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最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-2 海軍卿 (2)税権回復要求

2022.03.05 Sat

ビスマルク肖像

 

榎本武揚と国利民福-最終編二章-2 海軍卿 (2)税権回復要求

 

 

【ビスマルクと万国公法】

 

 

 ロシア駐日代理公使は本国の外務大臣に、副島外務卿との対話記録を明治6年(1873)2月17日に報告しました。その翌3月15日、岩倉使節団(明治4年11月12日(1871年12月23日)に出発)は、ドイツ帝国のビスマルク宰相から招宴されました。

*ビスマルク Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck(1815‐1898)、ドイツの政治家。ドイツの政治的統一、帝国建設に功績があった。[木谷 勤]、コトバンク。

 

 

 宴会では、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らに、ピスマルクは自身の幼時からの体験を交えながら、国際法(万国公法)と列強間の力学について紹介し、『日本二於テ、親睦相交ルノ国多シトイヘトモ、国権自主ヲ重ンスル日耳曼(ゼルマン*)ノ如キハ、其親睦中ノ最モ親睦ナル国ナルヘシ』と演説を締めました。ビスマルクは我が国(ドイツ帝国)こそ、数ある日本の友好国の中で最も親睦なる―もっとも仲良くするべき国だと、日本の新しい支配者達にドイツ帝国を売り込む、トップセールスをしました。

 

 伊藤貫『歴史に残る外交三賢人』(中公新書ラクレ677、2020、p.37)によると、ビスマルクの演説を聴いた岩倉たちのみならず、日本にいて後日この話を聞いた山縣有朋までも、ビスマルクの演説に対し深刻な誤解―理解不足をしたというのです。

*「ゼルマン」の出典:佐藤雄治編集『社会進化 欧洲之風俗』大庭和助、明治20年、p5。稲毛『宇宙問答両童智恵くらべ. 巻3』静修軒、明6、p5。German―ドイツのこと。英語でGermany。

 

 

 ビスマルク宰相は、モルトケ参謀本総長の鉄道線と電信線をオーストリア、フランス国境へ複数の線路を敷設し、有事には兵隊と軍事物資を分割して国境へ鉄道で輸送し、分進合撃戦法を遂行する作戦準備を承認し、1867年プロイセンーオーストリア戦争、1871年にプロイセンーフランス戦争に勝利し、統一ドイツ国家「ドイツ帝国」を樹立しました。ヨーロッパ列強国を相手にした新興国の勝利でした。

分進合撃戦法、ぶんしんごうげきせんぽう。分散前進・包囲集中攻撃のこと。モルトケは、鉄道と電信をセットにして複数の線路をオーストリアやフランス国境に延伸させ、有事に軍と物資を分けて鉄道で国境へ速やか送り込み、電信で随時指令を送り、「主戦場に可能な限りの多数の軍を集中させる」というナポレオン式戦術と「戦争の目的は敵軍の戦力を奪うにあって領土の獲得ではない」というナポレオンの殲滅戦略(せんめつ)を当時の最新技術で実現した。大橋武夫『参謀総長 モルトケ』マネジメント社、昭59。渡部昇一『ドイツ参謀本部』中公文庫、昭61。

 

 

 一方、岩倉、木戸、大久保らは、京都で明治天皇を囲い込み、薩摩は、江戸で自分たちの屋敷を根城に、火付け盗賊、ついには民間人に死者がでるような乱暴狼藉をする攪乱工作を行い、徳川に開戦を誘発させ、戊辰戦争を引き起こし、東日本を戦乱の地にしました。彼らは、人民に対し攘夷を表看板にしながら、裏では開国の利を得ようとし、新政府樹立後は、徳川幕府が締結した各国との条約が不平等だったので、条約を改正して国権を取り戻すと国民に弁明しました。そういう岩倉らには、列強国であるオーストリア、フランスと戦って建国したビスマルクの体験談は余りに眩しく輝いていて、岩倉らはビスマルクのトップセールスの口上に心酔し、のめり込んでしまいました。ビスマルクの演説を一部抜粋して引用します。

 

『現在、世界各国はみな親睦の念と礼儀を保ちながら交際している。しかし、これは全く建前のことであって、その裏面ではひそかに強弱のせめぎあいがあり、大小各国の相互不信があるのが本音のところである。私が幼いころ、わがプロイセン国が弱体であったことは皆さんもご存じのことであろう。そのころ私は小国としての実際の状況を自ら体験し、常に憤懣(ふんまん)を感じていたことは、今も脳裏にはっきりと記憶している。

かのいわゆる「万国公法(国際法)」は、列国の権利を保全するための原則的取り決めではあるけれども、大国が利益を追求するに際して、自分に利益があれば国際法をきちんと守るものの、もし国際法を守ることが自国にとって不利だとなれば、たちまち軍事力にものを言わせるのであって、国際法を常に守ることなどはあり得ない。小国は一生懸命国際法に書かれていることと理念を大切にし、それを無視しないことで自主権を守ろうと努力するが、弱者を翻弄する力任せの政略に逢っては、ほとんど自分の立場を守れないことは、よくあることである。わが国もそのような状態だったので私は憤慨して、いつかは国力を強化し、どんな国とも対等の立場で外交を行おうと考え、愛国心を奮い起こして行動すること数十年、とうとう近年に至ってようやくその望みを達した。』

引用元: 水澤 周訳注『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 第3巻 ヨーロッパ大陸編 上』慶応義塾大学出版会、2005、p.369-370。

原文は国立国会図書館オンラインを参照。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761504、p.369-372。

 

 

 さらに、ビスマルクは、日本は列強国から万国公法に従い、国内法(法典)を整備するよう要求されているが、そのようなことをしても条約改正には至らない、なんといっても力がなければ列強は条約改正に応じないとも主張しました。

 

 伊藤貫『歴史に残る外交三賢人』 (中公新書ラクレ677、p.34-39)では、ビスマルクが宰相時代(1871-90)にとった慎重に熟慮された巧妙なバランス・オブ・パワー戦略*1に、岩倉たちはほとんど興味を示すことなく、その結果、『ビスマルクの武断主義は理解したが、1871年(明治4年)以降の彼のバランス・オブ・パワー外交を理解できなかった戦前の日本人は、日清、日露の戦勝後も、「もっとやれ、もっとやれ」と更なる“大日本帝国の拡大”*2を目指した。』と論じています。

 

図1.ウィーン体制(1815‐1853)-ドイツ帝国成立以前

 

 

図2.1870年代のヨーロッパ―1871年ドイツ帝国の成立

 

 

 ビスマルクは、ドイツの領土を拡大する戦争能力を他国に示した後は、避戦主義を堅持しました。しかし、そのことをビスマルクは岩倉たちには説明しなかったのです。ビスマルクが宰相在任中(1871~90)の偉大さをフランスのドゴール将軍や米陸軍アイゼンハワー将軍は、『ビスマルクが偉大だったのは、彼が自国の戦勝に慢心することなく、「もうこれ以上の戦争は不必要だ」と判断する能力を備えていたことだ』とビスマルクを賞賛しました。『バランス・オブ・パワー外交というのは、17~19世紀の西欧外交史に関する質の高い知識がなければ、理解できないもの』なので、岩倉たち、薩長閥がビスマルクの外交を正しく理解できなかったのです。(伊藤貫)

 

*1 参考文献 モーゲンソー著、原彬久監訳『国際政治 権力と平和  (中)』岩波文庫、2013(1948)
*2「大日本帝国の拡大」について、関岡英之『帝国陸軍知られざる地政学戦略―見果てぬ「防共回廊」』祥伝社新書563、2019では、旧帝国陸軍と関東軍は、満州―モンゴル―ウィグルという親日国家群を樹立し、ソ連と中国を遮断する「防共回廊」構想があったことを紹介している。大陸に関わらないとする榎本と、大陸に入り込み、直接大陸内に関わりたいとする陸軍との方針の違いが明白になっている。

 

 

 榎本の海上の国際法に関する恩師、フレデリックス先生は、『西洋史の正しい理解と、何よりも私たちの科学(政治、経済などの社会科学)の豊富な知識』を榎本が有していたので、教えるのが簡単だったと「海律全書」の冒頭の献辞(序文)に書きました。当時の日本でバランス・オブ・パワー戦略を理解していた人物は、榎本くらいでしたが、残念なことに、榎本は明治新政府内では非主流派でした。榎本が政府内で表明する意見は、主流派(薩長閥)の意に介さなければ、却下されました。

情報屋台『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(前編)安全保障へのプロローグ』http://www.johoyatai.com/2855

 

 また、国際法と軍事力の関係について、フレデリックスは榎本に贈った「海律全書」の献辞で、次のように記しています。

『大砲を多く持つのが得策という考えもあります。しかし、「知識は力なり」、という格言は普遍の真実です。あなたが知識を持って日本に帰ることで、あなたの美しく豊かな国、日本は必ずや国際連合の中に加わる存在になるでしょう。』フレデリックスは、日本が、大砲を打ちまくり、銃を乱射して国家が発展するのでは無く、知識を駆使して発展することを予見し、榎本に期待していました。

 

 オランダの学者の歴史哲学とドイツ統一国建国を果たした宰相の現場哲学とは、意見相反するように見えますが、建国後のビスマルクの国際法によるリアリズム外交は、フレデリックスの哲学に沿っています。かくして、ビスマルクの演説を誤解して心酔した岩倉たち薩長閥は、日本を王政復古後、大陸侵攻に向けて進軍することになりました。この点においても、榎本と明治新政府は、国家の発展する方角が北か南かという点に加え、国際法の知識を活用するのか武力で外国を押しまくるのかという点で外交方針が180度反対を向いていました。

 

 蛇足ですが、列強間の力学といえば、社会科学の分野ではよく連立方程式を解くという言い方をされますが、天文学や物理学では多体問題(または三体問題)といいます。n=3以上の相互に影響を与える粒子(質点)間の運動を議論する(解く)ことは困難とされています。地表の多体問題の運動を議論することが非常に難しいことを、榎本は箱館で十分身に沁みていたのです。

 

『対独復讐(ふくしゅう)を叫ぶフランスを孤立させ、ヨーロッパの現状を守ろうとする外交は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882)、ロシアとの二重保障条約(1886)、イギリスも加わる地中海協定(1886)を通じて完成し、ヨーロッパ外交の手綱はビスマルク一人の手に握られたかのようであった。』[木谷 勤]、コトバンク。https://kotobank.jp/word/ビスマルク-119868。

時野谷 常三郎『ビスマルクの外交』大八州出版、昭20、第一篇第2章第7節によれば、ビスマルクは1840年代すでにナポレオンの失敗を研究し始めており、世界制覇と民族主義者の関係も議論していた。政治家は大成功の後は自制が肝要と結論付けていた。

 

 

・税権回復要求と行政権回復要求

 

 

 サンクト・ペテルブルクに赴任した榎本は、明治8年(1875)5月7日、樺太千島交換条約を締結、5月29日、マリア・ルス号事件の国際仲裁裁判で勝訴し、ロシアでの外交活動を順調に進めていました。ところが、榎本の救世主、黒田清隆は榎本が交渉で獲得した樺太での漁業権(無税)をことごとく否定する行動にでました。

 

 明治8年5月に樺太千島交換条約が締結されると、『榎本武揚の努力によって樺太のほかオホーツク海やカムチャッカ沿岸における日本人の漁業の権利を認め[られ]ていたにもかかわらず、(北海道)開拓使はその重要性を無視して漁業家たちに樺太における漁業断念書を提出させた。それは開拓長官の黒田清隆がこれまでのような樺太における日露の紛争を嫌い、樺太との関係を直ちに断ち切ろうとしたのだと思われる。しかし、そのことに不満な漁業家たちは上京して樺太漁業の継続を訴えた』ので、翌明治9年3月に太政官は漁業の継続を認めました。

(出典:秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版会、2014、p.254)、[]内は著者挿入。

 

 榎本の樺太千島交換条約では、樺太の代替物には国利である経済的利益を榎本は重視しましたが、黒田は、樺太における経済的利益も放棄しようとしていました。榎本は、黒田が取ったと考えられるこの方針は意外だったはずで、榎本と黒田との関係にどのような作用をしたかは不明ですが、榎本の内心は、心穏やかではなかったと考えられます。黒田は西郷隆盛と共に恐露病にかかっていました。こういった国内事情があったゆえなおさら、個人的興味を超えて、ぜひともシベリア事情を現地で情報収集して報告し、国内の恐露病を笑い飛ばそうと、榎本のユーラシア大陸横断帰国への決意は高まりました。しかし、その前に条約改正の交渉が待っていました。

萩原延壽『『帰国 遠い崖10』朝日文庫、2000。

 

 

【領事裁判権の乱用‐行政権回復要求】

 

 

 攘夷を表看板にしてきた明治新政府は、徳川幕府が締結した諸外国との条約を継承し、開国を継続しました。安政5年(1858年)締結の米、英、仏、オランダ、ロシアとの修好通商条約は、領事裁判権を承認(法権)、自主関税権の放棄(税権)、ロシアを除き各国とは片務的最恵国待遇である点が、不平等として、岩倉具視らの明治新政府は国家主権回復を主要な使命であると国民に訴えました。ところが、不平等条約に対する研究は、『むしろ近年、理論的な進展が大きいのは、いわゆる不平等条約そのものの理解である。条約は不平等であったという前提は長年堅固であったが、これに対する批判がさまざまな角度から行われるように』なりました。

五百旗頭薫『法権回復への展望とナショナリズム』有斐閣、2010、p.7

 

 

 日本が苦しんだ条約国の横暴は、横浜居留地などで繰り返されました。鉄砲による狩猟、傷害事件、港則、検疫規則などが、日本側が自国の規則で取り締まれなかった代表的な事件でした。その中には、『1879年、ドイツのヘスペリア号が日本官憲の制止を振り切って横浜港に入港し、旅客を上陸させた。コレラが蔓延していたため、この事件に対する世論の怒りは大きかった。』ビスマルク宰相が、『国権自主ヲ重ンスル』我が国こそ、数ある列強の中で日本の最良の友好国であると岩倉たちに一説ぶったのは、やはりトップセールスであって、実態はヨーロッパ列強国のすることに変わりは無かったのでした。

 

 日本の官僚はこれらの問題の解決を求めて多数の改正案を提起しました。五百旗頭薫はこのことを「行政権回復」と名付け、『行政権回復要求とは、領事裁判の拡大適用に対する抗議である。』と定義しました。

(参考:五百旗頭薫「歴史との対話3 国士官僚の明暗 近代日本とっての条約改正」『外交』Vol.10、平23、p.151)

 

 

 井上清『条約改正』(岩波新書203、p.6)に、パークスの前任者、初代駐日英国公使オールコックの一文をもって英国の日本に対する外交姿勢を紹介しています。パークス公使が日本政府へ高圧的態度をとる背景が分かります。

 

『「日本はわが国(英国)が東洋にもっている重要な権益の前哨である。日本貿易などなくてもよい。しかし大英帝国の連鎖は、たとえ日本のような東洋のはてにおいても、ただ一環でも破られたり傷つけられたりしてはならない。もし他の列強が日本から退けば、・・・、北太平洋はロシアの勢力下に置かれるであろう。それに対抗するために、イギリスはぜひとも日本を保持しなければならない」と。イギリスはこの基本政策から日本に高圧的態度をとりつづけた。』

(参照 ラザフォード オールコック著、山口光朔訳『大君の都 下』岩波文庫、424‐3、pp.95-100)

 

 

 グレートゲームの一環としての領事裁判権の勝手な解釈による拡大運用なのか、役得として拡大解釈され運用された領事裁判なのか、条約解釈は本国から離れ、出先である現場において既得権益化していました。当然、現場の外交官たちは既得権益を手放さなかったため、条約改正には手間がかかりました。

 

 しかし、明治新政府の大隈重信はじめ大蔵官僚たちは、法権や行政権の回復よりも、累積する貿易赤字に対処するため、直貿易による収益拡大とともに、税収も増やそうと考え始め、税権回復を主張し始めました。その結果、政府内では税権回復を優先課題に据え、外務官僚は条約改正に取り組むことになりました。

 

【参考】

1. 五百旗頭薫『明治日本の国家形成過程における条約改正』科学研究費研究成果報告書、課題番号19673001。

2. 『東アジア国際政治史』(名古屋大学出版、2007)、 (いおきべ かおる) 第2章「開国と不平等条約改正」、p.28。

『改税約書のような協定の形をとらずとも, 外国側の既得権益は幕末維新期を通じて領事裁判の拡大適用によって獲得された [下村1948, 1962]。条約において領事裁判は, 条約国人が民刑事訴訟の被告になり, あるいは条約や条約に付随する貿易関連規則に違反した場合に行われることになっていたが, 条約の運用の中では一般的な行政規則違反事件についても, 条約国人は領事裁判の保護を受けるようになっていく。日本政府は領事裁判によってでなければ, 行政規則を外国人に適用することができなくなったのである。

しかもこうした行政規則にかかわる裁判権・処分権の制限は, そもそも行政規則を制定する権利の制限をももたらした。自国が認めていない行政規則を領事裁判において適用することを, 列国が拒否したためである。日本が事前協議を余儀なくされた規則や, 協議が合意にいたらなかった規則は, 銃猟規則港規則 検疫規則·税関に関する規則等, 枚挙に暇がない。そこでは, 一番重要なイギリスのパークス(Sir Harry Parkes) 駐日公使が特に強硬であった。 ヨーロッパの一部の国は協議に協力的に応じたが, 協議を受ける権利は手放さなかった。』

3. 1866に兵庫港を開港しなかった代償として、条約に付随する税率が改定された。「改税約書」という。1842アヘン戦争後の南京条約、税率=従価5分を原則とした従量税と同じだった。1860アロー戦争後の諸条約と条約改定は、インフレに対応した調整で、例外として茶の輸出税は5%以上を維持、フランスからの絹織物の輸入税は5%以下のまま維持された。従量制なので、国内のインフレに連動しない輸入税では、輸出する側が得するばかりでした。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

【榎本の条約改正交渉】

 

 

 明治7(1874)年5月7日付けで、後の対米条約改正交渉をする吉田清成大蔵省少輔が、大隈重信大蔵卿代理に宛てた貿易収支改善と条約改正の意見書は、三条実美太政大臣を経て寺島宗則外務卿に送られました。明治8年7月23日付で大隈大蔵卿から寺嶋外務卿宛てに国家経済の観点から速急(さっきゅう)の条約改正を求めました。その後議論を重ね、明治9年1月18日付けで「外国駐箚ノ我公使ニ贈ル書簡ノ草案」が寺島外務卿から三条太政大臣に提出されました。さまざまな議論を経て、明治11年2月8日に寺島外務卿から英露独墺帝国公使宛てに条約改正に関する訓状が送付されました。

 

 明治11年2月20日に榎本は、「明治11年2月12日午後御差立に相成り同日接手しましたが、全く了解できず、お伺いします。」さらに「電文は必ず要件を記述して欲しい」と前置きして質問を電信しました。条約改正交渉開始を前に、本省とペテルブルクの公使館とのコミュケーションはうまくいっていなかったようです。さらに、こちらは冬季なので、ロシア政府の官僚たちは外国旅行や私領地へ旅行しているので、交渉開始の日程調整に手間がかかるだろうと書き加えました。

差立 さしたて 郵便事業では、郵便物などを発送すること。

 

 

 さらに、4月20日付け寺島外務卿宛ての文書(6月10日到着)では、新しく赴任してくる鮫島尚信*駐仏公使とパリで会い、情報交換、意見交換をと考えていましたが、不足していた資料、文書、委任状等が手元に集まり談判の用意ができるようになった、さらにパリ行きは英露二国間が不穏のため、止めますと連絡しました。

*鮫島尚信、さめじまひさのぶ、1846-1880、薩摩藩士、外交官、パリで客死。

 

 

 4月22日付けの駐米全権公使吉田清成から本省への書簡に「露の形成は如何に候や。重脩一件に付て、榎本氏より伝せし事なし。」と書きましたが、榎本は、交渉開始のための書類などの到着を待ち、また交渉する相手方がペテルブルクに戻ってくる時期を待っていたので、吉田公使と共有する情報がなかったのでした。

 

 榎本は、5月17日に「条約重修談判紀亊第一号」を、第二号を5月28日に、そして、第三号を6月12日に報告します。5月28日付け寺島宛報告書に、しっかり仕事をしていますが、しかし、シベリアを通過して帰国することも大事だと、6月12日付けのさらなる寺島外務卿への報告書にしっかりと、許可を受けているシベリア経由で帰国するので、ペテルブルクの公使館に去る7日に到着した西徳二郎を私が不在時の臨時代理公使にする辞令をだしましたと書き、頭の中はシベリア経由の帰国のことで一杯のようでした。

 

 前後しますが、5月28日付け寺島外務卿宛ての報告書でペルシャ帝がペテルブルクを訪れたので、これを機にロシア側の関係者はペテルブルクの「夏の宮」に移ったと記しています。これで、榎本らがペテルブルクでペルシャ帝および閣僚と面談し、榎本が私たちはアジアの国々と一説ぶち、国交樹立を話し合った時期が明治11年6月中旬から7月の上旬ごろの間であったことが分かります。

 

 西徳二郎は明治8年サンクト・ペテルブルク大学を卒業し、情報収集のため現地の新聞社で記者として働いていたところ、ロシア海軍が朝鮮の不凍港である元山港を租借し軍港にしようとする計画を知り、榎本に報告しました。榎本は本省に電文を送りました。さらに、榎本は情報の重要性から、書記官に休暇を装わせて帰国させ、寺島外務卿に報告させました*1。榎本が本省に送った電文は内容の重要性から秘密(暗号)電文で送ったと考えられます。暗号は数字のコードを用いました。暗号を解読するコードブックはペテルブルクでは榎本のみが持っていました*2

 

 榎本は本省との書面のやりとりで、送られてきた電文を「東京発線の・・・」、「香港発線の・・・」といった書き方をしていました。「東京」+「発線」ではなく、「東京発」+「線」、「香港発」+「線」です。東京発の電信線による電文という意味ですが、それを粋に「線」(cable)と書きました。現代で言えば、LINEで(メッセージを)送ったからという意味になります。

 明治15年7月に起きた「壬午の変」に関する井上馨外務卿から吉田清成外務大輔宛の訓電中では、8月9日は「・・・電信にて指令」、10日には「・・・青木伊藤に発電し」と記されています。(崔碩莞(チェ・ソクワン)『日清戦争への道程』吉川弘文館、平9、p.11)

 "cable"という単語には、電報を打つ、外電を打つ、海底電信で通信するという意味(用法)がありますから、榎本は電信でcableに該当する箇所を「線」という単語を宛てたと考えられます。*3

 「電報を打つ」行為は英語が由来なので、日本語の技術用語が標準化されるのは、もう少し先です。

*1  一戸隆次郎『榎本武揚子』(嵩山房、1999)、加茂儀一『榎本武揚:明治日本の隠れたる礎石』(中央公論社、1960)
*2 齋藤洋子『花房義質関係文書 明治七年「日記」』外交史料館報 第34号、2021.3、P146下段、9月20日。
*3 Longman    https://www.ldoceonline.com/jp/dictionary/cable#cable__13
          ジーニアス英和辞典<海底版> 大修館書店、1994、pp.249-250

 

 明治11年(1878年)5月28日付けの寺島外務卿宛て報告書で、5月20日の日本の公館でスツルウエ(スツルヴェ・キリル・バシリヴィチ、1876-1883 年、駐日ロシア公使)と掛け合いを行い、スツルウエ氏から個人的には『貴政府の要求を以て皆理ありと看做し候』という発言を引き出し、ロシア側から非常に良い感触を得たと報告しました。

 

Maltseva, Svetlana『駐露時代(1883-1886)の花房義質』学位論文、Osaka University Knowledge Archive、2009.6

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/

 

 

 続いて、明治11年6月12日付け寺島外務卿宛て報告書で、6月18日のロシアの外務省において「ギルス」外務大輔(外務省次官に相当)との対話書には、『我国には貴国の製造品と競争する者無之に付現存の条約を重修するに富て我人民は不平をとなふる事可無之と在候』という発言をも引き出しました。ロシア政府を相手にした榎本の条約改正交渉は順調でした。

 

 ロンドンにいた日本人留学生は、馬場辰猪(たつい)や小野梓らの主唱により日本人学生会を組織し、不平等条約を廃止するための研究をしました。1876年(明治9年)10月に馬場が英文で書いた「条約改正論」がロンドンで出版されました。この本は日本語訳され明治18年に出版しようとしましたが、政府が介入して即時には出版できず、明治23年に出版されました。政府は民権派を刺激し、政府への批判が強まることを恐れたのでしょう。

 

 1875年(明治8年)に帰国した小野梓は、「共存同衆」と命名した協会を作り、機関紙「共存雑誌」を発刊しました。某県、某藩所属意識、すなわち地方意識を去り、共存意識をもとう、つまり、日本人意識を持とうと訴えました。藩益である国益から国利へ意識を変えようという訴えと同じ考え方でした。

小野梓、おのあずさ、1852-1886、土佐国宿毛の出身、政治思想家、東京専門学校(早稲田大学の前身)の創立に尽力。
 馬場辰猪、ばばたつい、1850-1888、土佐藩士、啓蒙思想家、民権派の大同団結に尽力。

(いずれもコトバンクを参照した)

 

 

 税権回復交渉は、米とは調印済み、伊、露から了解を得られましたが、英国の強烈な反対工作を受け、失敗しかけていたところ、国内では、条約国の行政権侵害事件が続いたため法権回復を求める世論がおこり、ついに、寺島外務卿は進退窮まり、外務卿を辞し、文部卿に転じました。(井上清『条約改正』岩波新書203、p.86)

 

 榎本は北海道の開拓事業で、科学技術者として、また開発方針立案において成果をだすばかりでなく、外交分野においても実績を上げていたのです。榎本と条約改正との関係は今回で終わらず、明治24年(1891年)に外務大臣に就任し、条約改正作業のエンディングに向けて重要な役割を果たすことになりました。

 

(続く)

 

画像出典

アイキャッチ画像: 時野谷常三郎『ビスマルクの外交』大八州出版、昭20。

図1: 木村靖二、岸本美緒、小松久男編集『詳説 世界史研究』山川出版社、2018、p.324。

図2: 木村靖二、岸本美緒、小松久男編集『詳説 世界史研究』山川出版社、2018、p.344。

 

【ビスマルクの演説全文】

『現在、世界各国はみな親睦の念と礼儀を保ちながら交際している。しかし、これは全く建前のことであって、その裏面ではひそかに強弱のせめぎあいがあり、大小各国の相互不信があるのが本音のところである。私が幼いころ、わがプロイセン国が弱体であったことは皆さんもご存じのことであろう。そのころ私は小国としての実際の状況を自ら体験し、常に憤懣(ふんまん)を感じていたことは、今も脳裏にはっきりと記憶している。

かのいわゆる「万国公法(国際法)」は、列国の権利を保全するための原則的取り決めではあるけれども、大国が利益を追求するに際して、自分に利益があれば国際法をきちんと守るものの、もし国際法を守ることが自国にとって不利だとなれば、たちまち軍事力にものを言わせるのであって、国際法を常に守ることなどはあり得ない。小国は一生懸命国際法に書かれていることと理念を大切にし、それを無視しないことで自主権を守ろうと努力するが、弱者を翻弄する力任せの政略に逢っては、ほとんど自分の立場を守れないことは、よくあることである。わが国もそのような状態だったので私は憤慨して、いつかは国力を強化し、どんな国とも対等の立場で外交を行おうと考え、愛国心を奮い起こして行動すること数十年、とうとう近年に至ってようやくその望みを達した。これもただ、国ごとの自主権をまっとうするという志を延べたことに過ぎない。

ところが各国はみな、わが国が四方に向かって軍事行動をしたことのみを取り上げてむやみに憎み、プロイセンは侵略を好み、他国の権利を犯す国であると非難しているようである。これは全くわが国の意図と反している。わが国は国権を重んずることを通じて、各国相互が自主権を守り、対等に交わり、相互に侵略しない公明正大な世界に生きたいと考えているだけなのである。従来の戦争も、みなドイツの国権のためにやむを得ないものだったことは、世の識者には幸い理解してもらえるであろう。

聞くところによると英仏両国は海外植民地を搾取し、その物産を利用して国力をほしいままに強め、他の諸国はみな両国の行動に迷惑を感じているという。ョーロッパの平和外交などはまだ信用するわけには行かない。皆さんもきっと顧みてひそかな危倶を捨て去ることが出来ないのではないか。そのお気持ちは私自身小国に生まれ、その実態をよくよく知っているので、実によく理解出来るところである。私が世界の批判などを顧みることなく、国権をまっとうしたその本心も、またそのところにある。したがって、現在日本が親しく交際している国も多いだろうけれども、国権と自主を重んずるわがドイツこそは、日本にとって、親しい中でも最も親しむべき国なのではないかー』

 


この記事のコメント

  1. 高成田享 より:

    今回も興味深く拝読しましたが、ビスマルクの訪欧団への演説は、現下のロシアによるウクライナ侵略をみると、現代もビスマルクの時代と変わっていないというのか、ビスマルクの時代に戻ったというのか、考えさせられます。あまりに興味深いので、ご指示のあった国会図書館の文献にある演説部分を印刷してしまいました。

  2. 中山 昇一 より:

    全くご指摘の通りです。榎本を追いかけていきますと、ビスマルクの時代とウクライナで起きていることとは、全く同じで、歴史は繰り返していることに気づきます。人類にはもっと知恵が必要だと、自身を含めて反省が必要です。

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