13 「ゴリラに学ぶ」と題する、山極京大総長の対談
13 「ゴリラに学ぶ」と題する、山極京大総長の対談
平成30年 2018年 4月
仲津 真治
1) 人類学の大家で在る山極寿一京大総長と、知の伝道師と言われる
鎌田浩毅京大教授との対談を主内容とした、ミネルヴァ書房の昨年刊の
書を読みました。
2) お二人とも東京出身、一人は京大理学部の自然人類学コースに入学して以来、京大在籍、教授、現総長であり、もう一方は、東大卒で通産省主任研究官等を経て、長年京大教授の任に在る地球科学者の人です。 似たよう御歳で、東京から京都というパターンも相似しています。 その事をともに良として、 両者の遣り取りは弾みました。
3) 梁山泊と「オモロイなぁ」
先ず、山極総長が学生と院生時代を過ごした、三階建ての研究室洋館が、まるで水滸伝に出てくる梁山泊の風情で包まれていたことと、且つ、其処に出入りしていた先輩の掛谷と言う院生が「あぐらをかいてテーブルの上で花札をやっていた」と言う話が、いきなり出て来る事です。掛谷兄と言えば、私も良く知る人物、彼と山極総長が御縁の中とは、世の中の狭さを実感しましたね。
それに、この場での「討論の極意」が「オモロイなぁ」という関西弁であったとは、実に響く形容です。 私も部活などで少し関わりがあったので、この京大という大学の雰囲気を懐かしく思い出します。
他方、鎌田教授は、京大に19年前に採用されて、「あっ、ここは自分に合っている」と思った由です。そう言う意味では教授になって初めて京大を発見し、「すごくいい大学だと思ったと申します。
4) 探検部
京大には「探検部」という伝統ある部があります。知らない人は、その名を聞いて「子供の遊びのようなことをやっているのか。」と言う反応をしていました。山極総長は、授業を通じてその存在を知り、ふつふつと探検欲が沸いてきたと申します。 そして、「アフリカに行って、霊長類という未知の動物を相手にする学問があること」を知り、後に師匠となる「伊谷純一郎」の「ゴリラとピグミーの森」と言う著作(岩波新書)に接します。そして、「おっ、これは凄い」と思った由です。そして、古本屋を漁ることが日課になったと言います。 私も、あの学生時代、京都丸太町の古本屋街に何度か行きましたが、日課とまではなりませんでした。
そして、山極氏は京大四回生の頃から、本格的な研究の道へ入ったようです。この中で、東京流のディベートとはまた違う、京大流の対話、つまり前述の「それオモロイな」が生きてきたようです。
5) 温泉に入る「猿」
さて、山極氏ご当人は、卒業研究にサルをテーマに選びます。京大サル学の世界に入ったわけです。 それも長野県の地獄谷の「猿」でした。
猿とは、通常熱帯か、その近辺に棲息します。だが、日本列島ではどういう分けか、寒い雪の降るようなところにも居るのです。この地獄谷温泉の猿は、そうした典型例の由です。斯くて、山極氏は冬に泊まり込んでの調査・研究となります。
此処では驚いたことに、その猿が温泉に入るのです。アメリカの雑誌「ライフ」がこれを紹介して、一躍世界的に有名になった由です。
山極氏は、このチームに加わり、其処に泊めてもらって、自分も湯につかり温泉を掃除し、長い雪道を通って林檎を運ぶ研究生活に入ります。 すると、朝、猿が山からやってくるので、その餌付けをしながら、観察に始めました。そして、個々の猿を覚えようとしたが、なかなか出来ません。苦労していたら、或る時、急に見えだした由です。個体識別に成功したのです。 斯くして、調査・研究が進展、遂に猿の性行動の特性などが分かりだしたとのことでした。
6) 自然人類学と文化人類学の交流など
山極氏は理学部の自然人類学の分野からこの世界に入りましたが、其処にはもう一つの流れがありました。 それは、文学部中心の文化人類学です。
この二つの流れが交流する場が人類学研究会でした。そこには山極氏より少し年
次が上で居たのが上野千鶴子さんなどで、更に京大人文研の上山春平氏、国立民族学博物館の梅棹忠夫氏がおり、件の伊谷純一郎氏も出ていたし、教養部の米山俊直氏など他学部、他大学からも参加していた由です。 将に鏘々たる人々の集う場であった分けでね。 その会は月に一、二度あったと在ったと言います。得るところが多かったことで
しょう。
7) そして、いろいろ在りました。
ただ、卒業研究をやりながら、あれこれやり過ぎたのか、大学院の入試には一度失敗している由です。自省するに英語と生物が出来なかった由、特に図鑑のような知識が嫌いで、生物学が不得意で在ったとか、人類学の大家になる人が斯く在ったとは面白いですね。
留年して再挑戦、しかし、雪山に入っての地獄谷の猿研究は面白くて続けた由、スキー、ラッセル、冬テントの世界、雪景での観察は見通しが利いて効果が上がった由です。斯くて卒業論文は仕上がりました。
8) 観察重視と、欧米と違う「猿」の社会学
山極氏は、計測よりも、観察を重視することを教わります。 その点、計測するためには、猿など研究対象を捕まえる必要がありますが、観察だと、その必要は生じません。 そして、良く見ることにより、その社会性、関連性、地域的特徴を捉まえようとします。こうした調査・研究を主任教授から奨められた山極氏は、子供の頃からの執念深さを発揮して、下北半島から屋久島まで全国九箇所を踏査するプランを建て、実
行してのです。これが修士の研究テーマとなります。
これで、各地域の猿の特性・特徴が捉えられ、猿の社会関係が次第に見えて来た由です。例えば猿の優劣順位が、其の行動に反映されます。強い猿が出てくると、弱い猿は退きます。 こうした事象の積み重ねが、猿の社会・文化の把握に繋がって行く由です。
他方、欧米の世界では、人間に文化や社会こそ在っても、動物については否定的に見ます。 猿などの動物には文化や社会など無いと言うわけです。 ここで、個体や集団を見るため、そこに、計測的手法が持ち込まれますと、動物を、その社会から切り離した捉まえ方をする学問が誕生します。 ローレンツの行動学などは其の典型と言われます。この欧米流の影響を強く受けた学界が日本国内に強力に存在します。
山極氏はこれに対し、猿の社会学を主唱する様です。猿の個体同士の関係や集団との関係を見よう、捉まえようと言う学問の様です。
9) 今西錦司に発する学派
「文明の生態史観」で有名な今西錦司博士に、私は京大時代にお目にかかったことがあるものの、その笑顔が鮮明に残っているだけで、その学問に接することは終ぞ在りませんでした。
しかし、今回、山極総長の語るところにより、その起源に少し触れることが出来ました。曰く、「今西錦司さんは、もともとヒラタカゲロウの研究で学位を取った人ですから、昆虫少年でもあった分けですよ。だけど、今西さんが動物社会学で対象にしたのは、あくまで哺乳類からなんです。それは人間との連続性を調べたかったからです。」 人間を知るためには、動物や知る必要があります。成る程、この歳になって、かの大学者とやっと接点が出来た観があります。京大サル学の創始に触れた感があります。
10) 現代人類学のアウトライン
a) 現代京大サル学の第一人者で在る山極京大総長のお話しは更に多岐に亘りますが、ここらで本書を引用しつつ、私なりに或るコメントで閉めたいと思います。
b) まず、対談相手の鎌田教授は、「山崎ゴリラ学」が打ち立てようとしているのは、「欧米流の要素解釈ではなく、全体論としての生物学である」と記しています。至言と思います。 所謂「京都学派」の面目躍如の観がありますね。
そこからの、日本の学問や文化・文明の創興が期待されるところです。
c) 最後に、本書には講義レポートと言う鎌田教授のまとめが附いています。その中に、最新の現代人類学のアウトラインが記されていますので、私の理解の範囲内ですが、その引用も混ぜながら、自身のサマリーにしておきたいとおきたいと思います。
d) 教授は、まず最初に「一言ていうと」、人類進化の流れは「猿人、原人、旧人、新人、ヒト」言う流れで約七百万年も掛けて進展したしたとしています。
ただ、この言い方には、注釈が必要で、最初の猿人から、順に進化し、一直線に今のヒトに進んでたのでは無いと言うことです。
過日のテレビ放送では、この間、32種もの、分類学上の「属」すら跨がっている人・人・・・人が登場しているとしていました。 即ち、途中で現世人類に繋がること無く絶滅した種が数多くあったと申します。
e) 先ず、猿人とは約七百万年前にアフリカに発祥、約二百万年前頃まで生存、森の中でも直立二足歩行を行っていたと言われます。 脳の容量は約五百cc位で ゴリラ並み、類人猿と原人の間に位置する由です。それは、最も原初的な人類です。猿人の代表的な化石は、アウストラロピテクス・アフャレンシスと言い、身長百四十~五十cmで小柄でした。 極めて原始的な石器を使っていた痕跡があります。
f) 約四百四十年前の化石が見つかったラミダス猿人は、円滑な直立二足歩行を獲得、類人猿の祖先と別れて、遂にアフリカの森を出たと言います。その後、何種類もの猿人がサバンナの乾燥した草原で、其処に生える根や茎をすり潰して食べていたと見られます。 果物等豊富な森とは大違いです。猿人達の臼歯は大きくなっており、歯のエナメル質も厚くなっていました。
斯くて草食に止まらず、昆虫、肉食獣の食べ残しを食した雑食性の猿人もいたようです。
g) 次に約二百万年程前、猿人から進化した原人が、初めてアフリカを出て、ユーラシア大陸へと広がりました。 原人の最大の特徴は、道具を使い、肉や動物性の食べものを摂っていたことです。脚が長く、脳の容量は約六百ccから千ccに達していました。
代表的な化石として、約二百万年前のホモ・ハビルスや、約百八十万年前のホモ・エレクトス(ジャワ原人や北京原人)が上げられます。ホモ・ハビルスは石器を使い、ジャワ原人は初めてアジアに渡り、北京原人は火を用いた痕跡があります。両原人は、身長百六十cmから百八十cmもあり、長身でした。
h) 約五十万年前にはネアンデルタール人と呼ばれる「旧人」が出現しました。更に小柄なフローレス原人も出現し、人類はこの時期各地で多様化した様です。
ただ、他の大陸に渡り、移動する能力まで在りませんでした。
この中で、ネアンデルタール人は、脳容量が約千三百ccも在り、死者を弔う埋葬文化まで擁していたようです。 その巨頭の例では、千八百ccもの化石が在る由、つまりホモ・サピエンスを凌ぐケースも在ったのです。
i) 最後に出現したのは、平均脳容量約千五百ccのホモ・サピエンスです。約二十万年前に、アフリカ地溝帯で生まれた、旧人から進化した「新人」でした。細胞に含まれるミトコンドリアから、現世人類に繋がることが分かったのです。
彼らは言語能力に優れ、意思疎通を滑らかにして、次第に優位に立ち、且つ進取性に優れていたため、各地に移動、遂に、全大陸に進出しました。それは動物種の中で初めての事でしょう。文明を築き、今や人口は七十億を超えています。
他方、長い間、中東やヨーロッパ辺りでホモ・サピエンスと共存していたネアンデルタール人は、次第に食糧確保の競争等に敗れ、約三万年前頃、死滅しました。
ただ、近年、ネアンデルタール人のDNAが僅かながら、現世人類に混じっている事が確認された由です。 既に判明したように、両者共存の頃、交雑が起きていた様ですね。
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ネアンデルタール人もホモ・サピエンスも仲間で社会生活を営んでいたでしょう。
彼らの社会規範はどうだったかな?
今の日本社会は彼らより進歩してるかな。
20数年前位に日本の大蔵省高官が、アメリカで日本人の擬似偽証行為を非難された時「ウソは日本文化」と公言した。
これも同時期、日本の大手證券会社が経営危機に陥り、アメリカの信用格付の上位維持を依頼したが彼等はそれに同意しなかった。
勧められたのは、危機状況の真相を全て公表しろということだった。
日本側は渋ったが背に腹変えられず已むなく全てさらけ出した。
その結果、格付けの上向が認められ危機を切り抜けることができた。