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新歌舞伎の映画を見る:「阿弖流為」(アテルイ)の物語

2016.07.10 Sun
社会

関心があって、築地の東劇にて映画「阿弖流為」を鑑賞しました。迫力がありました。

ただ、通常の市中上映の映画と違い、高料金でして、高年齢割引もありませんでした。

この作品は、もと、劇団「新感線」の演じた「阿弖流為」と言う舞台上演であった由、それは「七代目市川染五郎」が主演したと言います。原作・脚本は「中島 かずき」、演出は「いのうえ ひでのり」でした。2002年(平成14年)のことで、且つ歌舞伎では無かったとのことです。でも、それが切っ掛けとなり、諸々の経緯を経て、話が煮詰まり、歌舞伎化され、昨年7月新橋演舞場にて、染五郎自身が言う「歌舞伎Next」として上演されました。それは、市川染五郎、中村勘九郎、中村七之助など若手中心に四十数名が演ずる大舞台だったとのこと、そして大いに盛り上がったと聞きます。

今回見たのは、そのときの舞台を撮影し映画化した作品です。衣装、せりふ、現代語の使用、動きなど、伝統的な歌舞伎から一歩も二歩も抜け出たものでしたが、そこに「歌舞く」という、この演劇の一つの伝統が生きている事が感じられました。歌舞伎には、旧来のものに依拠しつつも、新しさや変化を追求していく事が良く在る由です。
「阿弖流為」と「坂上田村麻呂」

時は、奈良時代の終わりから平安時代の始めに掛けて、西暦で言うと八世紀末から九世紀初めの頃と申します。導入部では「日の国若き時、其の東の夷に蝦夷あり。彼ら野に在りて、未だ王化に染はず。山を駆けること禽の如く、草を走ること獣の如し。」と形容されたのです。

それは、その頃、平城京や平安京の地に成立した大和朝廷の力と威が、今日の東日本から、北日本に及ばむとするとき、これに抗い、自らの勢力を守り、盛んに逆らった部族や地域が居たことを物語ります。斯くて往時、都で語られたと思われるせりふが流れます。「西の熊襲が片付いたと思ったら、今度は蝦夷(えみし)か。」と言う分けです。

現代風に言うと、その指導者は、即ち「かの長の名は阿弖流為。帝、これを悪路王と呼び、邪しき神、姦ましき鬼と怖れたり」と言う訳です。舞台が始まり、ややあって、市川染五郎演ずる「阿弖流為」が蝦夷の刀である諸刃の剣を帯び、登場します。「阿弖流為」は蝦夷の民の中で紆余曲折在るも、結局皆をまとめ、大和の軍勢と戦い、その拠点を落とすのです。

対して、この鎮圧・捕縛を命ぜられ、まずは副司令に任ぜられたのが、武将「坂上田村麻呂」でした。その着任後、活躍は目覚ましく、やがて「征夷大将軍に」に昇格、蝦夷を圧倒していきます。この人物を演ずるのは、中村勘九郎です。

舞台は目覚ましく展開、胆澤、多賀など、今日でも知られる地名が次々と出て来ます。 何れも両軍が戦い、攻防を繰り返した拠点(柵)の名前です。

物語には創作もあり、複雑な流れと変化が生起します。面白さを享受するためにも、関心の在る方は、是非、御覧になって下さい。
史実などなど

史実によれば、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆澤や志波の地から一掃されたとされます。802年(延暦21年)、『日本紀略』には、大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ:この人物の事はほとんど分かりません。)が五百余人を率いて降伏したことが記されている由、二人は田村麻呂に従い、平安京に連れて行かれます。田村麻呂はこれら二人の命を救うよう提言しますが、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、同年8月河内国にてアテルイとモレは処刑されました。
坂上田村麻呂と阿弖流為は、激しく戦ったが、互いに最後は理解し合い、友情すら抱き合っていた

これは、この作品のベースにある捉え方で、だからこそ、坂上田村麻呂は阿弖流為の投降を受け容れ、都にまで上らせて助命を提言したのでしょう。さりながら、この武人田村麻呂の考え方は通りませんでした。
歌舞伎Nextと言うが、矢張り出演者は皆男性であって、歌舞伎の決まりは守られている

特に、始めから登場してくる「立烏帽子」鈴鹿を見て、その美貌と立ち振る舞いにも関わらず、それが「中村七之助」であることを確認し、納得したものです。踊り女や女官も矢張り女性に見えますが、皆、男です。歌舞伎Nextも其処は歌舞かないようです。
蝦夷(えみし)、蝦夷(えぞ)、縄文、アイヌなどなど

この九世紀初めの蝦夷(えみし)討伐より、対東日本、北日本への大和の統治、対応は、新段階に入り、対蝦夷(えぞ)との言い方に変わるようです。そして、一部の学説には阿部一族や奥州藤原氏にも、蝦夷(えぞ)の血が流れていると言う見方がある由、良く分からないところが出て来ます。更に、古来の縄文の文化・部族との繋がり、アイヌとの関係となると、益々不分明な所が現れて来ます。日本の歴史には深みと厚みのある世界が広がっているようです。

因みに、「蝦夷」の名は幕末・明治の頃まで使われますが、蝦夷が音読みで「カイ」と読めることから、「海」の字を充て、「北海道」と言う新名称が作られました。それは明治以降の話ですが、その名は地名でもあり、行政庁の名でも在り、東海道や北陸道に当たるネーミングでもあります。意味深長です。


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