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榎本武揚を中山昇一さんと語る       ④エンジニアとしての榎本(下)

2024.09.03 Tue

榎本武揚(1836~1908)は、1885年から4年間、逓信大臣を務めたあと、文部大臣(1889~90)、外務大臣(1891~92)、農商務大臣(1894~97)を歴任します。この間、1891年には現在の東京農業大学となる徳川育英黌を設立し初代黌長、1892年には日本気象学会会頭となり、そして1898年には設立された工業化学会の会長、同年に大日本窯業協会の会長に就任します。

こうした経歴をみると、榎本が殖産興業のプロモーターだったことがわかります。とくに農商務相時代には、官営八幡製鉄所の設立に積極的にかかわっています。逓信相として日本の電気通信産業の土台をつくった榎本が農商務相としては、日本の製鉄業を飛躍させる跳躍台をつくったことになります。

ところが、榎本の伝記の定番ともいえる加茂儀一の『榎本武揚』のなかで、製鉄業とのかかわりは、ほとんど触れられていません。榎本の製鉄業への貢献については中山さんが「発掘」し、『近代日本の万能人・榎本武揚』のなかで明らかにした経緯もあります。ということで、今回は、榎本と製鉄業について、中山さんの話をうかがおうと思います。(写真は中山昇一さん=筆者撮影)

――「鉄は国家なり」とは、プロイセンの鉄血宰相、ビスマルクの言葉だと伝わっています。近代国家をめざす明治政府も1875年に、工部省が鉄鉱石の採れる岩手県釜石に官営の製鉄所を設立します。英国から溶鉱炉などの設備を輸入して、1880年には操業を開始します。しかし、操業を軌道に乗せることができず、1882年には官営釜石製鉄所を廃止して、その設備を米穀の陸海軍御用商だった田中長兵衛(1834~1901)に払い下げます。(写真は田中長兵衛=『釜石製鉄所七十年史』から)

田中商店は苦難の末、1886年に銑鉄の生産に成功、1887年には釜石鉱山田中製鉄所を設立します。そして1894年には、顧問に迎えた東京帝国大学の野呂景義(1854~1923)の指導のもと、コークス利用の銑鉄の生産に成功します。こうした日本製鉄業の揺籃期ともいえる時期に、榎本は官営製鉄所の建設に取り組むわけですね。(写真は野呂景義=日本鉄鋼協会「野呂景義小伝」から)

中山 榎本が製鉄業の重要性に気づいたのは、1862年から1867年にかけて幕府の留学生としてオランダに留学したときだと思います。榎本は英語も使えたので、産業革命を主導していた英国を視察して周り、鉄鋼業の町として発展するシェフィールドも訪れています。鉄鉱石も石炭も水も豊富にある町で、最先端の精錬技術であるベッセマー法の製鉄所もありました。(写真は英シェフィールドの博物館にあるベッセマー転炉)

榎本はこの時期、ドイツ・エッセンにある製鉄・兵器製造業のクルップも訪ねています。オランダで建造中だった幕府の軍艦、開陽丸に搭載する大砲のうち威力の強いクルップ砲の数をふやす交渉をしました。そこで、クルップ2代目の社長とも懇意になります。

榎本はオランダ留学時代に世界でトップクラスの製鉄所で、製銑・製鋼工程、圧延工程、兵器製造を視察して学んだのです。

 

――それから四半世紀経った1894年に、榎本は農商務相に就任し、翌年の帝国議会では、「製鉄所設立意見」を表明し、そのための予算獲得に成功します。榎本からすれば、やっと出番が来た、という思いでしょうか。

 

中山 榎本はそれ以前から、大規模な製鉄所の建設が必要だと考えていました。1887年頃から、榎本邸に野呂や今泉嘉一郎(1867-1941)、金子増燿(1861-1938)ら製鉄の専門家を招き、製鉄事業を立ち上げる研究をしていたのです。当時から、「俺が当局者になった場合、きっと製鉄所を立てる」と語っていましたから、そういう意味では、出番が来た、という思いだったかもしれません。(写真は今泉嘉一郎=『工学博士今泉嘉一郎伝』から)

――農商務相は、満を持しての登板だったわけですね。

 

中山 維新後のインフレを大蔵卿として収束させたことで知られる松方正義(1835~1924)も製鉄所の必要性を認識していたようで、1891年に首相に就任(第1次松方内閣)すると、官設・官営の製鋼所建設に向けて動き始め、東大教授で「冶金学の父」と称せられた野呂に製鉄所建設の計画案作成を委嘱します。ところが、議会では、経費削減や「民力休養」を盾にした民権派各党の反対が強く、なかなか承認を得られず、なんとか貴族院から製鋼事業調査委員会を政府に設置する承認を得ることができました。

この調査委員会には、野呂や今泉など榎本邸での研究会メンバーが入り、第2次伊藤内閣時代(1892~96)には、製鉄所建設事業の所管が農商務省になります。それまでは、大蔵省、海軍省と所管が変更されていたのですが、殖産興業の中核という位置づけから農商務省になり、1893年6月には官営で建設することを閣議決定します。

ところが、官設を決めた翌日、農商務相の後藤象二郎(1838~1897)は、製鉄所建設の用意は民間で出来ているので、官は利子補給と製品買い取りを行い、民をバックアップするという民設案を内閣に提案し、7月には内閣で承認されます。官営から民営への逆転の背後には、建設工事を狙う大倉喜八郎(1837~1928)のグループ、北海道の石炭を売ること狙った雨宮敬次郎(1846~1911)らのグループ、さらには大阪商人の財界グループがいたものと思われます。

 

――榎本は、後藤が1894年1月に商品取引所をめぐる収賄事件の責任を取って辞任したあとを継ぎ、後藤の決めた民設をもう一度、官設に戻すわけですね。

 

中山 1894年の貴族院議会で、海軍所属の調査委員会委員である小沢武雄(1844〜1926)、内藤政共(1859〜1902)が製鉄所の官営を主張しました。この年、日清戦争が起きるのですが、清国にはドイツの技術を導入した東洋初の本格的な製鉄所が漢陽(現在の武漢)にありました。1890年に完成した官営漢陽製鉄所です。操業が始まると負債が膨らみ、すぐに民営化されるのですが、製鉄所は国家的なプロジェクトという意識が日本の政府や議会にも伝わったのでしょう。榎本は、民設の閣議決定がありますから、民設論の答弁をしますが、貴族院は官設・官営案を可決、これを受けて榎本も官設の方針を閣議に提出、承認されます。(写真は戦前の漢陽製鉄所を写した絵葉書)

――榎本が海軍と組んだ出来レースの感じもしますね。

 

中山 そうかもしれません。というのも、松方らの原案は、釜石鉱山田中製鉄所からの銑鉄供給を前提にした製鋼所の建設で、野呂も経費を低く抑え、製鋼所の建設を早めるため、この案を維持していました。ところが、海軍の山内万寿治(1860~1919)が銑鋼一貫を強く主張、最終的には銑鋼一貫工程の高炉導入が決まりました。これも、漢陽製鉄所を凌駕したいという榎本の願望と技術的な効率性を考えた海軍との合作だった可能性があります。

 

――榎本が議会に提出した「製鉄所設立意見」には、官設・官営が盛り込まれ、予算も付きます。1896年には製鉄所官制が発布され、長官に榎本の側近である山内堤雲(1838~1923)、技官にドイツで冶金学を学んだ大島道太郎(1860~1921)が就き、1897年2月には製鉄所の建設場所として、福岡県八幡村(現北九州市)が決まります。榎本は足尾銅山の鉱毒被害が明らかになったこともあり、1897年3月に辞任し、官営八幡製鉄所が完成して操業を開始したのは1901年になります。この間の経緯を見れば、官営八幡製鉄所は榎本の業績というか、榎本プロジェクトそのものですね。(写真は山内堤雲=wikipedia)

中山 製鉄所の建設にまい進した榎本は「鍛冶屋大臣」と揶揄されたそうですが、榎本がいなければ、この時代に大規模な製鉄所の建設はできなかったでしょう。

八幡製鉄所の操業開始で、日本の製鉄業は躍進の土台ができたのですが、実際の運営は苦難の連続でした。製銑・製鋼工程は複雑なので、原料を放り込めば仕様通りに製品が出てくるというものではなく、各種の操作をしながら諸データを集め、最適な運転情報を入手する作業が必要です。(写真は創業当時の官営八幡製鉄所)

ところが、実際には、大型の装置をドイツから入れて操作をドイツ人技師まかせた結果、コークス炉がなかったこともあり、銑鉄の生産が十分にできませんでした。1902年にコークス炉を建設し、1904年に操業を再開したのですが、これも失敗して操業停止に追い込まれました。

原因究明のため、1896年の東京市水道鉄管事件に巻き込まれて公職を辞していた野呂が呼ばれて調査委員会が設置され、野呂の指導によって問題解決が図られ、ようやく官営八幡製鉄所の生産は計画通りに進むようになりました。

榎本が提出した「製鉄所設立意見」には、創業時の開発方針として、小規模なものから始めて次第に大規模なものに移行する、と書かれていたのですが、製鉄所建設が榎本の手を離れたとたん、後輩たちが功を焦ったのでしょう。調査委員会では、「榎本がいれば、こんなことにはならなかった」という意見が出たそうです。

 

――逓信相時代の榎本は、電話の民営にこだわったようですが、農商務相の榎本は一転して、官営の製鉄所建設に尽力します。官営八幡製鉄所の設立にかかわり、主席技師として創業を担った今泉は、官営では非効率だと考え、八幡製鉄所の民営化を主張、それが退けられると、1912年に日本鋼管を立ち上げます。あらためて榎本の製鉄所の官営論をどう評価しますか。

 

中山 逓信相時代の榎本は電話事業を民営化しようとして次官と激しく対立し、次官を更迭しますが、次の次官になった林董(1850〜1913)から、欧米では民営から始まっても官営に移行する国が多いことを説明され、民営化を断念します。電話事業は、地域ごとの電話線網のなかで、話者同士を交換機(手)で結ぶプロセスから始まりましたから、利益が期待できる電話線網を敷設するには、アントレプレナシップ(起業家精神)が必要でした。しかし、規模の利益が出やすい事業ですから、国中に電話網を広げるには大きな投資が必要で、欧州では民営が官営になったわけで、後発の日本は、官営のほうが便利だったのでしょう。

 一方、製銑・製鋼事業は、燃料や原料を変化させる化学プラントです。化学プラントの中の化学反応は化学式で記述できても、実際に窯の中への投入する原料と生成物との関係は、実験を繰り返しながら決めていくしかありません。このため、欧米の製鉄技術を日本へ移植し、技術を根付かせ、さらには国際競争力ある産業へ育てるためには、縮小した規模のプラント(スケールモデルとかパイロットプラント)から始めることが必要です。こうしたプロセスは時間と費用がかかるので、官営にすべきだというのが榎本たちの考えたことでした。欧米の技術を官営で受容し、独自に発展させる技術力を得たら民営に移し、さらに発展を図るというは、榎本らしい構想でした。

 

――原理原則やイデオロギーから官営とか民営というのではなく、それぞれの実情に応じて対応するというのは、エンジニアとしての榎本がプラグマティストだったということでしょうね。また、官営か民営かとは別に、西欧の技術を日本に移植するだけではなく、国内に産業として根付かせることを考えていた、というのは、榎本を評価するうえで、大事な視点ですね。殖産興業を掲げた明治政府の狙いは、産業革命を進めていた西欧に追い付くことですが、技術の移植ではなく、国内に根付かせて発展させることができなければ、西欧を後追いするだけで、いつまでも追いつけないことになりますよね。

 

中山 日本の産業史を振り返るとき、日本は今に至るまで榎本精神を十分に生かすことができなかったのではないか、と考えてしまいます。榎本は、亡くなる1908年の年初に開かれた電気学会の演説で、次のように語っています。

 

「翻って考えるに、我電気事業は如此隆盛を致せるにかかわらず、多くは是れ欧米各国の精を抜き華を取り之を我国に施設したるに過ぎず、未だ本邦に於いてオリジナリチーと称し得可きものあきらかに少ないは予の深く憾みとするところにして、今後益々諸君の研鑽と発明とに依り、事業の発展に伴いこれが改良進歩を図らざる可からざるなり」

 

日本の電気事業は隆盛だが、欧米が生み出した成果を輸入・移転したに過ぎず、我が国のオリジナリティーが少ないのが残念、これからも学問の研鑽と発明に励んで欲しい、という内容です。

 

――「電気事業」を「情報技術(IT)」と入れ替えれば、そのまま現代に通じます。産業の自立的な発展を重視する榎本の発想はどこからきたのでしょうね。

 

中山 それぞれの国や地域の歴史や地勢に合った経済モデルを考える経済学の視点を持っていたことだと思います。殖産興業をプロモートするにあたっては、日本が農業社会から工業社会へ移行するエンジンが殖産興業だという思考モデルを持っていました。経済学の視点です。

そういう思考をどこで学んだかというと、幕末のオランダ留学や明治初期のサンクトペテルブルク駐在で、欧州の産業革命の実際を見聞し、産業革命を初めに起こした英国や、英国の後を追いかけたドイツの歴史を勉強したからで、そこからあるべき日本モデルを考えたのだと思います。

オランダの留学先で、フランスの国際法の書籍(テオドール・オルトラン著『国際法と海上外交術』)をオランダ語に訳しながら、榎本らに教えたJ.G.フレデリックス(1828~96)が手書きの草稿(榎本が『海律全書』として編集)に記した榎本への献辞には、「あなたは、西洋事情を正しく理解し、過去の歴史についてもすでにわかっています」と書いています。

 

――献辞であることを割り引いても、西洋の事情と歴史について、榎本が相当、勉強していたことがわかりますね。

 

中山 榎本は、1875年に駐露公使として赴任する直前(おそらく1874年)に、コーヒーやタバコ、キナを小笠原諸島などの栽培を提案する建議書を政府に提出しています。このアイデアのもとになったのは、英国の東インド会社だと思います。

英国の歴史を振り返ると、16世紀の英国(イングランド)は、「黄金の世紀」を享受していたスペインに比べると貧しい二流国でしたが、王室と政府は海賊と結託し、海賊が海上で略奪した富の分前を受け取り、資本を蓄積し、大英帝国への発展の基点にしました。17世紀にはいると、東インド会社を設立し、コーヒー貿易の独占を開始し、富の蓄積を増しました。榎本は、海賊行為や植民地経営で富を蓄積することは難しいが、南方地域への殖民によって東インド会社のように商品作物を生産することは可能だと考えたと思います。

 

――キナというのは、マラリアの特効薬とされるキニーネを木の皮から抽出する木です。榎本がキナに目を付けたのは、オランダ留学の途中にジャワ島に滞在していますから、そこでキナが栽培されていることを見聞していたからでしょうね。マラリアは世界中の熱帯・亜熱帯地域で流行しているので、その特効薬のキニーネは、植民地を経営する欧米諸国にとっては戦略物資であり、「人命を助け国益を増殖させる」(建議書)商品になると、榎本は考えたのでしょう。建議書では、オランダ政府に頼んでジャワからキナの苗木を取り寄せ、九州や伊豆七島、琉球諸島、小笠原などで栽培することを提案しています。(写真はキナ)

アイデアというよりもずいぶん具体的な提案で、政府はこの建議を受けて、1876年からジャワやインドからキナの種苗を取り寄せ、小笠原や鹿児島、沖縄などで栽培します。しかし、枯れてしまうことが多くうまくいかなかったのですが、1922年

になって星製薬が台湾でキネの大規模栽培に成功します。その後、同社が生産するキニーネは欧米諸国にも輸出され、その生産高は世界第2位になったといいますから、榎本の夢が半世紀後に実ったとも言えます。

 

中山 榎本は1877年に、ペテルブルクから岩倉具視(1825~83)にあてた書簡で、スペイン領だったラドローネン諸島(現マリアナ諸島)やペリリュー諸島(現パラオ)の買取りを政府に提案します。榎本は、ここに罪人などを殖民させ、キナやコーヒー、タバコを栽培しようというわけです。こうした商品作物を輸出できれば、日本にとって大きな国利になり、今後の殖産興業の発展に大いに役立つと考えていました。さらに、南洋の島々を拠点にして、オーストラリアやインドなどへの航海事業を盛んにすることも提案しています。

 

――ペテルブルクから南洋への植民を建議するというのは、殖産興業のプロモーターたる榎本らしい行動ですね。加茂の前掲書によると、榎本は建議しただけではなく、当時、英国の公使だった上野景範(1845~1888)に依頼して、スペインの外相にラドローネン諸島を譲渡する意思があるかどうかを打診し、日本が希望すれば相談に応じるという言質を取っています。

日本政府に、榎本の提案を実行する余裕はなかったようですが、同諸島のグアム島は1898年の米西戦争で米国に割譲され、その他の島(マリアナ諸島)はドイツに売却されます。その後、第1次大戦で日本が実効支配し、終戦後は日本の委任統治領となり、サイパン島を中心に殖産興業が進められました。

 

中山 太平洋戦争では、こうした島々の争奪をめぐって、米軍との激戦が続きました。榎本は、この地域を日本の安全保障上、重要な地域だと考えていたのもしれません。日本は、朝鮮半島を経由して大陸に進出する「北進論」に傾きましたが、榎本の「南進論」に耳を傾けていたら、敗戦に至る日本の歴史は違っていたでしょう。榎本の主張した「国利民福」は、軍事力による中国大陸からの収奪ではなく、外国との貿易を広げることによる国富の増大でした。

 

――榎本が主唱した南方殖民については、日本の進むべき「もう一つの道」だったという観点から次回、考えてみたいと思います。ありがとうございました。

 

(冒頭の写真は、国会図書館が公開している榎本武揚の肖像)

 


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