「駿河藍染」物語~民芸の一断章④
第4章 さいとろさしの唄
無謀な作戦として知られるインパール作戦に従軍し、九死に一生を得て生還した静岡の染色工芸家、秋山浩薫(1920~1989)は、復員後の心境を筑摩書房のPR誌『ちくま』1977年3月号に寄稿した「駿河藍染の事」で、次のように記している。
「あの有名なインパール作戦の地獄の中を這い出して、内戦のベトナムサイゴンを最後に、病体のまま復員して娑婆に放り出されたのです。日本の歴史もひっくり返り、闇屋のようなことをしながら歴史の本を読んだりするうちに、私には紺屋の仕事と藍染めが自分にぴったりすることを知り、バラックで仕事場を作りました」
『ちくま』には、「昭和26年(1951年)に、静岡市中田町に独立して、板塀もなく半分ムシロを張りつけて風を除け、藍ガメには屋根もない仕事場でした」との記述があり、前述の「バラックの仕事場」のことだと思われる。『ビルマの空』の浩薫の年譜には「昭和24年(1949年)4月、静岡市にて染色工芸の道に入る」とあり、「独立」する以前に、静岡で染色の仕事をしていたことになる。以前の奉公先だった「紺徳」に手伝いのような形で染色をしていたのだろうか。
また、『芹沢銈介全集』第4巻の「月報9」では、芹沢銈介(1895~1984)の弟子の小島悳次郎(1912~1993)が芹沢主導の「萌木会」の第1回展覧会(1946年)に続く第2回目の出品会員として秋山(浩薫)らの名前を挙げている。第2回展覧会の開催年は1947年なので、浩薫は復員してほどなく、芹沢を訪ね、当時、大森にあった芹沢の仕事場などを借りて萌木会にも出品していたのではないか。(写真は、萌木会の会合。右から4番目が芹沢銈介、その左は岡村吉右衛門、後列右端が秋山浩薫、6番目が柚木沙弥郎=秋山家提供、撮影時不詳)
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萌木会は、芹沢が例会などを開き、会員の工芸家たちを指導するだけでなく、会員たちがつくった作品を全国の民芸品店などに卸す仕事もしていた。淳介によると、浩薫も藍染ののれんやテーブルセンターを萌木会に送り、毎月1回、東京の萌木会事務所まで集金に出かけていたという。萌木会が会員たちの生計を支えていたことになる。
◆さいとろさしの唄
芹沢一門の岡村吉右衛門(1916~2002)は1961年に『さいとろさしの唄』という限定50部の本を上梓している。静岡県梅ヶ島の伝統的な太布とともに、この地域の唄などを採録したもので、岡村はこの時期、沖縄民謡からアイヌ神謡まで日本各地の唄を集め、同時にその地域の染織などの民芸を紹介する本を出版している。岡村は、旧制鳥取第二中学(現鳥取県立鳥取東高校)時代に、柳の講演を聴いて民芸運動に加わり、柳を通じて芹沢工房に入門した経緯もあり、型染だけでなく民芸全般への関心が強かったのだろう。(写真は、岡村吉右衛門著『さいとろさしの唄』)
『芹沢銈介全集』第9巻の「月報10」で、柚木は萌木会の在り方について、芹沢は頭を痛めていたとして、萌木会が「工芸店の下職になって、志が低くなってしまっている」ことへの不満だったと語っている。萌木会の会員たちは、芹沢が創り出した型絵染の世界からの脱皮を師から求められていたのだろう。岡村の試みも、そのひとつだったかもしれない。
岡村の『さいとろさしの唄』の素材を提供したのは浩薫だった。1981年に創刊された季刊誌『四季静岡』の第2号で、浩薫が「さいとろさしの唄」と題したエッセーを寄稿、そのなかで、岡村の本ができたいきさつを書いている。
それによると、1956年に岡村から「梅ヶ島の太布のことを調べて、できたら現物も手に入れてくれ」との依頼があり、浩薫は、梅ヶ島の草木地区で機を織っていた白鳥ふさを訪ねた。梅ヶ島は浩薫が親をなくしたあと引き取られた叔父の家があったところで、白鳥家も旧知だった。そこで、浩薫は山藤の皮の繊維を紡いで織った太布の話を聞き、それをまとめた文章を太布ともに岡村に送った。
ふさから太布の話を聞いた時に、浩薫は、藤の皮を割く夜なべ仕事などのときに「さいとろ」という照明具があることを知る。笹竹の先に火をつけて灯りにしたもので、神仏の燈明として焚く柴のかがり火である「柴灯」(さいとう)が転訛したという。そして、藤の皮の糸を撚ったり、麦をついたりするときに歌ったという作業唄をふさから聞く。「さいとろさしあー、いいおとこ、さしあげてが、おとまりなされよ、このええへ」といった歌詞だった。
岡村が静岡の浩薫の家に訪ねてきたときに、「さいとろ」とともに、この唄の話をしたという。岡村の『さいとろさしの唄』は、浩薫の話した物語を岡村が型絵染にして、浩薫が送った太布の切れ端を貼った作品ということになる。もちろん、この本は岡村の型絵染が主であり、浩薫は素材の提供者ということだろうが、浩薫の協力なくして岡村の本ができなかったことは確かだ。浩薫は芹沢門下としては岡村の後輩にあたるわけで、こうした「協力」は当然という慣習があったのだろう。今なら、協力者として浩薫の名前を入れなければ、岡村は著作者としての倫理を問われるところだろう。
1980年、浩薫は『さいとろさしの話』と題して、さいとろのいわれなどをまとめた型染絵本をつくり、静岡県立図書館などに寄贈する。これぞ元祖「さいとろさしの唄」という思いがあったのかもしれない。(写真は、秋山家が所蔵する秋山浩薫が制作した私家版の『さいとろさしの話』)
柳の民芸理論では、個人作家と職人とが協働する姿を理想として描いている。しかし、岡村の浩薫に対する対応は、昔ながら先輩・後輩の因習で、とても協働とはいえないように思える。無名の職人がつくる雑器に美を見出した柳の民芸論は魅力的なのだが、実際の民芸運動は、浜田庄司や棟方志功や芹沢銈介のような個人作家を頂点とするピラミッドをつくり、底辺の土台をつくっていた多くの「職人」や「弟子」や「後輩」たちの仕事や貢献は忘れられていたのではないか。
私は柳の昭和初期の社会思想としての民芸を評価するし、朝鮮の工芸品に光をあて、1919年の独立運動(三・一運動)を擁護した姿勢は、知識人のあるべき姿として尊敬する。しかし、「個人作家」と「職人」という美をつくる矛盾するふたつの人間類型を、実際の民芸運動は「止揚」することはできなかったと思う。その民芸論の欠陥が岡村の『さいころさしの唄』にも隠されていると思う。
蛇足になるが、白鳥ふさが覚えていた「さいとろさしの唄」は、「麦つき唄」として保存会もでき、「駿河麦つき唄」として全国にも知られるようになり、梅ヶ島の観光にも役立つようになった。1975年1月20日の朝日新聞静岡版には、1967年に83歳で死んだふさの「麦つき唄」が1965年ごろのラジオ放送から採録したテープとして残されていて、ふさの遺族から静岡市立登呂博物館に寄贈されるという記事が掲載されている。私が書いたもので、ネタ元は浩薫だった。(写真は、朝日新聞静岡版に掲載された「麦つき唄」の記事)
第5章 駿河藍染
1962年12月、浩薫は島根県出雲市の紺屋を訪ねた。岡山県倉敷市の大原美術館で開かれた芹沢の展覧会の手伝いにきたときに、芹沢から出雲行きを命じられたからだ。出雲は、染物の伝統的な手法である「筒描き」(筒引き)の産地として知られていた。芹沢の意図は、芹沢の得意とした型染めばかりでなく、筒描きも学んでこい、という意図だったのだろう。
浩薫は出雲の老舗「井筒屋」を訪ね、芹沢の紹介状を見せて教えを乞うが「見せることはできない」と丁重に断られた。このため、いったん静岡に戻り、長丁場となるのを覚悟して出雲を再訪する。何度か顔を出しても断られるなかで、浩薫は出雲市出西にある出西窯を訪ねたり、島根県八雲町で和紙を漉き、1968年に雁皮紙で人間国宝となる安部榮四郎(1902~1984)を訪ねて話を聞いたりしながら、出雲の民芸を学んだ。
いよいよ帰りの汽車賃がなくなった12月22日、井筒屋に別れの挨拶にいくと、親方の奥さんがいつもと違って笑顔で、奥へどうぞと入れてくれた。筒描きの仕事場に入ると、白い餅と料理の入ったお膳が出てきた。どうしたことかと尋ねると、この日は木花咲邪耶姫(このはなさくやひめ)の縁日で、「芸事する者が姫をお祭りする」とのこと。食事が終わると、親方が出雲の筒描きの神髄を見せるとともに、雨や雪の多い日本海沿岸地方の冬場の糊や呉汁の作り方や使い方を丁寧に教えてくれた。
このときの話を浩薫は、『静岡文化サークル会報』第17号(1989年7月発行)に「いずも紺屋訪問記」と題して書いている。断られ続けた末の筒描きの教授ともてなしだったので、浩薫は訪問記の「あとがき」として次のように書いている。
「あー、居つづけて、来てよかったと思いました。すると、芹沢先生の添状には何が書かれていたのだろうか、と疑問が沸きました。先生の添状には、『断って見てくれ。この者がどうするか、試してくれ』とでも書いてあったのではないのか」
浩薫は、出雲から静岡の子どもたちに送ったハガキには、「いずもの紺屋さんはなかなか弟子入りを許してくれなくて少し困ります」と書いている。それでも最後は、筒描きの実際を見ることができたわけで、浩薫の粘り勝ちだろう。
紺屋の職人は、型染だけでなく、筒描きもこなす。浩薫も紺屋の職人だったのだから、筒描きで風呂敷などを染めていたはずだ。プロの職人を自負していたはずの浩薫が出雲の筒描きにこだわったのは、風呂敷の定番である唐草模だけでなく、松竹梅や鶴亀を模様に入れ込む出雲の技を身に付けたかったからだろう。芹沢から自分を乗り越えよと教えられていた芹沢門下生のひとりであった浩薫は、筒描きで師の世界を突破しようとしていたのだろう。
その後、浩薫は型染に加え、筒描きにも精力的に取り組んだようで、1970年の大阪万博に設けられた日本民芸館には、浩薫の「藍染筒描」4点が収蔵品として買い上げられ、展示された。芹沢の推挙とみられ、芹沢からすれば、筒描きの「免許皆伝」というつもりだったかもしれない。写真は、秋山浩薫が筒描きで制作した風呂敷)
◆「駿河藍染」を名乗る
日本の手工芸で、焼き物や織物はあちこちに産地がある。しかし、染物は、京都や加賀の友禅や沖縄の紅型が有名だが、そのほか産地と染物の名前が結び付く例は少ない。柳宗悦が日本各地の伝統工芸を紹介した『手仕事の日本』(『柳宗悦全集』第2巻)を見ても、その地域の染物として評価しているのは京都の友禅と沖縄の紅型ぐらいである。
その理由は、染物屋を紺屋と呼ぶくらい藍染めが主であり、その模様も伊勢白子(三重県鈴鹿市)の型紙を主に使っていたからだ。藍以外の顔料を使った鮮やかな染物は、奢侈品でその産地は京都などに限られていた。風呂敷などの模様は、筒描きが主だったが、これも唐草模様がほとんどで地域独特のものは生まれなかったのだろう。浩薫が訪ねた出雲の筒描きは、唐草に松竹梅などが加わったものだが、特定の職人技にとどまっていたのか、柳が出雲で名前を挙げているのは浩薫も訪れた八束郡の「雁皮紙」などで、筒描きには言及していない。
柳は、静岡の染物について、『手仕事の日本』で、次のように記している。
「町(静岡)には所々に大きな紺屋が残ります。かつては大柄、中柄、小紋など注文に応じてずいぶん染めたようでありますが、いつしか古きものの中に入りました。まだ型紙は残りしかも数多くあるのですから、何か新しい用途に向けたら、仕事はまた起き上がるでありましょう。夜具地に広く用いられている大唐草模様のごとき、見返すと立派なものですから、何かに甦らさずばもったいないと思います。窓かけにでも染めたら、流行を外国にまで及ぼすのではないでしょうか」
柳は、ほかの地域の手工芸よりも静岡については、唐草模様を「窓かけ」にしたら外国で流行するかもしれないと、親切な言葉をかけている。この本の挿絵を担当したのが芹沢だったので、静岡の染色業界を指導してきた芹沢へのヒントを与えたのかもしれない。とはいえ、この本の後記を書いたのは1943年1月、戦況が悪化していく時期だ。柳は、唐草模様をどこで流行らせようと考えたのだろうか。
寄り道をしてしまったが、静岡には紺屋町もあり、大きな染物屋もあり、染物が盛んであったことは間違いない。しかし、「駿河染め」などという染物があったわけではない。前掲の朝日新聞記事は「静岡市を中心に、駿河染と呼ばれる伝統工芸がある」という書き出しで、浩薫の仕事を主に紹介しているが、駿河(静岡)の独自性は、静岡県立工業試験場などに勤めていた芹沢の力だと次のように説明している。
「(芹沢は)昭和3年(1928年)ごろからは、静岡市内の染工場に出入りし、親方や職人の目を開かせた。いままで町の紺屋にとって、ふろしきの唐草、はんてんのしるしでしかなかった模様を『これが民芸だ』と教えたのだ。藍でしか染めなかった唐草を赤く染める。しるしばんてんの文字を模様として使う。すぐれたデザイナーの手にかかると、伝統的な型紙の模様や文字が民芸品、美術品に変身した」(1975年1月17日朝日新聞静岡版「しずおか再考・駿河染」)
芹沢がそれまでの染物を「民芸」だと覚醒させたからといって、それが「駿河染」という伝統工芸にはならないはずだ。ちょっと苦しい説明を浩薫から聞きながら、記者(私)も”論理的整合性”に苦しんだ様子が浮かんでくる。
ところが、浩薫が1977年に書いた前掲の「駿河藍染の事」を読むと、苦しげだった「駿河染」が伝統工芸の「駿河藍染」に変化しているのがわかる。そのきっかけは1976年、浩薫の工房の近くに住む旧家の主人が見せてくれた風呂敷にあった。藤の蔓を唐草模様にしたもので、安政6年(1859)に駿府(静岡)の「殿様紺屋」と呼ばれた染物屋が染めた物だという。浩薫は1951年と1957年に手に入れた古い風呂敷にも同じ藤の蔓の唐草模様があり、静岡に固有で伝統的な模様があることを確信した。「駿河藍染の事」のなかで、浩薫は次のように書いている。
「するが染の伝統を証明するものが、この(浩薫の住む)足洗でそろったことに大喜びです。三枚の染物(風呂敷)は、静岡に伝えられた駿河藍染を目にすることの出来る資料なのです」
静岡の染物が「駿河染」や「駿河藍染」として「伝統工芸」になった、というわけだ。このエッセーの最後に書かれている浩薫の肩書は「静岡市駿河藍染工房主人」となっている。
(文中敬称略。冒頭の写真は、秋山浩薫著『さいとろさしの話』の表紙=秋山家提供)
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