アラビアの道 サウジ・アラビア王国の至宝
アラビアの道 サウジ・アラビア王国の至宝
平成30年 2018 4月
仲津 真治
余りないと思われる展示を上野の国立博物館でやっているので、それを鑑賞すべく、何とか、同所の表慶館まで足を運んで参りました。 また、こうした展示では珍しく会期を延長しているので、その理由を聞くと、サウジ・アラビア側の意向と言います。
1) 何故、アラビアの展示か?
私がこの展を参観した大きな理由は、人類史で約二十万年前、アフリカ東部のサバンナ地帯に発祥したと言われるホモ・サピエンスが、約六万年前辺りに、中東を経てユーラシアに拡散し始めたと推定されていますので、その通り道になったと見られるアラビア半島を扱うはずの本展示ですから、どういう触れ方をしているか、また、何らかの展示品でもあればと思ったからです。
残念ながら懸かる展示品はありませんでしたが、この人類拡散の経路についての概要図は示されていて、紅海南端の対岸のアデン付近に上陸推定地点の矢印が表示されていました。あの辺りの紅海が狭まっており、アフリカ側からアラビア半島側が十分視視野に入りますので、懸かる推定が成り立つのでしょう。 ただ,もう一つルートが示されていまして,それはアフリカ側を北上、スエズ地峡やシナイ半島に至るものです。何れも有り得たのでしょう。
斯く、ホモ・サピエンスは拡散したようなのです。 動機として最も大きくは、その盛んな好奇心があったと見られています。
なお、この中東付近で、先住のネアンデルタール人 約五十万年前に発祥と推定)との交雑が或る程度起きたと推量されていますが、この展示は、其処までは触れていませんでした。
2 ) 地名や自然条件
アラビア半島は半島として世界最大、西は紅海、南はインド洋に繋がるアラビア海、東はペルシャ湾に囲まれています。このうち、ペルシャ湾は、アラビア側の呼び方としては「アラビア湾」で在ることが分かりました。
わたしどもは、エジプトなどの旅行の折りに、アラブ首長国連邦のドバイなどに寄ったことがあります。其処には砂沙漠が広がり、ドライブによる周遊を楽しみましたが、アラビアでは砂沙漠と岩石沙漠がともに併存しているようでした。 高校の地理で教わったたとおりでした。
ここには、駱駝という乾燥に強い大型の哺乳類がいます。 これの祖先がもと北米大陸に居たと謂われ、一部がベーリング海峡を東から西へ渡ってユーラシア大陸にて進化し、現代の駱駝に繋がっている由、この動きはホモ・サピエンスと逆方向ですね。他方、北米に棲息していた祖先は滅んだものの、一部が南米に移動、こんにちのリャマやアルパカに進化したと言います。
さて、駱駝に話を戻しますと、ヒトコブラクダとフタコブラクダの二種が居ます。前者は西アジアが原産地で、今日の分布は、中東・西アジア・北アフリカなどであり、後者が中央アジアが原産地、今日の分布は、中央アジア、新疆、モンゴル高原、チャイナ内陸部などですが、多数派はヒトコブラクダと申します。
オーストラリアに居るのは英人が持ち込んだヒトコブラクダが野生化したもの聞きました。
これとは別の話ですが、二種の駱駝の混血化が次第に図られているとも言います。
なお、本展示の写真では、毛が黄土色の外に、濃い茶色のが結構いました。コブの数とは違い、それは種別では無さそうです。
追って、このコブには乾きに備えた「水」が蓄えられているとの俗説を聞いたことがありますが、間違いの由、実際は脂肪層で一種の蓄えと言います。
3 ) 人形石柱
紀元前約四千年以降、この地域から人形石柱が結構発掘されています。それらは祭司用と思われる施設跡からですが、往時この地域の乾燥化が進んだとされ、その事を反映してか、移牧民や遊牧民をかたどった石製の人形が作られたようです。
時代からして、それは日本の縄文時代に当たります。日本では「縄文のビーナス」始め、盛んに土偶が作られました。 石と土の違いはあれ、何か祭司面の共通性を反映しているのかも知れませんね。 気象や自然の差異は当然でしょうが、人形石柱は男女ともにあるように思えました。
4 ) 「アスフアルトの付着した土器」と「祈る人」
まずこれは、紀元前約二千六百年頃と推定される土器ですが、アスファルトは往時接着や防水に多用されていたと見られます。 それはメソポタミヤの産出とされていて、後年の中東原油の発見に繋がる事のかもしれません。
もう一つの石像は、同じ時代とされ、石灰岩性で、都市文明成立期のメソポタミヤ美術に見られる表現と言います。将に「祈りの人」です。
5) インダス文明との交流・その影響
この観点から、インダス式祭文壺が展示されていました。それはアラビア半島の、インダス文明との地理的近接性を象徴している観が在りました。 所謂四大文明の内、黄河文明を除く三つは、相互に存在を認識していたようで、交流があり、影響し合っていたようです。
6) 印章
紀元前約二千年に作られた印章が見つかっています。滑石製ですね。 日本では弥生時代になりますが、 「漢委奴国王印」が発見されてい
ます。 それは紀元後57年の事で、金印ですが、受けたもので、自国製ではありません。
7)アラム文字による奉献碑文
往時、中東の一角で使われていた言葉が「アラム語」でした。公式語であるヘブライ語の、庶民用言語と聞いたことがあります。 アラム語は、実は後年現れたイエス・キリストが話していた言葉であるとも言われています。
この奉献碑文が製作されたのは、紀元前四世紀頃でした。アラム文字のみならず、他の諸文字による碑もあります。
8) 男性像ばかり、女性像無し
同じ頃作られたと推定される男性像や、男性頭部像がそれぞれ数体づつ展示されていましたが、女性像は見当たりませんでした。
いずれも北西アラビアの大オアシス都市跡から出土したもので、当時栄えていた隊商国家を物語るものでした。
9)ラテン文字による碑
此処には、紀元175年頃の碑が展示されていました。 既にローマ帝国の時代に入っています。斯くて碑文はラテン語で書かれています。 即ち、所謂ローマ字です。意味は分かりませんが、個々の文字は読めます。知っている文字に出逢うとほっとしますね。 それは或る城壁の改修記念碑との事です。
10) ギリシア神話「ヘラクレスの像」
ローマの前代は古代ギリシア時代ですが、斯くてヘレニズムの影響が強く残っています。 この像は「キング・サウード大学博物館」からの出品でしたが、矢張り、ギリシア彫刻の素晴らしさが光っていました。
11) 女性像 二体
ともに、これら女性像は、男性像と違い、小ぶりです。 製作は一世紀です。
これらも、ともに「キング・サウード大学博物館」からの出品で、特にうち一体は、日本の縄文のビーナスに似ていました。不思議ですね。時、所まるで異なるのに、ここまで似るとは。・・・
12) 金製品や金貨
意外と展示品で少ないのは金系統のものでした。
それでも、一世紀頃製作のイヤリングや金貨がありました。
13) 左横面と右正面を一つの顔にまとめた男性像
紀元前一世紀頃の出土の、もと、等身大と思われる像の男性頭部が展示されていました。 それは、まるでピカソのように、左横面が描かれたのに加え、右側正面が九十度角度を変えて描かれている観がありました。 つまり、一枚の絵に違う視角の図が描写され、しかも、それらが一つの像として塑像されている感じなのです。
ピカソ以前から、こうした描写法があったようですね。 そう言えば、古代エジプトの人物像の絵も、正面と、直角交差の横面が、一枚の図に納まる描かれ方をしています。
14) 巡礼の道・・・イスラム世界へ
紀元573年頃、預言者ムハマドがメッカ(マッカ)に出生し、610年に神の啓示を得たとされ、その存命中にイスラム教が全アラビア半島に広まります。斯くて、聖地メッカへの生涯に一度の巡礼がイスラム教徒の五大義務の一つとなります。イスラム教は更に拡大し、巡礼路は商業路・交易路ともなります。巡礼路にはメッカまでの里程標が整備されていきます。道中のオアシスには都市などが発達します。
コーラン(クルアーン)の普及は、其れが書かれた言葉、即ち、アラビア語の拡大を意味していました。 そして、「神の言葉は美しくあらねばならない」との考えから、その書道が発達します。 アルファベットやローマ字と、書道とはしっくりきませんが、アラビア文字は書道を生み出したのです。そうした展示もありました。
ただ、所謂アラビア数字は、今日の万国共用の算用数字のもととなっていますが、書道には向かないようで、展示や出土品の中にありませんでした。
他方、偶像を禁ずるイスラム世界・時代となると、展示物には大きな変化が現れました。以前の出土物や展示物に見られた、人物像や動物像が姿を消したのです。代わりに植物模様となりました。
15) 二大聖地 メッカとメジナ(マディーナ)
イスラム教の世界で二大聖地と言えば、開祖ムハンマドが生まれ、育ったメッカと、その墓地のあるメジナ(マディーナ)ですが、今や何れも大都会です。 そして、ともに、サウディ・アラビア国内にあります。 それ故、サウディ・アラビアは、イスラム諸国の中で大変重い地位を占めています。
16) 歴史的変遷
この地域は、かつて近世、同じくイスラム教国であったオスマン帝国の領域でありましたが、第一次大戦で、そのオスマンが敗れ、代わってトルコ共和国に変わると、アラビア地域も、他のアラブ諸国同様、その支配から離れます。とともに、英仏の侵出や分割が起きます。
そうした中、1932年に、アラビア半島の主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一されて、サウジアラビア王国が成立しました。初代国王は現王家に連なる、アブドゥル・アジース王です。その写真や遺品の展示もありました。サウジとは、サウド王家の意味と聞きます。
ただ、その政治的成功は、経済分野には及ばず、1933年に、米国系のサウジアラムコが設立され、1938年にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで、国は貧しい状態だったと言います。
そして、油田開発は戦後の1946年には本格化し、1949年に採油活動が全面操業しました。 斯く石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会に大きな影響力も与えるようになりました。その事は、周知の通りですので、触れません。
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