愛線心くすぐる世田谷美術館「美術家たちの沿線物語」
世田谷美術館で4月7日まで開かれている「美術家たちの沿線物語 小田急線篇」を見てきました。小田急線千歳船橋駅を最寄り駅とする地域に住んで60年、沿線住民として興味を惹かれました。これまで小田急線に文化を感じたことはなかったのですが、縁やゆかりのあるたくさんの美術家たちの作品を見ているうちに、文化の香りが漂う鉄道だと思うようになりました。愛国心ならぬ愛線心くすぐる企画展です。
展示は「成城学園前駅から喜多見駅あたり」からはじまります。目を引くのは何といっても横尾忠則(1936~)の「青い沈黙」でしょう。大きなキャンバス(226×145)にふたりの男が漂っている油彩。グラフィックデザイナーとして一世を風靡した横尾が1982年に「画家宣言」をしたのちの1986年の作品。横尾が成城にアトリエを構えているとは知りませんでした。(写真は横尾忠則「青い沈黙」1986年=世田谷美術館蔵、写真も提供)
私がこのコーナーでいちばん興味を持ったのは富本憲吉(1886~1963)の「小さな学校」と題した子ども用の勉強机と椅子でした。陶芸家で色絵磁器で人間国宝に認定された富本が昔の小学校にあったような机を制作していたからです。調べてみると、富本は東京美術学校(現東京芸術大学)に在学中にウィリアム・モリス(1834~1896)に興味を持ち、英国に渡り、arts and craftsの運動を学んだのち帰国し、日本にモリスを紹介した人でした。「工芸」と訳された分野で、富本自身も木版画、楽焼、更紗、家具、木彫など幅広く手を染めたのち、陶磁器に傾注していく。1922年に制作された子供用の机は、富本の原点となるモリスの「工芸」への思いが込められているのでしょう。富本が奈良から世田谷・祖師谷に居を移し、窯を築いたのは1927年です。
「東宝スタジオと砧人会(ちんじんかい)」のコーナーでは、伊原宇三郎(1894~1976)の「トーキー撮影風景」に注目しました。1933年の制作ですから、このスタジオは東宝映画東京撮影所(後の東宝スタジオ)になる前の1932年に写真化学研究所(東宝の前身)が建てたスタジオでの撮影風景です。成城あたりに映画俳優の自宅が多い源流です。伊原も成城の住民でした。(写真は伊原宇三郎「トーキー撮影風景」1933年=世田谷美術館蔵、写真も提供)
小田急沿線の芸術家といっても、たまたまそこに住んでいたという関係だけだと思っていたのですが、経堂、豪徳寺あたりに住んでいた画家や彫刻家たちが何となく集まったり、飲んだり食べたりという「白と黒のかい」というサークルがあったそうで、1951年に書かれた寄せ書きが展示されています。日本画の横尾深林人(1898~1979)、小川千甕(1882~1971)、洋画家の松本弘二(1895~1973)、難波田龍起(1905~1997)と思われる名前が書かれています。「忠」という文字は、梅が丘や代々木上原に住んだ彫刻家の佐藤忠良(1912~2011)、「須」とあるのは洋画家の須田寿(1906~2005)でしょうか。近年の下北沢なら、演劇人が飲んでいても不思議ではありませんが、戦後間もない時期に経堂あたりで芸術家たちが飲んでいたというのは面白いですね。(写真は「白と黒の会」の寄せ書き1951年=世田谷美術館蔵、写真も提供)
世田谷区には、いま8路線の電車が走っています。京王京王線、小田急線、東急田園都市線、京王井の頭線、東急世田谷線、東急大井町線、目黒線、東横線です。世田谷美術館は2020年度に「田園都市線・世田谷線篇」、2022年度に「大井町線・目黒線・東横線篇」、2023 年度は12月から「京王線・井の頭線篇」に続き、完結編として「小田急線篇」の沿線物語を開催したとのことです。「小田急線」のついでに「京王線・井の頭線」をのぞいたのですが、これも興味深い作品がならんでいました。小堀四郎(1902~1998)の「笹塚風景」を見ると、那須あたりの牧場かと思いました。1922年の笹塚というか山手線の外側は、こんな風景が広がっていたのでしょう。旧千歳村の住民としては妙な安心感を覚えました。ちなみに千歳村は1889年に神奈川県北多摩軍千歳村として発足、1893年に東京府へ移管、1936年に東京市に編入後、一部が世田谷区になりました。(写真は小堀四郎「笹塚風景」=世田谷美術館提供)
美術館を出ると、砧公園の冬の木立が広がり、まさに「笹塚風景」の延長で、1世紀前にタイムスリップした気分になりました。
(冒頭の画像は1936年の『沿線案内 小田急電車』小田原急行鉄道株式会社=世田谷区郷土資料館蔵)
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