南紀旅行
南紀旅行
平成30年5月
仲津真治
1) 久々の国内の旅
久々に国内旅行を思い立ちました。 それは、ふらつきつつも転けないよう、注意して出来るだけ外へ出かけ、自身から社会性を失わないようにする心掛けの一環です。
今回は南紀の瀞八丁が主たる目的地で、家内とともに同地へ向かいました。
何故、瀞八丁か。 実は子供の頃、実家に掲げて在った絵に、この瀞八丁が描かれていたのです。幼な心に「いつか行ったみたいな」と思いつつも、果たせずに今日まで来ました。そして、遂に古希を過ぎた、この歳になって、生の在るうちに、それを実行しようと、行動を起こしたものです。あの絵自体は、実家の建て替え、つまり「すばる天王寺」の建築の折り、工事中と思われますが、失われてしまいましたが、その記憶は立派に残っています。
さて、出発は好天に恵まれた中、此の五月の半ばとなり、家内とともに、相当その世話になりながらの旅となりました。
2) 好対照
それは、主に東海道新幹線を使っての名古屋までの速い旅と、そこから特急南紀号に乗り換えてのディーゼル列車による、ゆっくりとした旅の好対照部分から成りました。 前者は一時間四十分、後者が三時間四十分と、後半の距離はかなり短いのに、遙かに長く懸かるのです。 でも別世界のような旅でもありました。尾鷲辺りの濃い緑はさすが迫力がありました。 年間約三千ミリもの降雨量を反映しているのでしょう。
新宮の手前辺りで、三重・和歌山の県境をトンネルで越え、紀州路へと踏み入れます。左側の車窓には時折、海が顔を出します。熊野灘から太平洋へと広がるのです。
なお、かつて紀勢東線と西線に分かれていた鉄道路線はその後完工により一本に連なりましたが、その後、新宮駅で東海会社と西日本会社に分かれました。我々の乗った特急も車掌が交替しました。 因みに、新宮駅には両社から駅長が来ている由です。 やがて、終着駅の勝浦に着き、其処で投宿しました。
なお、紀勢線全線を走り抜ける列車は無い由です。 名古屋発南紀号と
新大阪発黒潮号に別れるのです。
3) 瀞八丁(どろはっちょう と読む由)に至り、見学
五月十六日朝、瀞八丁に向け、勝浦を出ました。熊野交通のバス便で、世界遺産で有名になった熊野三山の旅の仲間と一緒でした。 途中、新宮市の佐古というところで、そのバスから降り、水上組だけで、他と合流し、船に乗り換えたのです。 船はウォーター・ジェット方式の推進で、日本の創意発明だそうです。基本原理は船底から水をくみ上げ、それを後ろの水面に叩きつけると、その反作用により時速約四十キロの高速で航行するというものです。 以前はプロペラ方式でしたが、やかましく、この方式の船の登場でかなり騒音レベルが下がったとのことです。
乗船して間もなく、ウォーター・ジェット船は滑らかに進み出しました。斯くて、暫しの時の経過後、初めて瀞八丁の景観が眼前に次々と展開してきました。綺麗な透き通った水流は僅かに動き、所謂瀞をなします。その瀞を囲んで、両側に、壁や岩が迫り、様々な形象を見せます。まるで緑と岩に囲まれた、廊下のような世界です。 将に子供の時に見た絵を彷彿とさせました。 ただ、あの絵は、その廊下を、かなり上からの視角で切っていたように思います。 また、水の色は深い緑で描かれていて神秘的な感がありましたが、水面に近い、船からの視線には違ったものがありました。
現物を観て、最も印象に残ったのは、亀岩でした。本当に亀のような姿をしていました。
4) 観光継続のために
熊野川は大台ヶ原付近に源流を持つ大河ですが、降雨や雪に恵まれ、水量の豊富な川です。 これについて、ジェット船を運航する会社の人々は、増水や洪水はしょっちゅうだと云っていました。 斯くて石や小岩が大量に累積する河状となり、且つ絶えず変化します。 すると観光景観を保つためには、関係者の相応の努力が必要です。現に、瀞八丁の一角にブルドーザーが一台置かれていました。その解説もありました。 運航社員は頻度の多い苦労を語っていました。
それは一種の受益者負担になりましょう。 河川管理者サイドのオーケーを得ていることと思われます。 水系名は新宮川水系で、河川名は熊野川です。水系は全体として、和歌山県、三重県、奈良県の三県に跨がります。
うち、下瀞では、和歌山県側の飛び地が大きく三重県側に食い込んでおり、それは廃藩置県のときの措置に由来すると云います。 江戸時代、流過させる筏が、紀州藩側、即ち後の和歌山県側で扱われていた経緯による由です。
5) 白浜アドベンチャーワールド
十七日、滞在地の白浜で、アドベンチャーワールド等に出かけました。
主たる関心は、そこで相当な成果を上げているパンダの飼育の成果と
意義です。
まず、五十年前に同地に空港が出来ています。後年ジェット化までされた、このインフラの効用は、無いときに比べると大変大きいのですが、直ぐに地域振興の起爆剤とまでは成りませんでした。
次いで四十年前にアドベンチャーワールドが始業します。私鉄の南海系の企業化でサファリパークが主力、広さ約百ヘクタールも在りました。 しかし、それも決定打とは成りませんでした。
間もなく、何と、東京上野に続き、御縁在って白浜への、チャイナからのパンダの借り入れが決まったのです。その後、白浜の飼育係のスタッフの献身的な努力と創意工夫、また、パンダに双子の出産が続き、その二頭とも育てることに成功するという幸運に恵まれます。
地元に伝わるお話によれば、出来た双子のうちの一頭を、通常は死なせてしまう
ところ、うまく差し替え、母パンダをして巧みに授乳させ、二頭とも育てることを可能にしたと云います。
斯くて、双子は二度とも成長し、大人となります。 その育児の成功率は約九割にも達しました。白浜のパンダは今や五頭も居て、飼育は大成功、俄然世界的に有名となります。
その人気ゆえ、温泉観光地白浜は、一気に盛り返したのです。
6) 実は雑食というパンダ
私どもが現地を訪ねた折り、先ず、このパンダ棟に向かいました。
パンダは二頭、若いのが正面に出ていて、しきりと竹を食べていました。成る程話しに聞くとおりでした。
ただ、地元で聴いた話では、パンダは実は雑食の由、絶滅危惧種との
説に怖れをなした日中の関係者が、育成に失敗しないよう、通説の竹食に拘泥しているだけと言うのです。 それは単なる噂話なのか、真偽の程は定かで有りませんが、解明が必要のように思いますね。
7) いろいろ諸成功をもたらしつつあるアドベンチャーワールド
パンダ棟やイルカショー、サファリ体験のケニア列車など、集客機能をもたらしている各施設を実地見学し、平日なのに大入りの様子を味わいました。また、諸鳥や非肉食の諸動物が放し飼いになり、ともども仲良く遊んでいる園内を楽しみました。 係員によれば、彼らは小さい頃から一緒に飼われているので、平気で共存することに慣れている由です。 もとより、猛獣コーナーは厳重に仕切られ、更に個々に管理されています。
新しい発見でした。後刻の京大の白浜水族館訪問とともに、以上の諸体験は大いに意義在る社会見学となりました。
それにしても孔雀が直ぐそばで見事に羽根を広げたのには、驚きました。十八日帰宅しました。
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