和田哲郎著『バブルの後始末』を読む
三菱UFJ銀行の行員が貸金庫から現金や金塊などを盗んだ事件は、銀行さん大丈夫?という疑問を社会に持たせましたが、今から30年ほど前の1990年代の日本は、バブル崩壊によって銀行は大揺れになりました。不動産バブルで高騰していた地価が大幅に下落、それに伴う貸し倒れなどで銀行の不良債権は、大幅に増加して数十兆円の規模になったのです(この稿では、信用金庫や信用組合などを含めた金融機関の総称として銀行という言葉を使います)。その結果、銀行の倒産、破産など破綻が相次ぎ、1997年から98年にかけては、北海道拓殖銀行(拓銀)や日本長期信用銀行(日長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)など大手銀行も経営破綻に追い込まれ、日本は「金融危機」の様相を呈するようになりました。(写真は貸金庫盗難事件を報じる朝日新聞1月15日の記事)
こうした危機に「金融当局」である日本銀行と大蔵省(現:財務省)がどう対応したか、そしてどう対応すべきだったかを検証、考察したのが和田哲郎さんの近著、『バブルの後始末―銀行破綻と預金保護』(ちくま新書)です。著者は当時、日本銀行の信用機構局などで金融システムを守るため奔走した当事者であり、本書は金融危機の「現場ドキュメント」にもなっています。
◆1990年代後半は銀行破綻の嵐だった
銀行破綻による預金者の被害を守るための預金保険制度は、日本では1971年に発足しました。銀行が預金保険機構に保険料を支払い、銀行が破綻した場合、一定の額(当初は100万円、現在は1000万円)までの預金は預金保険で全額を保障するという仕組みです。1986年からは、破綻した銀行の預金者に対して直接、保険金を支払う「ペイオフ」に加えて、救済する銀行に資金援助をすることで、間接的に預金者を保護することもできるようになりました。
当初、銀行がつぶれることはなく、まったく使われることのなかった預金保険ですが、1991年になって、東邦相互銀行(本店・松山市)の経営が悪化、救済するため合併した伊予銀行(同)に翌年、預金保険が資金援助(融資)をしました。預金保険の制度ができてから初の発動でした。
これは例外的な事件だと思われていたのですが、バブルの崩壊が広がるにつれて預金保険の発動は相次ぎ、本書によると、上記の伊予銀行から2011年の第二継承銀行(破綻した日本振興銀行の受け皿)まで、預金保険の発動は182件(銀行23件、信用金庫27件、信用組合132件)に及び、累積の発動額は25兆円余(資金援助と資産買取)になったとあります。発動件数だけをみても、銀行の経営破綻の嵐がすさまじかったことがわかります。
本書には、経営破綻した銀行それぞれの躓きの原因などが紹介されていて、その多くは、バブルに踊り、踊らされた企業や銀行のスキャンダルとして、新聞の経済面だけでなく社会面をにぎわしました。それぞれの破綻事例を読んでいると、あのスキャンダルかと記憶がよみがえる読者も多いと思います。私自身も1990年代は、新聞社の経済部や論説委員室で「デスク」をしたり、社説を書いたりしていたので、記憶に残るものばかりです。本書が取り上げているのは下記のような事例です。
坪内寿夫氏のワンマン経営で経営が悪化した来島ドックへの積極的な融資で躓いた東邦相互(1992年)、大坂の料亭女将である尾上縫氏への架空預金証書の発行などで破綻した東洋信金(同)、環太平洋のリゾート王と呼ばれた高橋治則氏のイ・アイ・イ・インタナショナルへの大口融資で破綻した東京協和及び安全の二信組(1994年)、銀行として戦後初の破綻となった兵庫銀行(1995年)、「地上げの帝王」と呼ばれた早坂太吉氏が率いる最上恒産への大口融資などで破綻した太平洋銀行(1996年)、反社会勢力への乱脈融資などで破綻した徳陽シティ銀行(1997年)…。
◆破綻処理の日銀と護送船団の大蔵
著者は、こうした金融機関の破綻処理を日銀で担当していたこともあり、それぞれの事例について、日銀と大蔵省の対応の違いについても言及しています。私なりにまとめてみると、預金保険機構の仕組みを使って破綻処理を急ごうとした日銀に対して、「護送船団方式」でできるだけ破綻を避けようとして問題の先送りをはかったのが大蔵省です。護送船団方式とは、速度の速い軍艦が速度の遅い輸送船を守りながら航行したのに倣って、競争力の弱い銀行もつぶれずに操業できるように、大蔵省を中心とする金融当局がいろいろな規制や人材派遣(天下り)、行政指導などを進めた金融行政のやり方です。
著者が日銀と大蔵の姿勢の違いを鮮明に表す事例として紹介しているのが兵庫銀行への対応です。兵庫銀行はバブルの崩壊で関連するノンバンクの経営が悪化し、1993年には大蔵省銀行局長だった吉田正輝氏が社長として乗り込み、経営の再建にあたりました。本書によると、このとき日銀は、不動産融資などで不良債権を抱える関連ノンバンク(預金業務を行わない金融機関)を清算し、本体の兵庫銀行も受け皿銀行をつくって破綻処理する方策を考えたのに対して、大蔵省はノンバンクへの金利減免でしのぎ、地価の上昇による経営の回復を待つという方策を主張しました。その結果は、聞く耳を持たない大蔵省案で決着したものの、1995年に阪神・淡路大震災が起きたこともあり、同年に破綻しました。両者の兵庫銀行に対する見方も異なっていたことを示す吉田氏の言葉を著者は紹介しています。
「吉田社長は過去に日銀の理事も務めていたため、大蔵省、日銀双方から情報を得ていた。吉田氏は『日銀からは大変だという話ばかり。大蔵省からは心配ないの一点張り。どちらが正しいのか』と悩んでいた」(第3章バブル経済の崩壊)
◆公的資金投入の必要性
著者は、銀行の破綻が中小から次第に大手へと波及するなかで、これまでの預金保険に頼る方法では、金融危機に対応できないと考えるようになった、と明かしています。
預金保険は、破綻した銀行の預金者を保護するのが本来の目的ですから、破綻していない銀行に預金保険を使うわけにはいきません。しかし、銀行の破綻を前提にすると、救済措置が遅くなり、結果的に破綻額が大きくなったり、金融不安を広げたりするおそれが出てきます。それよりも、銀行が破綻する前に公的資金を注入して、不良債権の処理を急がせるほうが得策だというのです。
具体的には、資金繰りに窮した銀行に日銀が融資(日銀特融)して存続させたまま、国の公的資金の注入によって、経営を立て直すという方法を著者は提示しています。国際的には「オープン・バンク・アシスタンス」と呼ばれるもので、その肝は「大きすぎて潰せない(Too Big To Fail)政策」だとしています。金融不安の連鎖を招くような大きな金融機関は、潰してはいけない、というのです。
つぶしてはいけないのにつぶした例として著者が挙げているのは、1997年の拓銀、1998年の日長銀と日債銀です。これらの銀行破綻によって、日本の金融システムは揺らぎ、国際的にも日本の銀行は、資金市場で高金利でしか資金を得ることができないようになりました。当時、邦銀だけが背負うことになった上乗せ金利は「ジャパン・プレミアム」と呼ばれました。
実際に公的資金の注入が始まったのは1998年からで、金融安定化法が同年に成立したのを受けて、大手21行に1兆8000億円の資金が投入されました。公的資金による第1次資本注入です。しかし、各行とも多額の資金を受け入れることが世間の不安を増長させたり、政府の経営への介入が強まったりするのをおそれて注入規模全体も小さく、注入の方法もほとんどが政府からの融資で、政府の株式保有は少ない規模になりました(融資は1兆5000億円、株式は3000億円)。
このため、金融不安を取り除くことはできず、長銀や日債銀の破綻をまねくことになりました。そこで1998年に予防的な公的資金の注入規模を拡大する法案が成立し、1999年には東京三菱を除く大手15行に対して7兆円余の公的資金が出資という形で注入されました。結果的には、これを機に金融危機はほぼ収まりました。
著者は、日銀信用機構課の白川方明課長(後の日銀総裁)が1993年に大蔵省に対して、不良債権問題についての包括的な提案を行ったなかで、銀行が不良債権を処理することで自己資本が不足する場合には公的な資本注入の途を開くこと、などを求めていたことを明かしたうえで、次のように書いています。
「当時は大蔵省幹部の大半は『地価は再び上がるだろう。時間を稼いでいれば問題は解消する』と思っていた。日銀ではバブル崩壊との認識が強く、地価への楽観論はなかった。むしろ、さらに地価が下落する前に、つまり不良債権がさらに増えてしまう前に処理し、金融システムから切り離す必要があると考えていた。現状認識、従って先行きの見通しに隔たりがある以上、処方箋が一致するもはずもない。大蔵省が多少なりとも聞く耳をもってくれていたなら、歴史は変わり、金融危機は回避されたように思えてならない」(第7章公的出資はなぜ遅れたのか)
これは著者が本書で言いたかった論点のひとつだろう。
◆公的資金の注入を遅らせた住専問題
銀行が次々に倒産、破綻するような金融危機を避けるには、事前に公的資金を銀行に注入するしかない、というのが1990年代後半の金融危機を経験し、公的資金の注入で危機を脱した金融界が得た教訓であり、「常識」かもしれません。2008年のリーマンショックでも、米政府は7000億ドルの金融支援で危機の広がりを抑えようとしました。
とはいえ、公的資金とは財政資金、つまり国民の税金ですから、経営の失敗でつぶれかけた銀行を助けるのに税金を使うのか、というのはだれしもが抱く感情だと思います。公的資金投入は、政治的には増税と同じように不人気の政策ですが、その必要性を政治家として最初に訴えたのは宮沢喜一首相です。宮沢首相は1992年8月に軽井沢で開かれたセミナーで、「必要なら公的援助をすることもやぶさかではない」と発言し、大きなニュースになりましたが、マスメディアは批判、大蔵省は無視、経済界は反発しました。(写真は宮沢喜一氏=官邸のウェブページから)
宮沢発言への世間の反発で封印された公的資金の注入論ですが、それが再び持ち出されたのが「住専問題」です。企業向けの融資に力を入れる銀行は個人向け住宅ローンに熱心ではなかったため、大蔵省の肝いりで1970年代に金融機関などの共同出資で次々に設立されたのが住宅金融専門会社(住専)です。8社がつくられ、その多くのトップには大蔵省OBが天下りで就きました。しかし、銀行が個人向けローンにも力を入れるようになったり、住宅金融公庫の低利融資が広がったりするなかで、1980年代になると住専は、不動産開発業者(デベロッパー)への融資に力を入れるようになり、折からの不動産バブルが膨らむなかで、融資をふやしました。
それが1990年代になると、地価の下落で融資が焦げ付くようになり、住専各社の経営は急速に悪化、住専の処理が金融問題の大きな焦点になってきました。金融界では、その処理方法をめぐって、出資した金融機関の責任を重視すべきだという母体行責任論と住専に融資した銀行が責任を果たすべきだという貸し手責任論が対立しました。なかでも貸し手だった農林系統の金融機関(農協の金融部門とそれに連なる信連や農林中央金庫)が母体行の責任を強く主張、5000億円以上の負担はできないとしたため、不足分を公的資金で補うことになり、6850億円の公的資金の投入を含む住専処理案が1996年の国会に提出されました。この処理法案は成立しましたが、野党だけでなくメディアも強く反発しました。
6850億円という公的資金の額は、その後の公的支援額を考えれば少ないのですが、私いとっては忘れられない数字です。というのも、当時の朝日新聞の社説で、住専処理のため公的資金の投入に断固反対する、という論を展開していたのが私だったからです。税金を使うからには、その根拠が明確でなければならないのに、農林省の管轄する農林系統の金融機関がからんでいることもあり、大蔵省があいまいな説明に終始したことが納得できず、税金の投入でごまかさず、会社更生法など法的な処理で、責任を明らかにすべきだと主張しました。経済部の記者からは、住専の社員が銀座の高級バーで毎晩のようにロマネコンチのボトルを開けていたという話も聞いていたので、そんな連中の宴の後始末になぜ血税を出すのだ、という怒りもありました。
◆メディアの責任
著者は、金融危機の処方箋として「正解」である公的資金の注入が遅れた理由のひとつとしてメディアの批判的な論調があったとみているようで、主要新聞の公的資金に対する論調の変化を調べています。住専問題もあって公的資金の注入に慎重だったり、批判的だったりしたメディアの論調が転換したのは、1999年の第2次公的出資からだとして、次のように書いています。
「預金流出が大手行でも広がるかつてない厳しい金融環境の下、金融界、経済界はそろって公的出資に真剣になり、かつて公的出資に批判的だったメディアは姿勢を変えた。変わり身の速さには驚いたが、もっと早く豹変してほしかった」(第7章公的出資はなぜ遅れたのか)
私は1998年に米国勤務となり、論説委員室を離れたが、もし残っていれば、最後まで公的資金の注入には反対したと思います。金融システムを守るためには、公的資金の投入はやむをえない、という論理はよく理解できますし、結果をみれば、もっとも有効な手立てが公的資金だったかもしれません。しかし、メディアもこぞって公的資金で金融システムを守れ、ということになったら、好き放題にやっても最後は国が守ってくれる、という倫理観の欠如が金融界に蔓延することになったと思うからです。論説委員室のいつも喧騒のなかに身を置いていれば、「物わかりの悪い社説が1紙くらいあってもいいじゃないか」と、叫んでいたと思います。
保険などの危機回避システムが整うと、リスクを伴う行動がでてくることを「モラルハザード」と言い、日本では、それによって倫理観のない行動が出てくることをモラルハザードと呼んでいます。バブル及びバブル崩壊時代の金融界には、最後は預金保険や大蔵省が助けてくれるというので、健全な経営感覚や倫理観を忘れた人たちがたくさん出てきました。金融システムを守るはずの「金融当局」のなかにも、こうした人たちがいました。
私の大学の同級生が卒業後、家業を継ぐ形で経営していた信用組合が2000年に破綻し、友人は失意のまま経営の第一線から退きました。大蔵省の幹部から普通銀行への転換という甘い餌を示され、反社会勢力もからんで経営が悪化していた別の信組を抱かされたうえ、バブル崩壊の深化で、経営が立ち行かなくなったようでした。普銀転換という欲が命取りになったのかもしれませんが、その友人から聞いた大蔵官僚のたかりのひどさにはあきれかえりました。
護送船団方式にこだわり不良債権処理を遅らせた大蔵省は2001年に財務省となり、金融行政は内閣府の外局となった金融庁に委ねられることになりました。過剰接待を受けた大蔵官僚は処分され、退官した人もいました。破綻した長銀や日債銀は、一時国有化され、多額の公的資金が投入されることになりましたが、破綻したときの経営陣は証券取引法違反(粉飾決算)の疑いで逮捕されました。下級審では有罪判決を受け、最高裁で無罪判決を得ています。当時は、ほとんどの銀行が粉飾まがいの決算で、健全性を装って時代ですから、逮捕された経営トップは、世間を納得させるためのスケープゴート(いけにえ)の意味合いがあったのかもしれません。
著者は、長銀や日債銀の最後の経営者が訴追されたことはスケープゴートだとしながらも、両行の経営責任についてつぎのように書いています。
「本当の経営責任は誰にあるのか、という問題である。捜査当局は長銀も日債銀も、最後の経営陣を粉飾決算容疑で逮捕し、司法当局は一審、二審で有罪判決を下した。両行とも真に経営責任を負うべき戦犯が誰かは、周知のことであった。破綻処理には多額の税金が投入される。しかし時効はわずか5年であり、これでは短すぎないか。加えて『真の戦犯』の代わりに現経営陣を粉飾で逮捕するというのは、国民を欺くなりはしないのか」(第5章ようやく完成した金融システム安定化策)
金融システムを守るためには公的資金の投入が必要だと説く著者は、クールなリアリストのようにも思えますが、こうした記述を読むと、破綻を招いた経営責任にもしっかりと目を向ける日銀マンとしての熱い心も感じます。
◆残された課題
本書を読みながら、バブル崩壊で揺れていた日本社会の状態を思い起こしました。金融界も大変でしたが、企業倒産で生活苦に陥ったサラリーマンがたくさんいました。日雇い労働者のまちとして知られる山谷を取材したら、建設工事の仕事が減り、早朝に労働者を集めに来るマイクロバスの姿はほとんどありませんでした。また、ドヤ街の宿泊施設に住んでいたり、路上生活を強いられたりしている人たちが集まる炊き出しに行ったら、「このごろは背広を着た人たちが増えている」という話をボランティアから聞かされました。
あれから四半世紀たちましたが、当時のようなバブル崩壊や金融危機はもう起きないのでしょうか。金融危機は、公的資金の投入という「特効薬」によって、未然に防ぐことができるのでしょうか。
あらためてバブルとバブルの崩壊を振り返ると、1980年代、貿易赤字に悩む米国がドル安を求め、プラザ合意(1985年)などで、国際的なドル安が進むなかで、日本では、ドル安にともなう「円高不況」を防ぐため金融緩和策が続けられました。金融緩和の資金が不動産バブルを生みましたが、「物価の番人」である日銀は、一般の物価が落ち着いているため資産バブルには目をつむっていました。
しかし、不動産価格の高騰で、もはやサラリーマンが家を買えない、という状況になって、日銀は金融引き締めに転じました。1989年に総裁に就いた三重野康氏の時で、三重野氏はバブル退治で「平成の鬼平」と呼ばれました。しかし、この締め付けが厳しかったために、こんどはバブルが崩壊し、金融危機につながりました。(写真は三重野康氏=日銀のウェブページから)
その後の長期的なデフレ状況を解消するとして2012年に首相に就いた安倍晋三氏が打ち出したのがアベノミクスで、その柱となったのが大胆な金融緩和でした。それを主導したのが2013年に日銀総裁になった黒田東彦氏で、10年間にわたって、異次元の金融緩和を進めた結果、日銀が発行された国債の約半分を保有することになり、長期金利をコントロールするYCC政策もあって、金利水準はきわめて低い水準で推移しています。2023年に日銀総裁になった植田和男氏は金利を引き上げる「正常化」をはかろうとしていますが、それによる市場の混乱も予測され、なかなか実施できていません。(写真左は黒田東彦氏、右は植田和男氏=日銀のウェブページから)
無理をしたツケは必ず回ってくるもので、アベノミクスで抑えられてきた金利マグマが爆発するおそれもあると私は思います。債券価格の暴落、あるいは長期金利の暴騰です。バブル崩壊の金融危機は、民間銀行の経営破綻でしたが、金利マグマの爆発は、中央銀行発の危機ですから、日銀がお札を刷る特融でおさまるとは思えません。公的資金の投入という「特効薬」が効かないおそれもあると思います。
本書が提起しているのは金融危機への準備を怠るな、ということですが、いまの政治をみていると、財政規律を忘れ、後は野となれ山となれ、という日本版モラルハザードにあふれているように見えます。「バブルの後始末」がいかに大変なことなのか、本書を読む意味はそこにあると思いました。
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