榎本武揚を中山昇一さんと語る ②なぜ、榎本は初代ロシア公使に
榎本武揚(1836~1908)の研究者である中山昇一さん(71)と榎本武揚について語るシリーズの第2回目です。箱館戦争(1868~1869)で「敗軍の将」となった榎本は、投獄されたのち1872年に放免され、北海道開拓使となります。戊辰戦争の終結で、日本はひとつの国になったのだから、新政府が「賊軍」のトップを処刑せず、北海道開拓に当たらせたというのは理解できます。
しかし、驚くのは赦免からわずか2年後の1874年に、榎本を当時の軍隊では最高位だった海軍中将にさせ、特命全権公使(現在の大使)としてロシアに駐在させたことです。樺太で、ロシア人とアイヌとの紛争が起きるなどロシアとの領土問題の解決は新政府にとって急務の課題でした。
新政府には、外交交渉ができる人材が不足していたのかもしれませんが、薩長土肥を軸とする政権としては、その威信にかけても、別の人材を見つけるはず、と思うのです。
――明治の新政府は、榎本をなぜロシア公使に抜擢したのでしょうか。(写真は自宅で語る中山昇一さん=2024年6月、筆者撮影)
中山 すんなりと決まった人事ではありませんでした。ロシアは1871年、極東の太平洋に向けた軍事拠点を北緯53度付近のニコラエフスクから北緯43度付近、小樽の対岸にあたるウラジヴォストークへ移転させることを決定し、2年後には移転を終わらせました。これは、ロシアの勢力が約1100km、南下したことになり、樺太どころか日本全体の安全保障にとって、ロシアとの国境の画定は急務でした。新政府は、特命全権公使として初代外務卿でロシアと樺太の境界問題を談判してきた澤宣嘉(1836〜1873)を任命したのですが、赴任する前に急逝したのです。
下の図は、明治初期の極東ロシアの主要港の変遷を示したもので、「情報屋台」の拙文に掲載したものです。
企業家 榎本武揚の民間事業(1) | 情報屋台 (johoyatai.com)
――澤は、1863年(文久3年)8月18日の政変で、朝廷から追放された「七卿落ち」の公卿のひとりで、長州に逃れたのち、王政復古で明治政府の外務卿(外務大臣)になった人物ですね。この人なら、ロシア公使としてだれも異は唱えなかったでしょう。もっとも、澤が手掛けたオーストリア・ハンガリー帝国との通商条約は著しい不平等条約だったようですから、外国との交渉には由緒のある人物よりもこわもての人物が必要という意識は明治政府内にあったかもしれませんね。
中山 1871年から73年にかけて米国や欧州各国を回った岩倉使節団の目的は、それまでに日本が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正でした。
外交交渉は一筋縄ではいかないという思いは、政府内に強かったことでしょう。榎本の公使起用は、箱館戦争で対峙して、榎本という人物にほれ込んだ黒田清隆(1840~1900)の推挙を受けて、使節団の副使官だった大久保利通(1830~1878)が決めました。大久保は、1973年(明治6年)の政変で、征韓派と言われた人たちが新政府から一掃されたのち、初代内務卿(事実上の内閣総理大臣)に就きます。この政変がなければ、榎本の出番はなかったでしょう。
というのも、征韓論者たちはロシアに対しても強硬論が多く、ロシアとの交渉など眼中になかったと思います。征韓論者で、この政変で下野した副島種臣(1828~1905)は、政変前には、ロシアに対して樺太を放棄する見返り、日本の朝鮮出兵の際には中立を保つという密約をロシアの公使に持ちかけていました。
副島は政変後も、樺太問題は密約があるのだからロシアは無視して朝鮮に出兵すべきだという工作を太政大臣だった三条実美(1837~1891)らに行っていました。大久保は、右大臣だった岩倉具視(1825~1883)に、自らロシア出向くと申し出て拒まれていますが、これは副島の起用を防ぎ、榎本にするための芝居だったと思われます。
※参照:榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-2) | 情報屋台 (johoyatai.com)
※参照: 榎本武揚と国利民福 Ⅲ 安全保障(後編-1) | 情報屋台 (johoyatai.com)
――大久保や黒田が榎本の外交手腕に期待したのは、国際法に通じているというだけではなく、戊辰戦争で箱館を占領したときに、箱館に領事館を持っていた各国と交渉した実績もあるでしょうね。当時の榎本の戦略は、各国の貿易をこれまで通りに認める見返りに、各国が戊辰戦争に対して取った局外中立という立場を明治政府軍と榎本軍との争いについても継続させることで、一時的には、この作戦は功を奏しました。
加茂儀一『榎本武揚』には、榎本軍が箱館港に停泊する外国船から「港税」(入港料、とん税)を徴収したことに英国が抵抗して、一戦も辞さないと榎本に迫ったのに対して、榎本は一歩も引かず、徴収を認めさせたという逸話が書かれています。
中山 各国の日本駐在の公使らが榎本の能力に着目したのは確かで、大久保に榎本を推挙したのは、英国公使だったハリー・パークス(1865~1883)だったと、私は考えています。ロシアの中央アジアへの南下に対抗して「グレート・ゲーム」を展開していた英国にとって、恐れていたのはロシアによる北海道占領で、征韓論による朝鮮出兵で北海道が手薄になることや、日ロの領土交渉が決裂して戦争になることは、ロシアの北海道占領に発展しかねないと考えていたと思います。
そうなると、征韓論に反対し、箱館時代には英国と渡り合った榎本がロシアとの交渉には適任だと考え、大久保らにこの人事を働きかけた可能性はあると思います。
※参照:榎本武揚と国利民福 Ⅲ 安全保障(後編-1) | 情報屋台 (johoyatai.com)
※参照:榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B) | 情報屋台 (johoyatai.com)
※参照:北太平洋のグレート・ゲームと榎本武揚 | 情報屋台 (johoyatai.com)
――ロシアとの国境画定は、日本の安全保障にとって最優先事項でした。当時の日本とロシアとの国力から見て、日本は樺太を放棄するしかないと考えていたと思います。そうなると、条約が成立しても、日本国内からは樺太を譲ったことでたたかれるのは目に見えていましたから、榎本に損な役回りを押し付けたと見ることもできますね。
中山 日露交渉に赴く榎本に遵守すべきとして、日本政府が榎本に課した条件は、樺太全島をロシアに譲った場合、千島諸島を代わりに獲得することでした。榎本は、1年近くに及ぶ交渉では、樺太の南半分を要求するなど、ロシアに手の内を見せず、樺太・千島交換条約を締結させます。榎本は、千島諸島の領有のほか、オホーツク海及びカムチャッカでの日本人の漁業権を認めさせたり、南樺太の日本人所有の建物や土地の代償金を払わせたりしています。
※参照:榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-2) | 情報屋台 (johoyatai.com)
――樺太を譲渡することで、日本は樺太の資源を失いますが、千島列島というシーレーンを確保することで、ロシアの艦隊が太平洋に自由に航行するのをけん制する効果があり、とくにロシアとのグレート・ゲームを展開していた英国にとっては、ありがたい条約になったでしょうね。
中山 樺太に進駐していたロシア兵たちは、樺太で生活する日本人やアイヌ人へ乱暴狼藉を繰り返し、樺太を支配しようとしていました。日本は、樺太の領有権を事実上失いつつあったわけで、樺太・千島交換条約によって、日本は樺太での武力衝突を避けつつ、千島列島全島を手にいれ、ロシア海軍の太平洋進出を圧迫することで対露安全保障を強化することができました。さらに水産資源や漁業権を獲得するという経済的利益も手に入れることができ、大久保らが征韓論を退け、内治を推進するのに大きく寄与しました。北海道の開発も、条約によって、安心して注力できるようになりました。
幕末の1859年から1864年まで英国の総領事や特命全権公使として日本に駐在したラザフォード・オールコック(1809~1897)は、日本との貿易はなくてもいいが、日本は英国の東洋の大きな権益を(ロシアから)守るための前哨地だと日記に記しました。この条約によって、日本列島全体および千島列島でロシアの南侵への防衛ラインが維持、強化されることになったので、英国にとっては、極東で展開されているグレート・ゲームの不安定要素が減ったわけで、オールコックの後任のパークス公使は、安堵の思いだったでしょう。
※参照:最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-2 海軍卿 (2)税権回復要求 | 情報屋台 (johoyatai.com)
――とはいえ、大局的な評価と国内政治は別ですね。
中山 榎本がロシアと交渉している時期に、国内では、征韓論を煽った佐田白茅(1833〜1907)が樺太の割譲など認められないという論者を集め、1875年4月に『樺太評論』という反対論のパンフレットを頒布します。条約締結の1月前です。政府は、条約締結が征韓論者たちの政府攻撃の格好の餌食になることを恐れたのか、条約の締結を公表せず、条約文を官報に載せたのは、翌1876年9月でした。
榎本も国内での反発が家族に及ぶのを心配したのか、条約締結後、サンクトペテルブルグから兄と姉にあてた手紙には、寺島外務卿から「国柄を落とさず、国利も失わなかった」と、ほめられたことを伝えるとともに、世間には、あれこれ言う者もあるだろうが、決して気にかけるなと、書いています。
――加茂儀一の『榎本武揚』には、「国民は樺太放棄をもって政府外交の失敗であるとして、政府の弱腰を責め、激烈な非難を加え、同時にロシヤ帝国の横暴を呪詛し、ロシヤに対する警戒心をより一層強める結果になった」とありますね。
中山 「激烈な非難」の根拠となる資料を探しているのですが、見つかりません。当時の新聞記事を見ると、海外から送られるニュースで条約締結を知り、いつまでも公表しない政府を批判していますが、激烈に非難するような記事はありません。三宅雪嶺(1860~1945)は『同時代史』で、政府に反対する人たちの憤りはあったが、一般国民には、ロシアとの紛争を避けることができたという評価だったと書いています。このあたりが国民の実相だったのではないかと思います。
英国では、条約の締結を受けて、ロンドン・ガゼット(英国政府の広報)やタイムスがこの条約を歓迎し、榎本の外交勝利であるとして榎本の外交力を賞賛する記事を掲載しています。パークス公使が日本政府と榎本を擁護するために書かせた可能性もありますが、英国の本音だったと思います。
――日露戦争(1904~1905)の和平交渉では、新聞は、どれだけの賠償金を獲得できるかなどあおるような記事を書いたこともあり、ポーツマス条約締結後の日本国内の反発は激しく、講和会議を率いた小村寿太郎(1855~1911)は、帰国すると、激しい非難を浴びています。自国の実力を度外視した排外的なナショナリズムは、いつの時代もあります。榎本が4年間のロシア駐在で得た国際情勢の知識と外交感覚は、その後の榎本の外交論や「南方殖民」論などにもつながっていくと思います。そのあたりは次回にお話をしていただきます。ありがとうございました。
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