激しい逆流、新しい戦争への道
少しずつだが、歴史はより自由で、より公平で、より開かれた社会に向かって進んでいる。私はそう信じている。ただ、その流れは一直線には進まない。しばしば揺り戻しが起き、時には逆流が生じる。アメリカのトランプ大統領の振る舞いは、歴史が激しい逆流の時代に入ったことを示しており、それは新しい戦争の時代の到来を告げるものになるかもしれない。
トランプ政権は産油国のベネズエラに軍事侵攻し、マドゥーロ大統領を拉致してアメリカに連行した。ニューヨークの連邦地裁で麻薬密輸罪などで裁くという。とんでもない行為である。日本のメディアは「国際法違反の疑い」などと報じたが、腰の引けた表現だ。国際法に反することは明白である。アメリカはかつて、北朝鮮やイランを「ならず者国家」と指弾したが、その言葉が自国に向かって発せられたら、果たして反論できるのか。
国際法の重要な規範の一つに「外交特権」というのがある。国家を代表して交渉にあたる外交官は、受け入れ国によって身柄を拘束されたり、刑事裁判にかけられたりすることはない。所得税などの課税も免除される。そうしなければ、国家間の紛争や摩擦を解決するための交渉を進めるのは困難、と各国が悟ったからだ。
外交特権は、戦争に明け暮れたヨーロッパ諸国の間で19世紀の初めに確立された合意で、第2次大戦後の1961年に外交関係に関するウィーン条約として成文化された。条約は「外交官の身体は不可侵とする。外交官はいかなる方法によっても抑留し又は拘禁することができない」(第29条)、「外交官は接受国の刑事裁判権からの免除を享有する」(第31条)と明記している。まともな国家で、この条約を無視したり、否定したりする国はない。
一人の外交官に対してすら、不逮捕や刑事免責の特権が認められている。国家を代表する大統領や首相をどのように遇するかについては、国際的な条約や協定はないが、外交特権の当然の帰結として、国家元首や首相、外相についても同様の特権と免責が与えられ、他の国が刑事責任を問うことはできない、と国際慣習法で広く認められている。
ベネズエラに軍隊を派遣して護衛を殺害し、マドゥーロ大統領夫妻の身柄を拘束して軍用機で連れ去るなど、どのような論理を使っても正当化できるものではない。ましてや、マドゥーロ大統領がコカインの密輸にどのように関わっていたかについての説明もなく、「ベネズエラの石油は今後、アメリカが管理する。利益の配分も決める」と言うに至っては、支離滅裂と言うしかない。
ただ、問題なのは、国際社会にも国連にもアメリカ大統領の責任を問う力と仕組みがないことである。国家間の紛争に対処するのは国連安全保障理事会の仕事だが、安保理で五つの常任理事国すべての賛成を得られなければ、国連は動くことができない。アメリカは常任理事国であり、拒否権を持つ。要するに、かつての「戦勝国」が何をしようと、国連は何もできないのである。
ヨーロッパが主戦場になった第1次大戦では戦場で毒ガスが多用され、戦後、毒ガスや細菌兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書(1925年)ができた。第2次大戦では捕虜の虐待や民間人の虐殺が相次ぎ、1949年に成立したジュネーブ諸条約で、そうしたことが禁止された。国際法とは、その時代の国際社会の「映し鏡」であり、その多くは各国が戦争の惨禍をくぐり抜けてたどり着いた「紳士協定」のようなものに過ぎない。
誰かがその鏡を打ち砕き、「条約や協定など紙くず」と言い始めたら、効力はなくなる。トランプ大統領やガザでの住民虐殺をいとわなかったイスラエルのネタニヤフ首相は、「国際法など紙くず」と言っているのである。彼らに道理を説いても通じることはないだろう。激しい逆流の時代に入った、と覚悟を固めて対処するしかない。
激しい逆流は、次の大きな戦争へとつながる可能性がある。では、次の戦争はどのような様相を呈するのか。すでに、ロシアによるウクライナ侵攻でその輪郭がおぼろげながら見え始めている。ドローンの大量投入に象徴される、ハイテクを使った無人兵器の使用である。人型ロボットの投入も、そう遠くないだろう。
戦争の帰趨を決めるのは「武器と情報」である。あまりメディアでは報じられないが、情報の世界でもすさまじい競争が起きている。とりわけ注目されるのが量子コンピューターの開発と実戦への応用である。
兵力面で劣勢と見られたウクライナが初期段階でロシア軍の侵攻を食い止めることができたのは、ロシアの侵攻作戦の概要がウクライナ側に筒抜けで、準備する時間が十分にあったから、と考えるのが自然である。
ウクライナ側も情報の収集に必死になっていただろうが、ウクライナの力だけではロシア軍の作戦全体を把握することは困難だったはずだ。アメリカがロシア軍部隊の動きを詳細につかみ、差しさわりのない範囲でウクライナ側に伝えた、と私は見ている。
その際、決定的な役割を果たしたのは量子コンピューターなのではないか。しばらく前のコラム「ロシアの暗号は解読されているか」(末尾にURL)でも指摘したが、ロシア側が電子コンピューターで組み立てた暗号を使い、「解読不能」と確信しているシステムを、アメリカは量子コンピューターで解析し、暗号の解読に成功している可能性がある。
量子力学の原理に基づく量子コンピューターは順列や確率の計算が得意とされ、現在のスーパーコンピューターだと1万年かかるような計算を3分ほどで解く、と伝えられている。暗号解読の世界で「パラダイム・シフト」が起きている可能性がある。そして、この分野にもっとも巨額の費用をつぎ込こんでいるのはアメリカである。
技術分析のコンサルタント会社アスタミューゼ(東京・神田錦町)のリポートによると、2018年までの10年間でアメリカは10億6000万ドルの研究開発費を投じたと推計される。以下、イギリスが8億3000万ドル、中国6億3000万ドル、オーストラリア3億ドル、日本2億3000万ドルと続く。
この順番と開発費の推計は、実に興味深い。アメリカとイギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの5カ国は、情報収集と暗号の解読で「アングロサクソン連合」を組んでおり、その合計額は、彼らが新しい戦争の時代に備えて、量子コンピューターの研究開発をいかに重視しているかを示しているからだ。
その重要性を知る中国と日本も追いかけているが、5カ国連合の知の総合力と資金力には遠く及ばない。この研究開発費ランキングの上位にロシアが登場しないのも示唆的だ。石油収入に頼りきり、ほかに世界で闘える産業が見当たらないないロシアは、ハイテク時代の競争で置いてきぼりになっているのかもしれない。
とはいえ、この国もあなどれない。なにせ、ロシアはもともと国際法など気にかけていない。一方で、中東やアフリカではいまだに隠然たる影響力を保っている。どちらも、次の新しい戦争の主要な舞台になる、と考えられるからだ。トランプ大統領は、デンマーク領のグリーンランドや南米コロンビアへの関心を示しているが、アメリカが中東とアフリカの利権を虎視眈々と狙っているのは明らかだ。
第1次大戦後、ドイツは権威的な体制を廃し、ワイマール憲法の下で再出発した。自由と人権の保障をうたった「もっとも先進的な憲法」と評された。だが、ヒトラーはその憲法の枠内で選挙を通して権力を握り、戦争に突き進んでいった。ナチスの躍進を支えた突撃隊(SA)のスローガンは「すべてをドイツのために」だった。
アメリカの民主主義は、かつてのドイツよりはるかに強靭で復元力がある、と信じる。しかし、この国には先住民を力で追い払って土地を奪い、アフリカの黒人を奴隷として酷使して富を築いた、という暗い過去がある。それを正面から見つめ、自省しているか疑わしい。アメリカは「民主主義の旗手」であり、民主主義の破壊者になることはあり得ない、と誰が言い得るのか。
トランプ大統領のキャッチフレーズ「アメリカ・ファースト」は、時にナチス突撃隊の「すべてをドイツのために」という叫びと同じ響きをもって聞こえてくる。「安易なアナロジー(類推)」と一笑に付すことができれば、いいのだが。
長岡 昇:NPO「ブナの森」代表
*初出:調査報道サイト「ハンター」 2026年1月18日
https://news-hunter.org/?p=29717
≪参考文献&サイト≫
◎『国際法概説』(香西茂ら、有斐閣双書、1974年)
◎国家元首等の外国刑事管轄権からの免除(竹村仁美・愛知県立大学准教授)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaihogaikozasshi/114/3/114_251/_pdf/-char/ja
◎外交関係に関するウィーン条約の全文(同志社大学のサイト)
https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/diplomat.htm
◎ロシアの暗号は解読されているか(ハンター、2023年1月31日)
https://news-hunter.org/?p=16240
◎米英中豪日の量子コンピューター研究開発費の推計(アスタミューゼのサイト)
◎5カ国連合による情報収集については、2001年の欧州議会報告が詳しい
https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/A-5-2001-0264_EN.html
◎『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(グレン・グリーンウッド、新潮社、2014年)
◎プリゴジンは中東とアフリカで何をしてきたのか(ハンター、2023年7月3日)
https://news-hunter.org/?p=18294
≪写真説明≫
◎米軍に拘束され、連行されるマドゥーロ大統領(トランプ大統領のSNSから)
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