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榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-(上)

2023.08.17 Thu

明治18年12月22日に内閣各大臣が任命される約半年前の人気投票

 

 

榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-(上)

 

 

・榎本と海外対応の民間団体

 

 

 海外情勢に注目した東京地学協会(設立、明治12年)、興亜会(設立、明治13年)、東邦協会(設立、明治24年)、日露協会(設立、明治35年)と榎本との関わりについて紹介します。東京地学協会は、英国王立地学協会や帝立ロシア地理学会などを参考に設立された、地球規模の地上、地下の情報を総合的に扱い、国利民福の増進に役立てる団体でした。興亜会はアジア諸国の交流と独立のための親睦団体であり、附属のシナ語学校を有していました。東邦協会は、東京地学協会が全地球を対象としている事に対し、対象を東南洋にするとし、創立翌年の明治25年に露西亜語学校を設立すると、後に黒龍会を設立する内田良平が入学し、続いて内田はシベリアを徒歩で横断し、帰国して後、明治34年に「黒龍会」を設立し、附属の露西亜語学校も設立しました。日露戦争が近づいた明治35年、内田は「日露協会」を設立することにし、榎本が会長に就任しました。

*榎本隆充・高成田亨編・共著『近代日本人の万能人 榎本武揚』(藤原書店、2008)、pp.179-184

補足
明治27年4月17日の読売新聞記事で榎本武揚を会長とした日露協会の設立準備が進んでいることを報じている。発起人は、曲木如長(まがき・ゆきなが、1858-1913)、村松愛蔵((1857年3月27日)、桜井平吉(1853-19200)、武藤精二郎(?)、古川富一郎(ふるかわ・つねいちろう、?)ら十数名、駐日ロシア公使、領事らは名誉会員となることを承諾しているというが、明治35年設立の日露協会との関係は不明である。

 

 

【東京地学協会】

 

 

 榎本はオランダ留学時代既に、鉄道を使って旅行に出かけ、ロシア公使となってサンクトペテルブルクに着任するとすぐ、フィンランド大公国(1809-1917)へ旅行に出かけるなど、しばしば、休暇旅行と称してヨーロッパのあちこちを現地視察しました。その原点は、19歳にして国境を議論している樺太の現地調査の旅行をした事にありますが、更に拍車がかかったのは、榎本のオランダ留学時代にあると言えます。榎本がオランダにいた時代(1863-1867)、プロイセン軍のモルトケ参謀総長はデンマーク(1864)、オーストリア(1866)に連勝しました。特にオーストリア戦は、モルトケが事前に推し進めていたオーストリア国境に延びる鉄道網と電信網とを利用した「分進合撃戦」による勝利でした。自ずとプロイセン軍に関心は集まり、はじめて大活躍したプロイセン参謀本部が注目されます。

 

 プロイセン軍の参謀本部の起源は、19世紀初めのクリスチャン・フォン・マッセンバッハ中佐(Freiherr Christian von Massenbach1758-1827、プロイセン軍人)の提案によるものでした。クリスチャン・フォン・マッセンバッハ中佐は、『1802年に、統合的な参謀本部案を書き上げたのである。その内容から見て、これは後のプロイセン参謀本部の組織の骨格』になりました。その案の第二のポイントは、『参謀将校の教育プランの必須項目として平時における「旅行」(Reisen、独語)というのがある。これは軍隊を動かす可能性のある土地を平時のうちに旅行させておいて地理を頭の中にたたきこませておくためだった。そしてこの偵察旅行計画は国内に限らず、外国にも及ぼす』*¹ことでした。後にモルトケ参謀総長の部下、メッケル*²が日本陸軍を教育する中で参謀将校の各種旅行を制度化しましたが、それ以前から参謀将校に限らず、軍事、外交関係者が種々の目的をもって各地を旅行することの重要性を榎本は理解していました。

 

出典 渡部昇一『ドイツ参謀本部』中公文庫、昭和61年、p.66。原著は、昭和49年、中公新書381、中央公論社刊

樋口俊作『日本陸軍の白兵主義再考 その 2(全 3 回)』防衛研究所、NIDS コメンタリー第 232 号、2022
『明治18~21(1885~1888)年にかけて日本に滞在した、ドイツからのお雇い外国人であるヤーコブ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel))は、図上戦術、兵棋演習及び演習旅行といった教育手法を日本陸軍にもたらしている。・・・』

 

 東京地学協会報告第一巻第1号(p.7)に、設立経緯が報告されています。

『現今地学ノ用日月多キヲ加エルノ形成ニ當リテ同心協力以テ此學ノ進歩ヲ謀ルノ道ナキヲ憂ヒ明治十二年二月廿二日鍋島直大、長岡護美、榎本武揚、赤松則良、花房義質、渡邉洪基、北澤正誠、桂太郎、堀江芳介、柳猶悦、梶山鼎介、伴鐵太郎、黑岡帶力、會根俊虎等、上野公園內精養軒集會、本會設立主旨ヲ議シ、鍋島直大、長岡護美、渡邉洪基、桂太郎、北澤正誠ヲ撰シテ規則立案ノ委員トシ北白川宮三品*能久親王殿下ヲ推シテ社長トシ、本案成ルニ、三月二十一日鍋島直大、榎本武揚、渡邉洪基、桂太郎、北澤正誠、河瀬秀治、花房義質、小澤武雄、柳楢悅、堀江芳介、伴鉄太郎、黑岡帶力、關義臣、山田行元、牧野毅、島弘義、竹添進一郎等、學習院ニ会シテ、左丿規則ヲ設、東京地學協會ヲ設立スル事ヲ議決ス』(読点は筆者挿入)

*三品、さんぼん。親王の位階の第三位。(コトバンク)

 

 明治12年春、日本での地学協会設立を榎本(44歳)*¹と花房義質(37歳)に、渡邉(33歳)がもちかけると、二人とも渡邉と同じく、日本に地学協会が必要であると考えていたので、共に尽力することになりました。渡邉は更にオックスフォード大学留学中、王立地学協会*²会員だった鍋島直大(なおひろ、佐賀、1846-1921)に東京地学協会設立の企画を話すと、鍋島は、同時期、ケンブリッジ大学に留学中、同じく王立地学協会会員だった長岡護美(もりよし、熊本、1842-1906)と共に会設立に尽力することにしました。

2月に条約改正取調御用掛になる。

1830年にThe Geographical Society of London が設立された。後の1859年に女王から勅許され、The Royal Geographical Society になった。出典 https://www.rgs.org/about/the-society/history-and-future/

鍋島、長岡はこの王立地学協会(当時は、勅立地学協会と訳された)の会員だった。

 

 上記は東京地学協会が公表した設立経緯でした。明治11年、榎本は青木周蔵とともに北ボルネオの租借権を購入する提案をしました。青木は把握していたか否かは不明ですが、初代駐日公使だったオールコックは、この時期、王立地学協会の会長(1876-1878)職にあり、しかも、北ボルネオの租借権の獲得に向け、動いていました。地学協会が扱う情報は有識者や各界上層部で議論され、経済活動や安全保障に利用されることを榎本や渡邉、花房、鍋島、長岡は理解していたので、地学協会設立に向け、早い動きをしました。

 東京地学協会は、明治12年2月22日に設立準備会を開き、3月21日に発起人会を開催し、4月26日に第一回例会を開催しました。同年6月、参謀本部は『清国朝鮮沿岸の地誌並に地図を詳らかにし、有事の日に当てその参画の図略に供するは目下緊要の用務とし、その為の将校若干名を清国に差遣する』*ことにしました。外交関係者がロシアの南進に対抗し、参謀本部が朝鮮半島と清国の沿岸に関心を示していたことは、軍が清国・朝鮮沿岸への上陸を模索していることを意味していました。

*山近久美子、渡辺理絵『アメリカ議会図書館所蔵の日本軍将校による1880年代の外邦測量原図』「地図」2008年46巻Supplement号p.10-13

 

 榎本と花房はともにサンクトペテルブルグの日本公使館に駐在し、共にロシア側と外交交渉、折衝をしていく間、帝立ロシア地理学会が、ロシアの広大な領土の管理のため地理的環境、経済状況、民族と生活、地下資源、生物など、地上と地下の情報を収集するために数々の探検を行い、探検報告記から情報を分析し、国政に寄与していることを知りました。樺太の領有権に関連する現地調査(探検)を帝立ロシア地理学会は行い、その調査結果による議論も行われました。

 ロシア地理学会のホームページには、発足当時、『新しい組織の主な目的は、最高の若いロシア軍を集めて故郷の包括的な研究に導くことでした。』、『さまざまな年に、ロシア地理学会はロマノフの皇室のメンバー、有名な旅行者、探検家、政治家によって管理されていました。』*と記されています。東京地学協会の構成メンバーや活動内容も似ていました。東京地学協会の会員は、外交、軍、政治家、歴史地理学の研究者で構成されていました。サンクトペテルブルグで地球上の出来事や地下の資産に考えをめぐらし、ユーラシア大陸を横断しながら探偵(探検)を遂行した榎本の影響力は、東京地学協会の設立にあたり、非常に大きかったと言えます。

*出典:(英語版)  https://www.rgo.ru/en/society/history  (RUSSIAN GEOGRPHICAL SOCIETY/History)
   創立は1845年。会の名称は度々変わった。1850-1917の間は、「帝立ロシア地理学会」”the Imperial Russian Geographical Society”と称した。

” The main aim of the new organization was to collect and to guide the best young Russian forces to a comprehensive study of the native land.”
“In different years the Russian Geographical Society was managed by members of the Imperial house of Romanov, famous travelers, explorers and statesmen.”

 

「東京地学協会報告第一巻第一号」に、五人の働きかけで設立準備のため、『赤松則良、北澤正誠、桂太郎、堀江芳介、柳猶悦、梶山鼎介、伴鐵太郎、黑岡帶力、會根俊虎等』が集まったことが記録されています。

この人々の特徴は次のようでした。

 桂太郎と黒岡帯刀は陸海軍で参謀組織設立を企画し、実現しました。梶山鼎介(かじやま・ていすけ、1848-1933、長州)は参謀業務、地理業務との関わりが強く、また、清国や朝鮮に駐在しました (出典 コトバンク、Wikipedia) 。明治16年4月、東京地学協会で「鴨緑江紀行」(付図)を演説しました。堀江芳介(ほりえ・よしすけ、1845-1902、長州)は歴戦後、明治11年12月参謀本部管東局長に就任しました。柳猶悦(やなぎ・ならよし、1832-1891、三重・津藩)は海軍伝習所一期生、当時、海軍大佐・水路局長でした。伴鐵太郎(ばん・てつたろう、1825-1902、幕臣、海軍伝習所二期生)*¹は当時、柳猶悦水路局長の副官でした。北澤正誠(きたざわ・まさなり、1840-1901、松代藩)*²は佐久間象山の高弟で、象山暗殺後、事後処理を行い、象山の遺物を勝海舟に届けました。明治8年6月に地理寮修史局に出仕し、塚本明毅*³と『全国地誌』を編纂し、明治10年8月に外務省書記官に異動し、当時、外交の参考指針に供するため、日本の二千年の歴史を分類・整理した『外交志稿』を編輯(編集)中でした。曽根俊虎は中国大陸を舞台に情報将校の活動をしている海軍大尉でした。曽根については後述の「興亜会」で紹介します。

 榎本の弟分、赤松は、横須賀造船所長を経て、当時は海軍省副官兼東海鎮守府司令長官でした。赤松は明治新政府、初の海外派兵である台湾出兵時、西郷従道都督のもと艦隊指揮をしました。海軍では技術系のトップの位置にいました。花房はサンクトペテルブルクの公使館に駐在中、顧問のポンペ、榎本らと協力して、『朝鮮教会史』(仏)を和訳し、明治9年に刊行しました。花房は、当時、鎖国中の朝鮮に関し国内で最新の情報を持つ一人でした。明治10、12年に花房に情報将校の海津三雄陸軍工兵少尉が同行*⁴しました。海津少尉は沼津兵学校を経て陸軍教導団(下士養成)に入団しました。海津は花房に随行しながら地図を作成し、後に東京地学協会で報告しています。花房はまさにロシアの南進阻止という日本の安全保障の最前線にいました。

藤井哲博『長崎海軍伝習所』中公新書1027,p.18
岩生成一『忘れられた歴史・地理学者北沢正誠』学士院紀要1987年42巻1号p.1-14
つかもとあきたけ、1833-85、江戸下谷山下で出生、長崎海軍伝習所1期生、明治5年の太陽暦変更事業を指揮、「日本地誌提要」を編集、東京地学協会の創立委員。海軍軍人、地誌学者。(秋元信英、コトバンク)
*⁴渡辺理絵、山近久美子、小林茂『1880年代の日本軍将校による朝鮮半島の地図作成』「地図」Vol.47 No.4 2009

以下、亜細亜歴史資料センターを参照した。

「海津少尉朝鮮ヘ差遣」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090445800、帝国陸海軍将校海外派遣雑件/陸軍ノ部 第一巻(5-1-10-0-4_1_001)(外務省外交史料館)
「12.10 参謀本部附申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070962100、明治11年12月 報知牒(防衛省防衛研究所)
「12.11 朝鮮国へ被差遣の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070962200、明治11年12月 報知牒(防衛省防衛研究所)
明治11年12月5日に参謀本部が設立されると、同月10日付けで海津三雄陸軍少尉は参謀本部附を申しつけられ、翌11日付けで朝鮮国へ派遣命令が出た

 

 東京地学協会の設立準備に集った面々は、陸海軍の参謀系組織の企画者、地理図誌(兵用地誌)や水路図誌作成の専門家、外交関係者さらに総合的な外国との関係に注目した日本史の編纂者でした。東京地学協会を企画しに集った面々からすると、とても社交クラブを画策するような人々ではありません。設立準備に集まった人々の専門領域を並べてみると、外交でロシアの南進を抑え、軍は朝鮮、清国へ外征する準備を進めているように見えます。

 榎本は、駐清国特命全権公使時代の明治15、6年を除き、明治12年から32年まで副社長(2名制)を勤めました。明治32年に創立20周年を迎え、社団法人へ組織改正を行い、総裁が置かれたので、翌明治33年から榎本が薨去する明治41年まで会長を務めました。生涯「電気学会会長」であったのと同じく、東京地学協会でも実質的な社長から始まり、薨去するまで社長を務めたことは、多くの会員たちの地政学における榎本への尊敬の念を感じさせます。

 明治12年4月26日開催の東京地学協会、最初の演説は、島弘毅*¹による『満州紀行抜書』(付図)でした。明治6年12月9日付けで島陸軍中尉には、清国および台湾に派遣命令が太政官から下されました。同月22日に榎本は函館で帰郷願を出し、翌年1月に海軍中将を拝命し、3月にサンクトペテルブルクへ向け出帆し、樺太の領有権に基づく交渉を開始しました。大久保利通は、4月に台湾出兵のため、台湾蕃地事務局を設置しました。島は、同年12月14日に陸軍参謀局分課に配属され、清国で情報将校の活動を続けました。島が演説の付図*²とした満州の地図は、書誌事考に作成年不明と記されて米国議会図書館に収録されています。

 東京地学協会の最初の演説者が陸軍参謀局時代(明治4年7月-明治11年12月)*³からの情報将校で、清国内陸部での密に地図作成が容易でないためか、演説の対象地域が満州であることは興味深く、外国からの外交官や日本に駐在の外国人らに日本の諜報能力を示す良い機会でした。また、島の報告書に「馬賊」が登場することも興味深い。島が作成した満州の演説付図(地図)中には、馬賊の活動地域が記されています。日露戦争開戦直前、日本もロシアも戦線の後方攪乱のため、馬賊の取り込みにやっきになりました。

 

出典
1.「島陸軍少尉外一名清国台湾ヘ差遣」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01000017100、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第八十七巻・外国交際三十・諸官員差遣二(国立公文書館)
2.「野崎弘毅外5名拝命の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04026159000、明治7年 「大日記 第3号 10月より元 3号参謀局」(防衛省防衛研究所)

Manshū kikō fuzu | Library of Congress (loc.gov)
佐藤 光、師橋 辰夫「明治初期測量史試論 —伊能忠敬から近代測量の確立まで2—」『地図』日本地図学会、16 (2), 36-40, 1978

 

 明治11年7月に榎本がサンクトペテルブルクを離れる一ヶ月ほど前、スウェーデンを出港した汽船ヴェガ号のノルデンショルド博士や乗組員は、苦難の末、北氷洋周航に成功し、明治12年9月2日に横浜に寄港しました。前月25日に、独乙亜細亜協会社長から東京地学協会副社長の榎本へ書簡が送られ、ヴェガ号乗組員一行を東京地学協会、英吉利亜細亜協会、独乙亜細亜協会とで合同で饗応する提案が有りました。社長不在、もう一人の鍋島副社長が不在のため、榎本のリーダシップの下、三者共同で歓迎会(饗応)が西洋基準で行われました。

 

 榎本は、明治15年(1882年)2月24日、3月31日に『千島疆界考付露寇遺聞』*と題した講演をしました。演題の英語表示は次の通りです。

Histrical notes on the Russo-Japanese boundaries. — A Fragment of the Russian intrusion, by mr. Enomotto .

Histrical  はHistorical、mr.はMr.の誤植です。意味は、「日露国境に関する歴史的メモ — ロシア侵略の断片」です。Enomottoは誤植などでは無く、榎本はこう署名していました。

*公益社団法人東京地学協会HP、例会開催報告 (geog.or.jp)

参考:千島境界露寇風聞の代表的事件は、文化露寇、文化3,4年(1806、7)にロシア帝国から派遣された日本外交使節のニコライ・レザノフの命令で行われた、樺太、択捉島の日本人部落への襲撃や利尻・礼文島の日本船を焼き討ちにした事件など。出典:コトバンク

 

 冒頭、榎本はポロンスキー著『「クリル」諸島記』をロシア公使館駐在員と協力して邦訳、執筆し、外務省へ提出した『千島誌』、および、国内で散出しているクリルに関する紀事*¹を参考にした続編を補い、皆さんにお聞き戴きたいという主旨を発言し、二回に分けて演説を行いました。露寇とは、ニコライ・レザノフ(1746-1807)が露米会社*²の理事に就任し、ロシアの皇帝アレクサンドル一世の使節の資格をもち1804年に長崎へ開国を求めて来航しましたが、幕府から拒絶され、その後、曖昧な指令を出したことが原因で、露米会社の艦船が樺太や千島列島を襲撃した事件です。その後、シベリア経由で帰国中、1807年3月1日、クラスノヤルスクで病死しました。総督の命を待って、露米会社が1831年8月13日に功績を称えて大きな墓碑をクラスノヤルスクに建立しました。(諏訪部揚子・中村喜和『榎本武揚 シベリア日記』p.109-110)

事実の経過を主とする記述法。(コトバンク) 
露米会社、Rossiisko‐amerikanskaya kompaniya、1799-1867、拠点はイルクーツク、1800からサンクトペテルブルクへ移動。北太平洋のグレート・ゲームと榎本武揚 | 情報屋台 (johoyatai.com) を参照。

 

図1. レザノフが葬られたクラスノヤルスク

 

 

 レザノフが日本に開国を迫り貿易を求めた背景に露米会社の経営の行き詰まりがありました。現地のロシア人たちの食糧確保など含めて、日本との貿易は重要な解決策でした。露米会社の資金源は毛皮の乱獲や不十分な捕鯨システムだったので経営困難に陥り、1867年にロシアはアメリカにアラスカを売却し、北米の経営から撤退することになりました。

 榎本は、明治11年(1878年、43歳) にサンクトペテルブルクからシベリア経由で帰国する途中、8月18日の日付が変わった深夜1時にクラスノヤルスクに到着しました。翌19日、11時に『ヴォスクレンスキー寺院を訪れてレザーノフの墓を見る。寺僧はわたしを迎えて墓に詣でるのを丁重に見守っていた』と日記に記しました。(諏訪部揚子・中村喜和『榎本武揚 シベリア日記』p.107-109)

 1854年に蝦夷にいた榎本(19歳)は、今から約70年前の出来事とは言え、父親の代の出来事なので、それほど昔のことという感覚もなく墓前に詣でたのでしょう。榎本の解説では、レザノフが帰国する際『三個ノ訓状』を奉じ、第三條には日本が開国すなわち貿易を拒んだら、サハリン南端の日本人居住地域を取り、これにより日本政府がロシアとの貿易は止むを得ないとして条約を結ばせる、と書かれていました。榎本はレザノフの人物の器が小さく、総てに怒りやすく、総てに悔い、自ら苦しみ、止むを得ず、心変わりを曖昧にした令状を、露米会社(榎本は「露米商社」)の部下「ホウストフ」(フウォストフ海軍大尉、コトバンク)に送ったことで、露寇が起きたと説明しました。(詳細は、『明治十四年 東京地学協会報告 全』を参照)

 榎本は露米会社設立後のロシアからの日本への軍事力を背景にした外交圧力の初期の歴史を紹介しましたが、何故、榎本がユーラシア大陸横断旅行(軍事探偵)の演説をしなかったのか、不明です。榎本にロシア海軍が朝鮮の元山を不凍港として狙っているという情報をもたらした西徳二郎は、シベリアルートより南の中央アジアを横断し、東京地学協会で1881年5月28日に『露西亜から北京まで』と題して演説しました。このことは、西徳二郎は、榎本のシベリアルートで探偵しながら帰国した内容を把握していたからこそ、その南側のルート、中央アジアを探検(旅行)したと推測されます。更に、榎本がサンクトペテルブルクでペルシャ王に謁見した際の約束により、ペルシャへ派遣された吉田使節団*¹の吉田と古川*²は、東京地学協会でその探検記の演説をしました。

 榎本のシベリア日記には、ブハラやニコラエフスクの写真などが収集され、当時の日本にとって貴重な資料でした。軍事的、政治的、経済状況などが具体的に記されているので、公開できない内容があり、関係者間のみで閲覧されたのか、公開できない水準だったのでお蔵入りになったのか、元々、シベリア経由での帰国時に見聞きしたことを公開しないというロシアとの約束があったかなど更なる解明が必要です。

 設立後の東京地学協会での演説記録の特徴は、参謀系がらみの東京地学協会なので、朝鮮、清国に関する調査報告も繰り返し行われていますし、朝鮮と元との歴史的経緯について解説する演説も繰り返し行われていますが、榎本が企画したペルシャとの交流により、明治新政府が派遣したペルシャへの吉田使節団の吉田*¹、古川*²も演説しています。この領域はまさに榎本がアジア連帯と独立のために重要視していた地域でした。また、榎本が最も注力した南洋群島への商圏拡大のための探索結果についての田口卯吉らの演説も有りました。

 創立翌年、明治13年4月時点の会員一覧*では、会員は、外交、軍事、地理の専門家たちで占められています。第一回会合の出席者には、実業家の大倉喜八郎、安田善次郎の名前がありますが、社員としては登録していません。榎本の共同経営者、北垣国道の名もありません。また、この時点での退社者に、福澤諭吉、副島種臣(当時、宮内省御用掛一等侍講兼侍講局総裁)、林董(当時、工部大書記官)の名前があります。三人三様に退社した理由は憶測の範囲でしか分かりません。

Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-1(後)  Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-1(後) | 情報屋台 (johoyatai.com)

特別展示「日本とペルシャ・イラン」I 明治政府とペルシャ 吉田使節団派遣概説と主な展示史料

I 明治政府とペルシャ 吉田使節団派遣|外務省 (mofa.go.jp)

* ²古川宣誉(ふるかわ・のぶよし、1849-1921、静岡藩、幕臣)  戊辰戦争時は撒兵隊、沼津兵学校、明治新政府陸軍工兵。(ウィキペディア)
   下條綱木知られざる古川宣誉 - 日本 オマーンクラブ(オマーン情報 オマーン国際交流 オマーン異文化交流) (omanclub.jp) 2013

 

 

【集会条例と殖産興業】

 

 明治13年3月31日に、太政官大書記官の渡邉洪基は内閣委員として、集会条例の審議にあたり立法の説明を行い、明治13年4月、「集会条例」は制定されました。集会条例の概要は以下のような内容でした。

『自由民権運動の弾圧を目的とした明治時代前期の法律。西南戦争後、政談演説会などを通じて自由民権運動は広がり、1879年(明治12)から80年にかけて国会開設請願運動として空前の高揚をみせた。こうした状況に直面した政府は、80年4月5日この条例を制定した。内容は、政談演説会・政社は事前に警察署に届け出て認可を受けること、会場監視の警察官に集会解散権を与えること、軍人・教員・生徒の政治活動を禁止すること、などであった』(コトバンク)

 当然ながら渡邉は民権論者から恨みを買いましたが、特に渡邉が慶應義塾出身であったため、慶応義塾の同窓会でのスピーチでは激しいヤジにあい、さらに血気盛んな者達は渡邉を壇上から引き摺り下ろそうとしました。かくして渡邉は『慶應義塾生から藩閥の軍門に降った変節漢として』名を広めました。福澤諭吉が13年4月に渡邉が幹事を務める東京地学協会を退社した理由に十分なりそうな出来事でした。

(出典 瀧井一博『渡邉洪基』ミネルヴァ書房、2016、pp.143-152、p.332)

 

 

 榎本がサンクトペテルブルクに着任後暫くして、1874年夏にペテルブルグ、モスクワに住む多数の若者たちが農村に入って、自らが信奉する「社会革命」の理念をプロパガンダする運動が起きました。この運動は「民衆の中へ(ヴ・ナロード)」と呼ばれ広く知られるようになりました。 1876年12月18日にはもっと大規模な事件が起こりました。榎本は翌年正月元日付けの手紙の中でこの事件を多津に報じました。

『先達て書生32人一揆ケマシキ[やかましき]騒動ヲシテ捕縛セラレタリ。女書生11人加われり。彼らの騒ぎハマサカ肥後の神風連や長(州)の前原のごときツジツマの合わぬ事ならぬど、矢張向フ見ズの所業なり。其趣旨ハ政府の抑圧を怒り自由説を唱へ、小旗に自由といふ字を書き人中にて振廻し祝声(シュプレヒコール)を揚ケたるなり。32人皆窂に入れられたり。頭立たる者ハシベリヤへやられ可申との噂。』

 これは聖者ニコライの祝日の当日、ネフスキー大通りの中央にあるカザン大寺院の前で起きたので、「カザン広場のデモ」と呼ばれている事件のことです。32人の逮捕者が出て、そのうち11人が女性であったという数字はロシア政府側の発表と合致しています。ただ、この集会の首謀者で演説をぶった革命家プレハーノフをはじめ多くのデモ参加者が逃走したという事実は榎本の宅状では抜け落ちていました。

(出典:『榎本とナロードニキ運動-ロシアの国内情勢:榎本武揚と国利民福 Ⅲ 安全保障(後編-1)』http://www.johoyatai.com/3203)

 榎本は、サンクトペテルブルクにいて、学問を志しておきながら政治運動に参加する学生の末路を知っていました。そういう榎本の体験が渡邉洪基の集会条例で、学生の政治運動を禁じたことに影響したと考えられます。榎本や渡邉の思いは、学生は学問を修めてから政治活動をするべきだ、ということであり、また彼らの願いは、学生が修めた学問を実業の発展に活かして欲しいということでした。

 アイキャッチ画像の新聞記事は、明治十八年五月二十日の『今日新聞』*の記事です。

『予て諸新聞を以て広告せし現今日本十傑の指名は幸ひ諸君の賛成を得て去十五日限り到達せし投票は一千四百六通の多さに至れり(〆切後に達せしものは没書とす)依て此指名書につき各々點數を計算して左の最高點者十名を得たれば催主は此方々を以て日本現今の十傑と定めたり其姓名は即ち左の如し』

*明治17年(1884)9月3日、東京京橋で夕刊紙として創刊された。明治22年に『都新聞』へ改題した。
(出典:土方正巳解題『都新聞 明治補遺』柏書房、2000 https://www.kashiwashobo.co.jp/book/4760118608)

 

 人気投票をした時期、榎本は駐清国特命全権公使でした。この年、12月22日に初代内閣が誕生し、榎本は初代逓信大臣に就任しました。新聞の読者の範囲が不明なので、旧江戸、東京の住民が支持していると仮定したとしても、榎本の軍略への信頼と支持と人気の高さが窺えます。

続く

 

【補足「日本電友協会」】

 

 榎本は多数のsocietyに参加したためか、加茂儀一は『榎本武揚』に、榎本が初代から亡くなるまで会長を務めた「電気学会」を「日本電友協会」と書いてしまいました。似た名称の会に「日本電気協会」、「電友社」、「電友会」があります。「電友会」はNTTグループの退職者の会です。2008年に念のため、「日本電気協会」と「電友社」に、榎本が在籍したことがあったか、問い合わせしました。親切に調べていただき、両方とも榎本との関わりはなかった回答をいただきました。日本電気協会の前身は明治25年に設立された「日本電燈協会」で、初代会長は藤岡市助*¹でした。電友社*²は加藤木重教が設立した企業です。加茂儀一が榎本が会長をしたとする「日本電友協会」とは「電気学会」の間違いでした。

*¹ふじおか・いちすけ、周防(すおう)国(山口県)生、1857-1918。明治時代の電気工学者、実業家。アーク灯、白熱電球、電気鉄道の内製化に貢献。東京電燈株式会社(現、東京電力)の技師長、白熱舎(現、当時芝)の協同創立者。
加藤木重教 (かとうぎ・しげのり、福島県磐城生、1857‐1940) が設立した企業。全国の電気事業者の事業推進を熱心に推進した。「もしもし」の考案者としても知られている。(出典 https://mikado-denso.com/m-online/post-14960)

 


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