YouTubeという“マイテレビ”世界の拡大 ーー石丸・玉木・斎藤現象のメディア論
本論における筆者の主な主張は以下の3点です。
1.YouTubeはSNSというよりも「マイテレビ」である。
2.XとYouTubeの連携でフィルターバブルが形成されている。
3.編集無きメディアの公共性を育てていくことが必要である。
◇マスメディア対SNSという構図でよいか
11月の兵庫県知事選では、マスメディアの予想を裏切って斎藤元彦氏が再選を果たしました。斎藤氏勝利の背景として目を引いたのは、当選する気がまったくないのに立候補した応援者が登場したというできごとです。図に見るように、斎藤氏本人のYouTube動画よりも、応援の立花孝志氏の方が圧倒的に多い視聴数を獲得していました。
とはいえ、斎藤氏の選挙戦におけるYouTubeなどのメディア活用に関しては、上記の特異なできごとを別にすれば、7月の都知事選の石丸伸二氏や10月の衆院選における玉木雄一郎氏のときと同様、マスメディア対SNSという構図が共通に言われています。しかし、筆者は、YouTubeをSNSと呼ぶことには少々躊躇します。
以下では、選挙におけるメディア活用の“モデルケース”となった石丸氏の場合を中心に振り返りつつ、YouTubeの位置づけを考察します。
◇テレビ・新聞がノーマークだった石丸氏が次点に
石丸氏は広島県安芸高田市長として、議会で議員を論破してやりこめたり、「恥を知れ、恥を!」などと叫んだりしている様が、YouTubeを通じて流されて名前を売っていたのでした。私は不明にしてこの人を知りませんでした。まさか2位になるとは。
選挙公示日の時点でテレビや新聞は「与野党対決」ないし「小池vs蓮舫」の構図で語っていました。私もそう受けとめていました。端的に言えば、テレビや新聞では石丸氏はノーマークだったと言ってよいでしょう。新聞で検索してみると、表のように選挙前の石丸氏と蓮舫氏の扱いの差は歴然です。
しかし、結果はご存じのとおり、当選した小池氏の292万票に対して166万票を取って2位に躍り出たのでした。蓮舫氏は128万票にとどまりました。
◇YouTubeはいまや“テレビ”
テレビ・新聞がノーマークだった石丸氏が知名度を上げたのは主としてXと動画(映像)メディアであるYouTubeを通じてでした。
たとえば、Xに「石丸氏が本当のことを言わないマスコミをスパッと切っているよ」という投稿が載り、そこにYouTubeがリンクされていて、リンク先のYouTubeの動画で石丸氏ないし応援者によるアピールを見るという流れです。そして、その評判がXに環流して、さらに多くの人がYouTubeに誘導されるという図式です。
YouTubeは通常Xと同様SNSの一種と言われています。誰でも発言・発信ができ、コメントをしたりできるのがSNSです。YouTubeは確かにそういう性格を持っています。
しかし、あえて言えば、YouTubeはいまやテレビなのです。昨今、従来のテレビを見る人が減って、テレビはもう終わったなどと言われたりします。それでも従来のテレビはまだメジャーなメディアと言えますが、表のように、通常の番組(リニアテレビ)を見る時間がこの9年間に大幅に減って、ネットを見る時間が増大しています。
このデータではネットの内訳がわかりませんが、その他のデータなどを合わせて考えると、従来のテレビの減少分を埋めるかのように、いまやYouTubeが“テレビ”になっています。
◇“マイテレビ” メディア利用の個人化の流れの中で
YouTubeをテレビと呼ぶ理由ですが、テレビの定義を「受動的に映像を視聴できるメディア」としたらどうでしょう。そういう意味でYouTubeのことをテレビだと言っています。実際、YouTubeというテレビにおいては、いったん何かを選んで視聴したら、放っておいても次から次へと自動的に再生されます。しかもYouTubeが備えている機能(アルゴリズム)によって関心を持たれそうなさまざまな動画が推薦されます。
ラジオや電話、そしてパソコンというメディア端末の個人化という大きな流れの行きつく先として、2008年から日本で普及が始まったスマートフォン(スマホ)は個人端末としてメディア利用の個人化を強烈に推し進めてきました。YouTubeや若者に人気のTikTok、それにSNSの代表格であるX(当初の名称はツイッター)は、そういう土台の上に発展してきました。
なお、テレビ受像機はいわば家庭内共同利用端末でしたが、昨今ではインターネットとの接続(コネクテッドTV)により、個人端末としてYouTubeやNetflixを、大きな画面で、しかも自分の好きなものばかりを気軽に見ることができるようになりました。まさにスマホでもテレビ受像機でも“マイテレビ”を視聴できる時代です。この流れは中高年・高齢層にまで及んでいます。
マイテレビの象徴として、最近のテレビ受像機のリモコンに、YouTubeのチャンネルボタンがNetflixなどといっしょにあらかじめ用意されているということが思い出されます。ボタンひとつでYouTubeが見られるのです。
石丸氏を推すYouTubeのチャンネルは16あったそうです(ネットコミュニケーション研究所長中村佳美氏による)。こうして、選挙前からYouTubeでいつのまにか大量のファンをつかんで、石丸ブームが進行していたというわけです。
◇新旧メディアとリアル(現場)の連携活用
石丸氏は、従来のテレビが選挙報道から逃げている選挙期間中に、17日間で228回もの街頭演説を小刻みに行い、そのたびにYouTubeで配信をしました。
それに加えて、集まった人々(YouTuberや一般の聴衆)に動画撮影を呼びかけ、さらにその動画を広く拡散するように訴えました。その際、公式動画の一部を切り取って拡散する「切り取り動画」も歓迎としました。
このような戦術は、玉木氏、斎藤氏の場合も引き継がれました。
とはいえ、それらの取り組みの中で、従来のテレビは事実上小池・蓮舫の戦いという見方を大前提としながらも、田母神氏と石丸氏を合わせた4人の名前を主要候補として紹介したのです。それを石丸陣営は抜け目なく活用しました。ビッグな候補だというイメージを振り撒けました。
こうして、石丸氏は新旧メディア(テレビ、X、YouTubeなど)とリアル(現場)を連携させたメディア戦略の仕上げを2週間でやり遂げたと言えます。いわば、テレビのニュースや新聞を見ない人々を組織化したとも言えます。その結果が、落選ながら次点というマスメディアの予想を裏切る善戦をもたらしたと言えましょう。
◇「編集なきメディア」の公共性は?
インターネット以前のメディアでは、編集者が間にいるので、あたかも飲み屋で交わされるような短絡的な決めつけ発言や乱暴で無責任な発言がそのまま公衆の面前にさらされることはありませんでした。ところが、メディアで発言の機会がなかった人々が今、水を得た魚のようにそのような発言を無造作にアップしています。
同じ意見を共有する閉じた空間(フィルターバブル)の中で、そのような発言をする人々が相互につながることもできるメディア環境が生まれていると言えます。ネットの世界では放送法や新聞の倫理綱領といった縛りもありません。ウソさえも自由に叫び続けることができます。そんな環境下で大衆を扇動し動員するのが得意な人までもが“活躍”の場を与えられたと言える現状です。
YouTubeやXといったデジタルメディアが、公共的な役割を果たす一翼を担うよう、社会としてどう育てていくかが問われているという気がしています。
注)YouTubeやXなどはメディアではなくプラットフォームと言った方がよい場合がありますが、本論では、議論を複雑にしないために、あえてメディアと総称しています。
<この小論は、同人誌「私達の教育改革通信」(316号、2024年12月号)に発表したものです。許諾済み。>
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我が家のテレビのリモコンは、YouTubeやNetflixのボタンががリモコンについているので、選択する際に、地上波もYoutubeも平等です。つまり、テレビは、地上波テレビを流す道具ではなく、Youtubeを含めた動画像を流す道具になっています。だから、テレビ対SNSという構図はおかしいという校條さんのご指摘は正しいと思います。
選挙などでは、「本当のことを流さない」テレビ、「本当のことを書かない」新聞という状態が続けば、テレビや新聞への不満は不信に変わると思います。テレビ局や新聞社がそうした流れに抗しようとするなら、テレビや新聞にかけられた規制や自主規制から自由なメディアとしてYouTubeなどを活用をふやすしかないと思います。
いろいろな規制から自由な報道を原則にして、テレビや新聞に流す場合は、規制や自主規制に従う、というくらいにならないと新しいメディアには勝てないかもしれませんね。すでに記事をネット用に書いて、縮小版を新聞用に出稿するという記者もいるようですね。