運慶展
この程、東京上野に「運慶展」を見に行きました。 平日というのに、かなり
混んでいました。 外国人も割合来ていて、英語の小声が所々で聞こえまし
た。 なお、展示は日本語、英語、漢語、韓国語の四語で解説表示されて
いました。 巡回展はなく、この11月26日(日)で終了します。
主催は東京国立博物館を筆頭に、法相宗大本山興福寺などと示されていて、その
事が関係しているのか、この特別展は「興福寺中金堂再建記念」と銘打っていま
した。
以下、依然として分からないことや不明なところが多々あるものの、幾つか
印象に残ったポイントを記すことにします。
1) 時代は平安末期から鎌倉時代の後半までで、「運慶」の活躍した頃が中心
もっとも、運慶自身の生年は不詳の由、12世紀の中頃と推定されていて、康慶の
実子で弟子であり、湛慶の父、「慶派」と呼ばれる諸仏師の中で最も有名な人
です。私どもは中学校で、巨大な東大寺南大門の金剛力士像(展示作品ではない)
の作者と教わりました。 今回の展示では、運慶はこの像を含め、東大寺の四天
王像制作の総指揮に当たったと解説されていました。なお、没年は1223年の由。
関連年表では、和暦の「仁平」から「治承」、「建久」、「承久」などを経て、
「建長」に至るものでした。
2) 名称・流派のこと
私どもの受けた教育では、こうした像を彫る人も洋風に云うと「彫刻家」でした
が、本展示では、仏師とという言葉も使っていました。 日本の伝統でしょう。
この仏師と言う表現には、宗教性や包容性がある感じがします。 如何でしょう。
そして、往時の流派には、先ず、もともとの奈良仏師の流れを汲む人々に、其処
から後世に現れた「慶派」と言う流れがあって、名を「・慶」と名乗っていたよ
うです。それとは別に「・・円」と云う「円派」、また、別に「院派」と云う流
派もあったようです。 相応の経緯と諸事情があったと思われます。
この中で、運慶や快慶は、当然「慶派」に属していました。 ここで、ともに良
く名を聞く、この両名は同時代で各々特徴がある由、快慶は仏像の標準の目指す
タイプで、謂わば教科書風、これに対し、運慶は独自性が基調、独創性に富んで
いた由です。これで長年の疑問が少し解けてきました。
ただ、この「・・慶」は、必ずしも血縁関係が在ることを意味せず、単に同じ一
門と言う事のようです。 かように、「流派や家」とは将に様々なようですね。
3) 展示は大項目別に数えると、37件に亘っていて、実に充実していました
ただ、展示の作品点数は、大項目の数より更に多く、例えば、最後の37番は
十二神将立像の内の七神を並べていました。 即ち、ネットの数では七個在るこ
とになります。
これに対し、初めの方では、大日如来座像一体(運慶作)とか、地蔵
菩薩座像一体(康慶作) の如く、各番個別に並んでいました。 斯くて、
ややゆっくり目に歩き観照する感がありました。
これは展示の仕方や工夫などに色々影響があると思われ、なかなか大変と
推察されました。
因みに、展示物の元所在地は、奈良、京都が多いものの、広く、近畿から関東に
亘っていました。 ただ、神奈川県としてはあるのに、鎌倉市では在りませんで
した。 運慶が主に鎌倉時代の人でしたのに、これは何を物語るのでしょう。
文化的な関西地方の伝統や歴史的蓄積の所産でしょうか。
4) 目の表し方
この展示では、仏像の目の事を素人分かりするように解説していました。
基本は木材で彫られた仏像ですが、仕上がりには矢張り、目が必要です。
そう言えば「大仏開眼」という言葉も習いましたね。それに、諸展示では、
各仏像の睨みが効いていました。 卑俗な言い方ですが、「目は口ほどに
ものを言い。」と云うのが好く分かります。
さて、解説に依れば、作業は目が入るところを先ずくり抜く事で始まるようです。
そして、其処に「目」として「水晶」を入れる由、それから瞳に当たるところは
そのような絵を奥側に描くとのこと、その後、その後ろに白眼を表すため、綿を
詰めた上、固定すると申します。 成る程、それにしても、展示中の各仏像など
の目は、良くこちらを見ていました。 どこに居ても睨まれている感があり、
本当に恐れ入りました。
他方、実在した人物をやや大きめに彫った立像や座像も結構置かれていましたが、
その容貌や表情は、斯く有りなんという風情をしていました。原作者の作者の
観察力や再現力を物語る気がしましたね。
5) 子犬と鹿
大半強が仏像ないし人物像などであるのに、珍しく二件が動物像でした。
うち、一件は子犬で、当然のことながら柴犬系統のものでした。とても
可愛らしい印象で今にも走り出しそうに見えましたが、「目」の解説を読んだば
かりの者には、「あれっ。」と言うところが在ったのです。
それは、子犬の目に広めの白目が在ったことです。 犬、猫、牛、馬など
人間以外の四脚獣には、白目がほとんど在りません。猿系統も実はそうで、その
目は大半が所謂黒眼です。 要は、白目がほぼ無いのです。
何故か? 今日の通説では、ヒトと違って、視線が見えにくくなり、読まれないた
めと申します。 つまり、ヒトには白目があって、瞳の方向や動きが捉えられや
すいと云うのです。 逆に言うと、ヒトは「目配せなどの合図が可能」で、「目
は口程にものを言い」と言う事が現実となります。 四脚動物などは、それを止
め、視線を読まれにくくしているのです。
ところが、話を戻しますと、展示の子犬には白目が在って、「何か変?」と言う感
じになります。 鎌倉犬と現代犬では進化の度合いが同じと思われますから、
これは、この子犬象の作者の観察不足なのではないでしょうか。
因みに、本作は誰の手になるのか分からないようで、資料には記されていません
でした。
隣の展示には鹿がいて、牡鹿と牝鹿各一頭でした。 牝は何と
愛らしい乳首までつけられていました。そして、目を良く見ると、いずれも白目
がほとんど無く、黒眼がしっかりと輝いていました。
この二頭とも作者が不明ですが、何とはなしに、観察の違いを反映していると
考えると、犬とは別人物のような気がします。
6) 運慶と湛慶の作である「聖観音菩薩立像」
この蓮華座の立像は肌色が見事に白く、実に美しいのです。 インド風の風貌
そして、赤や緑の色も今なお鮮明です。 金色の光背はややくすんでいますが、
元の輝きは薄れていませんでした。
こうした光背効果の影響か、この菩薩像は女性に見えました。
そこで情報担当者に聴いてみると、違う由。確かに違うのです。
この立像は胸の膨らみが在りません。回答者曰く、「仏様には男女の
区分が在りません、中性なのです。」とのこと。
7) しかし、女性の像も在るではないか それに弁天さんの事も気になる
展示の説明を丹念に読んでいると、33番の善妙神立像は、唐の時代の
信仰心篤い女神と書いてありました。
其処で、再び、解説者に尋ねますと、「神様には男女別が在って、仏様と違い、
女神も確かにいます。」との事でした。 斯く言われると正直言って良く分から
なくなります。
例えば、弁才天と云えば仏様の世界、なのに美人の女性の例に使われますね。
混乱したまま、別途解説書に当たると、それは実はもとヒンズー教の女神で、仏
教に取り入れられ、仏の守護神になってしまっているようです。 斯くあって、
依然として不分明なることに変わり在りませんが、もともと、バラモン教をルー
ツとするヒンズー教と、悟りに辿り着くことを目的とする仏教は全く別の宗教な
のに、同じインドの地で混淆と融合が起きたようですね。そうしたことは、後年
仏教の渡来した日本にも持ち込まれたのだと思われます。 斯くて、いろんな事
が生起したのでしょう。
持国天、多聞天、増長天、広目天の四天王だって、もともと仏教の世界に存した
ものではないと聞きます。 でも、この運慶展でも結構それらの像が置かれてい
ました。 その元となった鎌倉仏教は興隆しましたが、仏教発祥の地インドでは、
かえって、その衰退が起きています。
8) 剣と刀
今回見た、これらの仏像は、少なからず剣を帯びていました。 しかし、どれひ
とつとして、日本刀のような刀では在りませんでした。 古代の剣と同じく、真
っ直ぐのびた剣型のものです。
日本刀は、この時代ではなく、その後の変化の中で生成発展したものでしょう。
日本の歴史も長いのです。
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