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短歌の森のほとりで~熊谷龍子『葉脈の森』を読む

2019.12.23 Mon

わが本棚をみると、さみしげに佇むのが詩歌の本です。経済記者の職歴が長かったこともあり、政治や経済、社会など「時事」にかかわる本がのさばっているからです。そんな本棚に一冊の歌集が加わりました。宮城県気仙沼市の山あいで「森番」として暮らす歌人、熊谷龍子の歌集『葉脈の森』(遊子堂)です。

 

残念ながら文芸批評は書けませんが、歌集に収められたいくつかの短歌を紹介しつつ、そこに映し出された森の暮らしへの感想を書いてみようと思います。なお、タイトルは、芳賀徹著『詩歌の森へ』(2002年、中公新書)を拝借しました。

 

《森は豊饒な言葉の海の恋人》

 

まず、『葉脈の森』を読んで驚くのは、いろいろな動植物の名前が出て来ることです。なかには、知らない、あるいは読めない名前もたくさんあります。この歌集を最初に読んだのは、車中で、私の携帯は、鳥やら花やらの名前を探るのでフル稼働でした。携帯画面に出てくる画像を見て、それから歌の情景を思い浮かべるわけです。

 

歌人というのは言葉の豊饒な海から、その歌にふさわしいたったひとつの言葉を見つけてくる職人ですが、森の歌人は、その海に森の生き物たちが持つ美しい固有名詞が入った言葉の群れを加えたのです。熊谷龍子の第3歌集『森は海の恋人』(1996年、北斗出版)のタイトルになぞっていえば、森は豊饒な言葉の海の恋人です。

 

  雨乞鳥啼き交わすなかに佇ちおれば我は雨女になりてゆくらし

 

 山茱萸(ぐみ)や莢蒾(がまずみ)の花の季節 シーザーといつも行きし森では

 

雨乞鳥(あまごいどり)は、ネットで調べると、カワセミ科の小鳥で、別名はアカショウビン。この鳥が鳴くと、雨が降るといういわれがあるそうです。じっとアカショウビンの鳴き声に耳をそばだてていると、いつのまにか雨が忍び寄ってくる、いやそれどころか自分が雨を呼ぶ生き物になる、そんな情景というか情念が浮かんできます。

 

ヤマグミ(サンシュユ)の黄色い花やガマズミの白い花が咲くのは春から初夏にかけて、だそうです。その花々を見ると、いまは思い出となった愛犬との散歩がよみがえってくる、というのでしょう。まるで墓碑銘のようですね。作者は修司と道造という猫も飼っていて、修司との悲しい別れも歌にしています。

 

 「黒猫修司此処に眠る」という墓標 春蘭の咲く森の一廓

 

 今頃は柞の森の閑かさに野兎を追う夢見ているか

 

シュンランは、野生蘭の一種だそうで、それが咲く森をテリトリーに入れていた「修司」が眠るにはふさわしい場所なのでしょう。そこで、野兎を追う夢を見る、というのは、猫冥利に尽きるかもしれません。そう思う作者の気持ちが伝わってきます。柞(ははそ)は、ナラやクヌギ類の総称で、こうした広葉樹の多い散策路の森を作者は「柞の森」と名付けています。

 

熊谷龍子の歌集は、これが第6集。実は、第5集の『無冠の森』(2008年、六花書林)が出たときに、私は朝日新聞石巻支局長で、熊谷さんの自宅と散策路を訪ね、朝日新聞の宮城版に記事を書いたことがあります。その記事を読み返したら、こんな記者の感想が書かれていました。

 

「歌集にはさまざまな草木の名前が出てきて、植物図鑑を手元にほしくなる。無冠ではあっても無名ではない植物が森のイメージを鮮明にしてくれる」(朝日新聞2008年11月17日)

 

あのときも、草木の固有名詞の多さに圧倒されたようです。

 

 《静けさが際立たせる音》

 

山の暮らし、森の散策は静かなはずですが、それゆえに、いろいろな音が聞こえてくるようです。

 

 トラツグミの声聴きし夜はわたくしも共に哀しみの淵に降り立つ

 

 懐かしい鳥のこえなのに思い出すまで少し間のあり 筒鳥の声

 

 森の哲学者の異名をもてる梟が饒舌になる春近き夜

 

 杜鵑の初音聞きたり二声を捉えしふたひらの耳を称えむ

 

トラツグミ、ツツドリ、フクロウ、ホトトギスの鳴き声がどんなものなのか、山の暮らしの経験がないので、ネットで検索、Youtubeで聴いてみしました。

 

トラツグミは、私の耳には「ヒューイ」という感じで、寂しいと言われれば、たしかにそうですね。伝説の妖怪、鵺(ぬえ)の鳴き声はトラツグミに似ているといわれ、別名は「鵺鳥」だそうです。そんな背景を知ると、「共に哀しみの淵に降り立つ」という作者の覚悟がうかがわれます。

 

ツツドリは、ツツー、ツツーという通信音のような感じ。一度聞くと、記憶のどこかに残りそうな鳴き声ですね。フクロウは、やはり「ホーホー」でした。饒舌な哲学者に、ヒトという動物についての感想を聞いてみたいです。答えは「ア呆ーア呆ー」でしょうか。

 

ホトトギスの声を初めて聞く「初音」は、昔から人の心をときめかせてきたようで、清少納言も「枕草子」に、「いかで人よりさきに聞かむ」と、夜中にわざわざホトトギス詣でをしたことを記しています。だから、「森番」さんがその声を捉えた我が耳をほめたくなる気持ちもわかります。鳴き声は、「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」だといわれますが、Youtubeから流れる鳴き声のリズムは、「特許許可局」と聞こえました。聞き慣れている歌人には、次のように響くようです。

 

 杜鵑はラップの元祖 マチャイッタケカ(町へ行ってきたか)ココカッテキタカ(魚買ってきたか)何度も唄う

 

ホトトギスの鳴き声と戯れる歌人の耳に、なじめない音も入ってきます。

 

 Jアラートのくぐもりし音 大地にも況して空にも溶け込めぬ音

 

北朝鮮からのミサイル発射を受けて、全国瞬時警報システム(Jアラート)を政府が発信したのは2017年8月29日の早朝でした。山あいの地域にも、サイレン音は鳴り響いたのでしょうか。

 

 《森の摂理にたがう異物》

 

森の摂理から遠くはずれた音がJアラートだとすれば、東日本大震災による津波で冷却機能を失った福島原発が撒いたセシウムもまた、森の摂理からはみ出した異物でした。

 

 竹の子はセシウムを識らず穂の先の朝露をただ光らすばかり

 

 山独活は見向きもされず伸びにけり諺通り<独活の大木>

 

 セシウム受け止めし蕗の葉柄よかつて其をもて湧き水飲みしよ

 

タケノコもヤマウドもフキも、みな山あいの家々の食卓をにぎわしていたものです。震災前の作でしょう、歌集には、こんな楽しい歌もあります。

 

 ふきのとうみつばたらのめうどこごみたけのこわらび わっと山菜

 

それが突然、食べられないものに変じてしまうのですから、見向きもされなくなった草たちに、あなたたちは、それでいいのと尋ねたくなるのもわかります。次の短歌です。

 

 今春の山菜は摘まれず食べられず思い切り伸びて 本意だろうか

 

 《松林を揺らす世界の風》

 

現役の記者だったころは、新聞を読まないのは、休刊日の翌朝だけでしたが、最近は、寝るときになって、今日の朝刊のトップ記事は何だったのか思い出せず、そういえば、読んでいないことに気付くことがふえました。そんなときに胸をよぎるざわつきを、歌人は巧みに表現します。

 

 今日の新聞読まずに眠りに入るとき船の積み荷を残したような

 

そうなんです、と相槌を打ちたくなります。「船の積み荷を残したような」気分なのです。

 

囚われのジャーナリスト死なせてはいけないと落葉松林を風が響動(とよ)もす

 

イラク戦争以後の中東・アラブ地域では、日本人を含む多くのジャーナリストが「過激派」や「テロリスト」に囚われ、殺されました。生還した記者もいますが、自らの手で記事や写真を送ることがかなわず、滅んでいく自分の肉体でしか、戦争の非情さを伝えることができなかった記者たちの無念さは、察するに余り有ります。音を立てて松林を揺らす風も、殺すなと叫んでいたのでしょう。

 

 筑紫哲也の訃報をテレビは繰り返す明日の日本を憂いしひとの

 

筑紫が亡くなったのは2008年11月7日。毎夜、「NEWS23」の筑紫解説に耳を傾けていたのでしょうか。あれから、日本はもっともっと悪くなりましたよと、筑紫さんには、言いたいところです。

 

 《恥ずかしながら、この歌が好きです》

 

先日、本屋でタイトルにひかれて、長山靖生著『恥ずかしながら、詩歌が好きです』(2019年、光文社文庫)という本を買いました。詩歌を知らないことが恥ずかしいと思ってきたのですが、その逆もあるようです。『森の葉脈』から、恥ずかしながら、好きな歌を選んで、この感想文を終えたいと思います。

 

 落葉樹のなかでいちばん寒がりは櫟とおもう木肌が荒れて

 

葉を落とした冬の木々の間を歩くと、寒々とした気持ちになりますが、木々を見ながら、この木は寒がりかどうか、なんて考えたことはありません。歌人は目のつけ所が違うのか、樹木への愛情が深いのか、わかりませんが、クヌギの木肌を見て寒がりと思う感性に心が洗われました。

 

 何時の間にか七本の鳥兜刈られいて殺意はすこし遠くなりたり

 

野山を歩いていて、これがトリカブトだと教えられれば、私が真っ先に考えるのは、煎じて飲ませてあげたい人のリストを作ることです。もっとも、会社勤めだったころは、リストに入れたい人の数は多かったように思いますが、会社を離れた歳月が長くなるにつれて、「殺意」もだいぶ薄れてしまったようで、リスト作りは難航しそうです。それにしても、森の歌人にも「殺意」はあるのでしょうか。7本という数字がやけに具体的で、殺意から遠のいた距離も「すこし」とあるのが不気味です。何度も読んでいるうちに、この歌にだんだんしびれてきました。作者は、してやったりと、ほくそ笑んでいるのでしょうね。

 

 精霊に護られていると思いおり深き森の独り居も怖くはなくて

 

ブナ林を歩いているときに、ブナの柔らかな霊気を感じたことがありました。怖いとは思いませんでしたが、ここにじっとしていると、違う世界に迷い込んでしまうような気がしました。遠野物語の現代版ともいえる田中康弘著『山怪』(2019年、ヤマケイ文庫)を読むと、山を仕事場とする猟師たちも、違う世界に入り込むことがあるようです。愛犬シーザーに代わって歌人を護っているのは精霊なのですね。

 

 草間彌生は水玉模様 手長野の幾千の葉脈はわが死後の夢

 

本の題名に採った「葉脈」が入った歌です。手長山は気仙沼市の西、岩手県境に近い標高540mほどの山で、熊谷家の人々は、この山の裾野で暮らしてきました。明治から昭和にかけての「田園歌人」として知られる熊谷武雄(1883~1936)は、龍子の祖父で、気仙沼市の宝鏡寺には、武雄の「手長野に 木々はあれども たらちねの柞のかげは 拠るにしたしき」という歌碑が建っているそうです。手長野の柞(ははそ)の森を慕った武雄の思いは、幾千の葉脈を通じて、龍子にも脈々と流れているのでしょう。

 

(短歌のカッコ内の読みは、原文ではルビになっています)


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