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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-2-A)

2021.04.16 Fri

スウェーデンと日本を結ぶ赤い線は、1878-1879年のノルデンシェルドのヴェガ号の航路。
サンフランシスコから東シベリア海のノヴォシビルスク諸島付近への赤い線は、1879年出帆の米国海軍少佐ジョージ・デロングのジャネット号の航路。
(ジャネット号は出帆から2年後、ノヴォシビルスク諸島付近で氷に閉ざされ破壊されました)

(画像の引用元 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00862/contents/006.htm)

 

 

・ロシアの「連水陸路」運輸 ・・・ 河川交通

 

 榎本の8月8日の日記には、榎本をもてなした商人は、「チュメニは物産豊かな地ですが、物流が整備されていないことが大きな問題でした。しかし、最近、オビ川を北極圏側から遡ってチュメニの手前まで貨物船がやってくることに成功し、さらに英国もオビ川に貨物船を送っているので、今後の経済発展を期待できます。ただし、英国船一隻が未だに辿り着かず、氷山に衝突してしまったのでは」と心配している様子が書かれています。

 

 榎本がペテルブルクを出発する前月、6月22日、ノルデンシェルドらのヴェガ号はスウェーデンを出帆し、北極圏航路を通過し、太平洋へ抜ける探検に向かっていました。

 

図1 ユゴルスキ海峡、カラ海、マンガゼヤ
(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年、を利用)
赤い矢印線は初期の主な探検ルート

 

 探検隊のリーダー、ノルデンシェルドの航海誌に、8月1日は好天で、完全に解氷しているユゴルスキ海峡を通過し、オビ川とエニセイ川が注ぐ、カラ海に入ったと書かれています。図1で北極圏側の赤色の枠で囲った地点です。ノルデンシェルドによると、ユゴルスキ海峡の手前で荒れ狂うカラ海が静まるのを待って通過するのが通常で、カラ海は通年でも氷山の断片が漂っていると書かれています。ヴェガ号の航海誌からはこの時期の航海が不可能な状況ではないことが分かります。

 

 オビ川河口に貨物船を送った英国人はウィッギンス(Wiggins)と言い、1876年にエニセイ川河口、1878年にオビ川河口に航海し、1887年から1905年の間、エニセイ河口、オビ川河口に年に5隻から11隻の貨物船を送っています。そのうち数隻は失ったものの、ウィッギンスは、この貿易で多大な利益を得たとされています。この貨物船が上流に向かう目的は貿易にとどまらず、上流の河川を行く汽船と連絡し、さらに奥地の産物の輸出を狙っていました。また、(シベリア鉄道用と考えられる)建設資材を運んだり、日露戦争時に軍需品も運んだりしました。

(参照: 内田寛一『西比利亜の河川と北極海との連絡航路(下)』史林(1919),4(4):691-697、京都大学学術情報リポジトリ紅)

 

 

 上図のPに〇のシンボルは連水陸路運輸を示しています。シベリアの大河からの支流から陸路を利用して別の支流へ移動し、再び水路で移動することが容易であったため、シベリアの探検は進みました。また、北極海から大河に入り、さらにその先の支流にまで艦船が進みました。

 

 9月23日、榎本は、アムール川を汽船で下りハバロフスクに辿り着くと、日記に次のように記しました。

 

『日本茶をアムール川を経てロシアに輸出しようとするわたしの望みが大いに増した』

 

 榎本は、日本からロシアへ輸出した日本茶の販路が、アムール川から水路や陸路でロシア中に輸送され、拡販されていくことを夢見ました。

 

図2 榎本がロシアへの輸出に利用しようと考えたアムール川
(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年、を利用)

 

 榎本一行は8月9日午後6時半にチュメニを出発しました。陸路と水路との接続タイミングの関係で、9月13日にスレテンスクで汽船に乗り継ぐまでの一か月以上、榎本らは、シベリア仕様の馬車、タランタスに乗って揺さぶられ続けました。

 

 

・シベリアの由来とロシアによる征服、北東航路の禁止

 

 

 8月9日『チュメーニとはタタール語である。この府は、古くはタタール人の領土であったが、エルマクがこれを攻めて占領したのである。』と榎本は日記に記しました。

 

 13世紀以降、モンゴルがアジアの草原を支配し、ジュチ・ウルス*1(またはジョチ・ウルス)と呼ばれる王国が形成されました。当時からチュメニは中継貿易で栄え、14~15世紀にチュメニを中心とした独立したハン*2国が形成されました。その後、1502年にチュメニ東方のトボリスク付近を中心としたシビリア・ハン国(またはシビル・ハン国)が誕生しました。この国名が「シベリア」の由来と言われています。

 

*1ウルスとは遊牧民の政権、政治集団、定住しない集団による国家を言う。ジュチまたはジョチはチンギス・ハーンの長男で、長男の後裔によって支配されたウルスをジュチ・ウルスと言う。
*2ハン モンゴル帝国の王侯。カンとも表記される。

 

 シベリア・ハン国は1555年にモスクワに一旦、服属し、中央アジアの諸ハン国の圧力から逃れようとしましたが、1572年にモスクワから離反しました。カマ川(ボルガ川最大の支流、流域に榎本が通過したペルミがある)付近で製塩業を営むストロガノフ家は、イワン雷帝(イヴァン4世、1530-1584)の時代から様々な特権を得て経済的な発展により領主となっていました。ボルガ川の有名な盗賊、コザック(カザク)の首領、エルマクはストロガノフ家へシビリア・ハン国攻撃の提案をしたところ、ストロガノフ家は承認し、エルマクらに資金と軍需品を与え、遠征に出発させました。

 

 1581年9月、エルマクらはウラルを越え、シビリア・ハン国の首都近郊に到着し、10月23日朝から攻撃を開始した結果、シビリア・ハン国のハンは国外へ逃亡し、エルマクの軍隊は勝利しました。

 

 ストロガノフからこの報告を受けたイワン雷帝は非常に喜びました。その後、エルマクらとシビリア・ハン国の戦闘は続き、1585年8月5日のシビリア・ハン国首都包囲戦で、エルマクは戦死しました。この戦死は伝説を生み、民話にもなりました。

 

 1586年、ロシアの正規軍が出兵し、シビリア・ハン国軍に完全に勝利し、西シベリアへの支配が確立し、17世紀の東シベリア進出の準備が出来上がりました。

 

 大西洋の北欧側から北極海をユーラシア大陸の沿岸に沿ってベーリング海(太平洋)へ抜ける航路を北東航路、カナダ側から北アメリカ大陸の沿岸に沿ってベーリング海へ抜ける航路を北西航路と呼んでいました。北東航路は、その後、北氷洋航路とも呼ばれ、現在は北極海航路、北航路と呼ばれています。

 

 『ペチュラ川交通路をたどって進出したロシア人によって、毛皮獣の豊富なマンガゼヤが発見された。この町(1601年建設)への航海の歴史は十六世紀にはじまるが、これに関する最初の記録は1559年のステファン・パウロの北氷洋航海日記中に見いだされる。マンガゼヤは十六―十七世紀における北氷洋航路[北東航路を指す]の終点であった。』(加藤九祚『シベリアの歴史』)

 

 カラ海に注ぎ込むオビ川を遡り、暫くして支流のタズ川に入り、上流に向かうと、マンガゼヤがありました。マンガゼヤは当時の北東航路の終点でした。マンガゼヤの毛皮は白海に面したアルハンゲリスクに持ち込まれ、ここでヨーロッパ方面へ売りさばかれ、一躍マンガゼヤはヨーロッパ中で有名になりました。

 

 また、バレンツ海、スヴァールバル西沿岸が優れた捕鯨の漁場であることが分かり、捕鯨業者の天国になりました。一方、英国やオランダからシベリア経由の中国への道、北極圏航路で中国へ行く海路を探索するため、探検家が殺到し始めました。17世紀初めの頃は、北方での人々の活動が活発化し、賑やかになっていました。

 

 ところが、1616年にトボリスクの都督は、ドイツの北東航路侵入と海上密貿易を危惧し、北東航路経由マンガゼヤ航路の使用禁止をツアー(Tsar、イワン雷帝が使用し始めたロシア皇帝の正式称号)に上奏し、その結果、シベリア北方の航路は後代まで発展を阻まれ、マンガゼヤは衰退しました。(加藤九祚『シベリアの歴史』)

ツアーは1619年に北東航路経由マンガゼヤ航路を禁止し、違反者を死刑と定めた。

 

 

 1725年に、ピヨトル大帝の命令で、シベリア沿岸域の探査、海図の作成が始まりました。ベーリング海発見*はその成果の一例です。ようやく、北極海沿岸部の情報が揃い、沿岸の全貌をつかむことが出来たので、ついに、1878年、スウェーデンのノルデンシェルドたちが、蒸気船のヴェガ号で北東航路を通って大西洋から太平洋へ抜ける、すなわち、北極海東岸の端から端迄を一気に抜けて航海する探検に挑むことになりました。

*出典 シップ・アンド・オーシャン財団『北極海航路-東アジアとヨーロッパを結ぶ最短の海の道-』1999

 

 

 榎本が、行った先々で金の産出状況や金の抽出方法、法制度などを一所懸命聞いて回ったのは、シベリアでの金の産出量はロシア全体の7,8割を占めていたからです。

 

 ロシアでは中央アジアへの進出より、交易品資源が豊富なシベリアへの進出が先に行われました。ロシアは、シベリアでの東進により、現地の住民、少数民族を次々と征服しながら極東へ向かい、そして、その間、清国の勢力と衝突を繰り返し、度々国境に関する条約を結びながら、清国の領土も侵略しました。

1689年ネルチンスク条約、1728年キャフタ条約、1858年アイグン条約、1860年北京条約、1881年イリ条約

 

(以上は、加藤久祚『シベリアの歴史』紀伊国屋書店、(新装版)2018、(新書版)1963を参照しました)

 

 

・帰国ルート、B案の放棄

 

 

 1878年(明治11)年4月5日、榎本は多津宛ての宅状で以下のように書き送りました。

 

『魯英の関係がかなりもつれているがこれで戦争が起きても今年は必ず帰国する、但しこの場合はウラジオストック港を英軍艦が封鎖するので「シベリア」を通り帰国はできずこの場合はアメリカ経由になるか中央アジアを経てキャフタから長城を越えて北京へ到り帰朝する道もある-シベリヤより近い』

 

 

 クリミア戦争のとき、英国は、英仏連合艦隊を組み、カムチャッカ半島のロシア軍の基地を攻撃しました。イスタンブールやカイバル峠で英露戦争が起きれば、ウラジヴォストーク港まで英国艦隊がやってきて港湾を封鎖し、ウラジヴォストークへの物流を止め、太平洋艦隊の出航を阻止するくらいは簡単です。そうなると、ウラジヴォストークから日本向けの艦船も出航できなくなります。

 

 榎本が多津に手紙を書いた頃は、ロシア軍はイスタンブールを目前にして英国軍と対峙していました。英露戦争勃発寸前と思われましたが、サンステファノ条約が露土間で締結され、休戦状態になりました。しかし、サンステファノ条約の内容がロシアに有利であり、ロシアの南下を許していることに不満を持つ英国は、未だ、ロシアと戦争を始める可能性が残っていました。

 

 これが、榎本は帰国ルートB案のキャフタから北京へ向かうかもしれないと妻の多津に手紙を書くことになった背景でした。

 

 8月28日、榎本はキャフタの手前の都市、イルクーツクに到着すると、キャフタ通過を決め、帰国ルートB案を放棄しました。日記に、『明後日をもって当府を発ちキャフタを一見し、それよりスレーチェンスク府に赴くことに決め、さらに瀬脇氏へ電信で9月25,6日に貴地(ウラジヴォストーク)へ着くだろう。その頃より10月20日頃までの間には出船はないか、速やかに返事をせよ。』と書きました。

 

瀬脇寿人(1821-1878) 萩藩士。明治 3 年に外務省に採用されている。そして、明治8年にウラジオストクの初代貿易事務官として、長崎港からウラジオストクに赴いた。元の名前は手塚律蔵といい、文政5(1821)年6月8日、父手塚治孝 (5代寿仙)の二男として、周防国熊毛郡 小周防にて出生。律蔵は 17 歳のころ、故郷を出て長崎と江戸で蘭学を学んだ。そして、嘉永4(1851)年 に佐倉藩に召抱えになり、江戸で又新堂という塾を開いた後、安政3(1856)年には幕府の 蕃書調所の教授手伝になった。この時期に攘夷派に誤解を受けて襲撃されたので、名前を瀬脇寿人に変えた。松島(鬱陵島)を実見している。文久2(1862)年に、佐倉藩の佐波銀次郎と共に『格爾屯氏 萬國圖誌』を出版した。

(出典 f4-2-1.pdf (shimane.lg.jp))

 

 

・9月10日 ネルチンスクで榎本は極東のグレートゲームを予測する

 

 

 9月8日、榎本一行はネルチンスクに到着しました。今までもそうでしたが、ここでも行政のトップと商工業の代表的人物らが榎本一行の到着を出迎えました。私的立場でブハラを目指した英国のバーナビー大尉は、行った先々で現地司令官のもてなしがあり、移動時はコザック兵らが監視を兼ねて先導してくれました。基本的には榎本らも同じ扱いですが、しかし、日本国の特命全権公使であり海軍中将という肩書で、しかも、旅行計画書をロシア政府に渡し、訪問先や面会希望者について協力を求めていたようですから、シベリア各地での榎本特命全権公使への歓迎の仕方は、バーナビー大尉への接待に比べ、格段と上です。

 

 そして、榎本は、ネルチンスク到着の三日後、9月10日に次のように記しました。

 

『考えるに、黒竜江畔には陸路がないこととネルチンスクより行路の屈曲がはなはだしいことのために、将来支那とロシアのあいだに事あるときは、ロシアはツルハイトゥイ(スタロチュルハイトゥイ)より璦琿(あいぐん)あたりまでを領土に入れようと謀っていることは歴然としている。』

 

図3 1878年にネルチンスクで榎本が予測したロシアの極東での侵略地域
(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年、を利用)

 

 ロシアのブラゴヴェシチェンスクのアムール川(黒竜江)の対岸に璦琿城(あいぐんじょう)があります。現在の黒河市です。スタロチュルハイトゥイから璦琿の対岸にあるブラゴヴェシチェンスクまでをGoogle Mapを利用して歩くと所要時間は、黒竜江沿いに歩くと1480㎞、304時間、直線上に歩くと737㎞、157時間です。

 

 バイカル湖から先、アムール河畔の鉄道建設は非常に難工事だと榎本は現地で判断し、清国との間になにかあれば、ただちに軍隊を出動させ、この地域を占領し、ショートカットの鉄道路を手に入れるだろうと考えました。

 

 実際には、ロシアがアムール川を避けたショートカットは、榎本が想定した地点から南西へ約150㎞行った地点のザバイカル(対岸は満洲里)と沿海州のグロデコヴォを結んだ線でした。

グロデコヴォ グロデコヴォは、現在の沿海地方のポグラニチニ、対岸は綏芬河市。ウラジヴォストークの北方、約190㎞にある国境の街。

 

 

 榎本がシベリア鉄道案の進捗状況を調べれば、どの区間の鉄道敷設工事の予算が付くかを知り、ロシア政府の財政事情も把握できます。そういう情報を利用(分析)して検討した結果、1875年初め、ロシアの勢力が極東に及ぶまで後まだ十数年を要するという予想を立てるに榎本は至ったのです。

 

図4 榎本が予想したシベリア鉄道のショートカット線路と実際に敷設された線路
(Google Mapを利用して作成した)

 図4の台形の下辺は、スタロチュルハイトゥイからブラゴヴェシチェンスクまでを結んでいて、このラインが1878年に榎本が予想したシベリア鉄道のショートカット線路です。満洲里からハルピンを経由してグロデコヴォを結んだ線が、1901年に完成した実際に敷設されたシベリア鉄道のショートカット線路です。

 

 

 アレクサンドル三世皇帝は、シベリアで細切れに鉄道敷設工事が行われていたところ、1891年にシベリアを貫通する横断鉄道建設着手の決定をしました。奇しくも大津事件のあった年で、ロシア帝国皇太子ニコライ二世(後に皇帝として日露戦争を戦う)は、大津事件で災難にあった後、アレクサンドル三世皇帝の命を受けて、日本を出帆し、直接ウラジヴォストークへ赴き、起工式を行いました。

(中央アジアでは、トランス・アラル鉄道が1874年に構想され、1900年に着工し、1906年に完成した。同年、1880年に着工し、1899年にすでに完成していたカスピ海横断鉄道とも接続した)

 

 

 ロシアのアムール川のショートカットの鉄道、東清鉄道の敷設権は、ロシアが日清戦争の下関条約へ三国干渉した見返りとして、清国と密約を結んで清国から手に入れました。東清鉄道本線は1901年に完成しました。満州里駅から先は1901年(ザバイカル鉄道)、グロデコヴォ駅から先は1903年(ウスリー鉄道)に接続されました。

 

 ロシアが中央アジアで目指した英領印度帝国は、極東では清国です。ご本家のグレートゲームでは中央アジアを越えて行き、段階的に英領印度帝国の国境に近づいていきました。極東のグレートゲームでは、シベリアと清国の直隷省、北京との間には、満州、いわゆる東三省(黒竜江省、吉林省、遼寧省)があり、順次そこを征服する必要がありました。

 

 

・ブラゴヴェシチェンスクに到着 ・・・ 二心抑えがたく

 

 

 9月18日は榎本にとって好奇心が最高潮になる忙しい一日でした。様々な予定をこなし、最後の予定は、対岸の璦琿城の訪問でした。対岸に渡るために用意された小型汽船に乗り、対岸の清国人の村に立ち寄って村の様子を観察した後、璦琿城へ向かいました。

 

 元々の予定は璦琿城を訪問することでしたが、日記に『支那の村を一見したいとの二心が抑えがたく』と記したように、どうしても自分の好奇心を抑えられない衝動を持って、村の様子を30分間ほど見学させてもらいました。キャフタでも国境を越えて、清国側を訪問しました。今回も清国側の村の様子に強い興味を持っていました。

 

 中央アジアのグレートゲームでは、常に国境の住民、部族たちがロシアまたは英国と密約し、諜報活動に協力をし、また、侵攻時も協力します。国境周辺の彼らとの関りは軍略に深く関わっています。そこで、榎本は自身の博物学的好奇心も加わり、ロシア国境で国境を越えられる地点では必ず国境を越え、住民たちの把握に努めました。

 

 璦琿城では榎本達は歓待され、榎本は漢文で城主とコミュニケーションを取りました。また、璦琿城と北京との間の交通事情、通信事情も把握しました。知的好奇心を満足させ、自身の漢学の知識も活用し、必要な情報も手に入れ、非常に楽しく有意義な時間を過ごすことが出来ました。

 

 しかし、22年後の1900年にこの地域で悲惨な事件が生じました。ブラゴヴェシチェンスクの清国人や榎本が見学した村人たちや訪問した璦琿城で榎本をもてなした人々たちや住民たち、またその子孫たちは、ロシア軍によって虐殺されました。

 

 当時、特命を受けてブラゴヴェシチェンスクにいた陸軍中尉、石光真清は『曠野の花 石光真清の手記二』(中公文庫、1978)に詳しく書き残しています。義和団の乱から清国対列強八カ国との戦が始まったことが原因で、7月13日にブラゴヴェシチェンスクから軍需品を乗せたロシアの汽船および牽引されている三隻の貨物船がハルピンに向けて出航した後、璦琿城付近を通過するとき、十数名の清兵が分乗したジャンク船から艦船に銃口を向け、停船を命令したことから始まりました。

 

石光真清(いしみつまきよ、1868-1943) 熊本の出身。陸軍軍人、ロシア研究に取り組む。1899年(明治32年)、特別任務でシベリアへ渡る。日露戦争退役後も民間人としてシベリアに赴き、諜報活動に従事した。

 

 

 この時は清兵からの発砲は無かったのです。しかし、夜、清国側からブラゴヴェシチェンスクへ砲撃が行われました。これがきっかけとなり、ロシア側は大規模な軍事行動を起こし、その際、ブラゴヴェシチェンスクに居住する中国人と対岸の住民たちを虐殺し、遺体をアムール川に放り込みました。

 

 ロシアの家庭で働く中国人を連れ出しにロシア兵が来ると、簡単に差し出すロシア人の夫人たちに石光は非常に驚いたと書いています。一方、日本人の住居へ中国人の捜索のためロシア兵が来ると、日本人は中国人をかくまったり逃がしたりしました。

 

 ついに、ロシアは1900年7月から10月にかけて満州を占領しました。

 

 ロシアのウィッテ蔵相*1の回想録には、その頃の政府内の様子を次のように書かれています。

 

『ロシアの満州占領は、永久的なものであることが意図されていた。このことは、義和団の乱の第一報が届いた時、陸相クロパトキン*2が満面笑みを浮かべて、蔵相ウィッテに、「満州を占領する口実ができた。われわれは、満州を第二のブハラにする積りだ」*3と豪語したことや関東州総督アレクセーエフ*4が、1901年3月16日付け陸相宛極秘書簡の中で、満州の占領は、同地方が真に平穏になるまで、一定した期限なく、無期限に継続するべきである、と勧告していることからも明瞭であろう。』

(坂本夏男「第二節 開戦に至る経緯と開戦を巡る世論」『近代日本戦争史 第一篇 日清・日露戦争』東京堂出版、平成7年)

 

セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテ(1849-1915)  ロシアの鉄道利権を代表する人物。民間企業出身の政治家として活躍した。日本をロシアの極東支配の阻害要因と考えていた。東清鉄道計画を推進した。ポーツマス条約の首席全権だった。フランスを通した外資導入に積極的だった。

*2アレクセイ・クロパトキン(1848-1925) 軍人、陸軍大臣。日露戦争時はロシア満洲軍総司令官だった。除隊後は教師。

*3 Avraham Yarmolinsky (translated and edited); The memoirs of Count Witte, London.1921 pp.107~108.
On the day when the news of the rebellion reached the capital, Minister of War Kuropatkin came to see me at my office in the Ministry of Finances. He was beaming with joy.  I called his attention to the fact that the insurrection was the result of our seizure of the Kwantung Peninsula. "On my part," he replied, "I am very glad. This will give us an excuse for seizing Manchuria." I was curious to know what my visitor intended to do with Manchuria, once it was occupied. "We will turn Manchuria," he informed me, "into a second Bokhara."

 (1900年、政府及び義和団の)反乱のニュースが首都に届いた日、クロパトキン戦争大臣が財務省の私(Witte)の事務所へ私に会いに来た。 彼は喜びに満ちていた。 私は彼(Kuropatkin)に、暴動が関東半島の私たちの占領の結果であるという事実に注意を促した。 「私の側では、私はとてもうれしい。これは私たちに満州を占領するための言い訳を与えるだろう」と彼は答えた。 満州が占領された後、私の訪問者(Kuropatkin)が満州で何をしようとしているのか知りたいと思いました。 彼(Kuropatkin)は「私たちは満州を2番目のブハラに変えます」と私に知らせました。
*4エヴゲーニ・アレクセーエフ(1843‐1917)、ロシア帝国海軍軍人、太平洋艦隊司令官、極東総督、政治家。清から租借した関東州の駐留軍司令官。ベゾブラーゾフ・アバサ派閥(Bezobrazoh Circl)の一人。日露戦争の原因を作った一人。ニコライ二世皇帝の異母兄弟で兄。

 

図5 クロパトキンが考えた第二のブハラ
(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年、を利用)

 

 クロパトキン戦争大臣(陸軍大臣)は極東でのグレートゲームを追求していました。クロパトキンはロシアが中央アジアでブハラを獲得したように、極東でのブハラを求めていました。

 

 砂漠の中で水量豊富で交通盛んなブハラに対し、土漠の中で水量豊富な河川に恵まれ肥沃な満州を第二のブハラとクロパトキン戦争大臣は考え、虎視眈々と狙っていました。まるで榎本はクロパトキンの腹の中を見たようにロシアの南下を予測していました。

 

 クロパトキン戦争大臣は、50歳になるまで、中央アジア攻略に際し、様々な功績を挙げた軍人でした。実戦での功績が認められ、ニコライ二世皇帝は1898年1月にクロパトキンを陸軍大臣(戦争大臣)に任命しました。そのクロパトキンは1903年の勅命により、来日し、日本陸軍の観兵式を視察した結果、日本軍との交戦を避けるべきだと考えるようになりました。

ギョクデペの戦い 1890年、トルクメニスタン南部でのトルクメニスタン人、テケ族とロシアの戦い。ロシアがブハラ、ヒバを占領後、トルクメニスタン人のテケ族が生業にしていた奴隷交易を禁止したことが発端となった戦闘。クロパトキンは参謀として参加した。

 

 

・第二のブハラの範囲

 

 

 ウィッテ蔵相の回顧録に登場した、クロパトキン戦争(陸軍)大臣が言う第二のブハラの範囲をクロパトキンの回想録で調べてみます。

 

 1910年(明治43年)6月に参謀本部訳『クロパトキン回想録』が偕行社から出版されました。クロパトキンが関わった戦争などについての回想録です。その第六章の表題は「1900年乃至1903年満洲及び韓国問題に関する陸軍大臣の意見、日本との破綻を避くる為め陸軍大臣の探りたる方針」です。

 

 この第六章では、クロパトキンは、ロシア軍が満州に侵攻した年から日露戦争開戦前夜までの出来事を記録し分析をしています。その中で、榎本と関りがあるいくつかの項目を拾い上げました。以下に箇条書きします。

 

  1. 新兵と糧食の大部分は海路、ウラジヴォストークに輸送される。これに対し、陸軍省は何ら積極的な計画を立てなかった
  2. このショートカット案に対し、黒龍州軍司令官兼総督ドウホフスキーは、満州を経由する鉄道は清国民に有益だが、露国民には不利であるという意見書を提出したが、採用されなかった(ドウホフスキーの意見書は1900年の暴民による東清鉄道破壊として現れ、今後、繰り返すだろうと意見が出たが却下された)
  3. ザバイカルとウスリー地方との間に於いて楔形を成して甚だしく北方に凸出する我が境界線の不利を増すべきを以てなり 黒竜江省全部及び吉林省の北部は楔状を成して露国領土に凸出する故に吾人は北満州に於くる地位を安固にして始めて沿黒龍江地方を掩護(えんご)し以て其の発展を計るを得べし」

セルゲイ・ドゥホフスキー 1883-1901にトルキスタン総督

 

 クロパトキンは、日露戦争中、極東ロシアへの物流はシーレーンへの依存が未だに高く、シベリア鉄道の輸送力は役に立たなかったと怒っています。そして、極東ロシアの微量なる貿易量と製造業の規模ではシベリア鉄道はペイしないという考えでした。日露戦争当時のウラジヴォストークの物流事情は、榎本が予測していた1875年頃と変わっていなかったのです。

 

 1875年(明治8年)1月、ペテルブルクで榎本は、寺島外務卿に、「すでにロシアは沿海道地方(沿海州)を新しく領有したが、ロシアの財力からは十数年内には未だアジア州に威権を呈することはできない。しかし、我邦は将来の計を為す必要があり富国強兵の四文字しかないが、しかし、ロシアの南侵に対しあらかじめ次の二点に注意すべきだ」と書き送っていました。一点目は朝鮮との関わり方で、日本は朝鮮とは威徳をもって交際すること、二点目はウラジヴォストークへのシーレーン遮断のため、対馬-釜山間の軍事力強化でした。

 

 クロパトキンは、榎本が指摘した地域を地形は楔型で北方に凸出する国境線という表現をしていました。そして、この地域について次のように考えていました。北に凸出した国境地域のロシア側の人口密度は相変わらず低い、一方、清国側からは移住が増え続け、人口密度が上がっている、国境の形状からも安全保障上不利だから、北に凸出した国境の内側をロシアにしてしまい、北に凸出した国境線を無くしたい。

 

図6 第二のブハラの南限は東清鉄道本線
(Google Mapを利用して作成した)

 

 図6の南方へ向けた赤い矢印は榎本が予想したポイントがどれだけずれたかを示しています。1878年当時は、直線で、いくら西端がスタロチュルハイムからザバイカル(満州里)まで百数十キロ、移動するとしても、東端がブラゴヴェシチェンスクからウラジヴォストークへ五百キロ弱も移動するとは、しかも、ロシアの占領範囲が満州全域(東三省)まで拡大するとは、榎本は想定していなかったのです。

 

 しかし、クロパトキンは満州(東三省)侵攻後の軍の展開については慎重論でした。満州にロシア軍が侵攻した際、奉天(現在の瀋陽、清朝の聖地ともクロパトキンは書いた)まで軍の支配が展開することは北京を刺激し、清朝や列強に敵愾心を生じさせるからやってはいけない、朝鮮国境に近づき朝鮮を刺激することも既に三国干渉で日本にロシアを敵視させてしまっているので、さらに敵愾心を生じさせるからこれもやってはいけないと、クロパトキンは考えました。

 

 つまり、楔型をした地域を占領することは、ロシアが感じるリスクを低減させる(安全保障の)ためだから、それ以上の範囲に利権を求めての軍の南下と展開は満州を取り巻く状況から差し控えるべきだとクロパトキンは論じていたのです。クロパトキンが希望していた第二のブハラは、ザバイカル(満州里)とグロデコヴォ(綏芬河、すいふんが)間、つまり、東清鉄道本線のラインを南限と考えていました。

 

 

・榎本の予測と実際とのギャップが拡大した原因

 

 

 麻田雅文『中東鉄道経営史』(名古屋大学出版会、2012)では、以下のように、ロシア国内で最も早い、清国内にシベリア鉄道を敷設する案を紹介しています。

 

 『1876年11月にロシア正教の北京宣教団の団員として東洋諸語を学んだ学者のヴァシーリ・ヴァシーリュフがアジア探検家として有名だったフョードル・オーステンサーケン外務省内亊部長に宛てて、「ひとたび中国が[鉄道の]敷設に着手したら、我々よりも速いスピードで作り始めるでしょう。[中略]我々にとって敷設の鍵になるのはザイサンスキー哨所です」と現在のカザフスタンと中国の国境地帯への鉄道敷設を勧めた』

 

ザイサンスキー カザフニスタン東端、中国との国境に近くに位置する街、ザイサンのこと。新疆ウイグル側のイリとは直線で約500㎞離れている。この場合の硝所(しょうしょ)とは、敵の襲撃などに備えて哨兵が守る所。

 

 

 この提案は、中央アジアでのグレートゲームでは、1881年にロシアと清国とでイリ条約が結ばれるまで、英露清は清国の中央アジアの国境地帯で紛争を繰り返ししていたことが背景にあるようです。その後、陸軍だけでなく海軍も含めて、様々なルートの提案が行われました。主に経済的論点が主張され、ウラジヴォストークまでの鉄道敷設費用の圧縮とアジア諸地域とロシアを結び付けた広大な市場効果でした。

 

 1876年は榎本が樺太千島交換条約を締結した翌年です。榎本は、ロシア政府関係者との付き合いから、そういう意見を聞いていたと考えるべきです。榎本は、そういう前提を持ちながら、シベリア視察旅行を計画したのでネルチンスクでシベリア鉄道のショートカットの予測をしたのでしょう。榎本の予想は当たっていました。

 

 しかし、何故、榎本予想と20年後の現実とのギャップが拡大したのでしょうか。

 

 1875年から十数年以上経った、25年後の1900年頃、極東におけるロシアの南進は具体化しました。しかも、1878年に榎本が現場で予感した以上の規模と範囲で一気に南下が進みました。榎本の予想に大きなギャップが出た原因は、その後に行われた日本政府主流派の日清戦争で日本が勝利したためです。

 

 クロパトキンは回想録に、「1891年にシベリア線の起工式をした。その後、日清戦争(1894‐1895)で清国が脆弱であることを発見したのでただちにシベリア鉄道の幹線は満洲を経由させ、約550㎞短縮(ショートカット)させる計画を新たに立てた」と書きました。

第十五師団参謀部訳『クロパトキン大将ノ日露戦争回想録ニ対スル ウィッテ伯の辮駁』(東京偕行社、明治44年)によると、1903年1月25日の会議でクロパトキンは、円弧の2400㎞の国境線の防御は負担なので直線の1200㎞の防衛区画に短縮したい旨、発言しました。

 

 日本政府主流派は、1894年に日清戦争を引き起こし、日本が清に勝利したため、世界は清国が張子の虎だったことを知るに至り、列強は一斉に清国での利権獲得競争(争奪戦)を推し進め、清国をさらに弱体化させました。そのため清国と列強各国とのパワーバランスが変化し、東アジアでのロシアの南下可能な範囲が一挙に拡大しました。極東のグレートゲームでロシアはさらに強気で出てくることになりました。

 

 こういう事態を想定して、勝海舟や旧幕臣を中心とした政府の非主流派は日清戦争に反対していました。

勝海舟は以下のように言っていました。

 

『支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。・・・ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓の三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。』

(江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』p.269(「おれは大反対だったよ」)、講談社学術文庫、2000)

 

 榎本は帰国後、日清韓の三国合縦の可能性を調査し、検討しました。

 

 

 次回は、ハバロフスク、ウラジヴォストークへ移動し、榎本の日記の特徴を考えてみます。そして、榎本のユーラシア大陸横断旅行、シベリア視察旅行は終わります。

(続く)

 

補足

義和団及び露清密約、ロシア軍の満州占領などの参照文献

  • 村松祐次『義和團の研究』厳南堂書店、昭51
  • 坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973

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