榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-下編-1
図1.興亜会大坂第二分会会員名簿の一部
興亜会は明治13年(1880年)2月の創立時、入会時に10円以上払うと創立員、2円の支払いで同盟員に会員は分類されました。会員数は『設立と同時に急激に増え半年後には二百人余、一年後に四百人余』へ増加しました。(黒木彬文『興亜会基礎的研究』熊本近代史、第22号、1979、p.179)
興亜会の組織は、東京本会、神戸第一分会、大坂第二分会(五代友厚分会長)、福岡分会、附属学校で構成されていました。大坂商法会議所に支那第二分校が開校され、後に大阪市立大学の前身となりました。興亜会は西日本側に組織を展開しました。毎月一度、親睦会が開催されました。
大坂分会の創立員の一人、大三輪長兵衛*(後述)は朝鮮の内政に深く関わった日本政府の代理人だったことで知られています。
*おおみわ・ちょうべえ、1835年 〜 1908年、福岡生、実業家。次編で補足。
興亜会発足当時の会員の構成を、佐藤三郎『興亞會に関する一考察』(山形大学紀要、1951、p.3)から引用して紹介します。
『発会当時の興亜会の会員は百五十名を数えているが、日本人がその大部分を占め、中国人は何如璋以下公使関係者が主なるものであり、更に日本人の顔触を見るに、少数の軍人も含んではいるが、華族官僚漢学者当時の古典的教養人がその多きを占めて居る。従って此の会は、その名称や右に掲げた曽根俊虎の言葉*の中からは政治的会合たるの性格が予感されるにも拘らず、はじめはその様な性格よりはむしろ、日中両国の文化 人が毎月一回一堂に相会して文雅を談ずるの態の文化的社交的会合の色彩の方が強かったようで、之にはまた次第に東京在留の朝鮮人も加わるようになった。』(原文は旧字体)
*前出、佐藤論文p.3の曽根が何如璋へ説明した設立趣旨からの引用。
『興亜の二字は、我が亜細亜の衰頽萎菲[すいたい・いひ、いび]の大局を挽回せんことを要するの意なり。陬*ち談[、]全州の衰頽を挽回せんと欲する時は、亜洲の諸邦は合従連衡相共に心志を同じく緩急相扶けくらく相共にするに非ずんば勢可ならざる也。・・・(アジアで独立・主権を保っている国は日本と清国のみで、しかもこの二国は同文同種だから、緊密の関係になりアジアを振興しよう、同種で反発してはいけない)』(原文は旧字体、菲は靡(び)の当て字として使ったのか?陬の慣用音はすう、隅の意。)
【補足】
黒木・鱒沢『興亜会報告・亜細亜協会報告』(1993、pp.5〜8)から引用。
「創立直後の東京本会の職種別の員数の順位は、外務省役人、通商貿易業者、海軍軍人、新聞人(主に「朝野新聞」にいる都市民権家)、宮内省役人、大蔵省役人、興亜会学校生徒だった。同盟員では、海軍省軍人、内務省役人、新聞人、通商貿易業者、修史館役人(漢学者)、興亜会学校生徒、外務省役人だった。会員達が、アジアの振起、独立を願っている点は共通だが、会員の目的は政治、経済、儒教思想、漢文・漢詩の伝統文化への嗜好と幅広いばかりか、政治的立場では、藩閥政府の非主流派で非藩閥出身者、さらに政府支持者と政府批判の在野の自由民権論者に分布した。」
伊藤ら政府主流派の首脳は、興亜会との関わりを持たず、伊藤博文や松方正義、板垣退助らは、明治24年に創立された「東邦協会」に入会し*、会員の中では最高額の寄付行為をしました。また、自由民権派の中で板垣退助の土佐派は、専制支配されているアジア各国の民主化を先ず行わなければ、アジア諸国が連携して欧米に対抗し得ないと、『文雅を談ずるの態の文化的社交的会合の色彩の方が強』い興亜会を批判しました。
*朝井 佐智子『日清戦争開戦前夜の東邦協会』愛知淑徳大学(現代社会研究科)博士論文、2014
東邦協会会報に記載された、東邦協会設置の趣旨『・・・東邦協会を興し東南洋の事物を講究する、或いは時流に逢ひ迂闊の嘲を受くるあらん、然りと雖も吾人の目的は敢て世論の賞賛を買ひ袂を一時に求むるにあらす、小は以て移住貿易航海の業に参稽の材料を与へ以ては域内の経綸及ひ国家王道の実践に万一の補益を為し、終に東洋人種全体の将来に向て木鐸たるの端を啓くことを得は吾人此の協会を興すの微衷亦遺憾なし。明治24年4月』
『明治一四年九月二〇日、副島種臣興亜会会長は伊藤博文参議に入会の 勧誘状を出したが、伊藤は入会してくることはなかった。また、後年、 榎本武揚が亜細亜協会会長のとき(明治二三、一二、三)、 協会主催の清国公使送別会の招待状を伊藤にだしているが、彼はこなかった。この例か らも推測されるように、藩閥上層部への入会勧誘もしていたが彼らは入 会してはこなかった。』
−清国、朝鮮国側の反応
初代駐日公使、何如璋の書記として訪日した黄遵憲*¹は、中華思想から欧米列強の侵入に対し反応するのではなく、列強の先進的科学技術を理解し、学び、摂取するべきだという冷静な思考の持ち主でした。当然、訪日すると黄遵憲は日本の維新後の日本社会の変貌と発展に注目し、観察しました。さらに「興亜」の議論に共鳴し、興亜会の会員にもなりました。黄遵憲が交友した日本人の中に榎本武揚もいました。*²黄遵憲は榎本の漢詩も残しました。*³
*¹コウ・ジュンケン『[1848~1905]中国、清末の詩人・外交官。広東省嘉応州の人。字(あざな)は公度。初代駐日公使の書記として来日しており、日本の政治家・文人と交わり、日本研究を行った。また、詩文に優れ、文字改革や新詩運動を推進した。変法自強(へんぽうじきょう)運動に参加したが、戊戌(ぼじゅつ)の政変で失脚。著「日本国志」「日本雑事詩」「人境廬詩草(じんきょうろしそう)」など。ホワン=ツンシエン。』(コトバンク)
*²肖朗 [著]『清末の教育改革論の思想的展開と特質 : 近代日本と中国の文化・教育交流史研究序説』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3126128 (参照 2023-11-15)、pp.93-95
*³佐藤論文、p.411(13) 、人境廬詩草 巻七 續懐人詩
『帕首靴刀走北門、竟從逋盜作忠臣。一腔熱血興亞會、認取當年蹈海人。』
1880年(明治13年)6月に『金弘集は58人の大規模使行員を引き連 れ、関税問題と仁川開港問題を論議するために日本を訪問』*¹しました。『朝鮮修信使とは,1876年 か ら1883年 にか け,四 度 にわた って日本に派遣された朝鮮の外交使節 』*²でした。金弘集*³らは第二次修信使として、6月26日から8月11日にかけて日本に派遣されました。
*¹李孝庭『朝鮮修信使の来日記録研究 ―もう一つの近代―』国際基督教大学 大学院 比較文化研究科博士論文、2014
*²落合弘樹『朝鮮修信使と明治政府』駿台史学第121号1-20頁,2004年3月
*³きん・こうしゅう(キム・ホンジプ)、1842-1896、朝鮮李朝末期の政治家。(途中省略)生涯にわたり終始国家非常の難局に当たった悲劇の政治家であり、俗に「雨天の下駄」と称された。コトバンク(森山茂徳)から引用。
『此の時の修信使[金弘集]は、表面は先に日本から公使を派遣したことに対する答のためであるが、実は当時日鮮間の重要となっていた通商条約の締結について、 日本外務当局の意向を探るべき内訓を奉じて来たもので、東京に来てからは日本政府当局と折衝を重ねる外、清国公使館の何如璋・張斯桂*¹正副使や参賛官*²黄遵憲と頻り[しきり]に往復し、外交についての意見を交換していた。この時日本政府は、朝鮮のとりつゝある対欧鎖国政策は 国際情勢より見てその継続は到底不可能であると判断し、政策の転換を奨めたが、清国公使館側の見解も之と略[ほぼ]一致して居り、殊に黄遵憲は、個人的にはロシアを以て日清三国の恐るべき共同の敵であると考え、朝鮮は宜しく宗主国たる清国に親しむと共に隣邦日本とは小異を捨て大同について旧交を修め三国協力して領土の保全に努むべきであり、又アメリカ合衆国は建国以來先王の遺訓を守り、礼儀を以てを建て、土地を貪らず人を欺かず他国の内政に干渉せず、常に弱国を扶助し公義を維持することを方針としているから、須く之と締約してその支持に依頼すべきであると説き、修信使の帰国に当たっては「親中国、結日本、連美(米)国」の趣旨を説いた彼の「朝鮮策略」一部を贈った。黄の論説は一行に深い感銘を与え、金弘集は帰国後朝鮮策を國王に奉呈し、朝鮮王及びその近臣等もその説に強く動かされる所があったが、黄の説く所は或るに於て は興亞舎の趣旨と一致する所があり、又黄自身も興亞の有力な會員の一人であったのであるから、興亜会の存在がこの修信使一行に及ぼしたと考えられる影響力は、決して小さなものではなかった筈である。』(佐藤論文、p.4)
*¹字を魯生といい、浙江省の生まれで、生員の資格は得たものの、それ以上は合格できず、挙人を捐納した。 1874年、日本の台湾出兵の際に、随員として台湾に赴き、対日交渉に参加した。1877年に公使館副公使に任命 された。陳捷2003、鄭海麟2006、劉雨珍2010など参照。出典、佀紅娜『清国初代駐日公使館員と日本女性』岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第38号 (2014.11)
*²『[清朝の]在外公館員は参賛官(参事官)、領事官、随員(下級館員)、翻訳官(通訳官)、翻訳学生(通訳見習い)より構成された。』箱田恵子『外交制度改革と在外公館』京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター、20世紀中国の社会システム : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告、2009
滞日6年の姚文棟*は『亜細亜の局勢は、中国主と為り日本之を輔け、兄弟の如く手足の如く・・・』してこそ、欧米に対し興亜が実現できるのに、亜細亜の失態は日本の責任だと論じました。興亜会は、日本の台湾出兵や琉球処分が原因で清国内での評判は芳しくないものの、清国内の外交部門はその動向には関心をもっていました。日清戦争時、日本が要求するであろう賠償額の論議が起こると、新聞誌上に、日本には興亜会のように清国に友好的な会があるくらいなので、日本は過酷な賠償金を要求しないのではという投稿もあり、興亜会の存在は清国民にも知られていました。(佐藤論文、p.10)
*よう・ぶんとう、 1853-1929(出典 早稲田大学古典籍総合データベース)
明治14年に清国公使、黎庶昌(れい ・しょしょう、1837‐1897、貴州省遵義県)の部下として来日した。姚文棟は在日中、中国で失われた書籍を集め、上司の黎庶昌は帰国して復刻した。(コトバンク『黎庶昌』)
興亜会の会勢は、明治14年に400人*になりましたが、明治15年の壬午事変、17年の甲申事変により、日清関係が悪化すると、活動が低調になっていきました。明治16年1月の会合で清国人会員から、「興亜」という名称を日本の団体が用いることは不適切だという強い批判的意見があり、「亜細亜協会」へ改称しています。日清戦争後、明治33年3月に亜細亜協会は、榎本会長の手で「支那保全」を主目的にした「東亜同文会」*¹と対等合併という名目で、吸収合併されました。亜細亜協会員のペルシャ、トルコ、タイの人々は東亜同文会の名誉会員に移行しました。東亜同文会の榎本の交渉相手は、興亜会初代会長だった長岡護美*²でした。榎本は東亜同文会の大陸保全委員会の委員長に就任しました。初期アジア主義時代が終了しました。
*¹東亜文化研究所『東亜同文会史』霞山会、昭63、pp.32-33、p.682
政府補助金の獲得に向けて、東亜会の衆議院議員平岡浩太郎(玄洋社)は政府へ、興亜諸団体への補助金を働きかけ、これに対し政府は交付先の一本化を求めた。結局、東亜会と同文会のみの合併になった。東亜会は、孫文らの清朝打倒の革命派を支援すること、同文会は清朝を援助して列国の分割を防ぐことを目指していた。合併にあたって双方の主張が対立した。
*²前掲書、p.287
ながおか・もりよし(1842-1906) 肥後(熊本)藩主細川斉護の第6子。勤王派として明治維新に活躍。外交官、元老院議官、貴族院議員。子爵。(引用元:コトバンク)
【補足】
興亜会内では会員間の社交クラブとして機能している間は清国公使館員には歓迎されていたが、日本人の会員が『朝鮮の現実に関心が高まり、彼等の間に開化党を援助して朝鮮内政の改革を行わしめることが興亜の方策であるとする気分が濃くなるに及んで、会員たる日中両国人の利害が一致しなくなったのは当然であり、・・・』、『自国本位の日本人に対する中国人の反発』を招き、『興亜会が詩文交歓の会合以上に発展し得なかった限界』が表面化しました。その結果、明治16年正月、清国人から日本が「興亜」という名称を用いることに強い反発が起き、激論の末、興亜会は「亜細亜協会」に改称されました。この対立は、明治17年12月4日の甲申の変をきっかけに爆発しました。その後の会合に清国会員の姿は見えなくなり、会合は閑散としていきました。(佐藤三郎『興亜会に關する一考察』山形大学紀要、1951、pp.7-8)
明治新政府が日清修好条約を破り、米国人らのアドバイスを受け、国内問題と抱き合わせにして台湾出兵を強行し、中央アジアへ波及した清朝の弾圧へのイスラム教徒の反乱へロシアが介入して起きたイリ問題を明治新政府が利用して琉球処分を決行したにもかかわらず、興亜会設立の趣旨や日清韓―三国提携論は清国や朝鮮国で受け入れ、賛同する人が登場しました。こうした民間での私的努力は無駄だったとは言い切れず、短期間ながら成果を生み出すことが出来たことに注目するべきです。民間人のまずは友好と相互の言語の疎通を目指した努力を無駄にしたのは、明治新政府が起こした日清戦争でした。
榎本は、明治9年5月16日付けの山内堤雲宛の書簡には、『朝鮮を日本の領土にしない限り朝鮮を独立させることが最上』であるが、『朝鮮は力や智や富においては日本よりも劣っているから、朝鮮を同盟国とすることは全く心違い』と書きました。また、榎本は、明治新政府は、表向きは承認しないが、『朝鮮の農民が苛政に苦しんでいるので日本へ、例えば、北海道へ移住させることを提案して』いました。(加茂儀一『榎本武揚』p.488-489)
江戸時代に、勝海舟が提唱し、実行に移していた欧米列強、特にロシア帝国の南侵に対抗する安全保障策、日清韓の三国合従連衡は、結果的に勝が地図を眺めていたら考えついたロマンス、夢物語に終わりました。明治初期から国際平和のため「世界政府」の必要性を主張する民権運動家が多くいましたが、日本にとっては、海外の実情を収集し、理解することがまずは必要な時代でした。
―政府に復帰した榎本の去就
明治14年5月7日に宮内庁御用掛、皇居造営御用掛を命ぜられ政府に復帰した榎本は、翌年明治15年5月27日に皇居造営事務副総裁に就任しました。総裁は三条実美なので、榎本は建築プロジェクトで実質的なトップでした。前回*紹介したように、6月21日に興亜会会長として金玉均らを興亜会の交歓会に招きました。
*『榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海外向け-中編』 http://www.johoyatai.com/6253
明治6年5月5日に炎上した明治宮殿の再営は、紆余曲折を経て、『明治14年5月17日に、コンドル*に委嘱して設計および地質調査を行ってきた洋式謁見所(山里正殿)計画が,翌15年3月17日に確定し,・・・ 明治宮殿の造営機関として,明治 15年5月27日に 設置された皇居造営事務局は,工部・宮内省官員に加 えて,各方面の人材を動員し,国家的大事業にのぞむ体制をととのえたものであるが,建築造営組織としては明治時代全般を通じて最大の組織を誇るものであり,「明治前半の日本建築界の知能と技術の総力を結集した組織」といわれて』おり,組織は,『皇居造営事務局設置, 総裁・副総裁・調査課・主計課・監材課庶務 掛・建築掛 (設計・製図方・機械方・土木方・庭園方)』で構成されていました。
この一大国家プロジェクトの初代トップとして、榎本が就任しました。この建築プロジェクトでは、洋式(石造)を推す工部省と和式(木造)を推す宮内省とは対立していましたが、榎本の清国への転任が決まった後、『翌16年4月23日に洋式謁見所建設は中止になり、同年7月17日に[宮内省の]木造仮皇居案に最終決定』しました。
出典 小野木 重勝『皇居造営機構と技術者構成』日本建築学会論文報告集、1972 年 195 巻 p. 75-77
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijsaxx/195/0/195_KJ00003749957/_pdf/-char/ja
*ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、コンダー)1852.9.28 - 1920.6.21、ロンドン生。英国の建築家、工部大学校造家学科教授となり、日本人建築家の育成にあたる。’88年建築事務所を設立し、東京や横浜を中心に官庁や大使館、ホテルなど多くの設計をする。また日本芸術に関心を持ち、美術や建築、庭園についての著作により、欧米でも知られる。(コトバンクから引用)
図2. 壬午軍乱に対し機密かつ緊急に清国特命全権公使の選任を建言
『機密 今般朝鮮国亰城之事変ニ付今日ノ形情ニ拠レハ支那政府之挙動ハ最モ注意ヲ要スル儀ニ有之候間此際速ニ特命全権公使ヲ御選任御派遣相成度此段上申候也 明治十五年八月六日 外務卿代理 外務大輔吉田清成 太政大臣三条実美殿』
出典「海軍中将榎本武揚ヲ特命全権公使ニ兼任シ清国在勤ヲ命ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023639000、公文別録・朝鮮事変始末・明治十五年・第二巻・明治十五年(国立公文書館)
7月23日に朝鮮半島で軍乱が起きました。壬午の変または壬午の軍乱と呼ばれています。榎本の同志、ロシア公使時代の部下である花房義質公使は、京城 (ソウル)の公使館が暴徒に包囲され襲われると、公使館から犠牲者を出しながら、公使館員や邦人を引率し、暴徒に包囲されながら済物浦(仁川港)まで二晩かけて避難してきました。仁川沖合の英国測量船に救助され、7月29日に長崎に到着し、花房は7月30日に東京の井上馨外務卿へその緊急事態と、京城へ戻り事後処理をするには充分な護衛艦と護衛兵*が必要であると打電しました。
*崔碩莞(チェ・ソクワン)『日清戦争への道程』吉川弘文館、平9、p.5
参考
黒木彬文・鱒澤彰夫『興亜会報告・亜細亜協会報告』(全二巻)不二出版、1993
黒木彬文・論文
『興亜会の基礎的研究』近代熊本(第22号)、1979
『興亜会の成立』政治研究(30号)、1983
『興亜会のアジア主義と植木枝盛のアジア主義』福岡国際大学紀要No.9、2003
狭間直樹・論文
『初期アジア主義について史的考察(1)~(7),最終回 』霞山会、東亜410(2001.8)~417(2002.3)
F.Aマッケンジー著、渡部学訳注『朝鮮の悲劇』東洋文庫222,1972、p.21
崔碩莞(チェ・ソクワン)『日清戦争への道程』吉川弘文館、平9、p.121
黒田清隆は花房の報告に反応して、早速、三条実美および岩倉具視に意見書を提出しました。井上馨外務卿は、岩倉に意見書を提出し、山縣と協議し、31日に閣議が開かれました。閣議と議論は続きました。黒田は、8月5,6日と続けて岩倉に書簡を出し、その中で榎本がこの事態において清国公使として適任であると主張しました。
『・・・清国および朝鮮情勢の推移を視野に入れつつ、欧米列強に対する国家体面の保全のための対朝開戦をつよく主張した上、つぎのように付け加えた。「今般二挙ニ付テハ尤モ及注意可相成ハ魯清両国ニ有之、清国ハテ兼テノ緩慢ニモ不似軍艦派出意外二神速ナル其心ヲ朝鮮ニ用スルノ深キヲ察スヘク、其調停ノ説御論絶ノ筈ニ御決定ノ趣二候処、当北京駐在ノ公使速ニ御撰任御派遣相成度」「其人撰ハ自ラ御評議モ可被為在候得共、榎本武揚其任ニ適ヒ候歟下愚考仕候」・・・』(出典 崔『日清戦争への道程』pp.8-9)
8月10日の吉田外務大輔宛ての訓電には、内閣は榎本を北京に派遣することに決定したと冒頭書かれていました。8月12日付けで榎本に駐清特命全権公使への転任命令が出ました。
駐日清国公使は、朝鮮国は清国の「附属国」だから、朝鮮に軍艦および兵隊を派遣し、壬午の変に関する外交交渉は清国が対応すると日本政府に申し出ましたが、日本側は、我が国は朝鮮国と直接条約を結んでいる「条約国」の関係なので、朝鮮国と二国間交渉(bilateral negotiations)をすると回答しました。しかし、清国側は引き下がる様子がなく、さらに米国が朝鮮と日本の間を仲介したいと申し出てきました。列強がこの壬午の変に対し、列強が介入することを閣議のメンバーは心配しはじめました。列強の動きが、井上外務卿らが一旦は「属国非属国」を名分として開戦を模索しましたが、今回は非戦の方針へ傾きました。
かくして榎本は9月22日に家族を引き連れ、北京に向け横浜港を出帆しました。途中、神戸港に着船すると、京都からからやってきた京都府知事、榎本の協同経営者(北辰社)、北垣国道が榎本一行を出迎えました。さらに、大倉喜八郎が大阪から榎本を訪ねてきました。榎本は家族を連れて京都へ出向き、自身は井上外務卿と密会する予定でした。その後、清国へ向かいました。
(榎本隆充編『榎本武揚未公開書簡集』p.76)
―清国で試みた榎本のインテリジェンス活動
榎本は自費をもって諜報員を雇用しましたが、成果はなかったと井上外務卿に報告しました。
以下は、関誠『日清開戦前夜におけるインテリジェンス』(ミネルヴァ書房、2016、p.108-110)からの引用です。
『・・・壬午事 変から天津条約までの時期に既存の情報体制の中心にいたのが駐清公使榎本武揚であった。榎本は歴代駐清公使の中でも比較的情報活動への関心の強い人物 であったようで、その報告書中に情報活動に関する記述が散見される。1883 年3月1日の機密信第8号は、主に清国政府の対日方針や清国情勢を検討したものだが、その過程で榎本の用いた主な情報源が窺える。まず、榎本の「私俸」で雇った清国人が挙げられる。 しかし、同機密信で榎本は、彼らの報告は多数あるが一向に信用できるものがないと酷評している。 榎本は、別の機密信でも、こうした清国人の具体例として、・・・ 榎本が「私俸を給与」して使っている武[恩佑]は, 「毎月数次之密報」をもたらすが「殆ントートシテ信ヲ措クベキ者無之二付、モハヤ不達継雇セント相決候程」と述べている。これらから、榎本が「私俸」 を使う程情報活動に関心があったことがわかると同時に、私棒を与えた清国人の情報は信頼できないものであったことがわかる。 ・・・ 外務省の対清情報体制が人的資源だけでなく資金面でも不十分なものであったことが表れている。・・・』
『・・・正規の外務省情報体制が貧弱なため私俸を費やした情報活動でも成果が得られなかった榎本は、結局外務省の情報体制の外に情報源を求めざるを得なかったことがわかる。それは各国の「当表駐箚公使」と「当表陸軍省派出之者」である。前者は通常の外交官の情報活動である ので注目されるのは後者となる。 榎本は,「当表陸軍省派出之者」つまり駐清公使館附陸軍武官と、信頼のおけそうな情報があれば 「互ニ為相知合」情報 交換を行っていたとしている。 実際に、榎本の任期中に公使館附武官であった福島安正*¹が芝罘*²周辺の軍備について詳しく報じた私的書簡が残っている。こうした陸軍の情報を榎本は高く評価しており、83年5月の機密信で、在清各国 公使も「現下支那陸軍ノ実況ト其兵政ノ如何」は把握困難だが「幸にして我邦 よりは陸軍派出官各処に在て始終此一科に注目し詳細の報告少からざるべきに付支那の実力如何を判する一大助を為すべし」とし、「現下派出武官の外猶又学識ある武弁」を追加派遣 し「時二 [清国の] 内地を旅行せしむる事も必用」として陸軍情報体制のさらなる強化を主張している。このように榎本の情報源で壬午事変以前の時期と比べ注目すべきは陸軍情報であるが、これは多分に榎本と福島という情報活動に熱心な人物同士の属人的要素であったとも思われ、外務省の対清情報体制が恒常的に強化されたとは判断しがたいものであった。
以上のように、事変後に外務省が実施した芝罘領事館開設と留学生制度創設という2つの情報体制強化策はすぐには機能しなかったため、属人的・間接的 な陸軍情報の獲得以外では外務省は情報関係者や政府指導者層で問題視された壬午事変時の情報体制とほぼ同様の体制で天津条約前後の時期を迎えることに なった。』
榎本は、駐露特命全権公使時代の医師兼学術調査官ポンペのようには諜報活動はできなかったものの、関誠氏の研究成果から、駐清公使館附陸軍武官、福島安正大尉と協力して複数の情報源から入手した情報を分析し、活用したことが分かりました。尚、海軍の対清国情報収集活動に関する項では、黒川帯刀の提言による情報体制改革を行う前の曽根俊虎らの活動が論じられ、曽根俊虎の現地補助者たちは、興亜会語学学校卒業生らであることを明らかにしています。大久保利通や何如璋らが望んだ語学学校設立の成果とは、違ったものでした。
明治のこの時期は政府が担うべき活動を民間団体が民間人の出資、会費を資金に設立して、実行されているところにこの時代の特徴がありました。
出典 関誠『日清戦争以前の日本陸軍参謀本部の情報活動と軍事敵対外認識』国際政治、(通号154) 2008、pp.14-19
*¹ふくしまやすまさ、1852-1919、長崎出身。出典『福島安正関係文書』
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/fukushimayasumasa.html
明治25年、バルカン半島を視察の後、シベリア鉄道建設の状況視察のため、1年4ヶ月をかけてベルリンからウラジヴォストークまで単騎横断をした。(コトバンク)
福島安正『伯林より東京へ単騎遠征』小西書店、大正7 https://dl.ndl.go.jp/pid/960800/1/1
*²チーフー(しーふー)。中国山東省の都市、煙台(えんたい)の古称。山東半島の北側にあり,北西に芝罘半島,北に崆峒島を控えて天然の良港をなす。青島ともつながる藍烟鉄道(藍村~烟台)の終点として内陸との交通に恵まれ,商工業も発達して半島北側第一の都市である。(コトバンクから引用)
参考
『・・・天津到着以後便船之都合悪ク心算ヨリ無益ノ一週間餘ヲ費候処去ル二十七日芝罘へ帰港夫ヨリ当地近傍ノ視察ニ着手仕漸ク本日午後迄二・・・
[明治16年] 十月三十日 安正拝
榎本中将閣下
時下御龍体為国家御自重』
この書簡は、さらに、大沽*¹、牛庄*²、福山県の軍備を報告している。
*¹タークー。渤海湾にのぞむ天津の外港。(コトバンク)
*²ニューチャン。海城市牛荘鎮のこと。『かつては遼河の河口に位置したため、遼代以来満州の海の玄関として栄えており、清代中頃にはその繁栄は頂点に達した。1858年に清が結んだ天津条約で牛荘は条約港となったが、土砂の堆積で大きな船が入れず、1864年により河口に近い営口に新港が建設されて条約港が移り、以後衰退していった。日本は営口に置いた領事館を「牛荘領事館」と呼称している。』(wiki)
図3. 芝罘、牛荘の位置
―李鴻章の涙
以下は、1884年(明治17年)8月27日付、天津にいる武揚から東京に戻っている多津への手紙の文中から李鴻章に関する箇所を抜粋しました。
(先に榎本が、後に多津たちが帰国し、明治17年3月から7月まで榎本の家族は国内に戻っていたが、清仏間が交戦状態になったため、榎本だけ7月31日に清国に向けて出帆した)
『扨[さ]て昨日は李鴻章を訪ひ一時半許りの長話いたし今日は同氏事参られ二時半餘の長話 (差向ひ)いたし候 同氏は拙者の厚意を感じ殆んど涕[なみだ]を浮かべ何事も隠さず打明て話し 北京着の上は劻貝勒(キョウバイロイ、是ハ恭親王の跡役即ち総理衙門の親方)を暁(さと)し呉よと達て懇願いたされ候 又李氏には朝廷 に人物なく己れの建言は行はれず仏艦は荒れ廻り実に処置 に苦む何とか致し方はこれある間敷く哉と実情を以て相談 これあり実以て気の毒千万に存じ候 其事柄と答振りは 長々敷き事且つ宅状に認むべき事にあらざるを以て略す 何に致せ拙者に極機嫌を取り格別手厚にモテナスは素より 趣意*ある事なるは拙者承知いたし居り候へ共是は重々拙者 上海に於て電信にて総理衙門へ吉田を以て申入れ置きたる事(此事は内々也)に感じたる真心に発せしと見て可なり』
*しゅい 物事をなすときの考えやねらい。また、言わんとする意味。(コトバンク)
榎本が妻、多津に書き送った手紙に書かれた李鴻章とのやりとりをどう見るかについて関心を持つ人々の議論*があります。以下は、坂野正高『近代中国政治外交史』(pp.350-367)での清仏戦争と李鴻章との関連箇所を抜粋、引用します。
1882年、フランス軍は口実を作り、ハノイを占領しました。清国は、ベトナム政府の要請を待たず、長年の慣例により清軍は属国の治安維持行動として出動し、ベトナムのジャングルの中で断続的な戦闘が行われました。北洋大臣李鴻章はフランス側と交渉を続け、実務を馬建忠が行いました。この交渉で李鴻章は北京との板挟みになりました。交渉がまとまらないうちに現地では新たな展開が起きました。
1883年8月、フランス側はベトナムとの条約締結交渉前に、まず軍事力で一撃を与え、順化政府(フエ政府)を震撼させ、ベトナム当局を交渉の舞台に引き出し、条約を結び、ベトナムを保護国化するという既成事実を作っておいて、清国と交渉するというプロセスを実行しました。このプロセスはフランス海軍が発案し、外務省が賛成した上で実行されました。ベトナム側では、フランスと順化条約を締結した皇帝は排仏派の重臣に毒殺され、宮廷内は陰惨を究めました。1884年6月6日に先の順化条約を手直しし、締結されました。
この条約締結は北京政府に衝撃を与え、清朝正規軍の全面投入によるトンキン侵略が主張されました。この時期、朝鮮では、1882年の壬午の軍乱、1884年の甲申の軍乱が起き、朝鮮問題は清朝にとって重大問題となり、ベトナムの件との関係で優先順位(選択)の問題が李鴻章の脳中にありました。1884年3月12〜13日の戦いで、清朝軍はフランス軍の進撃の前に無抵抗に近い状態で潰走しました。
この敗戦で、榎本の書中に登場する「恭親王」は失脚し、4月12日西太后は後任に、貝勒奕劻(ベイレ、爵位。愛新覚羅奕劻アイシンカクラ エキキヨウ。榎本の書中の「劻貝勒」を指す、後の慶親王)らを総理衙門(そうりがもん、アロー戦争敗北後の1861年に設置された外交部門の官庁)の大臣に加え、恭親王勢力を一挙に排除しました。李鴻章はその後の清仏の交渉に当りましたが、紆余曲折、行き違いの末、1884年8月5日にフランス艦隊の台湾攻撃を皮切りに清仏間の戦闘が再開しました。
清仏の戦闘が拡大する中、8月26日に清国内向けに宣戦布告が発せられました。この日、李鴻章と榎本が差し向かいで話し合っていました。榎本は情に厚い、またはもろい上、親清派として知られていましたから、辛口のコメントですが、李鴻章が清仏戦争の間に朝鮮半島で明治新政府(金玉均ら独立党への支援)または日本国内の一部勢力(例えば大井憲太郎らの自由党)が勢力拡大行動を起こさないように、演技で見せた涙だったかもしれません。また、榎本もその辺を読んでいたものの、上手に付き合い、二人の対話のチャンネルを温存しようとしたと考えられます。
同年明治17年12月4日に金玉均らはクーデターを起こし、政権を奪取し、国内を日本の協力を得て文明開化へ向かおうとしましたが、3日後に清国軍に鎮圧されました。また、翌年明治18年12月9日に、大井憲太郎ら自由党員は、朝鮮を独立させ、日清間に大葛藤を起こし、朝鮮人民に内地改良を奮起させようと内政干渉をし、その結果、東洋に大改革をもたらそうと企図し、爆発物などを用意して数名で渡韓しようとしたところ、大阪府警に逮捕されました。甲申の変と大坂事件*です。
*出典「2.大井憲太郎等関係ノ件/1 明治18年8月19日から明治18年12月15日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03030200600、韓国亡命者金玉均ノ動静関係雑件(京城説伝) 第二巻(1-1-2-4_002)(外務省外交史料館)
参考に保科孝一『ある国語学者の回想』(昭和27年、pp.184-185)に書き残された、宮島誠一郎の宴会でのできごとを紹介します。
『伯父[宮島誠一郎]は漢詩人であった関係から、歴代の支那公使や参賛官[日本の書記官]と、親交があった。その中でも、何如璋・黎庶昌などは、特に親しく交際し、何如璋が帰国の際、栗香[宮島誠一郎の号]の長男大八を同伴し、大八はその後十年間も留学していたが、日清戦役が起るとまもなく、わずかに身をもって免れ、無事帰国した。そんな関係で、歴代の公使を、伯父が私邸に招いて、一夕の宴を張ることがたびたびあったが、その節榎本武揚・谷干城というような方々も陪席された。 榎本武揚も海舟と同じくぞんざいな江戸弁であったが、あるとき公使と同席しておりながら、 少々酒がまわったせいであろう、「なにをいってァがるんだ、ちゃんちゃんめ。」といわれたのを聞いて、わたしはぎょっとしたが、公使はその日本語がわからなかったらしく、別に変 ったふうもなかったので、ホッと安心したことがある。』
榎本は、日本を代表する一人物として、国益のため、諸国のキーマンと良好な関係(コミュニケーション・チャンネル)を維持しようとしました。ロシア人に対しても同様と考えられます。榎本は外交のプロでした。榎本は、カリエール『外交談判法』*で求められている外交官像そのものと言えます。外交官であり、非主流派とは言え、国家リーダの一人としての交際でした。
*カリエール 著、坂野正高訳『外交談判法』 岩波文庫(白 19-1)、1978
榎本は朝鮮国の現状からでは同盟は見込めないという結論を出し、清国とは李鴻章とのコミュニケーション・チャンネルを築き、榎本は対清開戦には反対でしたが、万が一開戦したら徹底的に戦うつもりだと、井上馨には伝えていました。明治18年10月11日に帰国しました。日清戦争後の交渉が始まると、榎本は朝鮮国を永世中立国にするべきだと、伊藤に意見書を送りました。
(続く)
【補足】「1883年から84年にかけての清仏間の武力衝突は、香港で出版された華字紙が一般民衆に広く読まれ、華南各地で排外運動が荒れ狂い、雲南省では流血の惨事も起こった。アヘン戦争以来の排外運動と比較すると、ナショナリズムの爆発に近いとも言えようか。孫文少年にも深刻な影響を与え、革命家となる決心を固めさせた。」(坂野正高『近代中国政治外交史』p.367)
【榎本の清国時代の参考文献】
榎本隆充『榎本武揚未公開書簡集』
崔碩莞(チェ・ソクワン)『日清戦争への道程』吉川弘文館、平9
伊藤之雄・川田稔『20世紀日本と東アジアの形成』ミネルヴァ書房、2007
関誠『日清開戦前夜におけるインテリジェンス』ミネルヴァ書房、2016
坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973
邸帆『榎本武揚と甲申政変後の日清交渉』駿台史学、第157号、2016、1〜22頁
邸帆『榎本武揚と李鴻章との「親交関係」に関する一考察』東アジア近代史、(20):2016.6
加茂儀一『榎本武揚』中公文庫、昭和63
*安岡昭男『副島種臣』吉川弘文館、2012、p.85-95
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