大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
情報屋台
社会
政治
国際
歴史

石平の対談 「我が青春の中国現代史」を読んで          

2018.06.28 Thu
社会

石平の対談 「我が青春の中国現代史」を読んで
平成30年6月
仲津真治

石平氏は、元々チャイニーズで、1962年四川省成都出身、北京大学哲学科卒業、留学先の神戸大学の博士課程を修了した後、2007年以来日本人となっています。現在奈良市に在住、精力的に多くの人との対談や自身の執筆活動を行っていて、その多くは日本語に拠っています。

対談相手方の矢板明夫氏は、チャイナの天津市生まれ、15歳のとき、日本に引き揚げた残留孤児の二世で、慶応大学文学部を卒業、中国社会科学院の博士課程を終了した後、産経新聞社に入社、北京総局特派員などを経て、現同社外信部次長の任にあり、チャイナに係る著作多数です。

この矢板氏は、本著の「はじめに」おいて、次のように記しています。言論統制下の「チャイナでメディアの検閲を担当する当局者に呼び出され、抗議を受けることもしばしばあった。」 そして、よく説教されたと言います。 「君は15歳まで中国で育った。恩返しをしようという気はないのか。」と、・・・。

そのとき、矢板氏は、いつも「真実をより多くの人に伝えれば中国が良くなると信じている。 それが私の中国に対する恩返しだ。」と、答えてきた由です。この矢板氏のスタンスは、自身の立場として貫かれています。

以下、本書で特に印象に残ったところを幾つか記します。

1  共産党一党支配について

石平氏が、経験と実際から重い事を語っています。
共産党の一党支配は単に権力が人々を支配している構図ではなくて、実は人々がすべて権力のなかに取り込まれて、皆権力の一部になっている事と言います。 嘘や密告の横行がそうで,相互監視の社会です。 実は子供でさえそうです。矢板氏も同様の体験をしています。

他の例を挙げれば、大躍進(1958 -)の失敗があります。 これによって、数千万人
の餓死者が出ていますが、共産党の政府は一党支配の下、そんなことは無かったとしています。 怖くて誰も何も言い出しません。 誰も何も言わなければ、本当に無かったことになってしまいます。

2 チャイナのターニングポイント

矢板氏曰く、新中国にもさまざまなターニングポイントがあると思いますが、やはり一番大きかったのは、毛沢東が死んだことです。 こうした指摘については、ここまで言えるかと思いましたね。

再述すれば、「ある中国の知識人がこう言っていましたよ。 毛沢東が中国建国後に行った唯一の正しいことは、自分が死んだことだ」と。 (笑)

これは、話者が特定されない引用ではありますが、実に凄まじいと思いました。
此の言によれば、かの「大躍進」も、「文革」なども皆誤りだという事になります。

それは、鄧小平流の「毛沢東主席も誤りを侵した」という程度の譲った言い方ではありません。かくまで言い切る人が出てきているところに、時代の変化と現代史の重みを感じます。

この点について、石平氏は、「むしろ毛沢東の死は遅すぎた」と思っていると言っています。 現にもし十年前に死んでおれば、文革は無かったの
ですから。

そして、鄧小平の改革開放は、ある種の思想解放運動で、毛沢東の君臨した
約三十年の真理の検証は、実践が唯一の基準だとの哲学的主張をして、次第に
力を得たのです。 その路線は古来の四字熟語で言うと、「実事求是」と謂われ、出典は漢代の由です。

対して、毛沢東の言動は「全て正しい」という「全て派」の主張が死後も、結構通っていたようです。 華国鋒がその代表でした。 激しい闘争や論争の結果、「実事求是」の路線が大勢を占めるのに、数年を要したと言われます。

3  資本主義 取り分け、日本についての教育

マルクス主義や毛沢東思想の下、資本主義は悪とする見方が支配的で、
チャイナに於ける教育も報道も、それが実行されていました。しかし、1980年代に入ると、所謂「改革開放路線」の均てんに伴い、四つの現代化がチャイナの国家の基本路線として定着し、国民経済に於いて、工業、農業、
国防、科学技術の四分野で近代化を推進する政策が掲げられました。

このとき、国民経済が遅れていて、外貨準備も殆ど無いチャイナにとって、大いに参照され、頼りにされたのが、資本主義国日本でした。 経済規模が大きく、技術もあり、お金もあり、いろいろ学べる近代化のモデルで、理想的な存在となっていたのです。 斯く、日本の評価はがらりと変わりました。

このとき、日本の大衆文化がチャイナの大衆をとらえました。
高倉健の主演する「君を憤怒の河を渉れ」や映画「おしん」などが
大人気を博したのです。ここに、特に「おしん」は、チャイナ大衆の人間観、社会観に大きな影響を与えたと言われます。 おしんは将にコツコツと努力する企業家、資本家です。チャイナの中央テレビ局により、ノーカットで全国放送され、放送時間帯には街から人が消えたと言います。

その後、対日観はまた変わっています。 実にいろいろありますね。

4  天安門事件の意味 (厳密には二度目の天安門事件の事)

改革開放は、経済改革と政治改革の二つの側面があり、経済面での進展に限らず、政治面での進展が大いに期待された事が対談当事者の二人の言辞から良く分かります。 改革開放は、結局、資本主義化、即ち、市場経済の導入の道を開くとともに、政治面での民主化, 自由化まで期待させたのです。 若人を中心に人々は盛り上がりました。

実力者鄧小平の下で、胡耀邦と趙紫陽の二人の指導者が党や政府のトップ乃至
準トップとして、こうした路線や政策を推進したことが知られています。 つまり、希望し、期待し、昂進した人々の、単に片思いでないものが其処にはあったように思われます。また、指導部側にもそれはあったようです。

しかし、事態は暗転しました。 胡耀邦総書記は、結局鄧小平に容れられず、失脚し、1989年の春に急死しました。 その追悼のため、沢山の学生が天安門に集まりました。 後任総書記となった趙紫陽も同年6月初め、天安門前広場で大勢の学生と対話し、理解を示しましたが、実質それが最後の公の場への登場となりました。

その後や関連した動きは、第二次天安門事件として良く知られていますので、割愛します。夥しい犠牲者が出た由ですが、未だ真相は分からないところが多々在る由です。

5)   趙紫陽は封印されてしまった

ところで、実際の香港返還に当たって、チャイナの側の主役は、往時の趙紫陽総書記でした。なのに、その後の香港返還二十周年のテレビ放送(2017年)には、趙紫陽総書記は登場しませんでした。 事実が消されたのです。

更に、鄧小平生誕百周年のテレビドラマでも、趙紫陽総書記は存在しないまま
です。

斯く、チャイナでは、歴史がいとも簡単に封印されるのです。このことに、矢板氏は、厳しい疑問を呈しています。

そんな国が、日本に対して、「日本は歴史を歪曲している。 真実を教えなければ駄目だ。」と抗議してくるのです。 彼の国の言うことは支離滅裂です。

斯くして、政治改革は1989年の第二次天安門事件で、以来止まったままとなります。 一方、経済改革は、暫時して再び動き出します。 1992年の鄧小平の南巡講話がその端緒となります。鄧小平は湖北省、広東省、上海など南部地域を視察して廻ったとき、改革開放の加速を呼びかけました。

6)  石平氏の決断

一方、1989年6月初め、第二次天安門事件の当時、石平氏は大勢の仲間が虐殺されるのをテレビで凝視していました。 そのなかには直に知る人も結構
居たようです。 信じがたいことが現実に起きたのです。大変なショックを受けた由。

この激しいショック故か、彼は、何と自国を捨てる決断をします。石平氏自身の言葉を持ってすれば、「別に高邁な理念から捨てたのではない。自分が生きていくためです。」と言います。 読み解くと「彼の国を捨てないと、生きていくのは結構辛い。 」 「あの国に未練はない。悪くなるのも良くなるのも俺の知ったことではない。 だからこそ、逆に日本で何とかやって行かれた。」本当に、この重い決断には驚愕し、圧倒されます。

7)  完全に逆転してしまったチャイニーズの価値観

石平氏は言います。「我々が子供の時代に受けた教育は、
資本主義ほど汚くて残酷なものはないと言うものでした。
でも、気がついてみれば、あれほど忌まわしい資本主義が、チャイナの中に
共産党独裁の下、更に歪んで根付いてしまいました。同時に、エリートほど
最低限の倫理観と羞恥心を失ってしまいました。」

凄まじい腐敗が、至る所に蔓延しているのは、その顕著な現れでしょう。

そして、ここ何年か習近平現政権の反腐敗キャンペーンが勢いを増してくると、皆、注意して腐敗は無くなるが、みな仕事しなくなり、無責任になっていると申します。

また、党大会や全人代などの大事な行事があると、監視組織が活動家とみている人々などを旅行へ連れ出して、暫く北京に居ないように仕向けると言います。そこには、彼ら自身の、その機会を活用した遊興目的が潜んでいると言います。度しがたい悪循環ですね。

8) 常にトラブルを起こし続ける体質となったチャイナ

高度成長が終演し、経済が国を支える柱で無くなった彼の国は、民族主義による対外拡張・版図拡大が主動因となり、人心を民族主義による誇りで満たし、政権を保つようになっていると申します。斯くて、今やそれは宿命的な戦略なのでしょう。 現象としては一種の自転車操業になっているようです。 尖閣、南シナ海の人工島の造成、フィリピンに訴訟を起こされての国際仲裁裁判所での敗訴の無視、インドとの国境でのいざこざなどなどと、次々と起こしてきます。

これは、矢板氏が指摘する、アヘン戦争以来の失地回復に加え、かつてチャイナが帝国として敷いてきた覇権主義、つまり「華夷秩序」の回復の狙いがあると、石平氏は言います。 以前、朝鮮半島はチャイナの領土ではないが、朝貢国でした。ベトナムもそうだし、琉球王国もそうでした。斯くて、チャイナの現政権は、失地回復に加え、領土外であってもこの華夷秩序の回復を志向しているとは、石平氏の指摘するところです。 遠大な展望ですが、読めてくるものがあり、恐ろしくなりますね。

 


コメントする

内容をご確認の上、送信してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

社会 | 政治 | 国際 | 歴史の関連記事

Top