前田和男著『昭和街場のはやり歌』を読む
名画や映画、歌謡などの舞台を訪ね、その裏話や秘話を書いた本はたくさんあります。ところが、こうしたうんちく、トリビア本とは一味も二味も違うのが前田和男著『昭和街場のはやり歌 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと』(彩流社)です。はやり歌の作り手たちの思いとともに、それを支えた民衆、それも働く人々の情況を鋭くえぐっているからです。これは「日本歌謡の資本論」です。
◆「炭坑節」
♪月が出た出た 月が出た
三池炭鉱の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん 煙たかろ
本書で最初に取り上げられているのが「炭坑節」です。この歌に出てくる「三池炭鉱」(福岡県大牟田市)には高い煙突がなく、高い煙突があるのは「三井田川炭鉱」(同県田川市)だと明かされます。そして、「田川」が「三池」になったのは、戦後、進駐軍が大牟田市を拠点にしたからだという説を著者は追います。GHQが戦後復興の柱として石炭生産を奨励するために、ご当地の「三池」と歌詞を変えた歌をはやらせた、というのです。
さらに、戦前は料亭の座敷歌だった炭坑節が野外の踊りになったのは、フォークダンスを普及させようとしたGHQが日本版フォークダンスとして炭坑節を奨励したからだと、推理を進めます。GHQは、フォークダンスと炭坑節を両輪にして、「戦後日本の民主主義化を国民の身体になじませようとした」というのです。「掘って、掘って、また掘って」と踊っていた私たちは、マッカーサーに踊らされていたことになります。
先日、近所の神社で開かれた盆踊りに行ったら、地元の小学生が舞台に上がってソーラン節を踊っていました。1990年代にジャズ調にアレンジされ、ダンスミュージックになったものです。いまや全国の学校で、運動会などに採用されているので、日本の子どもたちはだれでも踊れます。
踊る新ソーラン節を普及させることになったのは、テレビドラマの「3年B組金八先生」だといわれています。荒れる中学をソーラン節がひとつにまとめたという「実話」をもとにした金八先生のドラマです。金八先生の思想がまっとうな民主主義で、マッカーサーの狙いが米国流の民主主義の移植だったとすれば、盆踊りの「炭坑節」と「ソーラン節」は、九州と北海道ほどは離れていないのかもしれません。
◆「テネシーワルツ」
♪思い出 なつかし
あのテネシーワルツ
今宵も ながれくる
米国の歌手パティ・ペイジがヒットさせた「テネシーワルツ」を、1952年に日本でカバーして流行らせたのは、江利チエミの艶のある甘い歌声でした。本書がこの歌を取り上げたのは、1999年に映画化された浅田次郎原作の『鉄道員(ぽっぽや)』(監督・降籏康男)で、何度もこのメロディが流れているからです。
映画の主役が高倉健で、彼が実生活で離縁した江利チエミの持ち歌が主題歌のように何度も流れ、高倉健の機関士もテネシーワルツを口笛で吹くのですから、映画が公開されたときに話題になりました。
高倉健が機関士から駅長になって着任する架空の「幌舞駅」は、北海道の産炭地です。戦後の復興を支えた石炭産業は、石油へのエネルギー転換によって、斜陽産業となり、幌舞駅を執着とする幌舞線も廃止が決まります。その最終列車を見送るのが高倉健の駅長です。本書は「地上の“鉄道員(ぽっぽや)”と地底の炭鉱夫への挽歌」と記しています。
我が家にレコードプレイヤーが初めて入ったのは1952年ごろだと思います。というのも、私の記憶にあるレコードがパティ・ペイジの「テネシーワルツ」と美空ひばりの「リンゴ追分」(1952年)だからです。洋楽は母の好み、歌謡曲は父の好みだったようで、父がいない昼間に母が聴いていたのは、「テネシーワルツ」ではなく裏面の「涙のワルツ」でした。どちらも失恋の歌です。母はアメリカへのあこがれで聴いていたのか、はたまた青春への挽歌として聴いていたのか、いまになっては知る由もありませんが、おさな心に染みこんだメロディは、「リンゴ追分」ではなく「涙のワルツ」でした。
◆「アカシアの雨がやむとき」
♪アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
西田佐知子が1960年に歌った「アカシアの雨がやむとき」は、1960年の日米安保条約の改定に反対する安保闘争が挫折したころからはやりはじめ、1962年の紅白歌合戦で西田佐知子はこの歌を歌います。この歌は60年安保の鎮魂歌といわれています。しかし、著者はこの闘争に参加した人たちの証言を集めたうえで、彼らすべてが「アカシアの雨がやむとき」をレクイエムとしてうたうことはなかったとしています。
そして、田中角栄の愛人かつ金庫番で「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子の愛唱歌がこの歌だったことを見つけ出しています。人生の挫折を味わったことのある人にとって、この歌はその人の思想に関係なく、愛唱歌になっていたわけで、それがヒット曲になった理由だったのかもしれません。
◆「圭子の夢は夜ひらく」
♪赤く咲くのはけしの花
白く咲くのは百合の花
どう咲きゃいいのさこの私
夢は夜ひらく
本書によると、この歌は、「私たちベビーブーマーの思春期と重なる戦後日本の政治の季節に、私たちを大いに煽った『檻のなかから生まれた歌』」と紹介されています。著者と同世代の私も、藤圭子のこの「怨歌」に心を揺さぶられましたが、「檻の中から生まれた」という出自については、本書を読むまで知りませんでした。作曲者とされる曽根幸明が少年鑑別所のなかで作った歌をある音楽プロデューサーが権利を買って、園まりに「夢は夜ひらく」として歌わせた、というのです。園まり版はラブソングなのですが、藤圭子版は「私の人生暗かった」という「怨歌」となり、それが混とんとした1970年という時代に共鳴したというわけです。
私が朝日新聞社の入社試験を受けたのは1970年5月で、そのときの作文に書いたのは、安保世代の「アカシアの雨がやむとき」と全共闘世代の「圭子の夢は夜ひらく」との対比です。同じように挫折した運動の鎮魂歌だとしたうえで、全共闘世代が遠のいたユートピアのあとに求めるのはエロトピアの世界だろうか、と書きました。
面接試験のときに、社のえらい人に言われたのは、「君は英語がめちゃめちゃできないけれど、作文はうまいね」という言葉でした。かろうじて補欠で受かったのは、「アカシアの雨」と「夢は夜ひらく」のおかげだと、感謝しています。
本書が取り上げているのは、このほか、「東京のバスガール」、「あゝ上野駅」、「南国土佐を後にして」、「世界の国からこんにちは」、「いい日旅立ち」、「イムジン河」など、昭和歌謡の20曲余のはやり歌です。本書を読みながら、あらためてその曲が聴きたくなり、youtubeでその曲をさがすことが何度もありました。なぜか、涙が出てくる歌もありました。たかが流行歌、されど流行歌です。
◆流行歌に仮託された民衆の心情
社会学者の見田宗介が明治以降の400曲余の流行歌を分析した『近代日本の心情の歴史』(1967)の一節を引用して、この稿を終えます。
流行歌が歌う形象そのものは、(中略)多かれ少なかれ現実の生活ばなれしたものである。しかしこれらの幻想的な象徴の中に、仮託され投げ入れられた幾百万の民衆の心情の総体の中にこそ、一つの社会現象としての流行歌の実体はある。とすれば流行歌の「解釈」は、このような虚構あるいは幻想の中に、仮託され投げ入れられた真実を解読する作業でなければならない。
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僕は1970年 住友商事入社ですので 時代の流れを 此の様に 明快に解説 頂き 深謝