大川小の跡地を研修の場に
東日本大震災で宮城県石巻市立大川小学校の児童74人が亡くなったことについて、石巻市の亀山紘市長が12月1日、遺族に「取り返しのつかない悲劇を起こした」と謝罪しました。児童23人の遺族が県と市に対して損害賠償を求めた裁判で、最高裁が10月に県と市の上告を棄却、原告勝訴の仙台高裁判決が確定したことを受けたものです。市長が遺族と面談したのは、2014年の提訴後初めてだそうですが、市としてはひとつの区切りを付けたということでしょう。
あらためて確定判決となった仙台高裁の判決を読むと、この判決が学校関係者だけでなく、教育委員会など行政にとっても非常に重要なものだということがわかりました。原告を勝訴とした一審(仙台地裁)の判決が、津波の襲来を遅くとも7分前には予測できたのに、適切な回避行動をしなかったとして、現場にいた教員の責任を認めたのに対して、二審(仙台高裁)は、それも含めて学校側が避難場所を特定した危機管理マニュアルを作成していなかったことに責任があると認めたからです。
つまり、一審は現場の先生がすばやく行動を起こさなかったことに責任を負わせたのに対して、二審は適切な危機管理マニュアルを作成しなかった校長ら学校側の責任者とそれを監督すべき教育委員会の責任を問うた、ということです。一審では、事件当時、休暇を取って不在だった校長に責任はないとされましたが、二審では逆に校長こそ責任者だと認定したわけで、原告勝訴は同じですが、その内容は逆転判決ともいえるものでした。一審がいわば死者に鞭打つ判決だったとすれば、二審は校長と市教委といういわば生者の責任を重視した判決になったのです。
訴訟を起こした遺族にとっては、納得できる判決になったと思いますが、訴訟を起こしたのは2014年3月でしたから、最高裁の判断まで5年7か月の期間は、心が痛む厳しい時間だったと思います。とくに高裁判決が出てからの1年6か月はことさらに厳しい時間ではなかったかと想像します。上告を棄却する場合、長くても半年程度というのが相場といわれていますから、1年を超えても判断が下されなかったわけで、「差し戻し」の予測も出ていたのではないかと想像します。
最高裁の判断に時間がかかったのは、ハザードマップでは震災地域に入っていなかった大川小に、避難場所を明示した危機管理マニュアルの作成を求めた高裁判決を追認するかで議論があったと想像します。被告側は、津波が想定外だった根拠として、ハザードマップに加え、地元の人々が学校まで津波は来ないと言っていたことをあげましたが、それに対して高裁判決は、次のように述べています。
「校長らが公教育の安全確保義務を履行するために必要とされる知識及び経験は、地域住民が有している平均的な知識及び経験よりも遥かに高いレベルのものでなければならない」
最終的には、最高裁は全員一致で、被告側の上告を棄却する判断をしました。学校教育で児童を預かるからには、安全について一般よりも高いレベルの知識と経験が必要ということを最高裁が認めたわけで、この「大川小基準」は、これからの公教育全体にあてはまるということになります。
石巻市長は、遺族に謝罪しましたが、その反省を実行に移すとしたら、大川小学校の跡地を全国の学校関係者の研修の場にすることだと思います。実際、大川小学校の跡地に行くと、必ずだれかが慰霊碑の前で手を合わせていて、話を交わすと、他県からの学校関係者で私的に訪れているという例が何度かありました。
訴訟原告団の団長となった今野浩行さんが朝日新聞のインタビュー(11月27日)で、次ように答えていました。
「南海トラフ地震が想定されていますが、ある学校では子どもの命が守られたが、別の学校では守れなかったとなってはいけない。子どもの命の重みが変わっては駄目なんです。震災から9年近くたつのに、大川小にはいまも全国から多くの先生が訪れ、新人教育の研修の場にしている教育委員会もあります。自分が大川小の教員だったら、何ができたのか自問自答してくれている。そうした先生が一人でも増えることで学校現場が変わっていくと信じています」
市や県と遺族が係争中ということで、遠慮していた教育委員会があったかもしれませんが、裁判は終わり、市も県も反省したのですから、宮城県を含め全国の先生たちには、大川小を研修の場として訪れてほしいと思います。大川小の悲劇は自然災害ではなく、学校の事前の対応がまずかった人災だったと最高裁も認定したのです。事前の対応だけでなく、危機が起きたときの対応についても、現場をみれば、いろいろと考えることができると思います。
大川小の跡地を震災遺構として残すとともに、たとえば、校舎の脇に集会場を設け、風雨や寒さのなかでも、関係者の説明が聞こえるような設備があってもいいように思います。今野さんのインタビューで、重く響く言葉がありましたので、引用して、大川小についての稿を終えます。
「裁判に勝ったところで、(大川小で亡くなった)大輔は戻ってきません。悲しみも怒りも変わることはない。俺は弱い人間なんで原告団長という柄じゃないけど、団長になってから、自分の役割ってなんだろうと考えました。俺にはもう子どもはいないけど、未来の子どもたちの命を守るためのバトンを、自分もつないでいかなければならないんじゃないかと。過去の事実は変えることはできない。でも、未来を変えることならできます。たとえ、何十年かかっても。きれいごとに聞こえるかもしれないけど、それが大輔の生きた証しにもなるから」
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