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オリンピック延期は世界の常識だった

2020.03.25 Wed

新型コロナウイルスがパンデミックと判断された状況のなかで、IOC(国際オリンピック委員会)は、やっと東京オリンピックの延期を決めました。

 

安倍首相がIOCのバッハ会長と電話で会談し、首相が「来年夏までに開催」という延期案をバッハ会長に示し、バッハ会長がそれに「100%同意」し、会長はすぐに電話による臨時の理事会を開き、延期を承認したということです。形式的には、延期の言い出しっぺは日本ですから、延期に伴う負担はまず日本が負うべきだ、というIOCの戦略が透けて見えた気がします。

 

これまで、日本国内では、延期や中止を決めるのはIOCだから、日本はそれに従うしかない、という論理がまことしやかに流れていました。しかし、最終的な決定はIOCが下すにせよ、開催地の意向が重視されていたことが電話会談ではっきりしました。そうであるなら、日本側(政府、東京都、組織委員会、JOCなど)は、IOCまかせではなく、いつまで延期するのかなど、その具体策についても、もっと踏み込んで提案することができたのかもしれません。

 

しかし、日本が延期の具体策を示すことができなかったのは、延期は考えていない、という姿勢を貫いていたからでしょう。不測の事態が起きたときのプランBを考えておく、というのが危機管理の常識ですが、日本では、プランBを考えること自体が敗北主義だとして退けられるのが常のようです。何があっても予定通りのプランAで突き進み、最後は花と散る、という散華の美学が大好きなのです。だから、組織委員会やJOCの理事など「内部の人」がプランBを口にしたとたん、トップから批判されることになります。

 

今回の延期のプロセスで、日本側で最初に延期論を口にしたのは組織委員会の高橋治之理事でした。「1~2年の延期を考えるべき」という高橋氏のコメントが米紙(3月11日)に報じられると、組織委員会の森喜朗会長は「軽率な発言」と批判しました。また、JOCの山口香理事が「アスリートが十分に練習できていない状況での開催は、アスリートファーストではない。延期すべき」と、朝日新聞などにコメント(3月20日)すると、JOCの山下泰裕会長は「JOCの中の人がそういう発言をするのは極めて残念」と、批判しました。

 

組織委員会の理事もIOCの理事も、東京オリンピックを成功させる、という目的のもと、自分たちの考える最善の策を個人の意見として示しただけでしょう。こうした意見を封じてしまえば、組織委員会もJOCも、トップの意向に従うだけの大政翼賛会にすぎなくなります。

 

もう無理だとわかっていても、それを口に出してはいけない、というのはまさに太平洋戦争末期の日本の状態です。山口理事は、延期論を述べた朝日新聞の記事のなかで、次のように語っています。

 

「コロナウイルスとの戦いは戦争に例えられているが、日本は負けるとわかっていても反対できない空気がある。JOCもアスリートも『延期の方が良いのでは』と言えない空気があるのではないか」

 

高橋発言から2週間足らず、山口発言から4日足らずで、トップたちは方針変更に同意し、いまやそれを正当化する発言を繰り返しています。それなら、あの口封じのような批判は何だったのか、言いたくなります。「オリンピックの7月開催は無理だよね」と、一般の国民ですら話題にしているときに、延期はないと言い続けたトップたちの発言は、まさに大本営発表でした。

 

日本のトップにいる人たちは、「信なくば立たず」という言葉が好きなようですが、それを口にする人ほど言葉が軽いのは偶然でしょうか。国民の信頼がなければ、政治もオリンピックも成り立ちません。「自分が決める前に勝手なことを言うな」というのがオリンピック開催者たちの論理だというのなら、日本国民も世界の人々も東京オリンピックに信頼を寄せることはないでしょう。

 

日本をみれば、「なんとか持ちこたえている」(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議)という状態でしたが、オリンピックの延期論が表面化した数日前から、オリンピック開催地の東京で、感染者が急増しはじめ、小池都知事は25日、週末の外出自粛を都民に呼びかけました。延期が決まるまでは感染者数が少なかった、というのは偶然の一致でしょうが、東京も予断を許さない状態になってきました。

 

それにしても、世界をみれば、選手団を東京に派遣できる状態にある国は少なく、コロナの終息が見通せないなかでは、延期は世界の常識だったと思います。延期を求める世界の声は、あちこちから上がっていました。「世界の常識は日本の非常識」という言葉がありますが、まさにオリンピック延期論も、そうだったわけで、最終的には、日本側も世界の常識を受け入れることになったのでしょう。

 

同じような話だと私が思っているのは、コロナウイルスの検査体制です。新型コロナウイルスの特徴は、感染しても症状が出なかったり、軽症ですんだりする人が多い一方で、潜在する感染者にも感染力があることだといわれています。

 

そうだとすると、感染を抑えるには、軽症の人も含め、できるだけ感染者を顕在化させて、病院あり自宅なりで、隔離するのが有効な方策ということになります。世界の大勢は、こうした考え方のもと、コロナ対策を進めていますが、日本は世界に比べて検査件数が著しく少ないまま推移しています。日本は重症者を検査すべきで、軽症者は検査しないほうがいい、という考え方が主流になっているからです。

 

3月25日付の朝日新聞にも、「新型コロナ?受診急ぐ前に」という見出しの記事で、ある病院の感染管理室マネジャーが「病院に早く行く利点はない」と説明していました。

 

  • 検査で感染を発見できるのは最大でも70%だから、陰性と判定された患者が感染を広げる可能性があるし、感染していないのに陽性と判定された人が入院すれば、病床不足につながる
  • いま検査をする最大の目的は感染した重症者を見つけ治療につなげ死なせないこと。検査で感染者を早く見つけても重症化を防げるわけではないので、病院に行くメリットはない。病院に行って院内感染のリスクのほうが大きい。「非感染の証明書」をもらうのに病院に行くのはデメリットしかない
  • 検査には専門的な訓練が必要で、病院の検査技師ならだれでもできるわけではない

 

というのが検査は万能ではない、という論拠で、最後の結論は次のように書かれていました。

 

「つらくなければ自宅で療養してください。高熱が続く場合や息苦しさが出れば、帰国者・接触者相談センターに電話をしたうえで、医療機関を受診してください」

 

「せきがあるから検査してほしい」といった人たちへの対応で追われている現場の意見としては当然でしょうし、厚労省の国民への説明も、4日間は発熱が続いたら、帰国者・接触者相談センターに電話で相談し、同センターが必要だと判断すれば、検査体制の整った医療機関を紹介する、となっています。

 

しかし、こうした日本方式の問題点は、無症状や軽症の感染者を放置することで、感染が広がるリスクを軽視しているということです。重症化してから検査・治療する、という方法だと、重症化してから適切な医療を受けるまでの時間差が大きくなり、より症状が深刻化するリスクがあります。

 

WHOの3月24日現在のデータによると、コロナによる全体の致死率は4.3%で、初期の段階よりも高くなっています。医療崩壊がいわれるイタリアの致死率は9.5%で、平均をはるかに上回っていますが、積極的な検査で感染を抑えようとしているドイツは0.4%で飛び抜けて低い数字になっています。日本は3.7%で、世界平均よりは低いですが、意外に高いように思えます。

 

日本の致死率が期待ほどには低くない理由は、検査件数が少なく、分母となる感染者数が少ないからだと思います。とはいえ、重症者を優先的に検査するという現在の方式を続ければ、数字のうえでは、致死率が高い水準で推移することになると思いますし、それだけでなく、重症化しなければ治療しない、ということが致死率に影響するおそれもあると思います。

 

日本の医療水準は相当高いと期待するので、仮にドイツ並みの0.5%の致死率だとすれば、3月24日の日本の死者は42人ですから、感染者数は8000人となり、1%だとしても4000人ということで、現在の1128人よりもずっと多くなる計算です。全くの仮定の数字ですが、数千人の潜在感染者がいるリスクは、「オーバーシュート」(爆発的な感染者の増加)のリスクにつながっているように思えます。

 

先日、コロナ対策専門家会議の委員がテレビ番組のなかで、日本の感染が低い水準でとどまっているのは、検査ばかりにとらわれていないからだ、との趣旨の発言をしていました。たしかに検査をしたために感染したという人はいないかもしれませんが、私には、軽症の感染者を顕在化させないリスクのほうが大きいように思えます。

 

検査体制の問題で、私が気になっているのは、検査をふやすべきだと主張している専門家たちに「感染者数をふやすことで、コロナ禍を煽ろうとしている」といった非難を浴びせている人たちが多いことです。専門家の意見が分かれるのは、感染を抑えるのに有効な方法をめぐる考え方の違いだと思いますが、検査拡充論への非難は、そうした次元ではなく、政府の方針に反する意見を言うのはけしからん、といった感情が土台になっているように思えるのです。

 

日本が一丸となってオリンピックの開催で動いているときに、日本の理事が延期論を言うのは「軽率」だし、「極めて残念」だという論理に従えば、政府が開催だと言っているときに、延期を言う日本人はけしからん、ということになります。戦争中なら「非国民」と言われたのでしょう。それと同じような社会心理が検査論議でも起きているように思えるのです。

 

新型コロナウイルスのパンデミックは、人類にとって新しい試練であり、抑制策としてどれが有効か、正解かというのを判断するには、まだ時間がかかります。それまでは、いろいろな意見があることを認め、議論が交わされることをよしとしなければならないと思います。

 

日本全体に、政府の方針と反するような意見を抑え込もうとする風潮がただよっているように思えます。マスメディアへの権力を持つ側からの干渉は以前よりもずっと強まっていると思います。その背景には、国民のなかにもそうした動きに同調する人たちが多いことがあると思います。コロナ禍でも同じような「空気」が支配することになれば、より適切な対応策を見逃し、国民の生命を危険にさらすことになりかねないと思います。

(冒頭の写真は、IOCのHPに掲載された東京オリンピックの延期決定を受けて開かれた電話記者会見でのトーマス・バッハIOC会長)


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