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将軍様、あなたのために映画を撮ります 

2016.09.27 Tue
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「将軍様、あなたのために映画を撮ります」

「将に事実は小説よりも奇なり。」を地で行く話ですね。この映画を見て、その感を深くしました。

原題は「The Lovers and the Despot」と言う英国映画でして、直訳すれば、「恋人たちと独裁者」と言うことになりましょうか。 ただ、この英題では良く分かりませんが、「将軍様、あなたのために映画を撮ります」 という邦題は実に良く出来ています。 これで、見当がつきますように、この映画の実質的な主人公は、北朝鮮の前の独裁者の金正日国防委員長ですし、登場人物は韓国人女優の崔銀姫と、韓国人映画監督の申相玉です。この二人は、1978年に相次いで香港にて北朝鮮に拉致されました。ドキュメンタリータッチのこの映画が描く、二つの拉致の様子は、多くの北朝鮮による拉致被害に遭っている日本人の場合も、さもありなんと思われるものでした。

ただ特異なのは拉致された後の様子、特にその後半に在ります。二人の拉致期間は1986年までの合計八年に及びますが、 うち後の三年、金正日の要請と全面的な了解・支援を得て、自由に映画制作と出演をしているのです。
1  拉致された分け :  映画作りのため

それは、何と北朝鮮の映画の水準を上げるため、金正日の指示により、韓国で有力な監督と俳優を無理にでも北に連れてきて、映画作りに取り組んでもらうと言う趣旨から始まっていました。

そして、このことは、関係者による調査と膨大なインタビューから、無類の映画好きで専門家はだしの金正日が、自国の映画の出来や内容に大変不満な事に起因していたことが分かって来たのです。「崔銀姫」がやっと明らかにした秘密の録音テープによれば、金正日は、自国の、直ぐ涙のシーンとなるワンパターンを嫌っており、それらをまるで葬式映画だと批判していました。

北朝鮮映画を、こうした低いレベルから脱しさせて、国際的に比肩し得る所まで引き上げるため、申と崔に大いに活躍してもらい、お金もどんどん使わせたと言うのです。申は、借金取り立てに追われた韓国時代と違い、在北で映画に取り組んでいる間、実際お金には苦労しなかったと言います。
2  金正日が映画志向人間となった理由 : そこから何と申、崔両人の拉致に発展
独裁者金日成の息子で、その後継者となっていった金正日は、友人も決められていて、少なく、孤独な人生を運命づけられていたと言います。父親と違い、カリスマ性は無く、演説などは苦手でした。公式の大会などでは挨拶もしないのが普通で通常、欠席と報道されていました。そうした金正日が、寂しさを紛らすため、のめり込んでいったのが映画と言います。斯くて浴びるほど、韓国、日本を始め内外の映画を見て、審美眼を高めて行きます。

そして、その成果を「映画芸術論」と言う本にまとめたのです。

すると、今度はこの著作が北朝鮮の映画作りを決定づけることになりました。「親愛なる指導者」のバイブルから誰も逸脱できなくなったのです。独裁体制とは掛かる作用を、その国全体にもたらします。

而して、これが北朝鮮の映画作りのワンパターン脱出志向に繋がり、申・崔両名の拉致、活用へと発展したと見られます。

二人は、金正日の 「映画芸術論」を読んだこともなく、更に遡れば金日成の「主体思想」の影響も受けていませんから、その効果は絶大で、拉致の効用将に大なるものがあった分けです。考えてみれば、実に奇妙な情景ですね。
3  何と金正日が自己批判した ?

更に、金正日との遣り取りを記録した秘密テープには驚くべき内容まで含まれていました。金正日自身が「自己批判した。」と語っていたからです。

それは、二人を拉致するように指示したとき、「連れて来い」とだけ言ったと言うことに在ります。丁重に扱うようになどとは言わなかったというのです。 でも実は気を遣っていたのでしょう。そういえば、日本人の拉致については、金正日は関係機関の独走があったなどと弁解して、謝罪したと伝わっていますが、自らをさらけ出すまでしていた申・崔両名に対してとは違い、自己批判にまでは至らなかったようですね。

そして、金正日は、申・崔両名には「裏切らないでほしい。」とまで、語っていたと言います。折角、拉致し、活躍してもらっている両名に亡命されたら、失うものが大きいと考えたのでしょう。
4  再会した二人 活躍しつつもやはり北朝鮮離脱へ。

まず崔、次いで申と別々に拉致された二人ですが、北朝鮮で五年間近くお互いのことを知らなかったと言います。ところが、金正日の誕生日の祝いのときに、ともに招かれ、相手が居ることを知って、大変驚いたと言います。ただ、再会を喜んで抱き合うというようなことはなく、そこは芝居と現実が違うと思ったようですね。

そして、二人協力して、ともに活躍するようになりますが、次第に気脈を通じて行きます。在韓時、離婚していたとはいえ、もともと夫婦で子供まで居るのですから。それに、いくら、活動が出来、映画の成果(三年で計十七作品に達していた。) を生み出せていたとは云え、ともに北朝鮮の共産体制は受け入れられなかったのでしょう。 そもそも基本的に自由が在りませんからね。その点、崔が往時のソ連や東欧が「北朝鮮に比べるとすこしは自由があった。」と語っていたのが印象的でした。 ちなみに、崔は、熱演を評価され、チェコやモスクワで賞を取っています。
5  亡命に踏み切る

1986年3月、二人は仕事で、もとより監視付きながら、オーストリアに旅行します。 そして、かねて相談していた通り、ウィーン滞在ホテルから脱け、アメリカ大使館に駆け込みます。タクシーを利用し、尾行を巻いての逃避行でした。大変緊張する場面もあったようですが、運良く、尾行車との間に、他車が二、三台混じり、そのときを利用して左折、うまく逃げおおせたと言います。

大使館では、米国の領事が迎え入れ、「西側へようこそ。」と声をかけながら、二人に薔薇の花を手渡しました。粋な演出ですが、自由な社会を象徴する場面でした。私も冷戦中、東西両欧州を続けて旅行した人から、ウィーンの空港で「どこそこへ行って良いか」と尋ねたところ、「As you like it.」との答えが係官から返ってきて、「ここは自由だ。」と、どっと解放感があふれて来たとの体験を聞いたことがあります。それまで、その人は会議出席のため、東欧に居たのです。

それにしても、冷戦時代に、ソ連、東欧からではなく、北朝鮮から亡命者が駆け込んでくるとは、当時の西側では想定されていなかった由、この映画のインタビューに応じた、或る米国外交官の驚きの声が耳に残りました。
6  1999年、遂に 韓国へ

斯くて、大変な映画愛好家で、北朝鮮の独裁者である金正日を手玉をに取ったかの如き、申・崔両人は亡命後相当期間アメリカに滞在、その公的保護を離れた後も、米映画の牙城、ハリウッドに住むようになります。

短時日で韓国に戻らなかった訳は、北朝鮮に拉致されたという話そのものや、北での映画制作ないし出演体験が往時の韓国社会で信用されず、嘘・偽りなどとする見方や反発が根強かったからと言います。 この二人の体験が余りに奇異で、疑問やミステリーにに満ちていたからでしょう。

でも、遂に1999年、両人は晴れて韓国に帰国します。再婚していて、男女各一人の子供達との暮らしも始まりました。
7  その後、申は死去、崔は健在

申は帰国後更に活躍し、大韓民国映画大賞の功労賞を受賞するなど、種々貢献がありましたが、持病が悪化、2006年に亡くなりました。79歳でした。韓国映画人名誉の殿堂に選ばれ、銅像が制作されています。

他方、崔夫人は健在で、本年米寿を迎えますが、今なお美人です。昨年2015年には、韓国大衆文化芸術賞の文化勲章を授与されています。
8  映画化は英国で : どういう接点か
本作は2016年英国での制作です。ロス・アダムスとロバート・カンナンの二人の監督とも英国人です。ただ、作品中、英国に関わるシーンは登場しません。では、なぜ、英国制作なのか、良く分りませんが、当初拉致発生の1978年、犯行現場の香港が当時まだ英国統治下にあったことは、確かです。

それに、使用言語は、韓国語、英語、日本語です。

実は、申監督の肉声がテープに残っていて再生されますが、日本語のところがあります。と言うのも、申氏は、旧制の京城中学校出身で、昭和19年、往時の東京美術学校(現東京芸大)で美術の勉強をしているのです。

なお、この作品は、第66回ベルリン国際映画祭の部門出品作品です。
ご関心のある方へ  本作は今のところ東京の一カ所(ユーロスペース 渋谷区円山町1-5  03-3461-0211 ) で上映しています。 お出かけの際は上映時間などをお確かめ下さい。


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