シルクロードの都市遺跡と、ユーラシアが生み出してきたパワー
仲津 真治
この5月、健康状態と相談しながらも、思い切って中央アジアへの旅に家内と出か
けました。何故かと言えば、ユーラシアの長い東西交流の象徴とも言うべきシル
クロード(いわゆる「絹の道」)の東端に位置する日本に在って、東方では、チャ
イナの西安(旧長安)や北京、韓国の扶余や慶州などに出かけ、西方ではトルコ、
ギリシア、エジプト、イタリア、ローマなどに足を伸ばしてきたのに、真ん中の
中央アジアの「サマルカンド」など、大事なシルクロードの中心と言われるとこ
ろをまだ訪ねていなかったからです。
1) シルクロードの中心都市「サマルカンド」
ここに、古来栄えてきたサマルカンドとは、今日では「ウズベキスタン」と呼ば
れる国の第二の都会です。 同国は人口約二千五百万と言う中央アジア地域最大の
国で、その地域の約半分を占めている由です。旧ソ連に属していましたが、
1991年独立した共和国です。ちなみに、「・・・スタン」とは、ペルシア語由来
の言葉で、「・・・の場所」の意味と聞きました。
また、同国はこの地域では唯一、航空会社を有しています。それは「ウズベキス
タン航空」と言い、週二便、成田との直行便を運航しているのです。実際、その
機材がボーイングやエアバスと聞いてほっとしたものです。
私どももこれを利用しました。航程約七時間、ちょうど欧州との半分くらいの距
離です。着いたところはタシケント、同国の首都で、人口は二百五十万を越す大
都会でした。地下鉄も三路線有ります。この街から広大な中央アジアの一角を周
回する旅が始まりました。
2) サマルカンドの歴史の第一のポイント
シルクロード、その名付け親は、19世紀のドイツ人地理学者「リヒトホーフェン」
と言われていますが、 この呼称で呼ばれる時代はAD2世紀より以降(漢とローマの
時代など)とされます。
でも、実は、それより相当前にサマルカンドに西方から自らの軍勢を率いてやっ
てきた人物がいました。それはBC330年頃のことで、マケドニアのアレクサンドロ
ス大王です。大王は、眼前のサマルカンドの前身の街「マラカンダ」を見渡して、
「話に聞いていた通り、美しい。いやそれ以上に美しい。」と語ったと伝えられ
ています。
当時、この街を拓き、繁栄させていたのは、アーリア系のソグド人でした。かよ
うに既に地域の各地に、文化の花が開いていたのです。そして、アレクサンドロ
スは、進軍せる大地の各所に総計で七十カ所も、自らの名を冠した拠点を築き、
ヘレニズム、つまりギリシア風文化の広がる世界としました。現代のサマルカン
ドに近い場所では、其処はタジキスタン国内となりますが、最北のアレクサンド
リアと呼ばれる「ホジェント」と言う街が作られています。それにしても、ギリ
シアの地を五千kmも離れた地に、ヘレニズムの根拠地を築いたとは驚かされます。
旅をすると、斯く、文化や文明の接点や流れが形成され、広がって行ったことが
良く分かります。
3) シルクロードは、交易・交流とともに戦いの場でもあった
東西の文化・文明の接点や交差するところとも言うべき中央アジアは、将に、そ
の十字路であり、しばしば戦場ともなりました。
前述の紀元前四世紀後半の「アレクサンドロス大王の大遠征」は、その大戦役の
歴史に残る嚆矢でしょうか。遠征自体は十年ほどと短く疾風怒濤のものでしたが、
地域に存した「ダレイオス王」の「アケメネス朝ペルシア」を圧倒、滅ぼしたの
です。そして、自らはバビロンに都を置きました。 その帝国は、死後四分五裂と
なりましたが、東西融合のヘレニズムは生き残ったのです。
4) その後の大きな動き・・・イスラム化
この宗教の開祖、「ムハマド」はAD570年頃、アラビアのメッカに生まれ、
AD610年頃、神アラーの啓示を受け始めて、予言者となることを自覚、同622年、
信徒ともにメディナに移住しました。更に、再びメッカに戻り、その地を征服、
教団を形作ります。その年がイスラム暦の紀元元年となる由です。同630年、その
下でアラビア半島が統一されます。やがて、この時代は正統カリフの時代と呼ば
れ、七世紀初期から存していた、ササン朝ペルシアが倒されて、同661年イスラム
教のウマイヤ朝が成立します。
つまり、この地域はイスラム王朝の時代に入ったのです。同750年には、王朝はア
ッバス朝に代わります。首都は、かのバグダッドで、アラビアンナイトの世界が
現出しました。私どもはこの国を「サラセン帝国」と習いましたが、現代では
「イスラム帝国」と呼ぶ由です。その領域は実に広大で、アラビア半島を中心に、
今日の中東、北アフリカ、イラン、アフガニスタン、中央アジアなどを版図とし
ていました。現代のウズベキスタンの地の「サマルカンド」は、その東北端に位
置していました。中央アジアもイスラムの世界に入ったのです。八世紀後半のこ
とです。そして、アッバス朝は成立後、実に約五百年も続き、広範なアラビア語
圏を成り立たせ、その文化圏を保ちます。
5) 巨大なパワーを生み、歴史を動かして来た人々: それは遊牧民
では、主に、イスラム教などの宗教がこうした変化や大帝国を生む動因となった
のでしょうか。これは否定できない側面ですが、此処では、そうではない歴史的
体験が多い事に注目したいと思います。
私は、いろんなお話に耳を傾け、資料や本を読み、旅をして来た結果、この主動
因は、最近、「或る時代まで、遊牧民にあった様な気がしています。
6) 人の暮らしと遊牧民の世界: 漢字文化との対比
文明が生まれてからでも、人の暮らし方は、大きく分けて定住型と移動型とがあ
る由です。各々、人口も様々で、人類史に貢献してきました。その中で、遊牧民
は少数で移動型の典型です。
これに対し、チャイナの漢人は、「本来、漢字と言う、筆談で通じる文字を、共
通の意思疎通に使う人々」の意味の由、漢族と言う民族が居るわけではありませ
ん。且つ、農耕を主とする漢人は、城壁で囲まれた中で暮す文化を根強くもって
いると申します。実際、チャイナを旅すると、至る所に高く大きな城壁が在りま
す。因みに、日本人にも城壁志向があるものの、チャイナには到底及びませんし、
まして万里の長城のような巨長なものは有りません。ただ、日本人も定住型の農
耕民族ですね。
なお、漢字の読み方は、それを使った人々や部族の間で実に様々です。つまり、
「漢字の本質は表意文字」と言うところに在り、中原での音も、そこを支配した
部族、王朝、集団などにより区々であって、時代により変遷しています。
日本には代表的なものとして、呉音、漢音、唐音が入ってきており、それに加え
て、独自の訓読みが発達しました。韓国やベトナムも漢字文化圏となりましたが、
読み方はチャイナや日本と異なります。
さて、古代から、中央アジアや東ヨーロッパでは、この遊牧民の存在と活動が、
人類の歴史に大きく影響を与えてきたと見られています。概括すると、ユーラシ
ア大陸においては、まず、西アジアで牧畜の場を定住集落から離れて拡大する集
団、即ち遊牧民が誕生した事と、特に中央ユーラシアで遊牧民が騎馬技術を獲得
したことの二つが、歴史の流れを大きく変えて来たと言われます。
遊牧民は、農耕民に比べて人口が遙かに少ないにも関わらず、生まれながらの騎
兵なので、古代から中世にかけて強大な軍事力を誇って来ました。この事が決定
的に重要なのです。其処に占める馬のウェイトは、特に高かったのでしょう。
ここに遊牧とは家畜を季節と場所を移動させながら、植生、水、ミネラルなどの
自然資源を利用する生活と生産様式とされます。
そして、家畜とは、遊牧民の世界では厳密に言うと、山羊、羊、牛、馬、駱駝の
五畜を指し、豚や犬・猫は含まれません。
遊牧民は、一箇所に定住することなく、居住する場所を一年間を通じて何度か移
動しながら、主に牧畜を行って生活します。多くの場合、一家族ないし数家族か
らなる小規模な拡大家族単位で家畜の群れを率い、家畜が牧草地の草を食べ尽く
さないように、その回復を待ちながら、定期的に別の場所へと移動を行う由です。
遊牧民は定住型の人々からは、一般にあてどもなく移動しているかの如く思われ
がちですが、実際には大きな家族ごとに、固有の夏営地、冬営地など定期的に訪
れる、占有牧地を持っているのが普通とされます。斯くして、例年、気候の変動
や家畜の状況に合わせながら、夏営地と冬営地をある程度定まったルートで巡回
している由です。つまり、「遊牧」の遊の文字が与える印象とは随分違うと言う
ことが分かります。
更にここで注目すべきは、遊牧民が紀元前三千年程前に、青銅器文明を築いてい
た事が、最近の考古学の成果で見つかってきたことです。文明は四大河川に始ま
ったと言うのは、我々が習った歴史の常識でしたが、それとは別の文化(例 アフ
ァナシェヴォ文化)がもっと古く育っていたようだと言うのです。それは、遊牧民
も実は文明化しつつあり、青銅器の短剣を所持していたとの事ですから、興味津々
です。大いなる研究・調査が期待されます。
さて、遊牧民の生活している地域は、乾燥地帯、タイガ、ツンドラなどであり、
凡そ、農耕には向かない厳しい気候、地象の場所であるため、最も厳しい冬を越
すための冬営地では数十から数百の家族単位で集団生活を営む例が多いと言われ
ます。
また、遊牧民の大事な特徴は、自らだけでは生活が完結せず、交易活動が欠かせ
ないことです。そもそも遊牧生活では、乳、毛皮、肉などを入手することは容易
ですが、穀類や工芸品を安定的に獲得することが困難でしょう。そのため、多く
の場合、遊牧民の牧地の近辺には定住民、取り分け、農耕民の居住が不可欠と見
られます。斯くして、遊牧民は、自身の移動生活を生かし、定住地から遊牧民の
間を伝わって送られてきた遠隔地交易品などを隊商を組んで運び、交易により、
生活を成り立たせて来たのです。つまり、素朴な自給自足生活を送っているかに
見える遊牧民の牧畜も、商品性の高い家畜の売買に依っている事を認識しなけれ
ばならないと言うことになります。
7) 遊牧民の軍事力
馬を保有し、使いこなす遊牧民(騎馬遊牧民)は、その人口に比して極めて大きな
軍事力を発揮して来ました。農耕民族は、農地や地場産業を維持する必要上、外
征戦においてはその人口のせいぜい三十分の一程の動員が限度であるのに対し、
遊牧民は老幼の者と奴隷以外のほとんどの男性が熟練した騎兵となりました。女
性と非戦闘員男性も、その後方からついて行って、生産と補給を並行して行った
と言われます。また、もともとの移動性のため、その根拠地を掃討することは困
難であったとも見られています。
斯くて、地球各大陸の地域特性、気象、人類の分布などから、世界史上、もっと
も大きな影響を及ぼす遊牧民は、ユーラシアに登場しました。その人々を詳別す
れば、北アジアのモンゴル高原から中央アジア、イラン高原、アゼルバイジャン、
コーカサス、キプチャク草原、アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカン半島に
至る一帯に広がった騎馬遊牧民です。彼らは、民族名、国名などを交えて記しま
すと、主に時代順に、匈奴、サカ、スキタイから、パルティア、鮮卑、突厥、ウ
イグル、セルジューク朝、モンゴル帝国などを経て近世に至っています。アッバ
ス朝などもアラビア半島から中央アジアに拡大する際、騎馬力を活用したと見ら
れます。
8) 遊牧騎馬民族が活躍する歴史の終局段階
1206年、チンギスハーンのモンゴル統一に始まるモンゴル帝国は13世紀の約百年
に、モンゴル高原、チャイナ、中央アジア、シベリア、イラン、イラク、アナト
リア、ロシア、ウクライナ、東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力で、広
大なユーラシア大陸を席巻し、史上空前にして、恐らく絶後の大帝国を打ち立て
ました。
チンギス・ハーンが没した時点で既にユーラシア大陸の大半を、その版図に納め
たと言います。14世紀が近づく版図最大時には、大元、オゴタイ・汗国、チャガ
タイ・汗国、キプチャク・汗国、イル・汗国の五国から成っていました。
さしもの、このモンゴル帝国も元が滅び、北へ逃れて北元となるなど衰微して行
きますが、14世紀後半になると、モンゴルの系統であるティムール朝が中央アジ
アに成立、その後、それはインドのムガール朝へと発展しています。ムガールと
はモンゴルの意味と申します。
この一連の過程で、中央アジアの青の都「サマルカンド」は、チンギス・ハーン
の軍勢に攻撃され、徹底的に破壊、廃墟と化しました。少しでも抵抗すると、そ
うした事態が生じたと言います。
斯く一旦、サマルカンドは消えました。その後、ティムールが旧址の近くに復興
再建したと言います。斯くて、私どもが訪ね見学したサマルカンドは、その再生
された街です。即ち、それはチンギス・ハーンが壊し、後世その流れを汲むティ
ムールが再び造ったのです。
9) パクス・モンゴリカ
大モンゴル帝国は、支配地を広げるとき、抵抗するものは皆殺しにするなど、凄
まじい殺戮と破壊を行いましたが、一旦自己の統制下に入ると、そこは通商の自
由な土地としました。この世から境界を無くすのが、ハーンの理想だったと言い
ます。税さえきちんと納めれば良いという支配の仕方も採用したようです。モス
クワのクレムリンなどは、その税務署が元になった施設が発展した城郭・砦と聞
きました。
また、モンゴルは宗教的に緩やかで、どんな宗教、信仰も認容したと言います。
中央アジアなどは一旦イスラムのアッバス朝の下に入っていた訳ですから、モン
ゴル時代の情況は、イスラム時代とは様変わりであったと思われます。
斯くて、モンゴル治下の世界は、信仰は自由、経済も市場が活発で、大いに社会
が発展したと言います。その良き影響は、交易を通じ、周辺にも及び、日本もそ
の恩恵を受けたと申します。但し、元寇のような余計なおまけが付きましたが、
・・・・。
10 ) 鉄炮が世の中を変えた
はてさて、さりながら、遊牧民の武力面の優位が覆される時がやってきました。
15世紀初め頃に鉄砲が発明されたのです。火薬は既に登場しており、鉄砲がその
実用度を格段に高めました。因みに、日本には1543年に伝来、急速に普及します。
ヨーロッパではそれ程の早さでは有りませんでしたが、鉄砲の改良や大砲の工夫
とともに、戦法などに大変化をもたらします。疾駆する騎馬の優位は失われてい
き、騎馬民族が少数でも農耕民族の大人口を圧倒する戦いは次第に消失、遂に戻
って来なかったのです。
それでも、オスマン帝国のような大領域国家が中央アジアから、中東、北アフリ
カ、東欧に掛けて15世紀に成立し、第一次大戦まで続きますが、それは最早やト
ルコ遊牧民のパワーの所産ではなく、東ローマ帝国を1453年に倒し、その支配域
を承継したことや、イスラム世界におけるカリフの役割をオスマン・トルコが担
った事が主な理由と考えられます。
なお、ロシアのシベリアへの膨張は、寒冷で人口希薄な荒野を、往時のロシアの
ほぼ唯一の交易品で有る動物の毛皮を狩猟で追い求めた結果と申します。ただ、
その先には極東地域と太平洋が在りました。
11) 羅針盤の発明と大航海時代の到来
同じような頃に、羅針盤(コンパス)発明され、使用され始めました。それは、
15世紀から17世紀に掛けての大航海時代の到来を可能としました。これも、遊牧
騎馬民族の優位を決定的に失わしめた大事件です。海は地球の七割を占め、その
航行は概ね滑らか、海上交通は陸に比べ遙かに至便、費用は小さくて済むのです。
斯くて、歴史を動かす動因は、これらの二大事件でして、それらが、この頃作動
し始めたと見て良いでしょう。それらはユーラシアの中でも、当時まで後発とな
っていたヨーロッパを前面に押し出し、アジアやアフリカを遅滞させ始めたと見
られます。
12) この素地に、決定的な要因として、18世紀後半からのヨーロッパでの産業革
命が加わる そして、時代は近代へ
この後起きた変化を具体的に述べると、喜望峰ルートと太平洋ルートによる交易
・交流の形成・拡大が生じ、ヨーロッパの産業製品やその成果が、インドやチャ
イナなどアジアへ潤沢にもたらされます。それは、政治、経済、軍事などの分野
で、象徴的な事件・事変を引き起こします。
歴史的に言えば、所謂近代事象の発生で、a 1840年のアヘン戦争やb 1882年の英
国によるエジプト支配、次いで、c 1912年の辛亥革命による中華民国の成立やd
1922年のトルコ共和国の出現が挙げられる由です。これを東アジアと西アジアで
比べると、a c 、b d と東が少しづつ早いのが見て取れます。つまり、喜望峰や
太平洋のもたらした通商ルートのインパクトが実に大きく、それまでウエィトの
高かった地中海や西南アジアは、世界の交易の主流域から外れてしまっていたの
です。興味ある歴史的事実です。其処に、交流史観とも言うべき、大事な視座が
見えます。
13) シルクロードの終焉
この一方では、紀元二世紀に入った頃、つまり「漢とローマ」の時代に始まった
と見られる、約二千年近いシルクロードも遂に終わりを迎えるときが来ました。
先ず、陸路による交流・交易から、遠くなりながらも円滑な海路への変化です。
更に、この廃絶を決定づけたのが、ユーラシアの真ん中を通るシベリア鉄道の出
現でした。でも、それは二十世紀の初めにやっと全通したのです。私どもが生き
る近代は、長期に渉り人類とともに在った「絹の道」の無くなった時代でもあり
ます。
14) ここで、主に遊牧民の世界を振り返って、遊牧民が関わり、動かしてきた時
代の概括をしておきます。
以下時代順に、そのポイントを記します。
BC209~BC174 匈奴の影響力が大きく、単于(ゼンウ)の治世、中原を治める
「漢」の劉邦は平城の戦いに大敗し、「匈奴」に臣従の礼を取らされました。当
時の東アジアは匈奴が実質、覇権を有していた模様です。
後年、情況は変り、突厥(トルコ系)の世となりますが、AD582に、その勢力は東西
に分裂し、東の部族は、ウィグルとなりました。
AD618、唐がチャイナを統一、それは中原を支配下に納めたものの、もともと隋と
同様、唐の帝室は遊牧民の鮮卑系の出自です。広範な民族を登用、世界帝国とな
るも、結局漢化しました。
AD751,アッバス朝のイスラム帝国と、唐が、西域のタラス河畔にて戦い、唐が敗
れました。
AD763,胡人の安禄山(ペルシア系)の乱が起きました。楊氏一族への反発が切っ掛
けで、胡の人々の支持などがあり、様相は複雑です。此処に、胡人とは、漢人以
外の総称で、唐王朝は、胡族の一で狩猟民族の出自というウィグル族の支援を得
て、やっと乱の平定に成功しますが、以降、国は不安定化、AD907に滅亡します。
因みに、遣唐使の実質廃止はAD894です。
AD916、「宋」が建国されます。並行して、契丹の「遼」や、タングートの「西夏」
も誕生します。さらに、後年、女真族の「金」が現れます。
AD1206 テムジンがチンギス・ハーンとなり、モンゴルを統一します。
AD1271 その子孫の大元フビライ・ハーンを主軸に、史上空前の巨大な大蒙古帝
国が出現します。斯様な、境界の無い大ユーラシア交易圏域が成立し、大いなる
繁栄をもたらします。それは、パックス・モンゴリカと呼ばれます。
世界の単一化と世界史の誕生
大モンゴル帝国は、それまでの西洋と東洋をまとめ、史上初めて、単一の世界を
生み出しました。斯くて十三世紀以降、世界史が形成され、実際「集史」や「蒙
古源流」などの歴史書や物語が編まれています。
また、この世界に成立した国は、以降巨大帝国の原型となります。その結果、結
局西に現れたのはルーシ・ロシアであり、東に現れたのは「大清」です。その長
は皇帝であるだけで無く、ハーン(汗)でもありました。
この原型たる所以を述べると、先ずロシアに記せば、スェーデン辺りから来たノ
ブゴロドの下に東スラブや集まり、其処にアジアから来たモンゴルが乗っかって、
長い所では五百年もの支配が続いて成立した国が、ロシア帝国に繋がっていると
申します。
他方、チャイナでの原型の例を示すと、広東省の如く、元地方の官庁名がその地
域の名称となったのは、元の時代に始まる由です。
斯くて、ロシア、チャイナともに、モンゴルの影響が濃く残っていると言う分け
です。
なお、チャイナについて付言すると、これまでの所、所謂漢人の統一王朝は、秦、
漢、明の三帝国に限られます。
斯くて、時代は明を経て、清、近代へと進みます。ただ、王朝としては、玉爾の
継承をもって、「元」から直接「清」に引き継がれており、その間の「明」は紅
巾の乱の朱元璋-反徒による反乱の扱いに止まっています。即ち、チャイナの歴史
では、乱による権力の交代や奪取だけで無く、公式の継承乃至禅譲の形を取って
いる例もあるわけで、其処は実に興味深いところですね。
15) 現地を訪ねて
5月12日 ツアーに参加、成田空港よリ、ウズベキスタン航空の直行便で九時間
余、首都タシケントへ。道中、沙漠、草原、天山、崑崙などの大景観を観望。機
種はボーイング767、乗員はロシア系中心、モンゴル系も。ウズベク語を使う現地
人も様々な人種が混血。
同地で同国内線に乗り換え、珍しいターボプロップ型。更に二時間東へ飛び、ウ
ルゲンチ空港へ。実に暗い、それに5月というのに、日本の真夏のような暑さ、た
だひどく乾燥している。疎林と農牧畜の世界。
次いでバスにて一時間かけ、八世紀までのゾロアスター教の宗教遺跡などの世界
遺産の在るヒワに向かう。ホテルはその旧史跡の一角を使用。立派な外観で綺麗
だが、維持管理の貧困など、旧ソ連の悪しき慣行と劣悪なサービスが目立つ。
5月13日 バイキングの朝食、パンなどの品種は多いが、残念ながら美味しくない。
これは何処でも何時でもそのようだ。
さて、今日は先ずカラカラパクスタンと言うアムダリア川流域にかつて栄えた、
ゾロアスター教文化の遺産の見学から始まった。ウズベキスタンの誇る世界遺産
と言い、紀元一世紀から四世紀にかけてのものと聞く。これで、良く知られてい
なかった、イランよりまえのゾロアスター教のことが分ってきた由、それは、大平原に
広がる日干しレンガの山からなる遺跡。
なお、此処にアムダリア川とは、近年までシルダリア川とともにアラル海に注い
でいた大河。両河川の灌漑の行き過ぎで、蒸発などが進行、アラル海は大半が失
われ、実質「砂海」となった。 1,963年まず問題発生、1981年にはアラル海がほ
ぼ消滅、地球規模の環境破壊となっている。これは旧ソ連の大きな失敗で、巨大
な自然破壊という。
また、此処にカラカラとは、ウズベク語で黒を意味し、遊牧民族の象徴の由。
さらに、アヤズ・カラの遺跡も訪ねた。これは、同じくゾロアスター教の遺跡で、
紀元後一世紀から四世紀辺りの群からなるという。更に、より古く時代を取り、アレクサンダー
大王の遠征の頃までも含むとすると、紀元前四世紀から紀元前一世紀頃までカバー
する事となるという。大王がこの地に至ったのは、紀元前329年の頃で在る。この
地でもヘレニズムの痕跡が在る由。斯く、ペルシア以前のゾロアスター教の発祥
発展史が解明されて来る事により、その西洋文明への影響のことが課題として出
てこよう。
5月14日 3日目のこの日は、ヒワの城内で世界遺産を見学。イスラム教が創始さ
れた八世紀以降は、ゾロアスター教的要素が次第に喪失、その後はイスラム教の
要素が貫徹するようになる。それは、帝政ロシアやソ連時代の禁圧を経ても、残
ってきた。ヒワ城内の青や緑青の塔、ミナレットが美しい。
注: ゾロアスター教は、古代ペルシア以前から発達しており、拝火教と言う和訳
の与える印象より、深みが在る。善悪二元の世界観を持つようである。 ニーチ
ェの「ツァラトーストラはかく語りき」や「モーツァルトの音楽種作品を始めと
して西洋文化に大きな影響を与えてきた。その意義は大で、あらためて吟味は欠
かせないと思われる。
見学の経路としては、ヒワより、再び、ウルゲンチを経て、国内便で移動、ブハラに到
着した。ブハラでは、博物館などの見学に加えて、バザールなどでの買い物と商
工人の仕事ぶりをみせてもらった。中には、神学校、王宮、ミナレット(キャラバ
ン用灯台)などを各所に廻った。
八世紀までのゾロアスター教の宗教遺跡などの世界遺産の在るヒワのホテルは
その旧史跡の一角を使用。立派な外観で綺麗だが、維持管理の貧困など、旧ソ連の
悪しき慣行と劣悪なサービスが目立つ。
たほう、カラカラとは、ウズベク語で黒を意味し、遊牧民族の象徴の由。
さらに、アヤズ・カラの遺跡も訪ねた。これは、同じくゾロアスター教の遺跡で、
紀元後一世紀から四世紀辺りになるという。更に、より古く時代を取り、
アレクサンダー大王の遠征の頃までも含むとすると、紀元前四世紀から紀元前一
世紀頃までカバーする事となるという。大王がこの地に至ったのは、紀元前329年
の頃で在る。この地でもヘレニズムの痕跡が在る由。斯く、ペルシア以前のゾロ
アスター教の発祥発展史が解明されて来る事により、その西洋文明への影響の
ことが課題として出てこよう。
5月15日から16日、 ティムール朝跡を訪ねた。
同朝は、チンギスハーンのながれを汲むモンゴル帝国の派生朝。
十五世紀にかけて栄えた。
チムールは、モンゴル王朝から姫を娶るなどして一門を広げ、チャガタイ汗国、
キプチャク汗国などの他のモンゴル朝各流れの衰微に乗じて、それらを支配する
に至った。 斯くて、其処にモンゴル継承国家が形成されて行った。
その長はチムール自身で、私どもは、その生誕地のシャフリサブスに寄った。
チムールがウズベク人という事が在り、その再評価が進んで居る模様。
なお、チムールの流れは、インドのムガール朝にも繋がる。因みに、ムガールと
は、モンゴルを意味するとのこと。
その長男やち本人の廟を見学。
廟本体は、サマルカンドに在り、其処には、また巨大な騎乗の像も出来ている。
廟は大きな庭園の観があり、カリモフ前ウズベキスタン大統領の功績という。
ただ、こうした言い方を聞いていると、共産体制下でなくなり、約三十年
経っても、まだまだ権威主義の色彩が濃い感じが漂う。
5月17日
午前に、所謂「サマルカンドの文化交差路」を訪ね、レギスタン広場やビニ
ハニムモスクなど壮大な諸建築の成果と、その破壊と再生の跡を見た。
サマルカンドは将に交流が文化・文明を生み、形成した証左となる観あり。
ゾロアスター教、ヘレニズム、キリスト教、イスラム教など諸宗教、諸運動も、
相互に反発しつつ、絡み合い、諸々の事象を生んで来た。
その中には、近年の帝政ロシア、共産体制なども含まれる。。
そして午後、スペインの持つ鉄道のノウハウを活かしたウズベキスタン新幹線に
乗り、西南終点のサマルカンドから北東始点のタシケントに移動した。最高時速
二百km、二時間少しで走破、その基盤はソ連時代に出来ていて、ゲージは
1,515mmの広軌である模様。その鉄道線路を使い、スペインの最新鋭の新幹線技術
を活かして出来たものと聞く。一応、快調に走ったものの、実質は相当程度に
在来線を走行しており、揺れや加減速の様子から見て、課題多しの感あった。
なお、それは前後二両の電気機関車による、一編成八両のやや小型の列車であった。
日本の新幹線型の電車方式ではない。 よく利用されていたが、本数少なく、
人口と所得水準からみて、無理をしている印象である。
5月18日 滞在最終日、翌日は帰国の機内泊
タシケントは、人口約三百万の大都会、この国の首都である。巨大な地下鉄が在
り、三区間乗り換えて二路線を、我ら18名の日本からのツアー客が利用乗車した。
良い体験になった。実に立派で、壮大な地下空間は、防空壕も兼ねそなえている
と言う。料金は均一で安く、将に公共投資で在ろう。 細かいが、第三軌条
方式で、軌道幅は1,515mm、在来鉄道と同じで在った。防空壕性能を持つ地下
鉄は、撮影禁止、旧ソ連圏が消滅して三十年というのに、この秘密
主義は、依然として旧西側の目を気にしているので在ろうか。ロシアには欧米と
異なる何かがあるようだ。
午後、市内観光に、日本人墓地の墓参が入ってきた。
其処は、タシケント郊外の大墓園で、その一角を占めていた。
日ソ中立条約を破ったソ連側の侵攻の結果、不幸にもシベリア抑留に
至った日本人将兵は約五十万と言い、このタシケント方面にも二万五千が
連れて来られ、そうした目に遭った。亡くなった方が多い。
墓地では、此処を大事に管理するウズベク人の老人がいた。三代目と言う。
みな、心を撃たれ、志を出した。墓は綺麗で、掃除が行き届き、墓石には、
日本語で趣旨と姓名が刻まれていた。戦争が終わっているのに、祖国に
帰れなかったのだ。
実質、最後の訪問地は、数百人の日本人将兵が設計や建築に従事し、
完成させたナボーイ劇場であった。それは、日本人の血と汗と涙の結晶の
代表例で、実に立派、1966年のタシケント大地震でも壊れなかったという。
このことは、現地のウズベク人を感動させ、日本人の評判の良さに繋がっている
とのこと。 劇場横の説明は、日本語語でもしっかりと書かれ、思わず、感涙に
むせんだものである。
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