北海道福島町で伊能忠敬を考える
今年度から高校の「地理総合」が必修科目になったそうです。時間認識の「歴史」とともに空間認識としての「地理」の重要性が再認識されたということでしょう。
地理の必修化は半世紀ぶりとのことですが、地理の根幹ともいえるのが地図。そして地図と言えば伊能忠敬(1745~1818)の名前が浮かんできます。先日、北海道松前郡福島町を旅したら、立派な伊能忠敬像が建っていました。なぜ津軽海峡を見渡す公園に忠敬が立っているのか、福島町の教育委員会が発行した『ふくしま歴史物語』(2021年)には、次のように書かれていました。
「1800年7月10日(寛政12年5月19日)、伊能忠敬測量隊一行6人を乗せた船は、青森県三厩(みんまや)を出て、昼過ぎに吉岡にとう着しました。翌日から北海道の測量は開始され、その後17年間かけて日本地図測量が完成します。実は当初の行き先は函館でしたが、風のえいきょうで吉岡に運ばれました。後に忠敬は、全国の測量をすることになったのは、天命であったと語っています。その測量の最初の出発点になった私たちのまち、福島町吉岡もまた天命によって選ばれた地といえるでしょう。日本地図づくりの第一歩は、吉岡からふみ出されたのです」
下の地図はgoogle mapに忠敬のルートに沿って青森県三厩・北海道福島町吉岡・福島・木古内・箱館の名前を挿入したものです。
◆測量は函館開始の定説を覆す
なるほど、これを読むと、福島町に忠敬像があるのも頷けます。しかし、福島町が伊能測量の出発点というのは、最近の研究によるもので、それまでの定説は、函館が出発点だったそうです。たしかに1957年に函館市の観光案内をネットでみると、函館山の山頂に伊能忠敬記念碑があり、そこには「伊能忠敬北海道最初の測量地」と刻まれています。
どうして定説が覆ったのか、福島町の忠敬像を案内していただいた福島町史研究会の会長で、地元で建設業を営む中塚徹朗さん(64)から、その経緯をうかがいました。
忠敬の測量を記した文献は、『忠敬先生日記』(全51冊)と『測量日記』(全28冊)があり、前者は測量地で書き留めた文字通りの日記で、これを江戸に戻ったのちに測量記録として書き直したのが後者です。「情報量としては『先生日記』よりも『測量日記』のほうが多いため、これまでの研究者は『測量日記』を研究対象としてきました」と中塚さん。2017年に中塚さんは町教委の職員とともに千葉県香取市にある伊能忠敬記念館を訪れ、同館が収蔵している『先生日記』などを撮影、この記述を調べました。その結果、『測量日記』にはない次の一文を見つけたのです。
「キコナイ泊、夜少測量」
中塚さんによると、キコナイは、福島町と函館の中間にある木古内で、「夜少測量」は、雲がかかっていたためか、少ない数の星を観測した、という意味だそうです。忠敬は、日中は、間縄(けんなわ)という道具と歩測で距離を測り、杖先磁石(彎窠羅針=わんからしん)という観測器具で方位を測り、夜は中象限儀という観測器具で緯度を測ることで、測量地点の位置を確認しながら地図を作成しました。測量と天体観測はセットになっているので、木古内で夜に天体観測をしたということは、日中は測量をしていたということになるわけです。蝦夷地の測量で間縄が使用されたのは函館から大野(現北斗市)までで、降雪期になるのをおそれて測量を急いだためほとんどは歩測だったといいます。ちなみに忠敬の一歩は69センチで、日ごろの訓練でこの技を身につけたといいます。(写真は、わんか羅針と中象限儀=いずれも伊能忠敬記念館所蔵)
「(吉岡から)陸地一里余福島」
上陸地の吉岡から福島まで一里余という上記の記述も『先生日記』の一文ですが、木古内での天体観測も考慮すれば、これこそ忠敬が上陸した吉岡から測量を始めていた、という証拠だというのです。
木古内で測量という一文を発見したときの思いを中塚さんは次のように語っています。
「心臓が止まるかと思うほど驚きました。私は、もともと忠敬が蝦夷地の上陸地点である吉岡から測量をしていたと思っていましたが、天体測量の記録を見つけたわけで、これで吉岡が測量の起点という決定的な証拠だと思いました。十数年前に、蝦夷地全体の地図作成を忠敬が託した間宮林蔵の下図をgoogle earthにはめ込んでみたら、その測量ルートが会社の敷地を取っていることがわかり、忠敬を調べるのは私の天命だと思って研究をしてきました。キコナイの発見で、その甲斐があったと思いました」
伊能忠敬像は2018年に、忠敬の上陸地点である福島町吉岡に町が「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」として整備した場所に建立されました。「福島町が測量の出発点だったということをアピールするには忠敬像を建てるのがいちばんだと思いました」と中塚さん。忠敬像は、出生地の千葉県香取市、測量の際に忠敬が必ず参拝した東京都江東区の富岡八幡宮などにあります。福島町の忠敬像は、彫刻家の酒井道久さんの作品で、最初の目的地である函館に向けて、杖先磁石で測量する姿になっていて、測量する様子の忠敬像はここだけだそうです。
伊能忠敬が蝦夷地測量のため江戸を出発したのは1800年6月11日(閏4月19日)。奥州街道を北進して21日かけて津軽半島の北端、三厩(みんまや)に到着します。そこから蝦夷地の箱館(現函館)まで津軽海峡を渡ろうとしますが、東風(やませ)が吹き荒れ8日間待たされたうえ、ようやく船が出たものの、東風に流されて箱館よりも西方の吉岡(現福島町吉岡)に流され、そこに上陸したのです。7月10日のことです。
蝦夷地に入った忠敬は、箱館から根室近くのニシベツ(西別)まで行って、そこで折り返して松前から船で三厩に戻りました。北海道内の滞在期間は118日、うち測量に費やしたのは64日、江戸との往復の日数は180日に及びました。(写真は忠敬が1800年に作成した蝦夷地実測図の一部で、松前付近から西別付近までが書かれている=伊能忠敬記念館所蔵)
渡辺一郎著『伊能忠敬の歩いた日本』(ちくま新書、1999年)などによると、江戸に戻った忠敬は、測量の成果を約20日間かけて小図1枚、大図21枚(奥州街道11枚、蝦夷地10枚)にまとめて、師匠で幕府の天文方だった高橋至時(1764~1804)に提出、至時から幕府勘定所に出されました。師も驚くほどの良い出来で、幕府もその実績を認たことで、忠敬は最終的には10次にわたる日本全体の測量を指揮することになりました。その成果が忠敬の死去から3年たった1821年に『大日本沿海輿地全図』として完成しました。
◆伊能忠敬が挑戦した地球の大きさ
下総国香取郡佐原村(現千葉県香取市佐原)で酒や醤油の醸造、貸金業を営んでいた忠敬は、49歳で隠居したのち、江戸に出て、高橋至時に師事し、天文学や暦学を学びます。まさに「五十の手習い」です。地上や宇宙の測量法を学んだ忠敬が挑戦しようと考えたのは、緯度1度の距離です。忠敬の時代、1度は「25里、30里、32里とまちまちだった」(Wikipedia「伊能忠敬」)ので、これを測ろうとしたのです。
忠敬は当初、自宅のある深川から至時の屋敷のある浅草までの距離を測って、1度の距離を求めようしました。ところが、至時に、もっと長い距離を測らなければ正確な距離はわからないとして、蝦夷地を例示されたことから、蝦夷地の測量を決意しました。前掲の『伊能忠敬の歩いた日本』にそんなエピソードが書かれています。
蝦夷地の第1次測量の結果、忠敬が割り出したのは1度=27里余で、第2次測量では1度=28.2里として、それ以降は、この数字を変えませんでした。地図を作成するたびに1度の距離が異なっていると、他の地図との整合性がとれなくなるため、この数字を基準にしたとみられます。
この数字がどのくらい正確なのか、1里=3.927キロとして計算すると、28.2里は110.741キロとなります。これが忠敬の1度の長さです。一方、地球は完全な球体ではなく東西に長い楕円体であるため、緯度によって1度に微妙な差がありますが、東京都港区麻布台にある日本経緯度原点の北緯35度39分29秒の緯度1秒の長さ30.820メートルとありますから、その360倍で1度の長さは110.952キロとなります。これが現代の科学技術による1度の長さです。つまり、忠敬が算定した1里=28.2里の精度は99.8%ということになるわけです。
忠敬の使った測定器具や歩測を考えると、驚異的な精度ですが、師の至時は当初、忠敬の数字を信用せず、至時が入手したフランスの天文学者ラランド(1732~1807)の天文書を訳す過程で得た数字と符合したので、やっと納得したという逸話が残っています。
◆蝦夷地の地図は対露防衛策の一環
忠敬の蝦夷地測量の狙いは緯度の長さを測ることにあったようですが、至時が幕府に願い出た蝦夷地の測量を幕府が認めたのは、蝦夷地に対するロシアからの圧力が高まっていたからです。米国のペリー艦隊が浦賀に来航して通商を求めたのは1853年ですが、それより74年前の1779年にはロシアが日本との通商を求めて蝦夷地のアッケシに来航しています。それ以降、ロシア船はたびたび蝦夷地の周辺に出没していました。このため、幕府は1799年には松前藩が統治していた東蝦夷を幕府の直轄としています。
地図は軍事的な情報としても基礎となるものですから、幕府も対ロシア防衛策のひとつとして忠敬の蝦夷地測量を認めたのでしょう。そして、忠敬が作成した日本全図も日本の安全保障にとって重要なデータであることは幕府も認識していたのでしょう。日本全図は国外への持ち出しを禁じる禁制品にしました。
ところが、オランダ商館医として来日、長崎の出島を拠点に『日本博物誌』を著したり、鳴滝塾で西洋医学を教えたりしたドイツ人のシーボルト(1796~1866)は、帰国の際にこの伊能図の写しを持ち出そうとして、「シーボルト事件」を起こすことになりました。シーボルトは国外追放、再渡航禁止の処分ですんだのですが、伊能図の写しをシーボルトに渡した高橋景保(1785~1829)は、この罪で捕らえられ、獄死(のちに死罪の処分)します。
景保は忠敬の師だった高橋至時の長男で、幕府天文方の役職を至時から引き継いだ人でした。日本地図は、シーボルトが求めた文化情報(博物学)でもあり、幕府からすれば非公開の軍事情報だったわけで、その両義性で起きた悲劇かもしれません。至時・忠敬・景保の関係を考えると、何とも痛ましい事件でした。
◆デジタル時代に必要なアナログの知恵
文科省は、高校教育の必修科目として設けた「地理総合」の目標として、「世界の生活文化の多様性や、防災、地域や地球的課題への取組などを理解する」(学習指導要領解説)を掲げています。ハザードマップの重要性は高まっていますから、地理で防災を考えるのは必修かもしれません。スマホのナビを使う頻度がふえていますが、ナビに頼るようになると、地図を読む力が衰える心配もあります。車のナビは、進行方向が上になるようにセットしているので、南北の意識が薄れているようで、北を上にしたアナログの地図を読むのが面倒になります。デジタル化による地図読解力の退行現象でしょう。
「地理総合」では、地理情報システム(GIS)の活用が取り上げられています。しかし、デジタル時代だからこそ、アナログの江戸時代に99%の精度で緯度1度の距離を算定した伊能忠敬の偉業を考えることも意味があると思いました。
(冒頭の写真は福島町に建てられた伊能忠敬像で、左から2人目が中塚徹朗さん。また、この稿を書くにあたっては、野上道男氏の論文「伊能忠敬の地図作成における『1度28.2里』問題」<『地学雑誌』129巻=2020年第2号>を参照しました)
この記事のコメント
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「キコナイ泊、夜少測量」の節において、
「少ない星の数を観測した、(中略)、夜は中象限儀という観測器具で緯度を測る、とのご説明ですが、天文学士であった伊能東河先生を心の師と敬っている老書生としてのお願いは、今少し、先生の凄いところを紹介して欲しいです。それは、測る星を特定する測器は子午線儀であって、その測器で子午線を横切る恒星を特定し、象限儀でその恒星の高度を測った。そして、その高度から測った恒星の赤道緯度とを使って緯度を計算で求めた。当時はそのような科学が封建社会であった日本にもあり、そのような科学をシニアになってから商人が習得した。(なお、「少ない星の数」でなく、「少ない数の星」とした方がよろしいのでは?)
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「東風に流されて箱館よりも東方の吉岡(現福島町吉岡)に流され」 これは間違いありませんか。福島町は函館より西では。地図で確かめてはいないのですが。