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凛とした「須田国太郎の芸術」を観る

2024.07.15 Mon

蒸し暑い季節、しゃきっとした気分になりたい人におすすめなのが世田谷美術館で9月8日まで開かれている企画展「須田国太郎の芸術—三つのまなざし」です。

 

なぜ、しゃきっとした気分になれるのか、というと、須田国太郎(1891~1961)の作品に一貫して流れているのが対象に立ち向かう凛とした姿勢であるからです。スペインの城壁都市を描いた「アーヴィラ」(1920)=写真上、源氏物語を題材にした能の「野宮」(1945頃)=写真中、山梨県山梨市の大井俣窪八幡神社の描いた「窪八幡」(1955)=写真下など、時代も場所も主題も異なるのに、「凛」という言葉が浮かんでくるのは、縦の線が強調されているからでしょう。横の線は寝そべってだらけている、というのではありませんが、須田の縦の線は観る人に緊張感をもたらしているのです。私は観終わったときに、背筋がぴんとなりました。(個人の感想で効果効能を保証するものではありません)

この企画展には、須田の絵画やスケッチだけでなく、須田が1919年から1923年にかけて、スペインを拠点に各地を回ったときの写真も展示されています。絵画のように構図を意識したものが多く、絵を描くための参考資料というよりも、写真という美術作品になっています。ここでも須田は縦の線を意識しているように思えます。(写真は、1922年に撮影されたスペイン・バレンシアのドス・アグアス侯爵邸)

アトリエの須田を写した写真があります。ネクタイを締め、ジャケットを着ています。撮影用に着替えたのではなく、長男の須田寛氏によると、絵を描くという仕事に向かう時の服装でした。凛とした絵を描く画家は、キャンバスに向かう時も凛としていたのだなと思います。(写真は、1954年に撮影されたアトリエの須田国太郎、撮影は田中真知郎)

寛氏によると、借家住まいの父は専用の画室を持てず、アトリエにした四畳半の和室で、寛氏も小さな机を置いて勉強していたという。父の仕事に打ち込む姿を見て育った寛氏は、父の仕事ぶりを今回の企画展のために制作された図録『須田国太郎の芸術-三つのまなざし』(醍醐書房)に寄稿した「追懐」のなかで、次のように書いています。

「父が遅作だといわれるのは、基礎的な資料の収集から始まり、それらを読み込んで習熟し、絵との長い精神的苦闘に時間がかかったからでした。目標であった東洋と西洋の美術との接点を探ること、明と暗のバランスをとること、群と個の調和を如何に作品で表現するかということに悩んでいたからだと思います」

 

余談になりますが、ウィペディアによると、寛氏は父が写生旅行のため毎月のように購入していた時刻表の読み方を教えられ、幼稚園のころから時刻表を読んでいました。それがきっかけになったのか、あるいは、父が収集したグリコのおもちゃに乗り物が多かったことに触発されたのか、父と同じ京都大学を卒業した寛氏は日本国有鉄道に入りました。1987年に国鉄が分割民営化される際には、常務理事として分割ではなく全国一社を主張し、分割案に抗しました。その後、JR東海の初代社長になり、民営化された会社を軌道に乗せます。(写真は、須田国太郎が収集したグリコのおもちゃ)

企画展を見ていると、須田が動物を好んで題材にしていることがわかります。それも須田が重視した明と暗のバランスでいえば、暗の部分で、シルエットのように描いているように思えます。冒頭に掲げた「鵜」(1952)や「犬」(1950)がそうです。鵜は踊っているようにも見えて、何やらユーモラスでもあり、須田の代表作だそうで、この企画展のポスターにもなっています。動物のまなざしの向こうに、何を伝えようとしていたのか、興味のあるところです。(上の写真は、「犬」、下の写真は世田谷美術館のある都立砧公園の掲示された企画展のポスター)

動物を題材にした絵のなかで異色なのは、「黄豹」(1944)です。白いひげがシュールレアリスムの絵のように微細に描かれていて、目も輝いています。背景は、ほかの絵と違って、暗い闇が隠しているのです。戦時下の京都市動物園のヒョウを描いたものだそうで、ここのヒョウたちはその後、空爆による逃亡防止などの理由で殺処分されました。図録の解説は次のように書かれています。

「餌もろくに与えてもらえず痩せた体躯でかろうじて立ち上がり、悲しく地面に頭を垂れる猛獣。だが、その目は鋭く光っており、生きようとする凛とした野生の誇りと張りつめた空気が画面に漂っている」

 

絵画が時代を表すとすれば、この絵は、1944年の日本そのものを表しています。一見の価値あり、です。

 

企画展の出口まで来て、気になってもう一度戻って再見したのが、入口に飾られていた「発掘」(1930)=下の写真=です。空を焦がすような光と手前の人物や馬のシルエットが明と暗になっていて、企画展を一覧したあとで、<須田らしさ>をシンプルに感じさせる作品だったからです。会場のライトニングは、明と暗のコントラストを引き立てていて、巧みな演出だと思いました。

京都大学及び大学院で美術史などを学び、高校や大学の美術史の講師として暮らしを立てながら絵を描いていた須田は、1930年の帝国美術院展覧会(帝展、現在の日本美術展覧会=日展)にこの絵を出品します。結果は落選で、須田が画家として本格的にデビューするのは、その2年後、東京銀座・資生堂ギャラリーで開かれた初個展で、40歳でした。

 

この企画展は、2023年10月から愛知県(碧南市藤井達吉現代美術館)、大分県(大分市美術館)、兵庫県(西宮市大谷記念美術館)、広島県(三之瀬御本陣芸術文化館/蘭島閣美術館)と全国を回って、最後に世田谷美術館で開催されているもので、旅を愛した須田を紹介するのにふさわしい展覧会です。

 

(冒頭の作品も含め、本文中の須田国太郎の作品はすべて世田谷美術館など主催者提供です)


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