桐村英一郎著『熊野から海神の宮へ』を読む
私たち日本人は、どこから来たのか。いろいろな分野の研究者がこの問題に取り組んでいます。そのなかで、多くの研究者がそのキーワードしているのが「海人」の存在です。海を生活の基盤にした南方の人々がいろいろな文化や技術を携えて日本列島にわたってきたという仮説で、そうした人々の歴史を想像することは、私たちの好奇心というかロマンをかき立ててくれます。だから、こうした分野には全くのしろうとである私の書棚をみても、柳田國男『海上の道』、大林太良『海の道 海の民』、谷川健一『古代海人の世界』、梅原猛『海人と天皇』、永留久恵『海童と天童』といった本が並んでいます。
今回、紹介する桐村英一郎著『熊野から海神の宮へ』も、同じような問題意識を根底にして、和歌山県の海岸から数十キロも陸に入った紀の川の中流に、海神を祀る海(かい)神社があるのはなぜだろうか、という疑問を解き明かそうとした本です。海神社の祭神は豊玉彦命(とよたまひこのみこと)と国津姫命(くにつひめのみこと)で、もともと豊玉彦を祀っていたとされるのが熊野の盾が崎、国津姫を祀っていたとされるのが熊野の浦神で、著者は、こうした2神のゆかりの地などをめぐりながら、海の神が山に勧請された謎に迫っています。
古事記や日本書紀などの古代神話の世界では、豊玉彦は海神(ワタツミ)とされ、豊玉彦の娘である豊玉姫は、海彦(兄)・山彦(弟)の山彦と結ばれます。ギリシャ神話のポセイドンのような存在です。一方、国津姫ですが、国津は天津と対をなす神様で、国津は土着の神、天津は高天原の神ですから、土着の女神というわけで、筆者は、ここ浦上の国津姫は、北九州を本拠地とした宗像系海人族が奉じた宗像三女神と関係が深いと推論しています。
海彦・山彦神話も海人の系列とされていますから、豊玉彦も国津姫も海人系ということになり、「熊野から海神の宮へ」というテーマは、紀伊半島における海人の系譜を検証する学びの旅ということになります。この本は「神々はなぜ移動するのか」というのが副題で、祭神が勧請されて移る過程をたどる筆者の旅は、紀伊半島の観光案内でもあり、この本を片手に熊野灘を一望する海岸や、木の香りが漂う紀の川、古代ロマンの吉野を探索、そのついでに著者の住むという熊野市波田須町を訪れたくなります。
著者の桐村英一郎氏は、もともと朝日新聞の記者で、私の先輩でもあり、経済部や論説委員室では同僚として働いたこともあります。新聞社を退社後、奈良県明日香村に移り住み、古代史に「はまった」ようで、明日香の古代史をめぐる著書を3冊著したのち、三重県熊野市に移り、今度は熊野をめぐる本を、この本を含め4冊も著しています。もう元新聞記者というよりも古代史家のほうがふさわしくなってきました。
古代史にはまった原因は、日本人のアイデンティティーをさぐるということでしょうが、海人に関心を持ったのは、この本の最終章(エピローグ)が「黒潮の彼方への思慕」とあるように、私たちのなかに流れる海洋民族の血がうずいたということではないかと想像します。
私たちは、「日本人は農耕民族だから」という自己規定で、自分の主張はほどほどにして、組織の和を尊ぶ風潮を善しとしてきました。たしかに、水利が不可欠な稲作では、ムラをあげての共同作業が重要ですから、ムラの長に皆が従う組織原理が育ってきたのもうなずけます。しかし、それが重苦しく感じることもたくさんあります。現代でも、ムラの長の立場を忖度し、その言葉を重んじるあまり、行政官が見苦しい嘘を重ねている姿を見ていると、農耕民族のDNAが国民に染みついているように思えてきます。
しかし、私たちに流れている血は農耕民族の血だけではない。そのもとをたどれば、海洋民族の血が流れていることを再認識してはどうでしょうか。日本人のアイデンティティー探しは、農耕民族の呪縛からの脱出の旅でもあると思います。そんなことを想いながら、この本を読み終えました。
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