大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
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2026.01.14 Wed

久米宏さんの訃報にびっくりしました。テレビだけではなくラジオやネットなどで、ずっと情報発信をし続けている人だと思っていたからです。病魔には勝てなかったようで、残念というよりも寂しい思いでいっぱいです。

 

久米さんがメインキャスターを務める「ニュースステーション」にキャスターのひとりとして私が出演したのは1996年から97年にかけてでした。短い期間でしたが、久米さんの言動を通じて、久米流のテレビ報道のあり方を学びました。

 

久米さんは、段取りやリハーサルが嫌いでした。番組に登場するゲストとのやり取りなどの段取りをスタッフが事前に詰めようとすると、「それじゃ、NHKになってしまう」という言い方で、退けていました。私も本番中にいきなり質問を振られるので、うまく答えたいという思いから、事前に質問をいただけますかと尋ねたら、あっさり断られてしまいました。その理由として、次のようなことを話してくれました。

 

「朝日新聞編集委員といったえらそうな肩書の人が質問に答えられず、おたおたすることで、これは難しい問題なんだと視聴者は理解するんです」

 

視聴者が持つであろう質問に対して、コメンテイターが的確に解説するのがメディアの役割だと思っていたのですが、そんな予定調和はNHKに任せておけばいい、というのが久米流なのでしょう。ゲストもコメンテイターも、突然の質問があればどぎまぎして本音や本性が出るわけで、それが生番組の臨場感であり、それを追求できるのが民放の良いところだというわけです。

 

民放テレビという特性を考えながら報道番組を続けてきた久米さんらしいやり方だと思いました。しかし、振り返ってみると、久米さんは、テレビの特性を活かすというだけでなく、そもそもこの社会で大手を振っている「建前」とか「きれいごと」をメディアが報じることに嫌悪感を抱いていたのではないかと思います。2011年3月11日に起きた東日本大震災の直前に、TBSラジオの「久米宏 ラジオなんですけど」に出演して、朝日新聞石巻支局長として「さかな記者」だったときの話をしました。その縁で、震災後も仙台や東京で久米さんと話す機会がありましたが、震災復興のあり方といった話を私がしても、あまり興味がなさそうな反応でした。そういう「きれいごと」よりも、被災地で実際に生活している人たちの暮らしぶりに関心があったのだと思います。

 

米国でトランプ政権が二度も登場した背景として、リベラル派が主張してきた「ポリティカルコレクト」(政治的正しさ)への反発や倦怠感があったと言われています。人種や性別などに対する差別は良くない、というのは「正しい」ことなのですが、本音では、「差別」だと訴えれば得をするのではないか、といった「逆差別」への不満を抱く人々がふえていました。そんなことよりも、自分たちの生活を何とかしてほしいという「ふつうの人たち」がリベラル派を嫌い、本音を言うトランプに傾いた、というのです。

 

こうしたリベラル疲れは世界的な風潮のようで、日本でも「戦後民主主義」の自由や平等、世界平和を「きれいごと」だとして、もっと自分たちや自分たちの国家のエゴを要求する政治勢力が強くなっているように思います。そして、ふつうの国民も生活が苦しくなればなるほど、そうした気分に乗ってきているように思います。

 

久米さんは、メディアがもっと人々の「本音」の声を拾い上げることで、そこからリベラルな政策や政治が築かれていくという社会のあり方をメディアに期待し、自分の放送スタイルもそうしたあり方を模索していたのではないかと思います。

 

理路整然のたてつけで作ろうとする放送番組を「それじゃ、NHKじゃないか」という言い方できらった久米さんの言葉は、新聞でいえば、「それじゃ朝日新聞じゃないか」ということにつながります。久米さんの言葉を思い出しながら、今の風潮に抗う「リベラルの再構築」に思いを馳せてしまいました。私なりの久米さんへの弔辞です。

 

(冒頭の写真は、テレビ朝日のウェブページの「テレ朝News」に掲載された1月13日の「報道ステーション」の映像)


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