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世田谷美術館で「麻生三郎展」を見る

2023.04.29 Sat

世田谷美術館で6月18日まで開催されている「麻生三郎展 三軒茶屋の頃、そしてベン・シャーン」は、環境や戦争で「地球の危機」が鮮明になってきた時代に、あらためて麻生三郎という画家の存在を思い起こさせるという点で、時宜にかなった企画展になっています。

 

麻生三郎(1913~2000)の絵画の特徴は、多くの絵の基調になっている赤だと思います。《子供》(1948年、個人蔵、下図左)の子どもは、赤い着物に赤い髪飾りを付けた子どもの首元がすこしはだけ、頬の赤さとともに、いまにも元気よく飛び出していきそうな気配を見せています。背景は、空も地も黒ずんでるなかにほんのりと赤が入っていて、戦火で焼かれた街を想像させます。《母子》(1949年、個人蔵、下図右)では、母の洋服は青、子どものものは赤、そして空は赤く燃えています。

この企画展の図録『麻生三郎展』(以下、『図録』)の年譜によると、1945年4月に「空襲で豊島区長崎の自宅が全焼、疎開させていた数点を除き、それまでの作品を焼失する」とあります。戦後まもないこの時期の空の赤は「戦争」、子どもの赤はゼロから再出発した麻生と日本の「希望」の象徴、という見立てができるかもしれません。

 

《赤い空》(1956年、東京国立近代美術館蔵、下図左)では、空を赤く染めるギラギラとした太陽が描かれています。煙突が工場を表すのなら、赤い空は、1950年代と60年代を通じて高度成長をひた走る日本の「熱気」でしょうか。《人》(1958年、東京都現代美術館、下図右)には、工場のクレーンのようなものが描かれています。そこに暮らす人々が大きな足でしっかりと大地に立っているのは見えるのですが、豊かさが人々に幸せをもたらしているのかどうか、その表情からはわかりません。「まっかに燃えた太陽だから 真夏の海は恋の季節なの」(1967年、「真赤な太陽」)と、高度成長の最後を飾るように美空ひばりは歌いましたが、麻生の「赤い空」からは、「恋の季節」は浮かんできません。

『図録』に所収されている麻生のエッセイ「『赤い空』から『燃える人』へ」(初出は1972年)では、「赤い空」について次のように語っています。

「『赤い空』というのは人間の体臭のようなそして触覚的な風景である。『赤い空』の連作は生物的な人間臭い風景と人間たちのふれあう空気が描かせた。言葉の表現はどうでもよいがただからだで感じたものだ。そしてその場所から逃れることのできない重圧と圧迫の強くなにものかに対する強い反発反抗があるのは実感だ」

 

人々の営みには共感しながらも、時代の重苦しさを感じていたのでしょう。企画展には、麻生が手掛けた挿絵や装丁も展示されていて、椎名麟三『赤い孤獨者』(1951年)、野間宏『眞空地帯』(1952年)、井上光晴『書かれざる一章』(1956年)などがありました。重圧、圧迫、反発、反抗など麻生の言葉の背景には、こうした作家の影響があったのかもしれません。

 

1960年代の麻生は、安保闘争で殺された樺美智子に触発された《仰向けの人》(1961年)や《死者》(1961年)、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺した僧侶をモチーフにした《燃える人》(1963年)などの作品を発表します。いずれも企画展で展示されていますが、ここに描かれた赤は血だと私は想像しました。前述のエッセイで麻生は「燃える人」について次のように書いています。

 

「日本人とかベトナム人とかではなくて、現代の人間像としての人間というかたちでわたしは1963年の『燃える人』を描いた。非人間の戦争否定であった」

 

人間否定の極限ともいえる戦争への抵抗は、麻生が生涯持ち続けた信念であることをうかがわせる言葉です。

 

世田谷美術館が麻生展を企画したのは、麻生が1948年から1972年まで、三軒茶屋にアトリエを構え、家族とともに暮らしていたからで、展示された多くの作品もこの時期に描かれたものです。麻生が川崎市生田に転居した事情について、『図録』の年譜(1971年)には、次のように書かれています。

 

「この頃、三軒茶屋周辺は相次ぐ道路や地下鉄工事により環境破壊が進み、騒音と空気の汚染に悩まされる。また、自宅の土地に世田谷警察署が建つことになり、転居を余儀なくされた」

 

《三軒茶屋》(1959年、神奈川県立近代美術館蔵、下図)は、企画展のポスターに採用された麻生のスケッチです。乳母車を押す人や歩く人の姿が見えます。手前には木が土手の上に植わっているように見えます。そうすると、土手の下は、自宅の前を流れていた蛇崩川かもしれません。まだのどかだったころの三軒茶屋でしょう。

麻生が亡くなったのは2000年ですから、のどかさを失った三軒茶屋、そして東京や日本を見ていたはずです(下の写真は、『図録』に所収されている1967年の麻生の写真)。しかし、コロナ禍で人類がパンデミックの恐怖を味わい、ウクライナ戦争で多くの市民が殺されているだけでなく核兵器の使用がとりざたされ、中国の脅威に備えるため日本の軍事化が進んでいる現在の状況を麻生は想像できたでしょうか。もし、麻生が生きていたら、麻生の絵の基調だった赤は、不条理への怒りで、さらにどす黒くなったかもしれないと、私は思いました。

『図録』で、麻生の次女で彫刻家の麻生マユさんは次のように語っています。

 

「今、世界で起きていること――戦争や、ウイルスもそうですし、人間の存在があやうくなっている。こういったことに対して、人間とはなんだろう、生きている命とはなんだろうということを問いながら、今、父がこの時代にいるとすれば、きっとそういうものを描きつづけているだろうと思います」

こお企画展は、麻生の「赤」の意味を考え、現代の「色」は何色なのか、見つめ直すきっかけになると思います。

 

(冒頭のポスター及び麻生の写真、文中の絵画の写真は世田谷美術館提供)


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