榎本武揚を中山昇一さんと語る ③なぜ、シベリアを横断して帰国
榎本武揚研究家の中山昇一さんと語るシリーズの3回目です。前回は、戊辰戦争の最後となる箱館戦争(1868~1869)で、敗軍の将となった幕府軍の榎本武揚(1836~1908)が投獄・赦免からわずか2年後の1874年になぜ、初代の特命全権公使としてロシアの首都サンクト・ペテルブルグに赴任できたのか、という話題でした。この異例な人事の背景に、英国とロシアがユーラシア大陸の覇権をめぐって、「グレート・ゲーム」が展開されていた国際情勢があった、という解説がありました。今回は、条約の締結という大任を果たした榎本が帰国に際して、なぜ、シベリア経由という冒険旅行をしたのか、ということを考えてみたいと思います。
――榎本はロシア公使赴任から1年後の1875年に樺太・千島交換条約を締結させ、当初の任務を果たすのですが、榎本が帰国したのは、それから3年後の1878年です。明治政府が榎本をすぐに帰国させず、ロシアに残したのは、なぜでしょうか。私が榎本なら、大役を果たしたのだから、さっさと帰国したいし、せっかくなら条約締結のご褒美として、欧州で羽を伸ばして帰国なんてことを考えますが…。(私は1990年に3年間の米国勤務を終えて帰国途上に崩壊寸前のソ連・モスクワに立ち寄りました)
中山 榎本は、樺太・千島交換条約が1875年5月に締結されると、8月から9月にかけて欧州各地の視察旅行へ出かけます。欧州視察中、日本が英国に発注した軍艦に関する交渉の手助けもしました。榎本は、帰国は時間の問題だと考えていたのか、この旅行で羽を伸ばしていたようです。というのも、妻の多津は榎本に、欧州旅行中、オランダへ立ち寄った際に、オランダ留学時代(1862~67年)になじみになった女性と会ったという噂を聞いたという“抗議”の手紙を出しているからです。榎本は必死になって言い訳の返信をしました。世界は狭いものです。(写真は自宅で語る中山昇一さん)
――やっぱり、と言いたいところですが、明治政府は、欧州旅行は認めても、帰国は認めなかったわけですね。
中山 1876年10月に寺島外務卿経由で三条実美太政大臣から、翌年の1877年の4、5月ごろにシベリア経由で帰国することが承認されていました。しかし、77年4月に、ロシア帝国とオスマン帝国との露土戦争が勃発し、明治政府は、ロシア政府の内情に詳しくなった榎本をペテルブルグに残すことで、ロシアの実情や政策を知ろうと考えたのでしょう、帰国は戦争が終わってから、ということになりました。
――当時、日本国内では、ロシアのバルカン半島侵略への警戒感が強く、世論はトルコびいきだったようですが、榎本はグレート・ゲームの視点から、スエズ運河の権益を手に入れた英国の動きも注視する必要があることや、露土戦争についてはロシアが勝利するとの予測などを日本政府に知らせようとしています。まさに諜報という意味でのインテリジェンスです。シベリア旅行の目的もインテリジェンスだったのでしょうか。
中山 当時、英国にはRussophobes、日本語で「恐露病」という言葉がありました。19世紀の初め頃、ロシア帝国は中央アジアの国を征服すると、これが最後の征服だとコメントしましたが、実際には中央アジアでの征服は止まらず、ロシアの前線は南下を続け、徐々に英領インドに近づき始めました。英国人の心にロシア帝国への恐怖が着実に膨らみ続けていたわけで、これを恐露病と呼んだのです。
日本も、この「恐露病」がうつったようで、樺太・千島交換条約で、日露間で、一触即発という事態はなくなりましたが、国内には、ロシアは樺太の次は北海道を狙ってくる、という言説が消えませんでした。樺太の南端と稚内とは50kmにも満たない距離ですし、ロシア帝国海軍の太平洋へ向けた主要港としたウラジオストクは小樽のほぼ対岸の位置ですから、ロシア脅威論が残ったのは当然かもしれません。
榎本は1877年1月に妻に宛てた手紙で、日本人はロシアを大いに恐れ、今にも蝦夷(北海道)を襲ってくるに違いないなどと、何の根拠もない当て推量の認識を持っているから、自分がシベリアを旅行して、日本人の臆病を目覚めさせる、それは将来のためでもあると書いています。
ロシアは欧州での抗争や中央アジアの占領地経営で人もカネも手一杯で、シベリアましてや極東経営に乗り出し、英国の三角貿易の一角である清国を狙って南進に着手するのは十数年も先のことだと、榎本は見込んでいました。
――榎本は、ロシアによる北海道侵攻は、「箸にも棒にもかからない当て推量」という現状認識のうえで、将来のロシアの東方戦略を想定して、いまはシベリアの実情を知ることが大事だと考えたのですね。
中山 榎本はロシア公使に着任してすぐにシベリアの調査に着手していますし、シベリア経由での帰国というのも当初からの榎本の計画だったのでしょう。前述の三条太政大臣からの許可には、ロシアの地方の動向(形情)の探偵を目的に、シベリア経由でウラジオストクへ陸行すること、その実費を政府が負担すること、など具体的な計画が書かれています。
榎本が地方の形情を探偵するという企図にはグレート・ゲームの動向だけでなく、地方の人民の動向を把握も含まれていたと考えられます。1874年6月に榎本がペテルブルグに赴任した頃、何千人ものロシアの学生は農民の服装をして農村に入り、「ヴ・ナロード」(人民の中へ)を合言葉に、官吏や地主からの解放を農民たちに呼びかける活動が広がりました。このナロードニキ運動は、農民や民衆の知識レベルが学生たちとはかけ離れていたため、受け入れられず、失敗しました。この年の12月18日には、「土地と自由」と書かれた旗を掲げた学生たちがペテルブルグの都心にあるカザン広場でデモを起こしました。これも弾圧を受け、多数の逮捕者(シベリア送り)と国外逃亡者を出しました。
こうした事件は日本国内でも知られることになり、多津は榎本の身を案じた手紙を榎本に送っています。明治政府の軍幹部や政治家にとっては、大きな関心事であったはずで、榎本の探偵活動への評価は高かったと思いますし、シベリア旅行への期待も大きかったのだと思います。
※参照:「榎本武揚と国利民福 Ⅲ安全保障(後編-1)
https://www.johoyatai.com/3203
※参照:『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-A)』
https://www.johoyatai.com/3565
――榎本がペテルブルグを出発したのは1878年7月26日で、9月29日にウラジオストクに到着します。65日のシベリア紀行で、全行程は約1万キロでした。10月2日に、黒田清隆が差し回した箱館丸でウラジオストクを出航し、10月4日に小樽の地を踏みます。榎本はこの旅行を「シベリア日記」として記録に残しました。中山さんが榎本のシベリア旅行で評価するのは、どんなところですか。(下の図は、榎本武揚のシベリア旅行の道筋を示したもの。榎本隆充・高成田享編『榎本武揚 近代日本の万能人』から)
中山 榎本の「シベリア日記」は大小2冊で、小さめの手帳はフィールドノートとして使われ、訪れた地で収集した情報を大型のノートに整理して記録しました。この「シベリア日記」と銘ぜられたフィールドノートを読むと、榎本がロシアを東西に横断するなかで、駐露公使として得た幅広い知識を駆使しながら、日本にとって必要な現地の情報を得ようとしていたことがわかります。
榎本の横断旅行で、私が評価したいのは次の3点です。1点目は、榎本が行った先々で務めて写真を買い集めたことです。現代で言うなら、衛星写真の収集と似ています。手に入らない写真は、写真館などで代金を先払いし、後日、写真を撮って日本へ送ってもらうよう手筈を整えています。日本人の恐露病と臆病風を吹き飛ばすには、現地のスケッチではなく、写真が有効だと考えたのでしょう。帆船が蒸気船へと時代が変わったような印象です。
――その写真は、いま見ることは可能ですか。
中山 1935年に海軍有終会が榎本武揚の「シベリア日記」を公刊した『西比利亜日記』には、20枚の写真が収録されています。おそらくこの何倍もの写真を榎本は集めたものと思います。国会図書館憲政資料室がネットで公開している「日記の世界」で「榎本武揚のシベリアにおける写真収集」というコラムが掲示されていて、そこには、榎本収集の写真は「ほんの一部を除き、所在は不明」と書かれています。(下の写真は、上記の国会図書館のコラムに掲載されているウラジオストク市街の風景)
※参照 https://www.ndl.go.jp/nikki/column/03/
――写真に目をつけたところがプラグマティストの榎本らしいですね。シベリア旅行を評価する2点目は何ですか。
中山 シベリアの玄関口といわれるチュメニに到着したときのことです。榎本は、地元の商家の邸宅に宿泊するのですが、そこの主人から、チュメニに駐留するロシア兵の動向を聞き出します。当時の世界情勢をみれば、とても重要な情報で、榎本の旅行がインテリジェンス(諜報)そのものであったことがわかります。
露土戦争に勝利したロシアは、1878年3月にトルコと結んだサン・ステファノ条約(停戦協定)によって、バルカン半島を通って欧州南部への南進ができるようになりました。これに危機感を抱いた英国はドイツと組んで同年6月に、ベルリンで国際会議を開き、条約の修正をロシアに飲ませます。日露戦争後の三国干渉と似ていますね。
榎本のシベリア横断はそんな時期で、榎本は新聞記事には、「インドへ侵入しようとした(ロシアの)軍隊は、カウフマン将軍の命令で三方よりブハラ国に進駐する予定」との噂が書かれていたが、その後、どうなったかを、この日の宿を提供者した商家の主人に尋ねています。ブハラからは、カイバル峠を超えて英領インド(現在はパキスタン)に侵入できます。グレート・ゲームを見据えたロシアの動きの真偽ですね。
この主人の話によると、チュメニ駐留のロシア兵は、たしかに英国のインド領を撹乱するために、タシュケントに出兵したが、露土戦争の終結で、帰路に就いているとのこと。となると、ロシアは本気でインドに侵入しようとしていたわけではないことになります。新聞記事は、ベルリン会議を主導する英国に対してロシアがけん制する意図が隠されていたことを、榎本は現地での情報収集で気づいたと思います。諜報活動の重要性を認識する出来事でした。(下の地図は中山昇一氏が作成したこの逸話に関係する地図で、Google Map を利用)
――榎本は、シベリアの中央部にあるトムスクでは、「鎮台」のおそらく司令官と面談していますね。榎本にとっては好都合な諜報活動になったでしょうが、ロシア政府は、榎本に気を許していたようですね。
中山 幕末に対日外交で活躍したエフィム・プチャーチン(1803~1883)や副官だったコンスタンチン・ポシエット(1819-1899)ら始め、ロシア政府の要人のなかには榎本ファンが多かったようで、榎本は厚遇されています。加茂儀一『榎本武揚』によると、樺太・千島交換条約の締結後、皇帝のアレキサンドル二世(1855~1881)は榎本に対してことのほか好意を寄せ、榎本はしばしば謁見を許されたり、宮廷の舞踏会にたびたび招かれたりしました。
露度戦争さなかの1877年10月、榎本はペテルブルク沖合約30キロのフィンランド湾に浮かぶコトリン島の軍港クロンシュタットに招待され、ロシアの最新の魚雷の試射を見学します。この魚雷は当時、各国が開発にしのぎを削っていた自走式の魚雷で、国家の最高機密に属する軍事技術でした。実際、翌1878年1月にロシア海軍は、ステパン・マカロフ艦長(1849~1904)の指揮による水雷艇攻撃で、トルコの軍艦を撃沈します。これは、自走魚雷による世界で初めての敵艦の撃沈として歴史に残っています。
――マカロフ艦長は、日露戦争ではロシア太平洋艦隊司令官となった人物ですね。旗艦ペトロパブロフスクに乗船中、旅順港外で日本軍が敷設した機雷で旗艦の沈没とともに戦死しましたが、「マカロフ爺さん」として国民に親しまれてきた人です。
中山 マカロフによる実戦での成功もあり、榎本武揚は自走式魚雷に強い関心を抱いたのだと思います。榎本は熱心に魚雷関係の情報収集に取り組み、外務省を通じて、海軍の関係者に情報を送りました。
ロシア政府に厚遇されてきた榎本ですから、帰国にあたってシベリアを横断したいという要望に対し、ロシア政府は快諾し、交通大臣になっていたポシエットの取り計らいで、ペテルブルク駅には榎本のために特別列車が用意されていました。さらに、内務省からは各県知事や鎮台にあてて、内務大臣が榎本公使を保証するオープン・レター(公開状)が届けられるとともに、内務大臣が各県知事と鎮台に榎本公使のシベリア旅行を電信で知らせ、万事周旋すべしと通達したことが伝えられました。ロシア政府からシベリア旅行のお墨付きを得たわけで、各地の訪問先で歓待されたり、いろいろな見学を許されたり、軍や官からいろいろ情報を得たりすることができました。
※参照 『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B) 』
https://www.johoyatai.com/3573
※参照 『榎本武揚と国利民福 最終編二章-2-(3) 海軍卿-明治14年、海軍との決別』
https://www.johoyatai.com/4842
――中山さんがシベリア旅行で榎本を評価する三点目は何ですか。
中山 ロシア帝国と中国との国境を流れるアムール川(黒竜江)の上流に当たるアルグン川に近いネルチンスクで、ロシアの地政学的な意図を見抜いたことです。
――中ロの国境争いは17世紀ごろからはじまり、20世紀まで続きますが、ロシアの意図は南進と東進ですね。ロシアは17世紀に中部シベリアから東方に抜ける最短ルートとしてアルグン川・アムール川を確保しようとして清国と衝突、1689年のネルチンスク条約でアルグン川を国境としました。しかし、アムール川までは到達できなかったので、1728年のキャフタ条約で外モンゴルの国境を画定させ、1858年になると、アヘン戦争に苦しむ清につけ込んでアムール川を国境としたうえ、アムール川の南、ウスリー川の東に位置する沿海州を清との共同管理地とするアイグン条約を結び、1860年にはアヘン戦争終結の北京条約で沿海州を獲得します。(下の地図参照)
中山 ロシアは沿海州を獲得するとすぐに太平洋に面したウラジオストクを港湾都市として建設したことで、ロシアの南進はひとまずおさまりますが、榎本は、戦略的なインフラとして建設途上にあったシベリア鉄道の視点から、ロシアの南進は避けられないと考えます。というのは、シベリア鉄道をアムール川に沿って敷設するのは難工事であるうえ、ロシア側に大きく蛇行するアルグン川・アムール川をショートカットしてウラジオストクに到達するには、アルグン川・アムール川を越えて楔形に入り込んだ中国の土地を確保する必要があるからです。榎本は1878年9月15日の「シベリア日記」に次のように書いています。
「ネルチンスク領のツルハイトゥイからブラゴヴェシチェンスクまでの東方一直線の地も、遠からずしてロシア領となるであろうことはほとんど疑いない。そのときは、わが日本とロシアとの電信の便が増して、インジレクト(間接的)に貿易上の利益までもたらすことになろう」(現代語に私訳)
――グレート・ゲームの英国にとっては認めがたいロシアの南進ですし、日本にとってもロシアの脅威が増すことになるはずですが、榎本は、貿易上の利益をもたらすと評価しているのですね。
中山 榎本は、中国が経済開発を放置しているアムール川の南側の地をロシアが占領すれば、中国には気の毒だが、地域一帯が活用され、それは世界全体の幸福に役立つと考えています。日本にとっては、欧州へのより短い鉄道路ができるうえ、アムール川沿いに張られた電信線は洪水があると切断されてしまいますが、通年利用可能な電信線を敷設できることになり、大きなメリットになります。ロシアの脅威にただ怯えるのではなく、日本への経済効果も考えています。さすが戦略的思考の榎本だと思います。
――帝国主義の領土獲得競争の時代に、経済発展をもとに相互依存による安全保障を考えていたということになりますね。先見の明ということでいえば、ロシアは日清戦争(1894~95)後の三国干渉で日本が遼東半島を領有するのを阻止した見返りにアムール川の南に鉄道を敷設する権利を獲得、1898年からシベリア鉄道の延長の東清鉄道として1901年には鉄路を完成させます。その後の日露戦争(1904~05)の敗北で、ロシアの満州占領は挫折しますが、ロシアの南進と鉄道建設は、榎本が見越したとおりになりましたね。
中山 その通りで、榎本の先見の明を示すものだと思います。ただ、ロシアが三国干渉の見返りに得た東清鉄道は、榎本が予測したハバロフスクよりも、もっと南のウラジオストクを目指すようになりました。経済的にも軍事的にも重要な不凍港を重視したのでしょう。ウラジオストク港は冬季に結氷するため、ロシアは完全な不凍港を求め、遼東半島の大連に狙いを定め、日清戦争の賠償金を支払うための借款を条件に、大連への東清鉄道の支線建設(南満州支線)を清朝の李鴻章(1823~1901)に要求し続けます。しかし、李鴻章が97年12月に借款交渉に英国を引き入れたため、大連を自由港とすることを求める英国と独占したいロシアとの極東のグレート・ゲームが顕在化します。最終的には、大連は貿易を主とする自由港となる一方、大連の南にある旅順をロシアが獲得して軍港としたため、ロシアの朝鮮半島への圧力もさらに強めることになり、日露戦争につながりました。(下の地図参照)
※参照:『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B)』
https://www.johoyatai.com/3573
※参照:『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-2-A)』
https://www.johoyatai.com/3633
※参照:『榎本3-安全保障-後編-3-2-2-B』
https://www.johoyatai.com/3733
――東清鉄道のハルピンと大連を結ぶ南満州支線は、日露戦争の引き金となりロシアに敗北をもたらすことになりましたが、勝利した日本が南満州鉄道(満鉄)としてその権益を得たことが満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争の敗北につながる起点になったと考えると、歴史の皮肉を感じますね。
榎本のシベリア日記は、当時としては世界的に見ても、水準の高いシベリアについて観察記録だったと思いますが、榎本は、この日記あるいはシベリア報告を政府にしているのでしょうか。というのも、榎本は日記の存在を家族にも隠していたようで、日記が榎本の死後に偶然「発見」され、活字化されるのは1939年から1943年にかけてです。その書籍も非売品であったり、きわめて出版部数が少なかったりして、一部の研究者しか目にできないものでした。
私たちが『榎本武揚 近代日本の万能人』(藤原書店)を2008年4月に出版するにあたっても、手にしたシベリア日記は、戦前のものをコピーしたものでした。講談社が学術文庫で『シベリア日記』を発刊したのは2008年6月で、いまでは、だれもが読める状態になっています。
中山 榎本は、ウラジオストクから小樽、函館経由で横浜港に到着しますが、迎えの催しはなく、ひっそりとした帰国でした。国内に樺太・千島交換条約に反対する勢力がいたからでしょう。加茂儀一は『榎本武揚』のなかで、榎本のシベリア旅行が喧伝されなかった理由を次のように説明しています。
「榎本が締結した条約が日本においては屈辱的な外交として非難されていたので、榎本は帰朝してもロシアにおける自分の行動に関しては遠慮して語らなかったし、その上に彼自身がそうした自分の業績を口にすることを好まない人間であったからでもある」
私は、榎本の遠慮だけではないと思います。日記には外交的に敏感な箇所があり、公刊という話になれば政府は止めただろうと思います。旅行の先々でロシア軍の情報を記録したり、ロシアの貴族たちがタランタス(田舎風四輪馬車)に頼っているのは「新しいものを好む気質のない一時しのぎの性格」と批判したり、清国の満州の放置を批判して、そのうちロシアが満州を占領し、そこをロシアの鉄道が横断すると予言したりしています。日本の特命全権公使の肩書だった人物の書物として「日記」が出版されれば、外交上、問題になるおそれもあったと思います。
――日本政府にとっても貴重なロシア報告ですから、政府の要人には「日記」を見せたのでしょうね。
中山 榎本は克明な旅行費用計算書を2冊のシベリア日記とともに残しています。それによると、シベリア横断費用は約3300ルーブルですから、現在価値に換算すると約4600万円、これに加えて、小樽から横浜までの国内での費用が約74円で、現在価値は約150万円です。この費用は榎本が立て替え、政府に請求したわけですから、この明細書とともに「日記」を報告書として提出していたと考えるべきです。
臆病風を覚ましてやると豪語し、山縣有朋の期待も強かったので、政府関係者は必ずシベリア日記を見たと思います。それなら、「日記」を政府内での機密資料に指定し、政府が保管してもいいのですが、なぜかその痕跡がありません。政府で保管となると、公的な資料ということになり、榎本の見解を政府が公認したことになるのをおそれたのかもしれません。結局、政府首脳陣や関係者は閲覧するにとどめ、榎本も自宅に隠したと考えるのが妥当だと思います。
――榎本のシベリア情報が当時、公開されなかったのは残念ですね。
中山 「日記」は公開されませんでしたが、シベリアに行こうとする人々は榎本と接触し、いろいろ教えてもらったようです。シベリア横断というと、陸軍大将になった福島安正(1852~1919)が少佐時代の1892年に馬で実地調査をした「シベリア単騎行」が有名ですが、福島は榎本の旅行から14年後のシベリア旅行にさいして、「榎本から聞くところが大いにあった」と加茂は『榎本武揚』に書いています。
榎本はアムール川に面したブラゴヴェシチェンスクに汽船で到着し、当地の鎮台(司令官)の屋敷に招かれたのち、司令官の車で市内の学校などを案内してもらうなど歓待されます。それから22年後の1900年、この地の司令官の家庭にロシア語学習を名目に逗留していたのが日本陸軍中尉だった石光真清(1868~1943)で、義和団の乱をきっかけにロシア軍が一気にアムール川を渡って清国に侵攻する際、ブラゴヴェシチェンスクなどに居住する清国人を虐殺するのを目の当たりにします。石光は情報将校ですから、榎本がこの地を訪れていたことを知っていたでしょうし、シベリア日記を読んでいたかもしれません。
榎本はアムール川とウスリー川が合流するハバロフスクで、汽船を乗り換え、ウラジオストクに向かいますが、ハバロフスクでは、当地の海軍士官に案内され、市街地を見学しています。榎本の感想は、「要害(戦略上の拠点)の地たれば将来大いに望みあり」でした。榎本の見立てどおり、ハバロフスクはロシアの極東の軍事、行政、経済の拠点として発展します。商売をはじめた日本人もいて、1896年に開業した竹下一次とテル夫妻の写真館は、やがて日本陸軍の情報将校が出入りするようになり、日露戦争に備えた諜報活動の拠点になります。榎本が蒔いた種が育ったと言えますが、竹下テルは群馬県桐生の出身で、黒田清隆(1840~1900)と関係があり、黒田といえば榎本の盟友ですから、そういうつながりもあるのです。
※参照:『榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-2-A)』
https://www.johoyatai.com/3633
※参照 『『シベリア日記』の積み残し』
https://www.johoyatai.com/3774
――桐生出身の竹下テルが薩摩出身の黒田と関係があるというのは、どういう縁なのですか。
中山 黒田は、戊辰戦争で戦死した長岡藩の軍事総督、河合継之助の遺児を桐生近在の和田家に養子として入籍させるのですが、その和田家の長女がテルで竹内家に嫁ぎます。つまり、河合の遺児とテルは兄弟ということになります。黒田はこの遺児を米国に留学させるなど支援していますし、1886年にはアムール川河口のニコラエフスク(尼港)から汽船でアムール川を上り、ハバロフスク経由でシベリアを横断して欧州に入り、世界一周旅行をします。テルはロシアで商売をするにあたって、黒田から情報を得たはずで、榎本の話も知っていたように思います。榎本のインテリジェンスの糸がつながっているように思えるのです。
――シベリア日記とその余話を知ると、少なくとも日露戦争までは、日本はインテリジェンス(諜報)活動を大事にしたし、その起点が榎本のシベリア横断だったことがわかります。そして、1878年にロシアから帰国した榎本は、1885年に内閣制度が創設され、伊藤博文内閣が発足すると、初代の逓信大臣として入閣します。榎本の「国利民福」に向けての活動が始まるわけで、次回は、そのあたりの話をうかがおうと思います。ありがとうございました。
(冒頭の写真は、国会図書館憲政資料室作成の「榎本武揚のシベリアにおける榎本収集」に掲載された防寒服姿の榎本武揚)
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