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榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-下編-2

2023.11.30 Thu

図1.「善後商談」での李鴻章と榎本武揚との金玉均に関する協議の一部*¹
(榎本は犯罪人引渡条約をたてに金玉均の引き渡しを拒否した)

 

 

・帰国した榎本

 

 

 榎本は明治18年(1885年)11月に清国から帰国すると、翌月22日に伊藤内閣で初代逓信大臣に就任しました。明治15年6月、榎本が興亜会会長時代に興亜会で金玉均の歓迎会を開催しましたが、明治17年12月、金玉均はクーデター(甲申の変)に失敗し、日本に亡命中でした。明治18年4月に天津条約が締結された後に、7月2日に行われた榎本と李鴻章との天津会談[善後商談]の中で露韓密約に関する協議が行われ、その中で『亡命直後の金玉均処遇問題で李鴻章と打々発止[ちょうちょうはっし]とやりあっている。その時の榎本の言動が、国際的な公法によって政治犯は引き渡せぬ、という日本政府の公的立場の主張とばかりとは思えぬ玉金に対する同情があったように感じられた』*²のでした。(琴秉洞『金玉均と日本』)

 以下、榎本から李鴻章への発言例です。*³

 

『我[国]と韓[国]との間には罪犯引渡しの約条なきのみならず[、]国事犯は文明各国で互いに引き渡さざる者なり[。] 之特に憐憫[れんびん]の情にして止まらず即ち独立国の権利なり。』

 

『貴国に於ては大官の独意を以って人を幽閉するを得べきも[、]我が国に於ては皇帝陛下と雖も無罪者を幽閉するを得ず。』

 

『我政府は金玉均等の遁来[のがれくる]を我邦土に居るを許すと雖も[、]決して渠等[かれら]を保護するにあらず。・・・』

(榎本は、犯罪人引渡条約に関し、李鴻章や通訳がなかなか理解できなかったことを記録している)

 

 榎本の発言から、朝鮮国は独立国であり、日本とは二カ国間(bilateral) 条約を結んでいる国であり、清国の属国では無いことを前提に李鴻章との協議(議論)に臨んでいることが良く分かります。

*¹、³「4.第四冊 第十四編 至 十六編/3 第一五編 善後商議」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03030242900、日清交際史提要(1-1-2-54_001)(外務省外交史料館)
アジア歴史資料センターの原資料は手書きであるが、WEBサイトの「きままに歴史資料」の『もう一つの日清会談:日清戦争前夜の日本と朝鮮(11)』http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi047.html では現代文化されている。
*²琴秉洞[クム・ビョンドン]『金玉均と日本』緑蔭書房1991、p.679

 

 

 明治18年11月に清国から帰国した榎本は、決起して挫折した金玉均に共感をもったのか、もともと人情家だからか、それとも江戸っ子の心意気なのか、知人に頼んで金玉均の寄留先を確保しました。

 寺澤正明は彰義隊の敗退で北海道へ逃げ込み、榎本と懇意になりました。東京に戻ってから、向島の榎本邸に出入りするようになると、榎本から金玉均を紹介されました。寺澤は榎本に頼まれ、銀座三丁目二番地の煉瓦造りの家を借り受け、二階を急造し、そこに金玉均を寄寓させました。この話は、寺澤正明の娘と結婚したことで金玉均と交際し、また、金玉均の歯の治療にも参加した歯科医の思い出話です。

出展 葛生玄[タク] 編輯『金玉均』,葛生玄[タク],1916.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1881833 (参照 2023-11-26)、pp.114-116

 

 

 しかし、寺澤正明自身執筆の『彰義隊戦史』*¹によると、寺澤は明治16年8月に来日した金玉均一行が撃剣に関心があることを知り、金玉均一行が宿泊中の築地の旅館を訪ね、交流しました。この時、金玉均は王の命令で三百万円の円借款を求めての来日でした。その後、金玉均が日本に亡命した後、明治18年3月に数寄屋橋で寺澤は金玉均に偶然出会い、再会しました。その後、旅館住まいだと査公*²が度々訪ねてきて煩わしいので、潜伏場所を確保してくれと寺澤は金玉均から頼まれたので、別宅に12名、自宅(前出の銀座)に金玉均を同居させました。明治19年6月、警視庁は、朝鮮から金玉均への刺客が送られ治安の妨害になるので国外への追放を決めました。金玉均を横浜居留地へ移動させ、その後、国外退去を求めましたが言論界の反対が強く、8月に小笠原へ移動させることにしました。

*¹山崎有信 著『彰義隊戦史』,隆文館,[明43]. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/773365 (参照 2023-11-30)、pp.489-490
*²さこう、巡査を親しみ敬っていう語。(コトバンク)

 

 

 このとき、寺澤が戊辰脱走の徒であることが警視庁に知られ、警視総監と大警視から榎本逓信大臣に寺澤の人となりについて問い合わせが入りました。榎本は、寺澤は怪しい人物では無い、『日本男子の特性なり、敢えて奇とするに足らず、窮鳥懐に入れる彼れ義を以て微力を盡す、なんぞ疑う所あらん、探偵吏の虚報却って害毒を醸す』、つまり、よく察してほしいと回答しました。また、『[明治23年7~8月]金氏小笠原より北海道に移され、国会[第一帝国議会]の起こるに先たち、榎本公の盡力遂に拘留を解かる』と記しています。明治23年10月21日金玉均は解放されました。

 明治23年3月13日付けで、永山武四郎北海道庁長官は榎本宛に、金玉均に関する榎本からの書簡へ返書*しています。3月14日に、国民新聞や東京新聞は、永山武四郎北海道庁長官は、金玉均の病気を気の毒に思い、北海道に拘留されていた金玉均を治療のため上京を許されるよう、その筋に願い出て、3月末までに許可されるようだと報道しました。次いで、永山武四郎北海道庁長官は、17日付けで内務大臣山縣有朋に金玉均を治療のため移動日数を除き、90日の上京の許可願いを上申すると、同日中に山縣は同じ内容で青木外相に永山の上申内容の許可について協議したい旨、申し送りをし、青木外相は上申受け入れを表明しました。翌18日に山縣は警視総監に金玉均の上京に関する内訓を発しました。同3月28日に、金玉均は、二度目の病気療養のため札幌を出発し、途中、五日間、小樽に留まった後、東京に向かいました。

(出典 琴秉洞[クム・ビョンドン]『金玉均と日本』pp.540-545)

*国会図書館名士書簡

 

 

 榎本は政府首脳達に積極的に根回しをして、金玉均の境遇を改善しようと努力しました。『東亜先覚志士記伝 下』の榎本伝に書かれた『・・・その斡旋甚だ親切を極めたので之を徳とする者多かった。』ことを示す一例です。

 

【補足】上記の日付は、琴秉洞[クム・ビョンドン]『金玉均と日本』緑蔭書房1991の巻末、『金玉均年表』に依拠および本文を照合しました。

 

 

・東邦協会(Tobo Kyokai)

 

 

 明治22年(1899)2月に憲法が公布され、翌23年11月に第一回帝国議会が開催されました。明治23年1月に「東邦協会」が設立準備に入り、明治24年5月に設立され、会員数は102名でスタートし、25年1月に525名、26年6月には790名に達しました。

 榎本は東邦協会設立賛成者の一人でした。会の活動目的から、日本の植民政策学を確立しようとしていたことが分かります。東邦協会では、榎本は会員名簿に名前が見えるくらいで、東邦協会が各界に主唱し糾合しようとした「支那調査会」の常任委員に推挙されたこと以外、興亜会のように会頭に就任したり、会の運営に関わったりすることはありませんでした。

(『東邦協会々報』(1),東邦協会,1894-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1573734 (参照 2023-11-24))

 

 

 以下は、明治24年5月9日発行の新聞誌『日本』(にっぽん)の東邦協会設立に関する記事です。我々は遠くの西洋を詳しく知るも、近隣諸国の情勢をよく知らないので、まずは、西洋を除いた東南洋を知る必要があるという基調がありました。

 

『[五・九、日本〕 東邦協會の設立

○同會共の廣告及び設立趣意も見ゆる如く東南洋諸地に係る地理、商況、兵制、殖民、國交、歷史、統計等を探知講究する目的を以て起れり。而して此の目的を達する爲めに講究の結果を協會報告として刊行し、又た其の資料を得んが爲めに、通信、新聞、雜誌、著述、 舊記等の文書類を蒐集し、又た実地視察の爲めに追々は探險員を諸地方へ派遣し、又た東洋南洋の知識を蓄へんが爲めに追て講究所を設け又は講談會を開き遂には東洋南洋に係る書籍館[図書館]及び博物館を起さんとの企望ある由、此の會の発起者は南洋殖民に熱心なる福本誠氏、支那内地の探検に従事したる小澤裕郎氏、及び曾て[かつて]支那内地貿易に従事したる白井新太郎氏等にして、其の賛成者は渡邊國武、矢野文雄、榎本武揚、吉川泰二郎、 副島種臣、渡邊清、杉浦重剛、高橋健三、箕浦勝人、小村壽太郎、小山正武、山口宗義、久島惇德、 池邊吉太郎、北村三郎、杉江輔人、三宅雄二郎、井上哲次郎、志賀重昂[しげたか] 、陸実[羯南]等の諸氏なりと云ふ。〔下略〕』

 

 

 会の発案者たちは、大陸浪人風の面々でした。会頭に副島種臣、副会頭に近衛篤麿を推戴しました。明治24年12月24日付けの「会員姓名」には興亜会には決して関わらなかった伊藤博文や後藤象二郎、谷干城ら政府要人の名前があり、26年6月の「会員姓名」に頭山満の名前もあります。サンクトペテルブルクで榎本駐露全権公使の通訳をし、榎本の従者となってユーラシア大陸を横断した市川文吉は、附属の露西亜語学校で代表的な教員となり、「会員姓名」に記載されています。

 

図2.東邦協会附属私立露西亜語学校開校案内

(出典 『東邦協会会報 第一号』)

 

 

 東邦協会の設置趣旨の文中に、西欧列強の第一次産業革命(蒸気機関)により、人間社会に機械が混入したことが、グローバル規模の社会変革を引き起こしたことへの認識を示す箇所があります。

 

『(略)・・・試しに西洋諸邦の実務を見るに、器械工業の進歩は無数の力役者をして生業を失はしめ、無量の工産物をして販路に窮せしむ、彼の諸邦は頻に殖民地を捜り、頻に貿易地を索め、西洋諸州既に尽き、漸く[ようやく]我が東洋に及ふ、・・・(略) 明治24年4月[制定]』(『東邦協会会報 第一号』 明治27年8月、1頁)

 

 

図3.支那調査会準備委員一覧

(明治32年(1899年)10月12日付国民新聞記事から抜粋)

 

 

『支那調査會の構成と其具體策

東邦協會の内に設けられたる支那調査會設立準備 委員諸氏は、一昨日午後四時より 黒田[長成*]同副會頭の招待に應じ偕楽園 に集會したるが、席定まるや副島會頭より本會を以て準備委員會の 第一會となす由を述べ、且つ自分は老體なればとて委員長には黒田副會頭を煩はすとの一言あり、・・・稲垣幹事長よりは多數の委員歴次の集會は煩はしければ 更に三名の常務委員の指名を委員長に願ふべしとの提識あり、於是、黒田委員長は、榎本武揚、會我祐準、福本誠 の三 氏を常務委員に推薦し、又た幹事 三名をおく事となり、・・・』

 

 

 榎本は、東邦協会会報上、寄付一覧に名前は登場せず、会の運営側にも名前が登場しませんが、このときは、榎本がかつて駐清特命全権公使だったためか、常務委員の一人に推挙されました。東邦協会は近隣の政治経済の状況について西洋ほど知識が無いという問題意識があり、またその対象は、南洋地域も知識集約のターゲットに挙げています。

*くろだ・ながしげ、1867-1939、筑前国秋月。父は旧福岡藩主。明治11年家督を継ぎ、17年侯爵。同年〜22年ケンブリッジ大学に遊学。帰国後式部官。貴族院議員、貴族院副議長、枢密顧問官、宗秩寮審議官、議定官など。(コトバンク)

出典
朝井佐智子『東邦協会露西亜語学校の変遷と実態』政治経済学史学169、1980
『東邦協会報告』8,東邦協会,0000. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1488533 (参照 2023-11-20)
『東邦協会報告』1,東邦協会,0000. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1488524 (参照 2023-11-20)
『東邦協会々報』(1),東邦協会,1894-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1573734 (参照 2023-11-20)

 

 

−東邦協会附属露西亜語学校と東洋語学校

 

 

 内田良平、他著『日本人の自伝11』(平凡社、1982)の『内田良平略年譜』では、『1892(明治25) 叔父浩太郎に伴われて上京、講道館で柔道を、東洋語学校*¹でロシア語を学ぶ』とあります。一方、中村武彦監修・内田良平研究会編『国士 内田良平』(展転社、平15)の51頁には『[明治25年]東京では、当時の同志達の関心が支那朝鮮に偏していた事を鑑みて、自らは露国の研究を志す事とし、東邦語学校に入って露語を学びつつ、嘉納治五郎の・・・』と書かれています。しかし、408頁の「関係略年譜」では、明治25年に「東洋語学校でロシア語を学ぶ(19歳)」と書かれています。東洋語学校は榎本に加え、榎本の子分、林董*²[ただす]も加わって賛同して設立されましたが、東洋語学校は明治28年開設なので、内田の上京と三年のずれがあり、さらに、内田は27年の東学党の乱に参加するために渡韓し天佑(祐)俠を結成して活動を続けました。その後、日清戦争が勃発し、内田は現地村民から暴行を受け半死半生となったところを救出されました。内田がロシア語を学んだ学校が、東邦協会附属露西亜語学校にしろ、東洋語学校にしろ、いずれで学んでも内田は榎本と出会う可能性はありました。明治25年開設の東邦協会附属露西亜語学校で学び始めたと考える方が妥当ですが、榎本との接点を考えると東洋語学校でロシア語を学んだ可能性も捨てきれません。この検討をする理由は、後述する日露協会や黒龍会*³の日露開戦に向けた事前活動、さらには、榎本の葬儀に関係するからです。

 

*¹明治28年4月14日東京日日の「東洋語学校設立」記事

『東洋語學校設立
[日清]戦後の通商交通に最も必要なるものは、支那、朝鮮、露西亜の語學なり、此を以て久しく支那に遊學し、彼の事情に最も精通せる山吉盛義氏は此際深く感ずる慮あり、榎本武揚、曾我祐準、林董[ただす]、三浦安等諸氏の賛成を得て、東洋語校を府下芝愛宕下町三丁目一番地へ設立し、彌[いよい]よ明十五日を以て開校し、先づ當分の内は支那、朝鮮及び露西亞語を教授する事に決したる由、教師は支那語に山吉盛義氏、朝鮮語に住永琇三氏、露西亜語に藤堂柴朗*⁴氏等にて、何れも本務の余暇を以て教授する筈なりと云ふ。』
 余談ですが、4月16日の毎日新聞には、『旧幕臣旧交会 春季大総会開催』という記事がありました。榎本を筆頭に約400余名の旧箱館新政府の重役連とその家族が参加し、盛大だったと書かれています。
*²はやし・ただす、1850―1913、佐倉生。明治期の外交官。順天堂創立者の佐藤泰然の五男に生まれ、のち幕府御殿医林洞海(はやしどうかい)の養子[榎本の義兄弟]となる。1862年(文久2)横浜に移り、ヘボンらに英語を習う。1866年(慶応2)幕府留学生としてイギリスに学ぶ。1868年(明治1)帰国し、榎本武揚(えのもとたけあき)軍に投じ箱館(はこだて)戦争に参加。駐英公使時代、日英同盟締結に成功する。(コトバンク)。
*³明治34年2月1日国民新聞記事。
『内田甲[きのえ、後に良平へ改称]、平山周、 吉倉王聖、尾崎行昌、可兒長一、 葛生修亮等の諸氏は、韓清又は浦盬斯德[ウラジヴォストーク]等の地方を漫遊し、目下露獨、佛、英の列強が韓、清兩國に 對する行動を観察し、之れを公表せんとの目的にて、黒龍會なる者を四ッ谷區愛住町二十四番地内田甲氏方に設置し、會則並に旨意書 等を配布したり。』
*⁴とうどう・しろう、1858-1909 明治時代のロシア語学者。安政5年2月4日生まれ。ウラジオストクでロシア語をまなびながら,ロシアの社会事情を調査。帰国後陸軍大学校で教壇にたつ。のちロシアのオデッサ駐在領事をへて母校東京外国語学校(現東京外大)の教授。編著に陸軍教科書「露語教程」,「露語辞典」。明治42年7月18日死去。52歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。(出典 コトバンク)

 

 

・日露協会

 

 

 黒龍会は、内田良平の日露協会設立の経緯を以下のごとくと記しました。

 

『黒龍会では、・・・、日露戦後の必要に応ずべき準備を講する必要を認め、内田等は熟議の結果『日露協會』を設立する計書に着手した。蓋し彼等の考へでは日露戦へば日本の勝利に歸すること疑ひなく、露國は戰敗の結果、革命が起って潰滅し、少くともバイカル湖以東は日本の領有に歸するであらうから、斯る場合西伯利方面へは米國等をして一指をも染むる能はざらしめむ爲め、豫め一個の機開を作って同方面經營の基礎を固め、人心をその方面に誘導する必要があるし、又た若し將來露國に革命が起って従来の 専制政府が倒れた暁には、進んで露國を救ふの途に出で、日露關係を根本的に改善することが東洋の平和を確立する所以の道であるから、その必要からしても、豫め日露協會の如き機闘を作っ て置くことが必要であると信じたからである。』

(黒龍会編『東亜先覚士記伝 (上)』原書房、昭和49、復刻原本昭11、p.685-686)

 

 

 杉山茂丸【補足】があえて親露主義者で対露開戦の反対派の伊藤博文から了解を得るべきだと内田にアドバイスし、内田と伊藤との面会を計らいました。内田は大磯の伊藤邸を訪ね、日露協会設立の協力を求めたところ、伊藤は賛成し、早速、金子堅太郎、都築聲六に伝え、会頭は榎本武揚、理事長、内田良平、理事は中田敬義*¹、鈴木於菟平*²、長田忠一*³、渋沢栄一は相談役の人員で会を構成し、『戦後に処すべき準備に努め、併せて露国事情の調査研究を始めたのである。これが今の日露協会の前身である。』と説明しています。(前掲書、p.689)

 以下、日露協会関連の新聞記事を転載します。黒龍会が内田良平を理事長として紹介していますが、これらの記事では、榎本外相の秘書官だった中田敬義が理事長でした。この陣容から、日露協会が伊藤―榎本路線で作られ、運営されていたように見えます。

出典 内田良平、他著『日本人の自伝11』平凡社、1982、pp.282-293

 

 

・明治35年7月18日、中外商業、「日露協會 發企人會」

『〔7.16、中外商業〕 日露兩國民の 意思を疏通し、其他通商貿易の発達を計るを以て目的とせる、日露協会創立賛成者は、一昨十六日芝紅葉館に於て、創立会を開きたりしが、協議の末創立会を変じて発企会となし、趣意書及規約を修正して之を仮規約となし、左の諸氏即ち、長田忠一、吉倉注聖、中田敬義、内田良平、朝比奈知泉、平山周、鈴木於菟平の七氏を擧げて創立委員となし散會したる由なるが、同會の賛成者は、伊藤侯を始め、井上伯、榎本氏其他朝野の名士總計六十餘名なりといふ。』

 

・明治35年11月26日、時事、「日露協会役員会」

『 日露協會役員會 は一昨日午後[築地三丁目の]同氣俱樂部内事務所 に開き、榎本會頭、中田理事長、原敬、神鞭知常、安藤謙介、竹内綱氏等の相談役、及び理事内田良平、鈴木於菟平、尾崎行昌、平山 周の諸氏来会、先に推薦したる名誉会頭露公使イスヴォリスキー氏就任紹介のため、同氏招請の宴会を12月中旬に開くことを決し、其他会務拡張に関する評議をなしたり。』

 

・明治43年4月26日、報知、「日露協会=復活」

『榎本武揚氏没後[明治41年10月]の日露協會は、適當の主宰者を得ざる爲全く活動力を失ひ、理事長中田敬義氏に依りて漸く餘喘[よぜん]を保ちつゝありしも、會運日に非にして、昨年十一月終に解散の危機に瀕するに至りしが、左なきだに親露派として露國の上下に最も信望の厚き伊藤公爵凶變に罹り、日本の政壇場が武斷主義の山縣派の獨占 に帰したる結果として、露國に於ける武斷的政治家の誤解を招き易き立場に立てるに、國民的外交を盛にし、兩國間に蟠[わだか]まれる誤解ありとすれば之を一掃し、東洋平和の基礎を確立せん目的を以て組織せられたる日露協會を解散する時は、露國政治家に益々奇異の感を及ぼすに至らんも知るべからざるを憂惧し、露國通を以て名ある安藤謙介氏*⁴をして、寺内陸相*⁵に協會の存廃が國交の上に重大の関係ある所以を説かしめたるために、陸相は特に一瞥の力を仮すべきを訳し、山縣公を説きて其心を動かし、井上、松方両侯の同意を求め、桂首相、小村外相、後藤逓相に謀り、少なくとも十万圓の基本金を集め、大々的活動の素地を造らん計画を樹て、南満鉄道、郵船、商船などの露国に関係を有する商事会社及び実業家に向かって、出資の勧誘を試みつつあれば、一旦死期に迫りたりし日露協会も、日ならずして復活し、大々的活動を試むるに至るべしと云ふ。』

 

*¹なかた・たかのり、1858~1943、金沢出身。榎本外務大臣と陸奥外務大臣との秘書官。陸奥の『蹇蹇録』執筆を助けた。出典、レファレンス協同データベースhttps://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000092055
*²すずき・おとへい、 ?~1923。通訳、明治32年東京外大のロシア語講師、明治25年にニコラエフスクで鮭鱒を漁獲・加工。(ロシア語辞典)
*³おさだ・ただかず、1871~1915。父は幕臣、静岡市出身、演劇、伊藤とつながりがあった。
*⁴あんどう・けんすけ、1854~1924、土佐出身。東京外国語学校卒、ペテルブルグ大学留学。明治5年にロシア語を学び、[勝海舟の支援を受けて]明治9年に外務省に入省。明治-大正時代の官僚,政治家。(コトバンク)

沢田和彦『6.安藤謙介のロシア滞在:I.A.ゴンチャローフと二人の日本人』スラブ研究45号、1988
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/sawada/sawada3.html#3
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/sawada/sawada4.html
『1902[明治35]年9月に東京築地3丁目の同気倶楽部で日露協会が創立された 。これは、日露戦争直前の危機的な時期に「日露両国民の意思を疎通し、其他通商貿易の発達を計るを以て目的」 としたものである。会頭に榎本武揚が就任し、安藤は創立委員、次いで相談役の一人になった』
以下、出典 明治32年1月22日 時事記事。
「同気倶楽部」は、明治31年末、烏森町湖月楼で発起
された官民合同倶楽部で、翌32年1月20日に帝国ホテルに西郷従道、板垣退助ら50名弱集まり、創立総会が開催された。設立趣旨を抜粋要約すると、「世界情勢が一変し、東洋の局面はかつてと違い、国内外多事の秋(とき)である。国民夫々の立場から心を合わせ、諸事改善発達しなければならない。朝野、職業の差別無く同気相求め同声相応じ、以て提携共通する。よって倶楽部を組織し一同に会し、相互の交誼を温め、諸般の問題を研究し、互いに智識を交換し、協力し合って成果を出す。」ことを目指した。
*⁵てらうち・まさたけ、1852~1919、山口生。軍人・政治家。初代朝鮮総督、1916年に首相。(コトバンク)

 

 

 日露協会の性格は、松村正義『国際交流史』(星雲社、1996、p.215)によると、次のようなものでした。

 

『当初の同協会は、その頃の内外情勢を反映してロシア事情の調査・研究や日露関係改善などを目的としたものの、同協会の成立に努力したのは右翼団体の黒龍会などであったため、戦後のシベリア経営の準備やロシア国内事情に関する調査などによって、日露開戦に備えようとする意図をもったものとなった』

さらに、松村正義氏(当時、日露戦争研究会会長)は、第146回渋沢研究会(2008年1月19日開催) において、「渋沢栄一と日露戦争:そのロシア観について」講演され、その中で、『日露協会が1902年(明治35年)9月に榎本武揚を会頭として発足し、渋沢栄一が相談役につき、理事に、中田敬義、内田良平がいました。[創立委員の後]相談役になった安藤謙介(勝海舟のグループ)が黒幕となって日露協会を作った』、さらに、「渋沢は、静養のため一旦相談役を辞めた後、快復後、再び相談役としてもどり、日露の関係改善、交流のために尽力した、尚、平和主義者の渋沢栄一は、日露戦前、児玉源太郎が兜町の渋沢の元を訪れ話し合った結果、方針が180度変わった」と説明されました。

 

 渋沢栄一の日露協会での去就については、日記に記されています。

 

・『明治三十五年十一月二十七日

是日栄一、日露協会相談役トナリ、明治三十七年 十月之ヲ辞ス。

青洲先生公私履歷台帳 (渋沢子爵家所蔵)

○民間略歴(明治二十五年以後)

慈善其他公益=関スル社団及財団

[、]日露協会相談役 卅五年十一月廿七日 三十七年十月辞』

 

・『明治四十一年十月七日

是日、当協会主催ロシア特命全権大使マレウヰチ(Sénateur Nicolas Maléwsky Maléwitch) 歓迎晩餐会、

 芝公園內紅葉館ニ開カレ栄一、之ニ出席ス。』

 

・『渋沢栄一 日記 明治四一年 (渋沢子爵家所蔵)

十月七日 曇冷

○上略 夜七時紅葉館ニ抵リ、日露協会ノ催ニ係ル露国大使歓迎会ニ出席ス、花房氏(義質)  ヨリ大使ニ対スル歓迎ノ詞アリ、大使之ニ答へ、後共ニ杯ヲ挙テ万歳ヲ祝シ、夜十時散会帰宿ス』

 

・『時事新報 明治41年10月9日 露国大使歓迎会

日露協会は、七日芝紅葉館に於て露国大使マレウキヰツチ氏の歓迎会を 開けり、午後六時露国大使は書記官カザコフ・公使館附大佐サモイフ総領事ゲロッセ氏等と共に来会、小村外相・後藤[新平]遞相*・尾崎市長・松尾日銀総裁・高橋副総裁・渋沢男[爵]・石井外務次官・倉知・荻原両局長 添田・早川の諸氏、其他会員六十余名の出席あり、先づ露国の慣習に 倣ひ、本宴会を開くに先ちザクースカとて態々露国より取寄せたる露酒露肴に依る立食の宴会を開き、終って一同本席に着するや、榎本会頭病気欠席の為め花房子[爵]代り立ちて左の挨拶を為したり・・・』

*逓相、ていしょう。後藤新平は、1908年7月から1911年8月まで第18代逓信大臣を務めた。(第20代も務めた)
「ごとう・しんぺい、1857.6.4~1929.4.13、明治・大正期の政治家。陸奥国胆沢郡生れ。[現、福島県立医科大学で]医学を学び愛知県病院長などをへて1883年(明治16)内務省に入り衛生行政に尽力,98年から台湾民政局長(のち長官)として植民地行政に卓越した手腕を発揮した。1906年初代南満州鉄道総裁,08年第2次桂内閣逓信相を務める。16年(大正5)寺内内閣の内相,18年外相に転じてシベリア出兵を推進した。第1次大戦後の欧米を見聞し,社会改革推進の大調査機関設立を提案した。20年東京市長に迎えられ都市計画などにとりくむ一方,23年には極東駐在ソ連代表ヨッフェを日本に招致して会談するなど,日ソ国交調整に尽力した。関東大震災時には内相として東京復興計画立案の中心となり,23年末,第2次山本内閣の総辞職とともに下野し,以後政治の舞台には立たなかった。」(コトバンク、山川出版)

出典 
竜門社 編『渋沢栄一伝記資料』第25巻 (実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 第22),渋沢栄一伝記資料刊行会,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3016162 (参照 2023-11-20)

 

 

 榎本は、7月13日に発病し、10月27日*に薨去しました。この新聞記事から、花房義質が榎本会頭の代わりを務めたので、花房が副会頭か理事長であったことがうかがわれます。また、この歓迎会に日露協会会員が60名以上出席したことから、当初の会員規模60名程度が維持されたことが分かります。内田は、明治39年に、初代朝鮮統監、伊藤博文に随行して渡韓し、以降、日韓合邦を目指して、朝鮮の一進会と共に活動していました。

*各新聞社は10月26日に榎本の死亡記事を出し、榎本の人生の特集記事を組みました。榎本の墓には、10月27日に死亡したと刻まれています。

 

 内田が日露協会設立を起案し、その人事を安藤が仕組んでいったのか、日露協会設立後の内田ら黒龍会員の行動に榎本が関わっていたのかを示す史料は見当たりませんが、黒龍会はロシアの機先を制し、『鎮海湾愚痴の臥島及び馬山浦湾口の釜島を買収せしめ』、露清国境周辺のアムール沿岸の馬賊と提携*¹して、東清鉄道のイルクーツク側の線路(満州里)の爆破、バイカル湖でシベリア鉄道の移送貨物を中継する船の爆破を計画するあたりは、まるで榎本が黒龍会を指揮していたが如くです。また、満州が世界のために用を為していない事を批判する見方も榎本と似ていて、榎本からアムール川一帯、及び清国側の満州について講義を受けたのだろうかと思わせます。そもそも、黒龍会の黒龍は榎本が絶賛したアムール川、黒龍江の黒龍です。アムール川を会の名前に使うところからして、隠された、榎本と内田、さらには旧福岡藩の人脈*²との関わりが予感されます。

 榎本武揚には、明治39年4月、日露戦争への貢献で、三千円が下賜されました。そして、明治41年10月の榎本の海軍葬に参列する民衆の長蛇の列の最後尾には、黒龍会の旗(幟)をたてて追従する一群の志士がいたと伝えられています。榎本武揚は大アジア主義者ではありませんが、アジア諸国の交流を興し、アジア主義の萌芽を作り、アジア主義のパイオニアとして多くの志士たちから尊敬されていました。

 

図4.『榎本子爵官歴』

(東京朝日新聞 明治41年10月27日四面記事から抜粋)

 

 

・「民間団体」まとめ

 

 

 榎本が参加した多数の民間団体の中で、産業立国と安全保障に関わる民間団体に着目し、全国に殖産興業を起こし、日本を産業立国にしようとした「萬年会」、世界の地政学的情報を把握しようとした「東京地学協会」、アジア諸国の交流を起こし、友好関係を築こうとした「興亜会」、東南洋、特に東アジアの植民地とロシアの諸情報を収集し、知識化し、植民政策学を確立しようとした「東邦協会」、日露両国民の友好と日露戦後の経済政策模索を目的とした「日露協会」を紹介しました。

 出席していたのかも不明な「萬年会」に関し、後の評価で榎本は賞賛された一人でした。榎本の業績を知ろうとすると、榎本の周囲にいる人物や関係した人物達から榎本の活動、関わりについて証言を集めなければならない点はやっかいですが、活動状況が具体的に見えなくとも、しっかり活動しているという点が榎本らしいところです。まだまだ見えていない、見つかっていない榎本の功績が多数、土埃の下に埋まっていると考えるべきです。

 榎本駐清公使は、上司の井上外務卿からの指示を守って李鴻章と交渉していますが、能力的には榎本が井上より上ですから、榎本が井上の上司になるところ、立場が逆転しています。そこで、榎本は重要な政治的決断について、事前に意見を提出することはできても、決定を下すことは出来ません。そういう非主流派、非薩長閥の悲哀の中で、君恩に報いるため、その境遇を嘆かず、黙々と、自分が置かれた立場の中で国利民福の増進に貢献できることを、政府の中で出来ない分は民間団体での活動で補いながら、自分が目指す(設計した)国家作りへ邁進していたことが、民間団体の活動から読み取れます。

 榎本は、幕末に儒教的歴史解釈をしたり、古代大和朝廷の再来、復活を願ったりした幕末尊皇派と異なり、近代的な複数の科学技術(諸学科連合)、政治地理学、歴史学、国際法などなどの総合的かつ最先端の知識で武装したエンジニアであり、明治時代、御国風(おくにぶり)を尊重しながら、世界を相手に、国家の繁栄や国民の幸福(福祉)のために尽くす志士、国士であったと解釈したほうが、その人物像は分かり易いのです。

 

次回は全編の最終回です。

(了)

 

 

 

*¹渡辺龍策「Ⅱ謀略馬賊の登場」『馬賊 日中戦争史の側面』中公新書40、1964
 長谷川怜「日露戦争と戦場の諜報戦」『軍事史学 166号』軍事史学会編集、平18、pp.120-125
*²日露戦争の戦場外で旧福岡藩(修猷館、玄洋社社員)出身者が多数、関わりました。
栗野慎一郎駐露公使、明石元二郎駐在武官(大佐)、山座円次郎(宣戦布告文起草)、内田良平ら黒龍会や玄洋社が結成した満州義軍です。榎本が駐露公使時代すでに栗野慎一郎を買っていて、明治19年に青木周蔵外務次官と衝突し、外務省から追い出されるとすかさず榎本逓信大臣は栗野を逓信省に秘書官として迎えました。また、明治24年5月に榎本が外務大臣に就任すると、条約改正のために外務省に政務局を新設し、初代局長に栗野を迎えました。このとき、榎本は大津事件の後始末のために求められて外務大臣に就任しました。林董『後は昔の記』(平凡社、昭45、69頁)で、榎本が外務大臣に就任するとき、次官として招聘されたので、受けたが、榎本が漢学者風の正直者だったために生じた、ひどかった仕事ぶりをいくつかあげていて、最後に、栗野政務局長の話を信じて、『大阪府の投棄者大三輪長兵衛*³の為に二万円の金を棄てた』と榎本を非難しています。二万円は榎本のポケットから出たのか、政府から出たのかは確認していませんが、いずれにしても、どのような話だったのかも不明です。大三輪は当時、日本人として初めて、朝鮮国王(高宗)から、朝鮮の貨幣制度の確立のため従二品(日本の従二位)に叙せられました。榎本もこの件に関し関わったので、お金を出したのか、それとも個人の利殖のためなのか。しかし、林董が書き残した榎本外務大臣の様子は海軍卿時代とは大違いで、お人好し丸出しで、仕事は緻密さを欠いていたことは、意外ですが、急遽外務大臣に就任したにもかかわらず、実現したかった殖民政策を早速実行してみせるところも榎本らしさである。フランス公使だった栗野は、明治34年に桂太郎首相の説得で駐露公使へ異動し、同年にフランス公使館付陸軍武官に就任した明石も翌年、ロシア公使館付武官へ転任しました。栗野は、修猷館の後輩、山座円次郎が起草した宣戦布告文をロシア政府に提出しました。明石の工作はあまりに有名でここに記しません。満州国境付近では、内田らが馬賊*たちを糾合して後方攪乱の準備をしていました。
*³おおみわ・ちょうべえ、1835-1908。
幕末明治期の大阪の実業家,政治家。李朝(朝鮮)政府のお雇い外国人をも勤めた。福岡,筥崎宮の神職大神嘉納の嗣子。・・・安政5(1858)年には大阪で商人の見習いに入り,北国問屋業(海運業)を始め,松前問屋を開業し,明治初年には同業者の中で有力者の地位に立った。明治10年代には,第五十八国立銀行や手形交換所の創設に努め,大阪の実業界で重きをなす一方,大阪府会,大阪市会議長なども務めた。また,明治24(1891)年8月,朝鮮政府の招聘で貨幣制度改革を進めようとしたが,実現には至らなかった。そののち,京釜線敷設権獲得交渉や日露戦争直前の「日韓議定書」調印を巡って日本政府の意向を背景に朝鮮政府と交渉を進める役割を演じた。(高嶋雅明、コトバンク)

大三輪は、明治24年に貨幣制度改革のため渡韓し、明治27年に明治27年に林有造(1842-1921、土佐・宿毛)・竹内綱(1840-1922、土佐・宿毛)と京城に入りました。榎本は明治24年5月から明治26年8月までの間、外務大臣を務めました。榎本が大三輪に二万円を渡したのはこの間です。一方、榎本は、明治25年7月9日付の松方正義首相宛ての書簡で、『拜啓、陳ハ大三輪長兵衛近來之行爲二付而へ、林有造も迷惑致居候旨、過日御示之書中二 相見居候二付、爲念直二事實之有無、林へ尋遣候處、左記之通申來侯二付、不取敢、爲御知申上候、爲此、草々敬具、』と書き送りました。また、明治25年3月19日に榎本は松方に、大三輪長兵衛斡旋による横浜正金銀行から李氏朝鮮への貸付利子に関する書簡を送りました。その書簡では、大三輪の朝鮮での企てを妨害する外国勢力の陰謀を排除しようとしていると書いています。榎本と福岡出身の大三輪と栗本らとの間になんらかの関係があることが分かりますが、詳しくは明らかになっていません。
参考 葦津泰國[あしづやすくに]『大三輪長兵衛』葦津事務所、平成20、pp.166-171

【補足】杉山茂丸、すぎやま・しげまる、1864‐1935、・・・福岡藩士の家に生まれた。

ルソーの《社会契約論》で自由民権の思想にふれる。・・・頭山満を知り,国権論者として歩みはじめる。89年大隈重信外相襲撃事件に連座して投獄される。結城虎五郎,荒尾精らと日本の朝鮮・中国への進出を策し,南満州鉄道株式会社創設や,日韓併合の裏面で暗躍する反面,博多湾築港,関門海底トンネル事業など,郷土開発のために尽力した。(コトバンク)

堀雅昭『杉山茂丸伝』弦書房、2006には、内田に伊藤へ会いに行くように勧めた話は登場しない。また、年譜(p.204)によると、杉山は明治30年9月に渡米し、11月に帰国し、入手した書類を金子堅太郎に渡し、官営八幡製鉄所建設に貢献し、また、農商務大臣を辞めたばかりの榎本を宴会に招き(p.98)、製鉄所建設の必要性を説いたことになっている。

榎本は明治30年3月に農商務大臣を辞職した。金子堅太郎は辞職せずに農商務次官として残っていた。ここで考えられることは、榎本らはドイツから技術移転を計画したが、建設が始まると、米国の大量生産方式を一気に実現しようとして当初の計画を変更したため、失敗を繰り返し、製鉄所内でも榎本の息のかかった今泉嘉一郎のグループとこの場合は金子の方針を推し進めようとしたグループとの対立が生じた。政府には製鉄事業調査会が設置され、会議室では、大臣には「技術の観念が無い」、「事業思想と云うものはない」、これは仕方ないが、技術上の思想がある、愛するところがある榎本君があの際に居られたらならば、・・・と怒号が飛び出していた。東京では新聞社が今泉を支持する記事を出し続けていた。この記事は八幡に届いていて、現場で話題となった。恐らく、榎本が仕組んだ情報戦と考えられる。最終的には、榎本たちが当初企画したドイツ式の生産方法の成果と需要を確認しながら少しずつスケールアップする方法に立ち戻ることになった。『杉山茂丸伝』の官営製鐵所と榎本に関する記述から判明したことは、八幡製鉄所建設の当初の混乱がアメリカ式の生産方法の導入を専門家ではない金子堅太郎と杉山茂丸が持ち込んだために生じたということであった。

注:本稿は、以下の講演資料を基に作成しました。

中山昇一『試論 榎本武揚の人物像を探る-続 民間団体と榎本武揚 そして、人物像を探る』横浜黒船研究会講演資料、2019.5.12


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