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邦題「ヒトラーに屈しなかった国王」という迫力在る劇映画

2017.12.20 Wed
政治

邦題「ヒトラーに屈しなかった国王」という迫力在る劇映画

平成29年 2017  12月
仲津 真治

1)  ドキュメンタリー・タッチの物語の背景

ナチスドイツは、1939年9月1日、その東方で国境を接するポーランドに
攻め込みました。対して、これを容認すれば、英仏両国は欧州大陸に於ける英仏側の拠点が失われるとみて、従来採ってきた対独宥和政策をきっぱりと捨て、ドイツに宣戦布告します。 ここに第二次世界大戦が始まりました。

二週間後、更に東方に広がるソ連が、ポーランドに侵攻、同国は一ヶ月ほどで占拠され、独ソ両国に分割されました。 これは独ソ不可侵条約に伴う秘密協定に拠る行動とされます。ただ、これに対し、英仏は対ソの特段のアクションは起こしませんでした。かくて、ソ連の立場は変わらず、後年、ドイツによる侵攻を受けると、今度は連合国側に立つこととなった分けです。

斯くて、第二次大戦が始まっても、ポーランドの崩壊のほか、幾つかの変化が在ったものの、独対英仏などの西部戦線は静かでした。

しかし、翌1940年3~4月にいたり、事態は動き出します。 英仏は、ドイツ側の北方の資源獲得の動きを封じるため、機雷敷設の作戦を講じます。 それは中立国であったノルウェーにも行われ、同国は中立侵害であるとして、英仏に抗議します。

ドイツはこれを奇貨として、英仏のノルウェーに対する侵略であるとし、
ノルウェーへの支援を申し出ます。 国際関係に於ける口実作りというか、
この辺り、実に巧妙ですね。

2) ノルウェー王国と言う国とホーコン七世

ここで、ノルウェー王国と言う国について、記しましょう。
デンマーク、スェーデン、ノルウェーの所謂スカンディナビア諸国は、皆バイキングの子孫と言われ、言語も良く似ていて、 各々が自国語を話しても、そのまま通じると聞きます。私どもも北欧旅行の際、そうした光景を目撃しました。

さて、北欧の歴史も複雑ですが、かつてノルウェーはデンマーク王国の支配下から脱したものの、今度は隣国スェーデンの強い影響下に置かれて、それぞれの領域を持ちつつも、国王は同じ人物という、所謂「同君連合」の体制が長年続いてきました。 英国に於ける、昔のイングランドとスコットランドの関係(現在は、イングラント王のみ在位、即ちその人が英国王)に似ていますね。

しかし、前世紀に入って間もなく、ノルウェーにおいて独立の気運が高まり、スェーデン側とも調整が進んで、遂に独立することとなりました。1905年の事です。 当然、同君連合が終焉し、新たな国の体制をどうするかが焦点となりました。すると、ノルウェー国民は王制を希望し、結局、新国王をデンマーク王家から迎えることとなったのです。 欧州に於ける、貴族とはまた違う王族の血筋の存在を感じますね。

その人は、デンマーク王のクリスチャン十世の弟のホーコン七世でした。
ご当人はこの人事には慎重だったと言います。 でも避けられないとみると、ホーコン七世は、強く、民主主義の下での立憲君主制を希望しました。更に、国王就任に関する国民投票での国民の支持を求めたのです。 そして、それは圧倒的な支持で達成されました。投票による国王の人選とは、驚くべき知恵の所産です。

しかし、同時に権威と血筋の重みも感じます。新国王は北欧に於いて権威の在るデンマークの王家の流れにあり、スェーデン王家と格が変わらず、妃は英国の王家から嫁いできていました。ただ、最後の点は、国王に従って実家からオスロに遷った皇太子(後のオラン五世)には不満があったようです。 幼い彼にとって母が屡々実家のある英国へ帰ったからです。

なお、ノーベル賞の本家はスェーデンですが、平和賞だけ、ノルウェーのオスロで授与されます。何故か。聞くところによれば、1901年にノーベル賞を創始したとき、ノーヘル自身が斯く遺言した由、それは、近く独立することになるノルウェーへの敬意と祝意を表したものと言われます。

3)  国王と皇太子

立憲主義を信条とするホーコン七世は、国政の一切をノルウェーの内閣と議会に任せます。自身は何の権能も行使しませんでした。それが国王就任の条件であり、前提なのでした。

しかし、ノルウェーの首都オスロに来たとき、まだ幼かった皇太子は、長ずるにつれ、こうした事に不満でした。 特に、第二次大戦が起き、英仏やドイツとの関係が緊張すると、これと言った手が打てない政府に疑問を抱き、それに対して、何も言わない父国王に、苦言を呈するようになりました。 映画では、両者がよく論議し、ときに大声で言い合うところすら出てきます。

皇太子は「父上みたいな王にはなりたくない」とすら言い放ちます。
実話のようです。

4 ドイツが行動開始 ノルウェーへの侵攻

1940年3月、ヒトラーは北欧資源の確保を確実なものとするため、煮え切らないノルウェーなどの対応を見て、遂に行動開始を命じます。 それはウエーザー演習作戦と呼ばれます。ノルウェーは資源所在地、デンマークはドイツからの通過地でした。この作戦に係る本作品の描き方は、いろんな動きが変化が集中する4月10日と前後が中心でした。

強大なドイツの軍備が動き出します。ノルウェー西北のフィヨルドにドイツの大艦艇が姿を現します。 監視していたノルウェー側の守備隊がサーチライトでそれを捉えるに至ります。 巨大な砲台が二基、砲弾を装填し、現地司令官が海を双眼鏡で凝視します。 「政府からの指示は?」と照会の声が飛びますが、「何もありません。」との返事です。 あからさまな領海への侵攻と、巡洋艦の侵出を眼前にして、現地司令官が遂に砲撃を命じます。 立て続けに二発とも命中、次いで、準備されていた魚雷攻撃も敢行されました。 ドイツ側の反撃はあったものの、艦は大きく傾きます。それは想定外の損害であったのでしょう、この作戦は大きく遅延ます。 これはノルウェー側の諸々の対応に時間的余裕を
与えました。間もなく、ドイツ側の空襲が始まりました。双発の爆撃機が多数飛来し、攻撃を行います。

5  国王も出席して議会が開かれた、だが。

ドイツ側の攻撃を前にして、ノルウェーの国の機関が一応動きます。国王も出席して議会が開かれます。 しかし、政府の中枢を占める内閣は、結局これと言った対応を示せず、総理大臣が辞任を表明します。何たる無責任。

これを受けて、国王は言います。「総理の辞任は受け容れられられない。」
「国民の負託を受けて、政府も内閣もその職責を果たすように。」立憲民主制の下、これは当然のことでしょう。

されど、空襲が始まり、危険が迫ったので、皆オスロを
離れる事となりました。

オスロ北方の都会ハーマルへの列車による避難が始まります。

6  ブロイアードイツ公使が動く

此処で、ノルウェーと外交交渉による事態の収拾・解決を図る動きが
出てきました。主にそれを担ったのは、駐ノルウェー独公使のブロイアーでした。

彼は、内心、軍事行動にまで及ぶ自国の対応に疑問を持っているようでした。そこで、オスロに現れたドイツ軍の司令官に、「軍の動きを抑えるよう」に、言います。 斯く、現地の軍人と外交官の立場の違いと対立が、表面化したのでした。しかし、司令官は応えます。「自分は命令を受けている。要請は受けかねる。」 命令とはともに独総統に由来し、其処に根拠をもつものでした。各々が責任と権威の根拠を言ったのです。、上や他に責任の所在を求める体制が其処に現出していました。

それでも、外交的使命感に満ちた公使は、リッペントロップ独外相に直接うったえます。判断に窮した外相は「暫し待て」と言います。すると、間もなく電話の向こうから別の声が聞こえてきます。何と、ヒトラー総統でした。 ヒトラーは、「国王と直に話し合え。自分はノルウェー国王を尊敬しておる。」と言いました。総統の直接の命令です。公使は「ハイル・ヒトラー」と言って電話を終えました。
当時のドイツの習慣ですね。

公使は、斯くてノルウェー側と交渉を再開します。 同国の外務省に行ったのです。至急を要するので、訪れた時間は夜でした。 だが、外務省の建物は電気が付いているのに扉が空いていて、無人でした。独側の攻撃のため皆避難したのです

幸い、一人だけ、秘書業務と警備を兼ねた職員がいました。 公使が知るノルウェー外交官でした。 その職員を見て、勢いを得た公使は「事態は急を要する。国王に拝謁する手配を」とうったえます。やや居丈高でした。受けた職員は、「他国を侵略しておいて、あれこれ注文するとは何事か」と反論します。 その通りでした。 しかし、結局、職員は拝謁の道を付ける手配をしました。 緊急性や必要性が良くかったのでしょう。また、国王の避難先などに通じる関係先を知らされていたのでしょう。

斯く段取りを付けたブロイアー・ドイツ公使はハーマルより北のエルヴェルムに外交官車で向かいます。 其処に国王や閣僚などが避難しているはずでした。

7  ドイツの傀儡人が政権を握る?

この間、オスロなどを占拠したドイツ侵攻軍は、息のかかった人物をノルウェーの首相に据えます。一種のクーデターの形となったようです。 その男「クヴィスリン」がラジオに登場、ノルウェーの現政権を非難し、新方針を呼びかけ調でうったえます。

こう言う対独協力者が矢張居たのですね。

ただ、支持は広がりませんでした。そこは、ブロイアー公使の読みと一致しました。 将にドイツの傀儡に過ぎなかったのです。

8  国王も空襲に遭う

ドイツの侵攻は巡洋艦の大破などで初期にこそ遅滞しましたが、次第に拡大、各地が戦場となりました。 斯くて国王や閣僚などの避難先も建物が空襲を受け、危険を避けるため、近くの森に避難する事となります。 森と言っても疎林、皆雪中を走って逃げる観がありました。 国王も結局一人で逃避することとなり、近くに爆発が起きて、倒れるシーンもありました。

その先で、置き去りにされた乳児を発見した国王は思わず駆け寄り、介抱し、暖めます。 国王の人情溢れる優しいところが現れた所でしたね。

9  国王とドイツ公使の会見

エルヴェルムの農場に避難していた国王や閣僚などの一行は、通信などに拠る遣り取りの結果、国王への拝謁と協議を強く要請してきたドイツ公使と、結局会見することとなりました。 会場として、避難先の農場の近くの「国民高等学校」の会議室が選ばれました。

其処は厳重に警備されました。 近くまで外交官車で来たドイツ公使は一旦
警戒するノルウェー側の兵士に制止され、車から降ろされて目隠しさえされます。公使は抗議します。「私はドイツ公使だ、何をするのだ。」と。 ノルウェー側としては、国王などの所在地などをドイツ公使に分からせたくなかったのでしょう。

やがて、拝謁と協議が実現します。 しかし、その直前に重要な遣り取りがありました。 ドイツ公使が「ヒトラー総統の指示」として、国王とだけの直の折衝を希望してきたのです。 ノルウェー側は断りました。「立憲君主制の下、国王を支える閣僚の同席は当然である」と。 激しい遣り取りが続きました。あわや決裂と言うとき、国王が静かに言います、「私一人で会おう。」と。ホーコン七世は覚悟を決めていたのです。「自らの口で、ドイツ側に伝えるべき事をはっきり言おう」と。

閣僚が退席し、ドイツ公使と二人切りになった国王は、「敬愛する国王陛下と良く協議させて戴き、事態を平和裏に収拾したい。」と言い募る公使に対し、それまで窓外に向いていた自身を、公使の側に向け、「誤解の無いように言っておくが、ノルウェーは民主主義国家である。 国の方針は国民自身が決める。国王では無い。」と明言したのでした。毅然たるものがありました。

これで、事態は明瞭となりました。

10  引き下がるドイツ公使と、その後の折衝

国王との間で折衝すべく、一種の妥協案まで胸に秘めていたドイツ公使ですが、それも果たせず、この後、ノルウェー側の閣僚と交渉しますが、結局破談します。その秘案には、「クヴィスリング」を外すことも含まれていましたが、結局いずれも有効打となり得ませんでした。

ただ、注目したいのは、閣僚との間の調整は、公使がノルウェー語を余り使えず、国王との間もドイツ語に拠ったため、ノルウェー側は「今からは英語でやろう。」と提案、ドイツ公使も折れてそれが採用されたことです。 英語という言語の普遍性、国際性や通用生が見て取れましたね。 そう言えば、ノルウェーなどスカンジナビア諸国では各々自国語で語り、それでお互い通じても、書くときは皆英語になる由です。 書き言葉が英語、此処に国際性の現実があります。

11 兄のデンマーク王との違いなど

ノルウェー同様、デンマークもナチスドイツの侵攻を受けました。
1940年3月~4月とウェーザー演習作戦の対象となったのです。

しかし、両国の対応にはかなりの違いが見られました。 抵抗の姿勢を貫いたノルウェー王国に対し、デンマーク王国のクリスチャン十世は、それがもたらすであろう、破壊と犠牲の大きさを考え、早期に対独降伏の道を選んだのです。デンマーク国王自身、国民に受け容れを呼びかけたと言います。

この事を反映して、この映画では「デンマーク王である兄が降伏した」とホーコン七世に側近が伝えるシーンがあります。 これに対し、ノルウェー国王が不愉快そうに「兄は関係ない」と応えたのが印象的でした。 その複雑な心底が推し量られる場面でしたね。

12  その後の展開

ドイツの侵攻は続き、1940年5月、英仏などと対峙する西部戦線で圧勝、
欧州大陸は大きくドイツ側の制圧するところとなりました。ノルウェーは1940年6月に到り、同国の西北端に近いトロムソから、国王や諸閣僚などが脱出、英国に亡命しました。

同年7月になると、英国のロンドンから、国王はラジオ放送で退位要求を拒否し、国民にレジスタンスを呼びかけ、鼓舞したのでした。

その後の変遷は良く知られているとおりですが、1945年5月ナチスドイツが連合国に降伏、同6月ホーコン七世が帰国し、1957年崩御、後をオラフ皇太子が継ぎます。

なお、付言しますと、1945年8月、裁判に掛けられた対独協力者のクヴィンスリングが死刑判決を受け、10月処刑されています。 他の対独協力者も裁判で裁かれた由です。

歴史の些細が分かり、学ぶことの多い映画作品でした。


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