冷徹な戦略家、キッシンジャー氏逝く
米国の外交政策に半世紀以上にわたって影響力を与えてきたヘンリー・キッシンジャーさんが11月29日、100歳で死去しました。彼のめざした戦略的な外交として歴史に残るのが「ニクソン訪中」でしょう。
ニクソン政権(1969~1974)で国家安全保障担当の大統領補佐官だったキッシンジャー氏は1971年7月、極秘に訪中して周恩来首相と会談し、翌年2月に実現するニクソン訪中のお膳立てをしました。71年7月15日にニクソン訪中が発表されると、世界を驚かせましたが、なかでも衝撃を受けたのは日本で、「ニクソン・ショック」という言葉が生まれました。西側諸国でも英国やフランスなどは中国共産党が支配する中華人民共和国を承認していましたが、日本は米国に従って、台湾の中華民国と国交を結び親密な外交関係を維持していたため、はしごをはずされた関係になったからです。
日本の外交史にとって、ニクソン訪中は屈辱的な出来事でした。しかし、米国にとって最大の敵は共産主義のソ連で、もうひとつの巨大な共産主義国家である中国との同盟関係にくさびを入れることは、冷戦の一方の旗頭であるソ連のパワーを弱めるという意味で、戦略的な利益になると判断したのでしょう。当時、中ソ関係は、中ソ国境の領土問題で衝突が起きるなど悪化していました。この機に乗じて、「敵の敵は味方」という戦略を米国はとったことになります。こうした戦略を立てただけでなく、自ら相手の懐に入って実行に移したのがキッシンジャー氏でした。
キッシンジャー氏は100歳になったことし7月、訪中して習近平国家主席と会談しました。ニクソン訪中時に毛沢東とも懇談しているので、毛沢東から習近平まですべての中国の最高指導者と会談した唯一の米国人ということになっています。習近平氏はキッシンジャーと会談したときに、「我々は古い友人(老朋友)を忘れない」と述べ、敬意を表しました。
中国にとって、キッシンジャー氏は米国との関係「正常化」をつくった恩人であることは間違いありません。しかし、米国にとっては、どうでしょうか。ニクソン訪中から半世紀たった中国が世界第2の経済大国となり、経済でも安全保障でも米国を脅かす存在になりました。キッシンジャー氏の戦略的思考を無条件でほめたたえるわけにはいかないでしょう。
ニューヨークタイムズ紙でホワイトハウスと安全保障を担当するベテランのデビット・サンガー記者は、11月29日付けの長文のキッシンジャー評伝のなかで、ソ連・中国対米国という関係をソ連・中国・米国という三角関係にしたキッシンジャー戦略の評価について、歴史家の議論は続いているとしたうえで、次のように述べています。
「中国が米国に対する経済的、技術的、軍事的に唯一の真の競争相手として台頭するという、50年前のキッシンジャー氏の計算には決して織り込まれていなかった理由は、この歴史家の議論が極めて重要であることを示している」
サンガー記者は、1973年のチリの軍部によるクーデターで社会主義的な政策を進めていたアジェンデ大統領が自殺に追い込まれた事件、1975年のインドネシアによる東ティモール侵攻を米フォード政権が容認したことなどを取り上げ、その背後にはキッシンジャー氏の戦略があったとして、人権という米国の価値観を軽視した側面を指摘しています。冷徹なリアリストなのでしょう。
昨年、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、エネルギー価格が高騰したときに、キッシンジャー氏が大統領補佐官だったら、イランとの関係正常化を画策したのではないかと考えたことがあります。ロシアとエネルギー戦線で戦うには、イラン制裁を解除してイラン原油を世界市場に加えることが得策だと思ったからです。しかし、米国は、イランへの敵視政策を変更せず、イランはロシアにドローン兵器を提供するなどロシアに与しました。
あらためて考えると、仮にイランとの関係修復が米国にとって戦略的に利益だったとしても、キッシンジャー補佐官はそのようには動かなかっただろうと思います。ユダヤ系ドイツ人としてドイツ・バイエルン州に生まれ、15歳のときに一家で米国に亡命したキッシンジャー氏にとって、イスラエルに核兵器を使うおそれのあるイランと米国の融和を考えるとは思えないからです。
もし、キッシンジャー氏だったらどう考えるか、というのは、世界の指導者にとって、これまでも、そしてこれからも心をよぎる設問かもしれません。キッシンジャー氏は、そういう存在だったと思います。
(冒頭の写真は、2002年のワシントンのある会合で、キッシンジャー氏が懇談する場面を私が“傍観”したときのものです。©Christy Bowe)
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