北太平洋のグレート・ゲームと榎本武揚
・榎本武揚と国利民福-最終編二章-2 北太平洋のグレート・ゲーム
クリミア戦争勃発時、1855年の英露との和親条約締結で日本は北太平洋でのグレート・ゲームに組み込まれました。1868年、榎本は蝦夷嶋新政権を樹立し、英国の息がかかる明治新政府とロシア帝国との間に割って入り、明治新政府と対峙しました。榎本軍はグレート・ゲームのHot Warに参戦してしまいました。
【グレート・ゲームは中央アジアから北太平洋へ広がる】
16世紀末、ストロガノフ家から資金供与を受け、イェルマーク(Ерма́к Тимофе́евич、1532‐1585、コサックの頭領)は、ウラル山脈を越え、東進し、シビル・ハン国へ侵攻を開始しました。イェルマークは激戦の後、戦死しましたが、戦争は継続され、シビル・ハン国を滅ぼしました。その後、毛皮を求めて、ロシア人はシベリアを東進し続け、南は17世紀中葉にアムール川に達し、アムール川の北側で清国と領地紛争を繰り返しながら、遂に、18世紀初頭、ユーラシア大陸の東端、カムチャッカ半島に到達しました。
その後、ロシア人はアラスカでも毛皮業などの商業活動を開始し、18世紀の終わり、1798年にロシア帝国は、北緯55度以北を営業範囲とする「ロシア・アメリカ会社」(露米会社)を勅許し、1799年にアラスカを領有しました。毛皮業の交易を主な事業とする国策会社でした。出資者は、商人、宮廷、皇族で、皇族に利益の三分の一が配当されました。年を追うにつれ露米会社が営業許可された緯度は南下しました。
同じころ、米国の捕鯨船団は大西洋側(ボストン)から南米のホーン岬を回って太平洋に入り、1820年にハワイを中継基地にし、北太平洋―琉球付近から日本近海、小笠原諸島、千島列島、オホーツク海、ベーリング海で活動しました。
1840年代に入ると、アメリカの捕鯨船団がロシアの『領海内での操業や無許可の上陸、木々の無断伐採など、ロシア帝国の主権を無視するかのような捕鯨船の脱法行為や、捕鯨船の操業が先住諸民族の海獣猟に与える損害を(露米会社は)重大視していた』*ので、露米会社の性質は、ロシア帝国の主権を守るため、植民地統治機構化や軍事組織化が進みました。一方、フィンランドの企業家集団から提案を受け、ロシア政府と露米会社とは、不況になった毛皮業の利益を補うため、ロシア・フィンランド捕鯨会社(露芬捕鯨会社)を設立し、1852年8月にオホーツク海で操業を開始しました。
*神長英輔『露米会社と捕鯨業』ロシア史研究、69巻p.2-15、2001。()部は著者挿入。
アヘン戦争後の1842年に締結された南京条約がロシアに及ぼす影響を検討したロシア海軍のプチャーチン提督は、清国へ全権代表を送る、日本の開国交渉の再開、樺太の測量などを皇帝に提案しました。翌年政府は、プチャーチンを全権代表として東洋遠征隊を送ろうとしましたが、予算の目処が立たず、出発できずに終わりました。
その後、1846年から1848年に行われた米墨戦争で、米国はカリフォルニアを手に入れました。終戦後、米国海軍のペリー提督は、日米和親条約締結のため、蒸気船を中心にした艦隊を引き連れ、1852年11月にジョージア州ノーフォーク港から日本に向けて出帆しました。
ペリーが日本へ向け出発間近という情報を得たロシア政府は、1852年10月、急遽プチャーチンを日本へ出発させることにしました。プチャーチンは、日露和親条約を求めてサンクトペテルブルクの沖合にあるクロンシュタットの軍港から日本に向け、ペリーを追いかけるように出帆しました。プチャーチンの艦隊は帆船で構成されていました。
ペリーが日本に求める和親条約は、広大な北太平洋で活動する捕鯨船への補給や漂流民の保護、清国との貿易の中継点確保、日本との通商を目的としていました。ロシアも同様の目的でしたが、ロシアには国境の画定が追加されていました。
クリミア戦争で、英仏は1854年3月にオスマン帝国と同盟を結び、ロシア帝国に宣戦布告したため、露芬捕鯨会社の捕鯨船も英仏連合艦隊から狙われ、被害も出ました。ロシアの極東の拠点、ペテロパブロフスク・カムチャツキーの軍事基地は、1854年8月28日から9月7日の間、英仏連合艦隊に包囲され、激しい地上戦が行われました。ロシア軍と民間人は、その後、密にアムール川河口域にあるニコラエフスクへ脱出し、基地を放棄しました。
図1 極東アジアでのロシアの南侵とロシアと英仏とのHot War
ロシア政府は、世界有数の海軍力を保持する英米仏に樺太が占領されることを恐れていました。1853年3月、露米会社に樺太、樺太西岸に位置するデ・カストリ湾(現在のチハチョーフ湾、北緯51度)、デ・カストリ湾から北西、25kmに位置するキジ湖(北緯51度)の占領が許可*1されました。
図2. 露米会社の極東アジアでの南侵
日露和親条約締結の交渉前に、露米会社は政府の指示を受け、嘉永6年(1853) 9月1日、樺太の日本の集落付近(クシュンコタン、後の大泊、現在のコルサコフ)へ哨所(砦)を建設し、日本が樺太を放棄するよう交渉圧力をかけました。『領土の拡張を否定して境界の画定を求めたロシア皇帝の国書と樺太全島領有を主張したプチャーチンの老中宛書簡(シーボルトが関与)の矛盾』を川路聖謨(かわじとしあきら、1801‐1868、日田出身、幕臣、日露交渉担当)から指摘され、プチャーチンは弁明に追い込まれました。クリミア戦争開戦を知ったプチャーチンは、英仏艦隊による攻撃を恐れ、ポシェット中佐(後述)をクシュンコタンの哨所へ派遣し、哨所を撤退させました。*2
*1森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社、2008、p181
秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版、2014、p.206では、4月11日付けで「サハリン島占領命令」が出された。
*2秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版、2014、p.207
英国は極東でのグレート・ゲーム遂行のため、1854年10月に日英和親条約を締結しました。一方、ロシアの交渉団は英国艦隊との交戦を避けるため、一旦マニラに避難し、再び戻ってきて、1855年2月に条約締結をしました。バルカン半島で発火し、クリミアで燃え上がったグレート・ゲームのHot Warは、北太平洋へ延焼し、北太平洋はグレート・ゲームの新たな盤面と化し、ついに日本はグレート・ゲームに組み込まれました。
1856年3月にクリミア戦争が終結すると、露芬捕鯨会社の操業は再開されましたが、操業不振が続きました。ロシアの東シベリア総督は、璦琿でアムール川に武装船を浮かべ、高圧的な態度で清国代表を恫喝し*、1858年5月に清国とアイグン条約を締結し、アムール川を国境に定め、ロシアは領土を南方(アムール川北側、外満州)へ拡大させ、さらに、ウスリー江以東の沿海州を清とロシアの共同管理にしました。
*森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社、2008、p182
1860年11月締結の北京条約で共同管理地だった沿海州をロシア領にしました。ウラジヴォストークでの都市建設はこの年に始まりました。その後、ロシア政府は、1862年に露芬捕鯨会社を清算し、さらに、1867年に露米会社を解散し、アラスカを英仏では無く、米国へ売却し、損切りしました。以降、手にしたアムール川国境と松花江などの航行権を利用して清国との交易を拡大させ、さらに欧米列強と対抗して清国での利権を求めて南侵の機会を伺うようになりました。
【榎本、北太平洋のグレート・ゲームに参戦してしまう!】
慶応4年3月既に、岩倉具視は蝦夷開拓の必要性について提議し、4月に開拓方針を樹立しました。北海道の開拓に直ちに着手するとしましたが、樺太経営については、優先順位が低く、未着手でした。大久保利通、木戸孝允らは、樺太を内地と考え樺太防衛を積極的にするべきだと唱えましたが、黒田清隆は明治6年2月の「樺太事件奏議」以降、樺太よりも北海道の経営に集中すべきという意見で一貫していました。黒田が現地に赴いた結果の意見でした。英国のパークス公使も状況が不安定な樺太での支配にこだわっていないで、北海道の開拓と防衛を確実に(利確)しろと政府に主張していました。*
*安岡昭男『明治初期の樺太問題と政府要路』法政史学15、p.182-196、1962-12
明治元年10月23日(1868年12月6日)、北上した徳川脱藩海陸軍一同(以降、榎本軍)の榎本艦隊は、鷲ノ木に到着し、陸軍は10月25日に箱館を占領しました。榎本は、英国の息がかかる明治新政府と樺太を要求するロシアとの間に割って入り、政権(The Government de fact、Authorities de fact)を樹立し、北太平洋のグレート・ゲームのHot Warに参戦してしまいました。
箱館占領の目的の一つに、開拓をしながらロシアからの侵略の脅威へ備える、とありましたが、何故か、米国の領事だけでなく、ロシアの領事も榎本を敵対視せず、開陽を訪れ、退艦時に礼砲を受けるなど、好意的でした。しかも、米国領事と同様にロシアの領事は、英仏艦をけっして訪問しなかったのです。ロシアから見ると、日本国内の混乱、特に、英国の息のかかった明治新政府と樺太の間に榎本軍が陣取ったことは、ロシアの樺太支配へ向けてさらに有利な状況となったのです。また、ロシアの領事が榎本に好意的だった理由は、榎本の嘆願書にあると考えられます。
井黒弥太郎『榎本武揚伝』(みやま書房、昭和43年、p45)で引用、または意訳したと考えられる英仏艦長に渡した嘆願書に、「東西蝦夷地の開拓」*という箇所があります。井黒弥太郎氏の著作物では他の箇所では精確を期す書き方なので、この箇所の出典が判明しませんが、こう書かれた史料があるとして考えてみると、榎本の開拓対象は、北蝦夷、つまり樺太が含まれていなかったことになります。
*『皇帝陛下は我等を目して、無道に誠徒と喚為す事、甚其調れなし
我等事は、徳川藩士の中に就き、有志之徒身を容るに地なきを嘆き、我等の利益を案じ、彼の為に害になるべきものを使(と)りて、我全国の用になさんとの趣旨なり。
委敷(くわし)く云えば、是迄等閑に棄置し日本肝要之地、即東西蝦夷地を開拓し、一には我藩凍餓の苦を凌ぎ、二は我日本国北門之為、隣国の窺窬(きゅうゆ=隙をうかがい狙うこと)を防がん為なり云々。』
この嘆願書から、榎本の蝦夷嶋の統治方針は、樺太の領有を放棄し、北海道の開拓に専念し、産業を興し、ロシアの南侵から日本を守るという解釈が可能です。榎本軍が割って入らなくとも、ロシア政府は樺太を領有する予定には変わりはありませんが、ロシア政府は榎本軍の蝦夷嶋新政権が存続し続ければ、英国政府の息のかかった明治新政府と対峙するより、自分たちにはなにかと都合が良いと判断していたはずです。
榎本が樺太を放棄して東西蝦夷、すなわち北海道の開拓に専念し、ここでロシアの南侵から防衛すると考える理由は、慶応3年(1867)3月25日の締結した「カラフト島仮規則」にもあると考えられます。秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』(北海道大学出版会、2014)から以下に二か所を引用します。
・日露和親条約の第二条について。
『「之迄仕来(しきたり)之通たるべし」と規定した。ここでいう「仕来」について日露両国の解釈に大きな隔たりがあり、ロシア側では国境画定の据え置きの意味が強く、ロシア人の日本人居住地以外への進出を妨げるものではなかった。これに対し日本側にはアイヌの居住地は古来からの日本の領土であるとみなす特異な領土観があったので、・・・、やがて双方の主張が重複する部分において日露両国人の雑居が生じることは必至であった。』p.208
・「雑居規則案」に基づく、「カラフト島仮規則」(慶応3年(1867)2月25日)
『日本側がもっとも恐れていたロシア人の南下に道を開き、アイヌの雇用をロシア人にも認めた点で、これまでアイヌの帰属をサハリン南部領有の根拠としてきた日本側の主張の破産(破綻)を意味していた。』p.217、()内は著者挿入。
日露和親条約、通商条約は他の列強国との条約と違い、領事裁判権を双方に認め合い、双務的最恵国待遇を決めていた点*は良いものの、ロシアは領土拡張のため、しっかり樺太をグレーゾーンにしておきました。璦琿条約締結時に沿海州を共同管理にしておいたことと同じ手順でした。
*外務省・幕末期 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_russia_2005/2_1.html
【補足】
和田春樹『開国―日露国境』(NHKブックス[620]、平成3年)では、「特異な領土観」と徳川幕府の蝦夷地開拓方針を以下のように論じています。
嘉永6年12月20日(1854年1月18日)の川路とプチャーチンとの交渉過程で、川路は、千島列島全島およびカムチャッカ半島は元々日本の領土だったが、ロシア人が後からきて住み着き、蚕食したと主張しました。元々日本の領土という根拠は、そこには日本に属するアイヌ人が住んでいたことを理由にしていました。この考え方が「特異な領土観」です。水戸藩の徳川斉昭の認識では千島列島全島が日本領土だという認識を持ち続け、安政2年2月22日(1855年4月8日)、幕府内で、開拓は奥地、すなわち、樺太と択捉、国後から始めるべきだと提議しました。
しかし、榎本が従者となって日露国境の調査を行った堀織部正(箱館奉行)は、人は利益を得難い地へ誘い難いので、開拓の人を集めやすい南から着手すべきで、また、ロシア人に対抗して体格が大きく勇猛な人物を集めて北へ送るといっても、器械が無ければ警護はできないなどと、現場を知る人間として現実論を展開し、結論として、内地の力をあてにできないから、蝦夷地内のリソースをもって得られた利益を利用して、一時凌ぎ(『彌縫』びほう)するしかない、今、外国から手を出されたら、蝦夷地全体の安全保障は維持できないと締めました。幕府は蝦夷地経営を堀に任せることにしました。
・樺太放棄と南洋
今までのロシアの領土獲得の典型例が璦琿条約と北京条約でした。日露和親条約、カラフト仮規則も同じ流れでした。樺太の日本の領有権も同じような運命をたどることは明白でした。榎本は、ロシアの南侵に対抗して「対馬の対岸、釜山港の活用はポリチカル上において、スタラテジカル上において、地政学上の一要件、一要務」と論じましたが、樺太について同じような議論をした形跡はありません。蝦夷嶋新政権樹立時に、榎本には既に、樺太と千島列島全島とを交換する外交方針の構想がありました。
ロシアは大陸国家で清国との貿易が重要な資金源なので、アムール川と松花江などの航行権を用いて清国と交易することが非常に重要でした。日本海に軍艦を浮かべる目的は、英国艦隊から自国の利権を守るため、ウラジヴォストークへのシーレーンを守るため、各地の基地を守るためでした。一方、日本は海洋国家です。日本の経済的利益を考えると、沿海州沿岸、オホーツク海、千島列島海域での漁業権が重要で、ラッコの毛皮などはその時期でも、ペテルブルクで高額な取引ができ、水産資源は開拓事業と違い、すぐに現金化できました。
【榎本と英仏外交団との交渉経過】
10月29日(1868年12月12日)、横浜のパークス英国公使は、箱館のユースデン英国領事が送った榎本艦隊が蝦夷に現れた知らせと榎本らの声明文を受取りました。早速、パークスの要請で各国代表者会議が開催され、榎本の要求に対し議論しました。横浜居留地在住の公使たちと箱館の領事たちの態度をまとめると以下のように二分されました。
反対 英、オランダ、仏
賛成 米、ロ、伊、プロイセン
榎本支持は多数派でした。交戦団体権が認められれば、日本国内は内戦状態なので、各国は中立を守らなければならず、米国から日本へ引き渡しに来た横浜港に係留中の鋼鉄艦ストーンウォールは、明治新政府にも蝦夷新政府にも引き渡されません。津軽海峡の制海権は榎本軍の手にあり続けます。また、港湾封鎖して、港を出入りする船を臨検する権利も生じます。臨検することで、敵勢力の侵入や敵勢力用の軍事物資の持ち込みを防ぎ、没収もできます。
英国のパークス公使は、『榎本釜次郎(武揚)の国際法に関する知識は並々ならぬものがあったとつたえられているが、同時にこれは榎本軍に参加したフランス士官ブリュネ陸軍大尉などの助言があったのであろう』と考え、ユースデンの力量に不安を覚えるパークスは、外交上の微妙な駆け引きに備え、指導力のあるアダムス書記官を箱館へ派遣し指導させることにし、11月1日(西暦12月14日)に英仏軍艦は箱館に向け出帆しました。
榎本は、英仏側と交戦団体権に関する丁々発止とした議論(ブリュネやアダムスは参加せず)をした翌11月10日(1868年12月23日)、オランダ語ができるユースデン領事を単独で訪れました。榎本は、オランダ語でユースデンと話し込み、榎本軍の軍艦引き渡しは狼藉者の薩摩でなく英仏に対し行いたい、その後の正当な処遇を英仏に保障して欲しいと希望し、明治新政府との和解の仲介を打診しました。
米国公使は箱館のライス領事を通し、The Government de fact(事実上の政権)を認める*と榎本に伝えていました。11月11日に、榎本はライスに会い、明治新政府からのいかなる攻撃に対し、蝦夷嶋を防衛できると語りました。榎本の外交努力は、米国が局外中立を継続する状況作りに向けられていました。
*『箱館府が不在の現実を目の前にして、この旧幕府の脱走軍を合法的では無いがThe Government de factとして認めざるを得なかった。』函館日米協会編『箱館開化と米国領事』北海道新聞社、1994、p.106
榎本と英仏外交チームとは交渉を繰り返した結果、英仏側は「訓令により行動しているだけなので、ここで表明した意見は、パークス公使の判断を必要とする、これ以上議論をできない、・・・」と榎本への通達の最後に書きました。外交交渉で箱館に結集した英仏側は榎本から追い込まれてしまいました。ここまでは、ヨーロッパ仕込みの外交を榎本は実戦していました。
榎本軍は列強国の多数派に支持されていたにもかかわらず、榎本の外交は躓きます。第一に11月15日(1868年12月28日)に江刺沖で開陽が沈没し、明治新政府との海上戦力のパワーバランスが消えました。第二に英仏両国公使に艦隊引き渡し後の正当な扱いの保障(居中仲介)を求めたため、横浜の親榎本軍の多数派の支持を失いました。第三に、榎本はエンジニアとして蝦夷嶋政権樹立と嶋の発展を設計しましたが、エンジニアに求められる条件の一つである上流階級に人脈がある*こと、ここでは、宮中上層部に人脈をもっていることという条件を満たしていなかったのです。
*『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-2)』で紹介した「エンジニアの定義(必要条件)」の一つである。
アーミテージ『技術の社会史』みすず書房、1970の第8章の最後部、「仕事をするために豊富な資金と上流社会に多数の知人をもつことが必要である」。
横浜で榎本軍に好意的であった、米、伊、プロイセンの公使らに、さらにオランダの公使を加え、四カ国の公使の態度は一瞬にして変わりました。米国主導で四カ国の公使が共同で新政府に、榎本らが英仏公使に調停を依頼したことは国内問題の限界を超えている、さらに、榎本側からも明治新政府側からも、なんらかの排他的(独占的)利益が英仏国に与えられることは認められないという書簡を明治新政府へ即座に送りました。榎本は、海上法規をもとに戦略をたてることには堪能でしたが、現実では利害に対し敏感な欧米列強の老獪な外交術策の前に屈しました。
しかも、榎本がフランス艦艦長に託した仏公使宛ての秘密書簡は、秘密にされずに英国公使に渡されました。この時期、フランス公使は本国から、横浜でも英国の外交方針に追従するよう指示を受けていました。この書簡には、「最後の血の一滴まで戦う」と終わりに書かれていたので、英仏国公使らを呆れさせました。とても調停に乗り出せるような内容ではありません。ブリュネが原案を作ったと想像されました。ブリュネが参加しているから榎本達は、「開拓」という希望と「戦争」という願望が混在し、方針が混迷していると考えられました。開拓を切望する榎本らはただちに降伏すべきだが、ブリュネが降伏させないのだろうとパークスは考えました。
この年の暮れ、『海軍司令官を名乗る榎本は、所詮成り上がり者にすぎない。フランス士官(ブリュネなど)の存在は、榎本を非常に勇気づけているようである。動乱の一年が終わろうとしているが、このフランス士官の件だけが、われわれにとって不快の種である。』(1868年12月31日付け)と、半公信でパークスはハモンド外務次官へ報告しました。
パークスの言い分は、階級社会出身者丸出しで榎本を見下していました。パークスは、榎本に対しよほど悔しかったのでしょう。ブリュネがいるから榎本が降伏できないと主張する背景には、薩長と違い、榎本が自分たちの思うようにならないことへの大きな苛立ちを示していました。
明治元年12月28日(1869年2月9日)、米、英、仏、伊、オランダ、プロイセンの 6カ国は局外中立宣言を撤廃し、同日、明治新政府は、甲鉄艦ストーンウォールを手に入れました。
榎本が降伏を受入れる際に、黒田清隆へ送ったフレデリックス先生のテキスト『海律全書』の存在が明らかになると、ブリュネの指導で榎本が外交交渉をしているという見方は消え、榎本の実力が明らかになりました。
参考、引用元:
萩原延壽『江戸開城 遠い崖 7』、『帰国 遠い崖8』朝日文庫、2000。
井上 清『日本の歴史20 -明治維新』中公文庫、2006改版(初版、1974)。
石井 孝『戊辰戦争論』吉川弘文館、1984。
【明治5年の暮れ、ポシェットは函館で榎本の情報を収集】
榎本がサンクトペテルブルクに着任早々の明治7年7月30日付けで姉に書いた手紙に、ポシェットについて触れられていました。
『当時海軍中将「ポシエット」氏は兼而(かねて)「プチャーチン」と共ニ日本ニ参りし人にて即チ一昨年箱館にて松平ニ手前之事をあれこれと尋ねたる人にて当時ペテルベルグニ罷在(まかりおり)夫婦とも極親切なる人ニ候この人は恰(あたか)も旧友の如くニ御座候』と書き送りました。
ポシェット(Constantin Possiet、1820-1899、ロシア帝国海軍)は、明治5年(1872年)、ロシアの皇太子、アレキシス・アレクサンドロヴィッチ(アレクサンドル2世の四男、1850-1908) の教育係になっており、皇太子に随行して来日しました。まず長崎港を訪れ、その後、神戸港を経て横浜港に到着し、11月26日に横浜港を出帆し、函館を経由して、12月5日にウラジヴォストーク港に到着しました。
帰路の途中、箱館に寄り、箱館戦争の情報収集に努め、さらに松平太郎(蝦夷嶋新政権副総裁)からもいろいろ聞き出しました。箱館新政権構想の全貌や、顛末、そして、榎本の樺太(北蝦夷)に対する方針についても知ろうとしていたと考えられます。ロシア側はこの時点で、いずれ榎本が樺太領有に関す交渉担当者になるという情報でももっていたのでしょうか。
明治5年の暮れにポシェットが函館で榎本の情報を収集したのち、明治6年2月17日付けで駐日代理公使ビューツオフ(日露通商条約締結時のロシア全権代表)は、清国へ出発前の副島外務卿との対話をゴルチャコフ外務大臣に報告しました。大陸国家建国を目指していた副島と大陸国家の外交官とでは、領土交渉は不調でした。副島との対話が平行線だったため、ビューツオフは次のように副島に主張しました。
『樺太は日本にとってほんの少しの政治的利益もない。もっぱら日本にとっては経済的利益*しかない。・・・日露の関係を発展させるのは樺太ではない。日本が使命を果たすのは、北方ではない。もしも、日本が東洋にあって役割を果たすとすれば、日本にとって不都合な小さい部分(の放棄)は、日本が運命で割り当てられている地域の占有を促進することになる。日本政府が南方で目指すものを獲得するのは、ロシアの利害と対立しないし、そしてこの方向での日本の活動にはロシアの好意的な眼差しを向ける用意がある。副島はそれを理解したと、ビューツオフは感じた。』
麓 慎一『明治政府の対外政策―樺太・朝鮮・台湾―』東京大学史料編纂所研究紀要 第25号 2015年3月、 p.173
*『世界三大漁場と呼ばれています。まず日本の太平洋沿岸および沖を含む「北西太平洋」(北緯20度以北、東経180度以西)です。世界の海面漁業漁獲量の約25%を占めており、・・・』
山田吉彦『海から見た世界経済』ダイヤモンド社、2016、p.125。
(尚、ハワイ諸島は北緯21度付近)
前述のように、この時期から黒田は樺太放棄、北海道防衛などを、一貫して主張した。
今までのビューツオフの主張ががらりと変わり、大きな視点からの主張でした。まるで日本の首相が外務大臣に政策を示しているような内容です。確かにビューツオフの主張はロシアに都合の良い言い分でしたが、副島の希望に沿っていました。副島は樺太の領土交渉をしながら明治新政府の台湾出兵構想に対するロシアの感触を探りながら暗に不干渉を要請していました。今回のビューツオフの副島への回答は、台湾の話題の範囲を大きく超え、ロシアは樺太を領土にして英国と対峙する、日本は南へ出て、英国を抑えて欲しいとも聞こえる、国際社会を見据えた大きな視点、国際的背景(パワーバランス)を踏まえた意見でした。
ビューツオフが副島にここまで言えたのは、ポシェットが函館で榎本に関する情報収集の成果と考えられます。榎本のペテルブルクでの主張と非常に似ています。榎本がロシアから教わったのか、榎本がロシアに教えたのか、それは表面化しませんが、元は榎本の考え方だった、または、榎本が海洋国のオランダへ留学し、フレデリックス先生たちと日本の将来について議論を重ねた成果だったと考えることが妥当です。フレデリックスは、榎本に贈った『海律全書』の献辞(序文)で日本についてこう書きました。
『余は本書を凝視しつゝ熟考するに、自然の地勢と民衆の素質上必ずや洋上の一方に於ける雄大なる海軍国と成るべき運命を有する大日本帝国・・・』(佐佐木信綱*)
フレデリックスには、日本が海洋国家として発展していく姿が見えていました。大陸国家を目指す薩長と、日本は海洋国家として発展していくという研究成果をもつ榎本とは、北進か南方(南洋)かと、将来像が180度違っていました。
*『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-1)』情報屋台、2020.08.03
榎本は明治7年1月14日に海軍中将、1月18日、駐露特命全権公使を拝命しました。明治7年1月21日に寺島外務卿と駐日ウラロースキ公使との間で対話*が行われ、寺島外務卿から榎本が全権特使としてロシアへ派遣されることを伝え、次に、日本が樺太を放棄したらロシアが千島列島等を代わりに提供することと漁業権などの扱いを確認しました。
*大日本外交文書 第7巻 [220]
3月5日に三条太政大臣から榎本(在東京)へのロシアとの交渉で遵守すべき指令*が伝えられました。そこには、第一に雑居状態の樺太の境界を定める、第二に全島をロシアの所有とするなら、ロシアから釣合うべき地を日本に譲らせること、第三にウルップ島からカムチャッカ半島に至る千島列島を樺太の代地として受取ること、が書かれていました。3月10日、榎本は横浜港を出帆しました。
*大日本外交文書 第7巻 [221]
榎本が牢屋にいたとき、すでに、黒田は榎本と北方の守り、樺太の扱いに関する議論をし、黒田は現地を確認してから、樺太放棄を主張するようになったと考えられます。
榎本は蝦夷嶋新政権樹立時から、海洋国家―日本の将来をデザインしていたのです。
(続く)
【補足】
アイキャッチ画像は、国土地理院の地理院地図globeを利用しました。
地図はgoogleマップを利用しました。
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