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「石川九楊大全」(上野の森美術館)を観る

2024.07.06 Sat

エローイ、エローイ、ラマ、サバクタニ。これは、架刑に処せられたイエスが最後に叫んだ言葉だと、マルコやマタイオの福音書が伝える「我が神、我が神、何ゆえ我を身捨て給いき」の意味のアラム語です。いま、ウクライナやガザで続く殺戮のニュースを見ていると、不条理な死を強いられる「民」の絶望感を思わずにはいられません。なぜ神は私たちを身捨てるのか、という叫びが地上にあふれる時代に私たちは生きているのだと思います。

 

上野の森美術館で7月28日まで開かれている石川九楊さんの連続個展「石川九楊大全【状況篇】言葉は雨のように降りそそいだ」の会場で、「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」という1972年の作品を見た時に、2024年の世界で、この言葉を叫んでいる人たちの情景を思い浮かべました。淡墨に浸して染め上げた「灰色の紙」に書きなぐったような文字が表出させるものは、私には絶望感というよりも怒りを感じさせました。ウクライナやパレスチナで日々渦巻いているのも絶望と同時にこれを許しているものへの怒りだと思います。(写真は、「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」=「石川九楊大全」【状況篇】より)

1945年生まれの石川さんが20台後半だった1970年代の初めに、何に対して「エロイ・エロイ」と叫びたかったのかわかりません。しかし、「書」という行為が時代に切り込む刃になるというメッセージは伝わってきます。石川さんが今回の個展に向けて制作された『図録石川九楊大全』(左右社)の「はじめに」で、石川さんは、当時の表現を「書くこと自体の暴力性を直截に曝す落書きのごとき姿で出現した」と語ったうえで、次のように書いています。

 

「自らの心身に刃物を当てねば、真に生きることはできない。脈打つ血流と傷の痛みは自らの生を自覚させる。(中略)それ以外にこの時代を自覚的に生きる可能性はなかった」

 

私が石川さんの個展を観ようと思ったのは、石川さんの近著『ひらがなの世界―文字が生む美意識』(岩波新書)を読んだからです。この本で、ひらがなの誕生、さらには現在私たちが使っている漢字とひらがなとが混じった文章の発達が書と深くかかわっていることを知り、書から文書を考えることを続けてきた石川さんに興味を持ちました。(写真は石川九楊著『ひらがなの世界―文字が生む美意識』=岩波新書)

この本を読んで目から鱗だったのは、漢字をただ崩すことでひらがなが生まれたのではなく、漢字を表音記号として使った万葉仮名を媒介項にして、文字の連続である蓮面体の文章を筆で書くときに、漢字が自然に崩れ、それがひらがなとして定着してきた、ということです。はじめにひらがなという文字ありきではなく、書という行為ありきだったのです。

 

そして、ひらがなが漢字の持っていた表意文字の機能を失うにつれて、ひらがな文字を書く人々は、文字を躍らせたり、伏せたり、重ねたりする工夫で、ひらがなという記号では表せない書き手の思いを伝えようとしてきました。文字という記号を「読む」のではなく、連綿とした文字の流れを「見る」ということを考えたのでしょう。私たちが蓮面体の昔の書を見るときに、わからないという拒絶反応がまず起こるのは、書を見ようとするよりも、読もうとするからかもしれません。

 

石川さんの2021年の作品「夜も鳴く蝉の灯あかりの地に落る声」が展示されていました。河東碧梧桐(1873~1937)の句です。焼け跡に咲く雑草の絵のように見えましたが、右端の図形を「夜」と読めば、「蝉」や「地」や「声」の文字が見えてきます。そう思うと、文明の灯りに昼と見間違えて鳴く蝉の声は、天に昇らず暗黒の地に落ちて消えていく、そんな景色が見えてきました。火力や原子力による電気で得た明るすぎる夜の下で、夜も鳴く蝉のように、私たちは生活を享受しているのです。(写真は、「夜も鳴く蝉の灯あかりの地に落る声」=「石川九楊大全」【状況篇】より

「夜も鳴く蝉」についての感想は、私の勝手な解釈ですが、石川さんの書は、見る側に勝手な解釈をする権利を開放しているように思えます。この書から俳句の一字一句を読み取ることは難しいからです。抽象画の祖とされるワシリー・カンディンスキー(1866~1944)の作品をレーニンは「革命的」と評価したそうですが、石川さんの「書」は、東アジア的伝統芸能に自閉してきた書の世界にとっては革命的だったと思います。

 

アートは時代を現しますから、そこに緊張感も生まれます。美術雑誌「みづゑ」の1941年1月号に、陸軍情報部による座談会「国防国家と美術」と題した座談会で、鈴木庫三少佐(当時、1894~1964)は、次のように語っています。

 

「芸術家だけが価値ありとしてもそれは駄目だ。一般の国民も国家も之を認めず唯一人で喜んで居ってはいかぬ。松沢病院の狂人が描く様な円とか三角を描いて、誰が見ても分らぬのに芸術家だけが価値ありとしても、実に馬鹿らしい遊びごとである。この国家興廃の時にあゝいふ贅沢なことをして呑気に構えて居っては困る」

 

狂人が描くような円とか三角は国家興廃の危機にはふさわしくないというのです。シュルレアリスムを紹介した画家の福沢一郎(1898~1992)や評論家の瀧口修造(1903~1979)が治安維持法違反で逮捕されたのはこの年でした。「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」に展示された「平和の少女像」に対して、河村たかし名古屋市長らが展示の中止と撤去を要請したのは2019年のことです。いつの時代もアートが時代を写すかぎり、権力もアートに敏感であり続けます。

 

「書で時代を書く」という石川さんの仕事は、2001年の同時多発テロに触発された「二〇〇一年九月十一日晴―垂直線と水平線の物語」(2002~23年)、1011年の東日本大震災によう福島原発事故に導かれた「二〇一一年三月十一日雪―お台場原発爆発事件」(2012年)、そしてウクライナ戦争が想起させた「「ヨーロッパの戦争」のさなかに―人類の未熟について」(2023年)などとして続けられています。(写真は、「「ヨーロッパの戦争」のさなかに―人類の未熟について」=石川九楊大全【状況篇】より

今回の個展の最新作は「ヨーロッパの戦争」で、石川さんは内覧会(7月2日)で、この作品に関連して戦争について次のように語っています。(写真は、連続個展の作品の前に立つ石川九楊さん=7月2日、上野の森美術館にて大坂恵写す

 

「殺しても壊しても罪に問われないのはおとぎ話の世界で、我々はおとぎ話の時代に生きている。戦争は殺人と破壊であり、軍隊は殺人と破壊を職業とする人たちだ。そういうことをみんなが本気で思うようになれば、戦争はなくなり、おとぎ話になる」

 

人類はいつになったら、未熟の時代を脱皮して成熟するのか、悪ガキのような指導者たちが戦争を続けているおとぎ話の時代に生きている私たちは絶望に陥りそうですが、「エロイ・エロイ」から半世紀を経た石川さんの書には、それでも生きろ、生き抜くんや、というメッセージが込められているように感じました。

 

2025年放送予定のNHK大河ドラマは「べらぼう~蔦十栄華乃夢噺~」で、その題字を書いたのは石川さんです。(写真は、NHKのウェブページから

 

石川さんは、「べらぼう」について、NHKのウェブページで次にようにコメントしています。

 

「語源は江戸時代の見世物小屋の醜貌の畸人・便乱坊(べらぼう)。今では転じて痴れ者など負の意味合いが強調されて使われていることが多いが、そこには、尋常ならざる、異界の人などの正の意味も重なっている」

 

イエスの最後の叫びについて、聖書研究者の田川建造は『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』(1980年、三一書房)のなかで、次のように書いています。

 

「このように弾圧され、無惨な死にさらされれば、いったい神は本当に正義の側に立つのだろうか、と懐疑に陥らざるを得なかっただろう。いや、その程度の懐疑なら、すでに何度も繰り返し通過してきているはずだ。ここにあるのはもはや懐疑ではなく、絶望である。神は俺を身捨てやがった」

 

「神は俺を身捨てやがった」の筆をもう少し延ばした先に、「べらぼうめ」という言葉が伏せ字で浮かんできました。

 

冒頭の写真は、上野の森美術館で開かれている「石川九楊大全」展で、作品について語る石川九楊さん。3月2日、大坂惠写す


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