り組むようになった」と『図録』が解説しているものです。なんともやさしい表情で花を見つめるロバは、子どもたちの視線を意識して描かれたようにも思えます。(下は「ロバ」、1928年、愛媛県美術館)

 この時期、北川らがかかわったメキシコ野外美術学校の生徒の作品は、ベルリンやパリ、マドリードでも展覧され、欧米からも評価されていました。北川がメキシコの野外美術学校で、どんな教育をしていたのかは、北川が1952年に著した『絵を描く子供たち』(岩波新書)に詳しく書かれています。(下は北川民次著『絵を描く子供たち』の表紙)

 北川の教え方は、鉛筆→色鉛筆・クレヨン→水彩→油絵という昔からの方法をやめて、最初から油絵を描かせるものでした。北川は、この本のなかで、次のように書いています。

 「アカデミズムの弊害は、美を表現するのに、既成の技法だけにたよることである。既成の技法が創造的美術表現に常に有効であるとはいえない。有効でないばかりか邪魔になる。(中略)美しいという感じは、常に新しく生れ、生きて動いているから、感動にしたがって直接に表現しないとつい取り逃がしてしまう。いつでも物を生きた姿で掴めないで、固定のくり返しを練習させるのが教育であるなら、それは人生を退屈なものにさせる道具である。私はそういうことに反対だった」

 「緑の林を描かせるために、緑色の画具を与えよう。紅い花を描かせるために、紅い絵具を与えよう。厚みのあるフォルムを掴ませるためには、厚みのある絵具を豊富に与えよう。といったようなわけで、私は始めから生徒に油絵具を与えたのである」

 絵画の技術を教えるよりも、感情をそのままぶつけるような絵を描くように生徒たちを誘導したのですから、その作品は、西欧の人たちの絵画の固定観念を打ち破り感動させたのかもしれません。メキシコを訪れた藤田嗣治が無名の北川を訪ねたのも、その感動があったからでしょう。

 北川のこの本で興味深いのは、日本の子どもたちについての観察です。北川は1949年の8月から9月にかけて、名古屋市にある東山動物園で「児童美術学校」を開きます。北川が驚いたのは、絵具を持たせた子どもたちの向かったのが動物のいる場所ではなく、動物園の入り口にある噴水塔だったことでした。

 学校で「風景画」や「静物」を教えられた子どもたちは、動物たちのいる夢の国に入ろうとはせず、図画の先生から教え込まれた美しい風景として噴水塔を選んだというわけです。北川は昼食時などにできるだけ動物の話をして、動物に目を向けるようにしたと書かれています。

 北川がここで目指したのは、お絵かきが上手になることではなく、何事も教え込むという姿勢で抑圧されている子どもたちの精神を、絵画を通じて解き離すことだったと思います。北川は前掲書で次のように書いています。

 「ある一期間を動物園という児童のためには特に作られた夢の国、子供の国におびき入れたら、失われた児童時代が再び芽を吹き始めるかもしれない。これが私の考えであった」

 1949年に開かれた動物園の美術学校は、2年後には別の場所での「北川児童美術学園」に発展し、後進の人たちがこの活動を続けたようです。1952年に世に出た『絵を描く子供たち』が版を重ねたのに絶版になっていたのが2022年に第14刷として復刊されたのは、子どもたちの自由な精神を解き放つという北川の精神が今の時代にも必要だと考えられたからではないでしょうか。

 私は、この8年間、地域の公立小学校の学校運営委員として、学校の運営にかかわり、運動会や学芸会などの行事にも参加しています。学芸会で子どもたちが描いた森の中や宇宙空間での 「夢」の生活を見ると、その発想の広がりや豊かさにいつも驚かされます。

 「小学校の子どもたちはこんな豊かな発想を持っているのに、なぜ、おとなになると、想像力も創造力のないふつうの人間になってしまうのか。これからの日本に必要なのは創造力なのに」 と、運営委員会で叫んだこともあります。

 『絵を描く子供たち』の最後は、次のような言葉で終わっています。

 「自由を食い盡された児童の精神には何が残るか、そこには、猜疑と恐怖の観念が根深く巣食うのである」

 いま、日本を見渡せば、まさに自由な精神を食い盡された子どもたちのなれのはてがあふれている、と思うのです。


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