国立歴史民俗博物館に、「大久保利通とその時代」を見学!
千葉県の佐倉にある国立歴史民俗博物館で、「大久保利通とその時代」と題する企画展示を開催しているとのこと、関心がありましたので、このほど行っ て参りました。とはいえ、拙宅は隣県の茨城県取手に在り、相当遠方です。かくて電車などを利用することとなりましたが、片道実に二時間半近く懸かりまし た。
と言うのも、関東の鉄道交通網は東京中心に発達していますから、直行を狙っても反って不便なのです。そこで、一旦、東京に出ることとな り、まず常磐線に乗りました。次いで、日暮里で京成電車本線に乗り換え、特急で佐倉まで参ります。そして、最後はバスを利用、その名を千葉グリーンバスと 言いました。京成系列の由、SUICAを使えたのには感心しました。佐倉駅は既に成田空港に近くて、乗客は大きなスーツケースを持った人が多く、これだけ でも随分遠くまで来たなと思いました。
正門に着くと、「大久保利通とその時代」との大きな掲示が在り、当人の特徴在る風貌の写真ともに掲出 されていました。常設展と併設の会場は程々の入りで、小学生の一団が入場しつつありました。神奈川県の相模原から来ていると言う六人の人々とも一緒になり ましたが、遠くからも結構来ているとの印象を持ちましたね。
ところで、ここに、国立歴史民俗博物館とは、昭和56年(1981)に設立され た、歴史学・考古学・民俗学の調査研究の発展や、資料公開による教育活動の推進を目的とする、研究機関で、千葉県佐倉市城内117に在ります。元は佐倉城 の城跡であり、明治以降陸軍が進駐、戦後国有地として、その活用が模索され、この大博物館が設置された由です。
その後、平成16年 (2004)に大学共同利用機関法人として、東京都港区虎ノ門に本部を置く「人間文化研究機構」が設立されますと、国立歴史民俗博物館も同機構が運営する 一機関に位置づけられとのことです。実は、大阪千里に在る国立民族学博物館も同じくその一つと聞きました。
さて、機関のお話は以上として、以下、当日の見学の印象を中心に幾つか記したいと思います。
なぜ、薩摩が幕末と維新を主導できたか?
こ のことは、薩摩が江戸や京・大坂など往時の日本の中心から甚だしく遠隔の地に在ったゆえ、大いに疑問に思ってきた事でした。端的に言えば、そこは、やはり 雄藩としての力が大きく物を言ったと思います。その核となる力は七十七万石という石高でしょう。往時は米作を主とする農業が地域力の源泉ですから、加賀百 万石に次ぐ、全国二番目の石高は将に「巨大」で在ったと思われます。
それに、薩摩藩は琉球を支配下(慶長14年(1609)以後)に置いて、密貿易で大いに稼いでおり、その豊かさは他を圧するものを持っていたと思われます。
かくて、これら二つの力の本は忘れてはならないことと考えます。
加えて、薩摩を治める島津家は外様大名でありながら、徳川将軍家とは姻戚関係を有しており、両者間の関係は因縁浅からぬものがあったことがあります。
また、島津家の父祖は、鎌倉時代から近衛家の荘園を管理する「荘官」であったと言われます。この御縁が幕末に生きてきて、薩摩藩が京都でいろいろの筋を繋げることに役だったと見られています。大久保利通も、このルートでよく動いています。
他方、関ヶ原の戦で、島津家は西軍にあったため、勝利を治めた東軍の雄である徳川家とは、基本的な対立を残しておりました。これが根本にあったからこそ、幕末の決定的な事態の展開の中で、大きく倒幕と維新の帰趨を決めていったと思われます。
こうした対立構造は、或る程度長州などについても言えることでしょう。
名君と人材に恵まれたこと
「島 津に暗君無し。」と言われます。特に、危機的な状況や大きな課題を抱えたときには、優れた藩主や君主が現れ、時代の変化を乗り切ったとされます。幕末での 島津斉彬は、その典型と言われます。その点、実質後を嗣いだ、その弟の島津久光は、藩主ではありませんが、「国父」と呼ばれ、幕末から明治期に掛けての薩 摩藩の最高実力者として、大いなる力を発揮しました。とはいえ、廃藩置県に反対するなど、明治の抜本的近代化に強い異論を唱えたなどのため、一般に評価は 良くないようですが、大久保利通などの人材を登用し、その活躍の道を開いたことは、貢献大なるものありと言うべきでしょう。
この点にも触れておきますと、この人材雲霞の如しと言われる事への薩摩の寄与度は凄まじいものが在り、大久保利通が育った鹿児島城下の加治屋町だけでも、大久保自身の外、西郷隆盛、村田新八、西郷従道、大山巌、東郷平八郎などが挙げられる由です。
膨大な展示は書簡・手紙が中心
今 回の展示は書簡・手紙が中心で、もともと、この博物館が所蔵していたものに加え、近年大久保家から多数寄贈されたものを集大成し、時代の流れや事項毎にま とめたものの由です。それは、大久保自身の自筆のものや、彼宛に出された多くの書簡などで、あまりの多さに圧倒されますとともに、その達筆さに驚嘆しま す。ただ、現代語ではありませんし、草書体で滑らかに書かれていますので、正直言ってほとんど読解出来ません。
かくて、原文と意訳された活字体による解説を読んでいくこととなりますが、視力が落ちていることもあって、大意を追い掛けて行く事にも難儀しましたね。
沢 山の展示作品の中で、印象に残ったものを記しますと、土師吉兵衛と高崎五六の両名が大久保利通宛に記した書簡がありました。それは、何と、久光一行の行列 を英人が騎馬で横切ったため起きた生麦事件の当日、書かれた物でした。この日(文久2年(1862))8月21日)、大久保利通は、この行列の中に御小納 戸頭取として居たのです。事件発生は午後2時頃とみられ、午後7時頃、探索活動に従事していた、これら両名が神奈川宿に残留して、この手紙を記したと、読 み取れると言います。実に迫力ある展示ですね。因みに、久光一行は帰路を進めており、其の夜、保土ヶ谷宿に泊まった様です。
大久保も恐らくその宿にあって、この書簡を受け取ったと見られます。そこから、こうした大名行列の中でも、書簡の遣り取りが在ったと推定されるのです。往時の情報の伝達や郵送の実際が目に浮かんで来ますね。
「大久保利通の暗殺」と「ます夫人」の死
明 治維新最大の功労者と言われ、維新三傑のひとりとされる「大久保利通」は、明治11年(1878)の5月14日朝、自宅から赤坂仮御所に向かう途中、清水 谷(現千代田区紀尾井町)にて、元加賀藩の島田一郎外五名の不平士族の一団に襲われ、非業の死を遂げます。将に維新回天の大事業の道半ばでの無念の死でし た。享年僅か49歳、盟友西郷隆盛が
西南の役で自決して以来、まだ一年経っていなかったのです。
展示を見ていて驚いたのは、正妻 の「ます夫人」が、その年の12月に亡くなっていることです。半年少しの事ですから、「御主人を失い、衝撃の余り、後を追った」と言うことかなと思い、説 明を当たりましたが、そうした記事は一切ありませんでした。そこで、博物館の人に尋ねましたところ、「心労ゆえ」との推測もあるけれども、これといった記 錄がないので、結局良く分からないとのことでした。
それにしても、本名「大久保一蔵」、「甲東先生」とも言われた人の若過ぎる死は、実に失われるもの多大で、近代化が始まったばかりの明治日本にとって将に惜しまれるところです。
だ が、大いに疑問に思われるところは、不平を鳴らし、武器を持つ輩がまだ各所に居る最中、要人が御者ひとりの外、警護の者とておらず、同じ道を毎日のように 通う事が行われていた点です。「何でまた」と言う疑問は当然出て来ます。 薩摩出身の警察の幹部が、加賀藩出身の者が要人襲撃の犯行に及びそうだという情報を得ていながら、「彼等に出来るか」と高をくくっていたと言う説もある 由、真相は良く分かりません。
事件後、警護の必要が認識されるようになり、要人ごとに数人の近衛兵が警戒に当たるようになったと言います。
視点を変えれば、加賀百万石の地の出身者が、これと言って明治維新に貢献する事無く、石高二位の薩摩出身者である維新の実力者・功労者を葬ったとは、何とも形容しがたい
矛盾を感じますね。
なお、末尾ながら、この企画展示の会期記しますと、~12月6日(日)です。
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