「駿河藍染」物語~民芸の一断章 改定①
プロローグ
いまから50年前、私が静岡支局の記者だったとき、知り合った染物屋の主人の話が面白く、その工房に入り浸り、染色にまつわるいろいろな話を聞き、記事にもした。静岡市の染色工芸家、秋山浩薫(本名は秋山弘夫、1920~1989)のことだ。浩薫は、型染絵で重要無形文化財(人間国宝)となった芹沢銈介(1895~1984)の「内弟子」として染色工芸を学び、静岡市内で染色工房を営みながら、藍染の職人として時に芹沢の型を染める仕事も請け負った。
芹沢は柳宗悦(1889~1961)の主導した民芸運動に加わった工芸の個人作家のひとりだった。浩薫そして芹沢のつながりで私も柳の民芸論を学んだ。私の理解によれば、柳は名もなき職人が手仕事でつくる製品に美があるとする一方、報われることの少ない職人たちを救う仕組みとして、個人作家と職人たちがともに工芸に取り組む「協団」を提唱した。産業の高度化による大量生産が手工業的な生産を滅ぼそうとしている昭和初期に、柳の「ギルド社会主義」の思想は、職人だけではなく零細な町工場に働く労働者を救済する社会思想として意味があった、と私は考えた。
しかし、柳の理論は美しいが、柳の提唱した「民芸品」は、機械生産による汎用品が浸透するなかで、人々の生活の道具として使われることは限られ、個人作家の工芸品も芸術作品として茶の間ではなく応接間に飾られていた。そのことは、高度化する資本主義的な生産方式に「ギルド社会主義」が太刀打ちできなかった証しではないかと考えた。また、個人作家と職人との「協働」は、可能なのだろうかとも考えた。これが当時の私の「民芸」理解と疑問だった。
1973年から1977年まで勤務した静岡から東京に転勤になり、浩薫との付き合いも疎遠になり、浩薫の訃報を聞いたのは米国に勤務していた1989年だった。浩薫は、自分の染色を地元の伝統に根ざした「駿河藍染」と名付け、その跡を長男の秋山淳介(1951~)が継いだ。数年前、淳介から「親父のいろいろな資料が残っている」という話を聞き、「民芸の徒」としての浩薫の人生をあらためてたどってみようという気になった。当時、私が抱いていた「民芸」への疑問への答えを見出すことができるかもしれない、とも考えた。
第1章 芹沢銈介と秋山浩薫
芹沢銈介は1895年、静岡市の呉服卸商、大石角次郎の次男として生まれ、旧制静岡中学校(現県立静岡高校)から東京高等工業学校(現東京工業大学)の図案科でデザインや工芸を学んだ。1916年に卒業後、静岡の生家に戻り、図案会社を立ち上げる一方、1917年に芹沢たよ(1898?~1983)と結婚し芹沢姓に改名する。この年から静岡県立工業試験場で蒔絵、漆器、染色、木工などを指導した。
学生時代から「白樺」に掲載された柳宗悦の東洋美術の論文などに興味を持った芹沢は、1927年に柳が雑誌『大調和』に連載した「工芸の道」に感銘し、柳らの民芸運動に参加した。1928年に上野公園で開催された「大礼記念国産振興東京博覧会」では、会場に特設された日本民芸館で、沖縄の紅型に瞠目、これが「セリザワ模様」と称さられるようになる芹沢の型染絵の原点となった。
芹沢は、1930年に静岡市三番町で染色家として独立し、柳が1931年に創刊した月間の同人誌『工藝』の表紙を手掛けたことなどで、工芸作家としての評価が高まった。1934年には、工房を東京市蒲田町(現大田区西蒲田)に移した。
一方、浩薫は、1920年に静岡市内で生まれ、幼い時期に両親をなくしたため、親類の家に預けられ、小学校を卒業するとすぐに静岡市内の染物屋「紺徳」(現:パサージュ鷹匠)の奉公に出された。浩薫が丁稚奉公の年季を終えてお礼奉公として働いていたときに、芹沢の作品を見て、これが自分の進む道だと思い立ち、芹沢の蒲田の工房を訪ねて弟子入りした。太平洋戦争直前の1940年のことだ。
浩薫の物語は第3章で詳述するが、1940年に出征した浩薫はインパール作戦(1944)などに従軍したのちサイゴンで終戦を迎え、復員後、静岡に戻ると、染色の仕事を始めた。芹沢は蒲田の工房が戦災で焼失したため、青山南町などに仮住まいをしたのち、1951年に蒲田の土地を購入し、住宅と工房を再建する。浩薫は、戦後も芹沢家に通い、1947年には、芹沢がその前年に創設した工芸家の集まりである「萌木会」のメンバーに加わった。(写真は、萌木会の宴席。中央は芹沢夫妻、2列目左端は浩薫、2番目は長沼孝一、3番目は柚木沙弥郎、撮影時期は不明)
1951年8月、蒲田に転居する芹沢を浩薫が手伝に行ったときのことだ。浩薫が「せがれが生まれたので、こういう名前にしようと思う」と名前を書いた紙を芹沢に見せたところ、「こちらのほうがいい」と言って、芹沢の書いた名前が「淳介」だった。淳介が浩薫から聞いた話だ。
「芹沢先生が私の名付け親ということになるのでしょう。先生ご夫妻には随分とかわいがられ、お世話になりました」
◆芹沢夫妻にかわいがられた
淳介は幼いころ、姉とともに、浩薫に連れられて、何度も蒲田の芹沢家に行った。浩薫が夜の会合で遅くなるときは、子どもたちは芹沢家に泊まり、たよ夫人と三女のとしさんが面倒を見てくれたという。
(写真左は、蒲田の芹沢家でたよ夫人ととしにはさまれている淳介と姉の秀子。写真右はとしの代わりに浩薫が座る。1957年晩秋=秋山家提供)
浩薫は1956年ごろに、中田東町に建てた工房兼住居を同市上足洗に移した。淳介の記憶によると、転居からしばらくして、芹沢が柳宗悦を連れて秋山工房を訪れたという。柳は、戦前から静岡の芹沢を訪ね、芹沢の友人であった鈴木篤とも親しくなり、戦中から戦後にかけては、鈴木宅に長期間、滞在したこともあったから、柳が浩薫の仕事場を見学に来ても不思議ではない。(写真は、1951年の萌木会の新年会で、静岡市の久能山を訪れた柳宗悦=後列3人目、右隣が芹沢銈介、前列左端が秋山浩薫=秋山家提供)
芹沢の弟子で、芹沢の三女と結婚した染色作家の四本貴資(1926~2007)は、浩薫が1989年に亡くなった翌年に焼津市内で開かれた「秋山浩薫回顧展」に寄せた「秋山浩薫さんのこと」という文章で、浩薫の工房について、次のように書いている。
「私が芹沢銈介先生のもとに入門して間もなく昭和31~2年(1956~57)頃、先生の要件で上足洗の新しく出来た秋山さんの工房をはじめて訪ねました。真新しい部屋、その隣りの染場、そこを裏に抜けると湧水が流れ、張場には青々とした芝生、周りにはまだ人家もまばらで、その向こうに富士山が眺められる素晴らしい環境でした。羨ましがっている私に向かって得意そうにしていた秋山さんの顔が今でも目に浮かびます」
秋山工房の敷地は約80坪(約250平米)で、蒲田の芹沢家の約500坪(約1600平米)よりはずっと狭いが、裏は田んぼで見晴らしが良く、富士山も眺められるとなれば、浩薫の得意顔も理解できる。芹沢とともに妻のたよも浩薫の工房を訪れていたようで、秋山家のアルバムには、後背地が田んぼになっている秋山工房でたたずむたよの写真が残っている。宅地開発が進んだ今の工房あたりは、住宅の密集地になっている。(写真は、1959年9月に秋山工房を訪れた芹沢たよ)
◆芹沢夫妻の思い出
淳介は高校生になると、浩薫が芹沢から頼まれて染めた布を芹沢家に何度か届けたことがあったという。淳介から見た芹沢の印象は「瞬間湯沸かし器」だ。機嫌が悪いとぷいと横を向いたり、外に出て行ってしまったり、だったという。
『芹沢銈介全集』第19巻の「月報26」で、パリで1976年に開かれた芹沢銈介展をめぐる苦労話として、アジア民俗学者の金子量重(1925~2017)は、次のように語っている。
「(芹沢)先生ににらまれてガーッと怒鳴られると、みな震えあがっちゃうからね。口が出なくなる。あれはぼくも経験があるからわかるな。(笑)」
淳介の芹沢家通いがふえたのは、1971年から3年間、東京の大塚テキスタイルデザイン専門学校(現、大塚きもの・テキスタイル専門学校)で学んでいた時期だ。淳介は、巨人阪神戦で巨人が勝ったときに、よく芹沢宅を訪ねたという。夫妻がそろっての巨人ファンだったので、勝った日の翌日は、必ずすき焼きだったからで、食卓でご相伴にあずかったという。
淳介によると、たよ夫人が用事で静岡に行く時に、帰省する淳介も同伴したことがあるという。東海道新幹線は開通していたが、たよ夫人は「急ぐ旅はいやだ」と言って、在来線を使った。乗り換える熱海駅では東華軒の「鯛めし」を買い、車中で、そぼろの鯛をおいしそうに食べていたという。
「たよ夫人が鯛めしを好物にしていたのは、先生がアマダイのひらきが好きだったせいかもしれません。興津鯛と言って静岡の名物で、ときどき親父が先生に送っていました」
「興津鯛」と名付けたのは徳川家康で、興津から献上されたアマダイの一夜干しに感動したからとか、江戸城の興津という名の奥女中が調理したアマダイがおいしかったからとか諸説ある。静岡の出身者にとっては、郷土のなつかしい食べ物のようだ。浩薫が買い求めていた興津鯛は静岡市紺屋町の「平野屋」のもので、店の創業は寛永14年(1637)という老舗、いまも「興津鯛」の看板を掲げ営業している。
静岡駅で浩薫と淳介の親子がたよ夫人を出迎えたのは、たよ夫人の墓参りのときで、夫人は芹沢の生家である大石家と夫人の生家である芹沢家の墓参りをしたという。墓参りをすませたあとで、秋山家に寄ることもあったという。芹沢が墓参りときは、静岡市末広町にあった塩沢染物店の主人、塩沢源吾と話して帰ったという。
塩沢家は芹沢が大学を出て静岡に戻ったときに、染色を芹沢に教えた紺屋で、芹沢が1930年に静岡で独立したときには、主人である塩沢弥太郎の弟、塩沢勝次郎が職人として芹沢工房で働いた。また、芹沢が蒲田に移ったときは勝次郎の弟、虎之助が同行して蒲田の敷地内に住んだ。弥太郎の跡を継いだのが源吾だった。静岡の紺屋の歴史を研究している稲葉昌代は、芹沢と塩沢家との関係を次のように記している。
「塩沢家なくして人間国宝『芹沢銈介』は生まれなかったと言っても過言ではない」(稲葉昌代「紺屋及び職人を取り巻く今日的課題」、2013年『常葉大学短期学部紀要』44号所収)
「法被紺屋」と呼ばれた老舗の塩沢家は、源吾の跡を継いだ勝利の代になってからの1992年、本業だった紺屋の店を閉じた。後述するが、塩沢源吾は静岡に芹沢記念館をつくろうと言い出したひとりであり、それが現在の静岡市立芹沢銈介美術館につながった。
たよ夫人の墓参りは、芹沢が1970年代に東京都品川区上大崎の最上寺に墓を移したことで、終わった。最上寺には、奉納された芹沢の作品が残され、夫妻もここの墓地に眠っている。
芹沢は、大原美術館を創設した大原孫三郎(1880~1943)の長男、総一郎(1909~1968)と親しかったこともあり、大原美術館工芸館の内外装や展示の設計品に取り組んだ。1961年には陶磁館、1963年には棟方志功館と芹沢銈介館が完成し、1970年に東洋館ができた。浩薫と淳介の親子は開館式に出席した。開会式には、濱田庄司、棟方志功らも出席、淳介にとってはなつかしい思い出だ。(写真左は、大原美術館東洋館の落成式に訪れていた濱田庄司、後ろは秋山淳介。写真右は芹沢銈介、後ろは棟方志功=秋山家提供)
◆芹沢の型を染めた浩薫
淳介は子どものころから家業の手伝いをしていたので、静岡市の芹沢美術館の展示作品などを見ると、「これは親父が染めていた」と、わかるという。
秋山家のアルバムに、芹沢の「山」と「水」の文字を抜いた布が秋山工房の前に何枚も干してある写真がある。1973年ごろの風景と見られる。文字の部分には防染糊がついていて、このあと、布地を藍がめに漬けて染める。『芹沢銈介全集』第19巻に掲げられている完成品は、大原美術館所蔵で制作は1953年とある。芹沢は浩薫に型紙を託したまま、同じ型紙で何度ものれんなどを染めさせていたというから、この山水のれんは大原美術館と同じ型のようだ。(写真上は1973年ごろ、静岡市上足洗の秋山工房で撮影された制作途中の「山水の字のれん」、下は『芹沢銈介全集』第19巻に掲載されているのれん)
秋山工房で染められた芹沢の型染めは、藍だけではない。秋山家に残る「蔬果文」(野菜と果物の模様)の3枚の布地は、綿布の藍のほか、麻布の金茶と綿布の黄色がある。藍以外の2色は、渋木(ヤマモモの樹皮)で染めたもので、布地の違いで色が変化するのだという。この模様を切り抜いて屏風にしたものが『芹沢銈介全集』第21巻に掲載され、1970年ごろと書かれている。
秋山家にある布地をよく見ると、色がにじむなど「傷」が入っているものもあり、そのために芹沢に送られなかったものだろう。今風に言えば、「訳あり」の布地だが、浩薫が藍以外の染めも芹沢から引き受けていたことの証しにもなっている。型紙も秋山家に残っている。(写真上は、秋山家に残る蔬果文の3枚の布地とその部分図、中は複写した型紙。下は『芹沢銈介全集』第21巻に掲載されている蔬果文二曲屏風)
(文中の敬称略。冒頭の型染絵は秋山淳介氏の作品)
改定について:「駿河藍染」物語は、「駿河藍染」2代目の秋山淳介氏の話をもとに、聞き書きのスタイルで書き進めてきました。しかし、③になって、秋山浩薫氏の人生を取り上げて書くうちに、聞き書きの部分よりも、秋山浩薫氏が残した文章や私が秋山氏から取材した私の記事などが主軸となってしまいました。このため、①と②についても、③以下との整合性をはかるために、聞き書きスタイルをやめ改定版として書き直しました。淳介氏からは、面白い話をたくさん聞いたのですが、一部の確認できない逸話については、残念ながら割愛しました。
この記事のコメント
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貴重なお話をありがとうございます。
マリメッコ同様に、世界に羽ばたいたかも知れない萌木会、続編も楽しみにお待ち申し上げます。
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心がほっこりするお話でした。
ありがとうございます。