高倉健「いい風に吹かれたい」
優れた本は、すらすらと読み進むことができません。時折、本を置いて考え込んでしまいます。忘れかけていた記憶を呼び覚ましたりもします。国谷裕子(くにや・ひろこ)さんの著書『キャスターという仕事』(岩波新書)も、しばしば立ち止まってしまう本でした。
NHKの「クローズアップ現代」はよく観ていましたので、番組のキャスター、国谷さんの顔は何度も拝見していましたが、どういう道を歩んできた人かはこの本で初めて知りました。彼女は、父親の勤務の関係で海外生活が長く、小学校の数年間を除けば日本での教育を受けていません。そのため、英語は堪能なのに日本語に自信が持てず、日本の事情にも疎いためコンプレックスを抱いていたといいます。
彼女のキャスターとしてのキャリアは、1981年にNHKが夜7時のニュースを英語でも放送し始めた際、その英語放送用のアナウンサーとして採用されて始まりました。といっても、大事なところはベテランのアナウンサーが読むので、国谷さんは日本語の原稿を受け取って英語放送用の作業部屋に走って届ける、といった雑用もこなしたといいます。
駆け出しのアナウンサーからNHKの看板番組のキャスターになるまでの艱難辛苦は読み応えがあります。毎週4回、23年にわたって続けたキャスターとしての仕事を振り返り、反芻している各章は、それぞれがドラマのようです。一人の人間が修練を積み重ね、骨太のジャーナリストになっていく物語になっています。
その意味で、この本はジャーナリストを志す若者にとって教科書とも言えるような良書なのですが、私にとって最も印象深かったのは、2001年5月17日に放送された「クローズアップ現代 高倉健 素顔のメッセージ」について詳述しているところでした。
俳優の高倉健は寡黙なことで知られています。番組でインタビューを始めたものの、返ってくるのは短い答えのみ。対話はまったく弾まなかったといいます。国谷さんは、「テレビのインタビューにほとんど応じることのない高倉さんがくださった貴重な機会。覚悟を決めて待とう」と思った、と記しています(p133)。実際、インタビューの中で沈黙が17秒も続いたのだとか。
当時、高倉健は映画『ホタル』の撮影を終えたばかり。「これからはどういう作品に出たいと思いますか?」という彼女の問いかけに、高倉健はこう答えました。
「まだ頭のなか、何にも考えていないですね。もう嫌でも封切りの日がきますから、その日が一番辛くなる日なんですけど。でも、どっかでいい風に吹かれたいというふうに思いますね」「いい風に吹かれるためには、自分が意識して、いい風が吹きそうな所へ自分の身体とか心を持っていかないと。じっと待ってても吹いてきませんから。吹いてこないっていうのが、この頃わかってきましたね」
「いい風に吹かれたい」。この言葉に出くわして、私は忘れかけていた、南インドで吹かれた風のことを思い出しました。1992年から3年間のインドでの仕事と暮らしは、充実していたものの、とてもしんどいものでした。摂氏50度の熱波にさらされる取材。出張先は戦火が収まらないアフガニスタンや政争激しいパキスタン・・・。その厳しさからしばし逃れるために、私は南インドの古都マイソールに旅に出ました。
マイソールは南インド研究の泰斗、辛島昇・東大名誉教授(故人)が若い頃に貴子夫人と暮らした街です。インドとはどういう国、どういう社会なのか。戸惑い、立ちすくむたびに、私は辛島夫妻に教えを請い、2人の著書をひもときました。私にとって、辛島氏監修の『インド 読んで旅する世界の歴史と文化』と貴子夫人の著書『私たちのインド』は、どちらもインド取材の礎のような本でした。
2人が暮らした街はどんな街なのか。それが知りたくて、私は南インドのバンガロールに飛び、さらに車を駆ってマイソールを訪ねました。記事になるような話は何もなく、今となってはどんな街だったのかすら思い出せないのですが、その帰り道のことはかすかに覚えています。マイソールを去り、ダム湖のほとりに辿り着いた時です。空っぽの心を抱えて、漫然と湖を眺めていると、柔らかな風が吹き、頬をかすめていったのです。「いい風だな」。生まれて初めて、心からそう思いました。そして、「これでまた明日から力を出すことができる」と感じたのです。
楽しいことや嬉しいこともあるけれど、つらいことや悲しいことの方が多いのが人生です。つらくて、つまずきそうになった時、支えてくれるのは、ささやかな喜びや小さな恵みの記憶です。この頃、しみじみそう思います。いい風に吹かれたい。そして、また少し、生きる力を補いたい。
≪参考文献≫
◎『キャスターという仕事』(国谷裕子、岩波新書)
◎『私たちのインド』(辛島貴子、中公文庫)
◎『インド 読んで旅する世界の歴史と文化』(辛島昇監修、新潮社)
◎『今夜、自由を』(上下、ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ共著、早川書房)
≪写真説明とSource≫
◎高倉健
http://pinky-media.jp/I0004294
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