コロナの下、ドイツ歌曲を聴く
コロナの感染拡大で、自宅にいる機会が多くなり、読書や音楽鑑賞の時間もふえていると聞きます。私も、じっくり聴きたいと思っていたドイツ歌曲のCDに浸りました。佐藤征一郎さんが歌う『カール・レーヴェのワンダーランド』です。
ドイツ歌曲で思い浮かべるのは、シューベルト(1797~1828)の「冬の旅」ぐらい、という私がドイツ初期ロマン派の作曲家、カール・レーヴェ(1796~1869)を知ったのは、14年前、地域のコーラスグループに属している妻に連れられて、佐藤さんの主宰するレーヴェの音楽会に行ったのがきっかけです。そのときの話は、当時、朝日新聞のコラムに書きましたので、この稿の末尾に掲載しますが、それ以来、佐藤さんの歌唱を通じて、レーヴェさんとお付き合いするようになりました。
このCDを聴きながら、あらためて思ったのは、レーヴェのバラードが織りなす「ワンダーランド」の広がりと深みです。3枚組で30曲あまりの歌曲は、父殺しの騎士(エドヴァルド)、バイロンの詩集にヘロデ王の妻殺し(マリアムネを悼むヘロデの歌)、ハムレットの墓掘り人(墓掘りの歌)など、歌の舞台は多様ですが、悲劇にまつわる歌が多いです。また、魔王(魔王)や妖精(オルフ殿)や幽霊(ヴァルハイデ)が登場するものもたくさんあります。
CDに付随した「モノローグ」のなかで、レーヴェの研究家でもある佐藤さんは、レーヴェのワンダーランドの背景を次のように語っています。
想定外の天災、大惨事、天然痘、コレラなどの病気は、得体が知れないものです。それらは妖精や魔王、妖怪の仕業と具現化してこそ庶民は納得したのでしょう。事実ヨーロッパ各地に民話として残されたそれを、音楽作品、芸術歌曲作品にまで高め庶民に分かり易く、楽しさもあり恐ろしさもある作品となるべく、ビーダーマイヤーの流れの中で、カール・レーヴェが確立したのがバラードなのです。
ビーダーマイヤーは、レーヴェの活躍した19世紀の前半、日常的なもののなかに価値を見出す文化だそうで、ゲーテが歌芝居(ジングシュピール)の挿入歌として1782年に作詞した「魔王」はその先駆で、レーヴェが1818年ごろにあらたに作曲し直したのは、ビーダーマイヤーの流れに沿ったのかもしれません。
病魔に襲われた子どもをなんとしても助けたいと思う親の気持ちは、いつの時代も変わりません。そして不安がる子どもに大丈夫だよと声をかける気持ちも同じです。「魔王」を聴くと、病魔が迫る緊迫感とともに、その子を抱く親の切なさがひしひしと伝わってきます。
「魔王」の歌曲は、シューベルトが1815年ごろに作曲したものが有名で、レーヴェの作品は、シューベルトと同時期に作られたことで知られているようです。つまり、世間の評価はなんといってもシューベルトです。たしかに、シューベルトの魔王は、最初から最後まで連続する3連符の音が疾走する馬を思わせ、そこに不気味な嵐や風、さらには魔王のささやきを表すメロディがかぶさって展開します。
この物語を知っている人であれば、歌がなくても曲を聴いているだけで、すべてがわかると言えます。リストが編曲したピアノ曲を聴けば、そのことがよくわかります。それだけ曲としては優れているのかもしれませんが、作詞家としては、詩が十分に生かされていないと思ったかもしれません。当時、60代後半だったゲーテ自身も初めはシューベルトの作品を評価しなかったと伝わっています。作曲した当時のシューベルトは18歳とか、才気走っていると思われたのかもしれません。
それに比べると、レーヴェの「魔王」は、歌を引き出すように作っているように思えます。レーヴェは声楽家でもあったそうで、ほかの歌曲もそうですが、曲に詩を乗せるのではなく、詩に曲を乗せていたのでしょう。歌曲は、詩と曲の二人三脚ですが、レーヴェは、詩という騎士を乗せて走る馬の役割を果たそうとしていたように思えます。騎士を置いて、馬だけ先に走るわけにはいきません。
CDに付随する佐藤さんの「演奏ノート」には、ワーグナーが弟子たちに語ったという次のような言葉が引用されています。
君たちよ、君等はいつもシューベルトの“魔王”が一番だと思っているが、それは違う! それよりもずっと優れたものがある。それはレーヴェの作品だ。シューベルトの“魔王”は必ずしも真実ではない。しかしレーヴェの“魔王”は真実なのだよ!
このCDのもとになった音源は、1985年から1990年にかけて佐藤さんが行ったレーヴェ連続演奏会での録音記録です。ドイツ語の歌の前に、長岡輝子さんや岸田今日子さんらが日本語に訳した歌詞を朗読しています。しかも、その翻訳はドイツ文学者の池田信雄さんと池田香代子さんというのですから、なんともぜいたくな企画だったと思います。佐藤さんは1940年生まれですから、40代後半の脂が乗る時期、歌も企画もエネルギーがあふれているように思えます。
レーヴェの連続演奏会は、その後も続いたようで、円熟した佐藤さんのバスをCDで聴く続編も期待したいと思います。
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前述したように、私が佐藤さんの歌うレーヴェに接したのは、2006年に開かれた第18回のレーヴェ連続演奏会で、そのときに、朝日新聞の「窓」というコラムに書いた私の記事は以下の通りです。
なお、この記事がきっかけで、記事に出ている松田昌幸さんの肝いりで、「ウーラント同“窓”会」ができ、いろいろな方が加わり、交流が続いています。記事に出ている松田さんも小出健さんもお元気なのがなによりです。最近、同“窓”会の中村喜一さんがつくられている「按針亭」の「友を想う詩!渡し場」の内容が更新され、レーヴェの「渡し場」にまつわる話も出ています。
https://uhland.anjintei.jp/uh2-00-watasi-gakufu-tabiji.html
渡しにはドラマがある(朝日新聞「窓」2006年7月6日)
東京の音楽会で不思議な光景を見た。ドイツ歌曲を多く作ったカール・レーベの演奏会で、声楽家の佐藤征一郎(さとうせいいちろう)さんが「渡し」という曲を歌い終わった瞬間、客席にいた老人がすっと立ち上がり、佐藤さんに深々とおじぎをしたのだ。
かって、この渡し船に同乗した友のうち、ひとりは静かに、もうひとりは戦いの嵐のなかで死んだ。その友を偲んで、3人分の船賃を船頭に払おう。そんな歌だ。
50年前の朝日新聞に、この詩の作者を知りたいという投書が載った。それに対して「学生時代に学んだドイツの詩人ウーラントの作品だ」と応え、私訳を添えた人がいた。客席にいた小出健(こいでたけし)さん(78)だ。
小出さんがこの歌曲を知ったのは、投書のいきさつを聞いて、この詩に興味を持った松田昌幸(まつだまさゆき)さん(69)からだった。松田さんはウーラントの詩が好きだったこともあり、調べるうちに、この詩がレーベによって作曲されていることを知った。松田さんが日本カール・レーベ協会の代表でもある佐藤さんに連絡をとったことで、音楽会を知り、ふたりとも出席したという。
「最初から強烈な印象の詩でした。音楽会では、あらためて亡くなった友人たちを思い出しながら聴いていたら、自然と立ち上がってしまいました」と小出さん。
「この詩を調べるうちに、いろいろの人たちがこの詩にかかわっていることを知りました。たまたま渡しに乗り合わせた旅人たちのようでしょう」と松田さん。
「渡し」の話は尽きない。
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ドイツ・リートにはまったく疎い私ですが、コロナ蟄居のなかで再生音楽にひたった経験は共有しました。筆者の長めの感想文から、ふるいロマン派の歌に耳かたむけられる想いが伝わってきます。趣きはまったく違いますが、私は、後期ロマン派の巨匠、リヒャルト・シュトラウスの文字通り最後の作品『四つの最後の歌』を聴きなおしました。定番とされるシュワルツコップの健康な歌唱ではなく、カラヤンが発掘したソプラノ、グンドラ・ヤノヴィッツがカラヤン・ベルリンフィルを背景に歌うこの作品は、まさにこの世を去ろうとする毀誉褒貶の人生を生きた作曲家の詠嘆的な告別の辞です。3曲目「眠りに入ろうとして」、4曲目「夕映えのなかで」の壮大な盛り上がりは、これまた毀誉褒貶あったカラヤンの真髄を聴かせてくれます。外出できない時間の貴重さを味わいました。