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榎本武揚を中山昇一さんと語る    ④エンジニアとしての榎本(上)

2024.08.01 Thu

藤原書店から2008年に刊行された『榎本武揚』の副題は「近代日本の万能人」です。初代の駐露公使として1875年に樺太・千島交換条約をまとめた榎本は、1878年にシベリア経由で帰国したあと、外務大輔、海軍卿、駐清国特命全権公使を歴任、1885年には日本で最初の内閣となる第1次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任します。軍人や外交官として能力を発揮した榎本が殖産興業を支えることになり、これ以降の榎本は、電気通信業、鉄鋼業、化学産業などの発達に尽力します。

まさに「万能人」なのですが、榎本の研究では、殖産興業への寄与がこれまで十分に解明されてこなかったと思います。そこに、エンジニアでもあった中山さんがこの分野にも踏み込んで研究を進めたことで、「万能人」としての榎本像の肉付けができたと思います。ということで、今回は、殖産興業への貢献という視点で、中山さんとともに榎本武揚を考えてみたいと思います。

 

――榎本武揚の本格的な伝記を書いた加茂儀一(1899~1977)は、『榎本武揚』(中央公論社から1960年に刊行、1988年に中公文庫)のなかで、明治維新という一大変革期に出現した「全能人」のひとりとして榎本を評価していますが、日本の産業振興という分野での榎本の業績については、多くの紙幅を割いていません。歴史家にとって、「実業」の分野での榎本を評価するのは難しかったのではないかと思います。そこで、まず当時の最先端分野であった電気通信からはじめたいのですが、中山さんはこの分野での榎本をどう評価しますか。

 

中山 榎本は1885年に逓信大臣に就任後、1888年に日本で最初の工学博士の一人である志田林三郎(1856-1892)と電気学会を立ち上げ、初代の会長に就任すると、亡くなるまで会長にとどまりました。日本の電気通信分野の発展に尽くしたという意味で、榎本は最後まで電気学会会長に相応しい人物でした。

幕末にオランダ留学を果たした榎本が帰国する際、2台の電信機を持ち帰りますが、そのうちの1台は箱館戦争のさなかに行方不明になりました。ところが、その電信機が、経路は不明ですが、愛宕の古道具屋に置かれていたところ、たまたま沖電気の創業者である沖牙太郎(1845-1906)が通りかかって購入し、沖が1888年に開催された電気学会の定例初会に展示します。それを電気学会の会長だった榎本が見つけて、愛用の電信機との再会を喜びました。

この逸話は有名ですが、榎本が電信機に着目したのは、産業革命の後半に誕生した革命的技術である電気通信が平時にも有事にも、重要な役割を果たすものであることを滞在した欧州で理解したからです。(下の写真は、沖電気(OKI)が創業120周年を記念して製作した榎本武揚がオランダ留学時に購入した仏製電信機の複製。東京農業大学国際センターの「榎本武揚ギャラリー」で常設展示)

――榎本はオランダに留学しているときに、手に入れた電信機を座右に置いてモールス信号などの技術を学んでいたので、加茂儀一は「日本人でモールスの電信機で最初に電信の実地を習ったのは榎本であったろう」と書いていますね。また、1864年のデンマーク戦争(プロイセン・オーストリア連合軍とデンマークと戦争で、連合軍が勝利)には、赤松則良(1841~1920)と共に国際観戦武官として従軍していますが、このとき、電気通信の威力を見たのでしょうか。

 

中山 その通りです。この観戦で、戦場に野戦電信が持ち込まれ、電信の機材を積んだ馬車が待機しているところを榎本は見ています。電信は、鉄道と同じように平時には商業や民生目的に利用され、戦時には戦線をコントロールすることも知ったのです。当初はアメリカに最新の軍艦建造を発注する予定が、南北戦争が起きたので、軍艦はオランダに発注することになり、榎本たちもオランダに留学することになりました。その南北戦争では、リンカーン大統領が電信を駆使して前線の司令官たちをコントロールしました。戦場での電信の利用は、戦争の常識になっていました。

英国はクリミア戦争(1853年)のときに、黒海に簡易な海底ケーブル(submarine cable)を敷設し、効果を確認しました。「海底ケーブルを支配するものは世界を制する」(電気通信協会『海底線百年の歩み』)と英国は考え、世界の植民地を海底ケーブルで結び、支配を強化しようとしていました。その際、外国で通信網を敷設するには、英国政府よりも民間企業が現地政府に申請した方が現地には受け入れやすいので、英国政府は民間企業を前面に出し、必要に応じ通信網を利用する契約をしました。クリミア戦争以降、開戦すると、諸国海軍は真っ先に海底ケーブルを切断しようとしました。

榎本は、工部省にいた山内堤雲(1837~1923)に朝鮮半島と日本とを結ぶ海底ケーブルを敷設するよう提言を送りました。しかし、海底ケーブル工事は実現することなく、政府が海底ケーブルの必要性に気づいたのは1882年に朝鮮で起きた朝鮮軍の兵士による壬午軍乱からです。

この騒乱で、漢城(ソウル)の日本公使館などが襲われ、公使館員は邦人を保護しながら仁川へ逃走し、海上を小舟に乗って漂っているところを英国船に保護され、長崎へ護送されました。この間、公使館員を含め多数の日本人が殺されたのですが、そのことを日本政府が知ったのは、長崎に着いた公使が東京へ打電してからです。軍乱が起きてから1週間も経っていました。(下の絵は、壬午の乱で朝鮮の反乱兵士に襲われる日本公使館を描いた日本の浮世絵。東京経済大学デジタルアーカイブから)

榎本の提案通りに、江華島事件のときに海底ケーブルを敷設しておけば、公使館員や在留邦人の危機をいち早く東京の政府に連絡することができ、日本は軍艦と兵士をソウルに派遣し、公使館員や邦人らを救出し、被害を最小にすることができたかもしれません。日本政府は榎本の考えについていけなかったのです。

1898年の米西戦争で、米軍の通信システムの責任者だったスクワイア大佐(1865-1934)は、1901年発行の雑誌、SCIENTFIC AMERICANの誌上で、この戦争を”War of Coal and Cables”と評し、艦船(蒸気船)を動かす石炭と情報を得る海底ケーブルをどうやって確保するか、という戦いだったと結論づけました。

米西戦争の端緒は、1898年2月15日にキューバのハバナ湾に入港した米艦船メイン号が大爆発を起こし沈没したことです。米国の新聞は、この事件はスペインの策略によるものだとして国民の不安と愛国心を煽ります(イエロージャーナリズム)。4月20日に米国は開戦を宣言、5月1日にはマニラ湾で、香港を出発した米太平洋艦隊がスペイン艦隊を壊滅させ、5月19日にはキューバを舞台にした戦争がはじまります。米国は、マニラ湾でもキューバでも海底ケーブルを切断したうえで、米本土をつなぐ独自のケーブルを敷設、的確な情報を得て作戦を練るという点でスペインを圧倒し、戦争にも勝利したのです。

 

――海底ケーブルは戦略上も重要だとなると、誰が敷設するか、というのも重要ですね。

 

中山 壬午軍乱のあと、ようやく日本政府は朝鮮海峡に海底ケーブルを敷設することにしたのですが、自前では無理だとして、デンマークのGN社(大北電信会社)に発注します。これ以降、政府は大北電信に20年間(後に30年間)、日本からの海外通信の独占権を与えました。日本政府が暗号電文を使うにしても、必ず大北電信が中継するので、ロシアと関係の深い大北電信に日本の電文は盗聴されました。日本の政府は、海底ケーブルの戦略的な意味を十分に理解していなかったのです。

 

――技術も資金も時間もなかったとはいえ、重要な戦略資源である電信網の要を外国企業に委ねたわけで、榎本はがっかりしたでしょうね。

 

中山 榎本は、海底ケーブル敷設工事のような事業は、民間の企業家の手によって行われ、失敗を繰り返しても、知恵と知識、つまり研究の積み重ねで開発が進められる実際を欧州で見てきました。企業家精神です。榎本がオランダから帰国する年の1866年の6月に、大西洋海底横断ケーブルは米英の企業家によって4度の失敗の後、敷設に成功しました。10年がかりでした。逓信相だった榎本は、津軽海峡に海底ケーブルを敷設することになったとき、当初は外国企業である大北電信に外注することになっていたのをひっくり返して、自分たちの手で敷設することにしました。

そのとき、榎本は部下である若いエンジニアたちに「なぜ自分たちで試みないのか、一、二回失敗しても自分たちで出来るようになれば国家に大利益をもたらす」と言うと、みんな奮激したという話が残っています。海底ケーブルを敷設した船も、ケーブル敷設の設備が追加された「明治丸」(現在は、東京海洋大学越中島キャンパスで公開)が使われました。以後、日本の海底ケーブル敷設工事は、すべて日本人の手で行われるようになりました。

 

――いい話ですね。加茂儀一が指摘しているのですが、明治以降、日本が急速に資本主義を発展させるなかで、海外の高度な技術は輸入するのが当たり前で、自力で発展させる余裕も必要もなかったため、企業の中で技術者が経営者に比べて軽視されることになりました。榎本は、そうした流れに抗したということになりますね。

 

中山 榎本が逓信相のときに企業家精神を重視したもうひとつの例は、電話事業を民営にしようとしたことです。榎本は、英国や米国では電信事業も電話事業も企業家が推進していたことから、電話事業も民営で進めることを考えました。もともと、民営の電話事業構想は、1878年のパリ万国博覧会に事務副総裁(のちに総裁)として参画し、グラハム・ベルの電話機などを見た松方正義(1835-1924)から引き継いだ政策でした。しかし、当時の逓信省では、官営を主張する次官の野村靖(1842-1909)が民営化に激しく抵抗して榎本と対立したため、榎本は次官を気心の知れた林董(1850-1913)に代えますが、林も官営論に傾き、林に説得された榎本は電話事業を官営にすることにしました。

 

――日本の電信電話事業は、官営事業として進められ、戦後になって1952年に公社化されたのち1985年になって民営化されます。榎本構想がほぼ100年後に実現したわけですね。とはいえ、電波の配分などの許認可権を郵政省(2001年からは再編された総務省)が握っているため、携帯電話会社の寡占や利用料金の高どまりなどを招きました。榎本が求めた企業家精神を役人が抑え込もうとする歴史は21世紀まで続いているということになります。

 

中山 政府の統制は結果的に国利民福の向上につながりません。管理監督だけが役所の仕事ではないはずです。榎本は、逓信相に就任した翌年の1886年に、当時は部下だった志田林三郎に命じて、隅田川やお台場で水中無線の実験を開始しました。ロシアの物理学者、アレクサンドル・ポポフ(1859-1906)=写真左=やイタリアのグルエール・マルコーニ(1874~1937)=写真右=が無線通信の実験に成功する1895年より10年も前ですから、榎本の発想力とチャレンジ力はたいしたものです。水中と空中の違いはあるものの、無線通信のまさに時代の先駆けとなる実験をしていたことになります。

――空中無線の事業化に成功したマルコーニは、「無線通信の父」と呼ばれていますが、もうひとりの先駆者ポポフはロシア海軍の研究者でした。榎本も出自は海軍ですね。手旗信号の海軍にとって、無線は夢の技術だったのでしょう。

 

中山 ポポフは海上の遭難時に役立てようとして、マルコーニと違って特許を申請しなかったと言われていますが、海の怖さを知っている榎本の水中実験も同じような動機だったかもしれません。榎本と志田の水中無線の実験についての論文は、志田の名前で電気学会雑誌に掲載されましたが、空中無線が主流になったためか、水中無線の実験は、長く続かなかったようです。逓信省電気試験所が無線電信の研究を開始するのは1896年、翌年、独自の無線電信機を開発、無線実験にも成功します。

 

――その後の展開は、有線は逓信省、無線は海軍省という仕切りができたようですね。逓信相としての榎本の仕事を振り返ると、日本に電気通信の技術とともに産業を根付かせ発展させようという目的がわかります。ただの行政官ではありませんね。

 

中山 エンジニアです。Scientistという言葉は、1840年に出版されたイギリスの哲学者、歴史学者のヒューウェル(William Whewell, 1794-1866.)の著作、『帰納的科学の哲学』で、初めて登場しました。しかし、Engineerという言葉はずっと古く、12、3世紀にフランスや英国では多数の大聖堂と教会が建設され、そこで活躍した技術の指導的な人々をingeniatorと呼び、英国ではengineer、フランスではingénieurという言葉で定着しました。彼らは技術的訓練を受けた、多才な人物で、建物やガラス、さらに戦争で用いる装置、大砲、火薬も製作しました。

その後、1794年に世界初の理工科学校、エコール・ポリテクニークが創設されました。エンジニアリングの学校です。1804年にナポレオンにより軍の学校となり、現在も軍事省管轄の研究機関として各界にリーダーを輩出し続けています。エンジニアが政府に就職するとテクノクラートと呼ばれます。エンジニアリングの学校、理工科学校では、確立した思考モデルのもとに思考訓練をします。その思考訓練の結果、さまざまな社会的な課題に取り組み、未来を設計する人もエンジニアです。

日本は、榎本が指摘するように、西欧の精華をコピーして国内に取り入れる努力はしたものの、その西欧の発展の根源であるエンジニアリングを理解し、エンジニアを国内で育てようとはしませんでした。榎本は没年の年初に電気学会で、エンジニアのあるべき姿である自己研鑽による創意工夫、オリジニアリティの発揮を求めました。イノベーションが日本には必要だという提言でした。

 

――エンジニアリングは、榎本を評価するときに、これまで欠けている視点でしたね。

 

中山 藤原書店で榎本武揚についての研究会をしているときに、私が「榎本はエンジニア」という発言をしたら、ほかの参加者から「エンジニアだなんて…」という反応がありました。しかし、「万能人」であった榎本にエンジニアの顔があったことを忘れてはならないと思います。

私は企業内エンジニアの端くれでしたが、諸先輩や同僚たちには素晴らしい成果を挙げた方々が多数いました。日本国内の多くの企業もこれまで多数のエンジニアを輩出し、NHKの「プロジェクトX」ではありませんが、その成果が企業だけでなく日本を支え、発展させてきました。

残念なことに、非常に素晴らしいと思うエンジニアたちは定年とともに舞台から消え去っていきます。企業で活躍し、日本の発展のために活躍した無名のエンジニアこそ、賞賛されるべきだと思いますし、榎本が考えていたのは、日本に多くのエンジニアが育ち、彼らが賞賛される国になることだったと思います。

(冒頭の写真は、国会図書館が公開している榎本武揚の肖像)

 


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